2012年6月 3日 (日)

Z-5 微笑みの貴婦人=万治・寛文の十九夜塔


白井市延命寺の十九夜塔

 1670_103_3先日、白井市郷土資料館へ寄った際、私の大好きな延命寺の十九夜塔が、白井市の新指定文化財になったとのお知らせが掲示されていました。

 寛文十年(1670年)の銘をもつ白井市では最古の十九夜塔で、舟型光背に如意輪観音が穏やかに微笑みながら瞑想しています。
 不自然さのない六本の腕は、儀軌の通り、右手は頬を当てて思惟相を示し、胸前で如意宝珠、右脇下で数珠を、左手は膝に触れ、胸前で未開敷蓮華を、また高く上げて法輪を持っています。

 硬質の安山岩、高く余裕ある光背には、観音を意味する梵字「サ」、「奉造十九夜塔念佛結願 為二世安樂也結衆敬白」「寛文十庚戌天八月吉日 下総国印判郡印西庄平塚村願女丗四人」と丁寧に銘文が陰刻されています。

 延命寺は寛弘2年(1005)の開山とのことですが、境内の記念碑と平成13年に発見された本堂棟札によれば、現在の伽藍が整うのは、江戸初期の平塚村の大火後、万治3年(1660)6月の本堂再建時からで、時の領主で家督を継いだばかりの井上筑後守政清(先代政重はキリシタン弾圧政策の中核)の命によるところが大きかったようです。
 寛文8年(1670)に観音堂が建てられました。この十九夜塔、前は観音堂の所にあったそうです。

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 さて、このような神々しさと美しさをかねそなえた像を刻む石造物が、広く庶民の心のよりどころとなったのは、北総では万治3年(1660)から寛文10年(1670)までのほぼ十年間といってよいでしょう。

 特に、十九夜塔は、万治2年までの少数多形態の揺籃期から、光背型に如意輪観音像を刻む典型的な石塔へと一変し、貴婦人の微笑みを秘めた如意輪像絶頂期がこの後、江戸時代初期の正徳5年(1715)まで花開きます。


山武市戸田の金剛勝寺の万治三年銘十九夜塔

 16605s_2如意輪観音像を浮彫りした光背型のティピカルな十九夜塔が出現するのは、千葉県では万治3年(1660)山武市戸田の金剛勝寺の石塔からでしょう。 

 丸彫のような立体的な二臂の姿は、伏し目がちで深い瞑想の境地に達しているよう。

 高い光背には、阿弥陀三尊の種子と「奉唱十九夜塔念佛結集百四余人 現当二世安樂祈處」「万治三年庚子三月十九日関東上総国戸田村願主法印」の長い銘文が刻まれています。

 戸田は、千葉東金道路の通る街道筋の集落で、金剛勝寺には、山武市の指定文化財の鎌倉時代と推定される善光寺式の阿弥陀三尊の銅像と江戸以前の木造愛染明王座像あります。



山武市松ヶ谷の勝覚寺の十九夜塔

 1663また東へ数キロ行った九十九里海岸寄りの松ヶ谷の勝覚寺にも、寛文3年(1663)の十九夜塔があるとのこと。

 勝覚寺は、「木造四天王立像」(千葉県指定重要文化財・鎌倉時代)が安置されていて、通称「してんさま」と呼ばれている古刹です。 

 525日に訪ねたところ、翌日の文化財一般公開の準備中、本堂の脇の扉が開いていたので、のぞかせていただくと、2mを超す巨体の四天王の力強い彫像が4躯、本尊のお釈迦さまを守っています。

 

 さて、目当ての十九夜塔がみつからないので、お忙しそうなご住職にお聞きすると、墓地の石仏を集めた万霊塔(無縁塔)を案内され、よく見ると塔婆立ての裏に金剛勝寺の万治の石塔によく似た如意輪観音像塔があります。
 白いカビの繁殖がひどく銘も読みにくくなっていますが、お顔の表情には気品があります。

 坐像の1.5倍ぐらいの大きな光背や銘文の配置、そしてなにより浮き彫りの如意輪観音像の像容は、戸田の十九夜塔とほぼ同じと思われます。

 資料によれば、「奉造立如意輪 十九夜念仏結衆四十六人求之」の銘です。

 

寛文期の印西市からの広がり16652s

千葉県内の初期(黎明期)の十九夜塔は、
・明暦元年(1655)の普賢院の六地蔵立像石幢
・万2年(1659)の大正寺の宝篋印塔
・万治元年(1660)金剛勝寺と如意輪像塔
・寛文3年(1663)勝覚寺の如意輪像塔

と、山武郡に集中して造立されます。

 

 しかし、なぜかその後この地域での造立は続かず、寛文8年(1668)ごろから利根川沿いと印旛沼周辺に場所を移して、二臂または六臂の如意輪観音像を刻む優れた像容の十九夜塔が次々に現れます。

 

 寛文3年以降、寛文12年までの十九夜塔で、私が実見したのは以下の通りです。

・寛文5年(1665)=

 印西市小倉青年館(二臂像) 右上画像

1668s

・寛文8年(1668)=
 旧印旛村松虫寺(六臂像)右画像

 印西市和泉青年館(六臂像)

 印西市大森古新田青年館(天蓋付・六臂像)

・寛文9年(1669)=

 印西市光明寺(六臂像)右下画像

 佐倉市臼井実蔵院(六臂像)


  

・寛文10年(1670)=

 白井市延命寺(六臂像)、

 千葉市宮野木甲大神(二臂像)

 香取市木内区民センター(二臂像)

  

・寛文11年(1671)=

 印西市戸神青年館(六臂像)

 千葉市星久喜町千手院(二臂像)

 八千代市村上正覚院(丸彫・二臂像)

 白井市名内東光院(六臂像)

1669921s


・寛文12年(1672)=

 白井市所沢寮(六臂像)

 印旛村平賀観音堂(六臂像)

 佐倉市臼井田常楽寺(二臂像)

 香取市篠原イ(六臂像)

 

 六臂像が11基、二臂像が5基の計16基で、丸彫1基をのぞいてすべて舟型光背型、硬質の安山岩製です。 

 印西市和泉青年館のように厳めしい表情の顔立ちの像もありますが、寛文期の如意輪観音像塔は、おおむね穏やかで気品あるその表情が、江戸期の像容の中でも特に際立って美しいといってよいでしょう。

 またこの時期、江戸を中心に武蔵・相模・葛飾の多くの町や村では、おびただしい数の墓塔(故人の供養塔)や庚申講・念仏講の供養塔に、美しく優れた地蔵・観音菩薩像や如来像・明王像などが刻まれ始めたころでもありました。



167010s利根町押戸の十九夜塔
 利根川対岸でも、寛文10年(1670)に利根町押戸の毘沙門堂に、印西市小倉青年館像に類似した二臂の如意輪観音像の十九夜塔が建立されています。

 

 この石塔は、利根町の徳満寺と布川神社の板碑型で線彫りの十九夜塔とは、石造物として質的に異なる形態であり、むしろ、利根川沿いの印西市が中核となって広がる一周辺地域での現象と考えるべきでしょう。

 

 かくして、十九夜塔は、瞬く間に四方の村々へ伝播し、現代までの間、千葉県だけで約2000基を数える代表的石造物となります。

 その理由には、江戸初期の万治・寛文の時代、主尊の如意輪観音像の像容に、美しい貴婦人の姿が与えられたから、かもしれません。

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2012年5月22日 (火)

Z-4 筑波山ろくの十九夜念仏塔発祥の地を探る

 庚申塔と並ぶ数の多さで、江戸時代の北関東に村々を席巻した十九夜塔は、どのように発生したのでしょうか。                   ↓平沢官衙遺跡

 120125_110利根町布川の2基の如意輪観音像を刻んだ万治の「十九夜塔」(Z-2)が出現する背景として、利根町大平神社の「寛永十五年(1638)九月十九日」の「時念仏塔」が「十九夜塔」への発展の萌芽を宿す塔として、先輩諸氏から注目されてきたことを前回(Z-3)でご紹介しました。              


つくば市平沢八幡神社の「寛永九年三月十九日」銘石塔を訪ねて

 120125_106_2さらに、文献でこのルーツを遡ると、石田年子さんの「利根川中流域の女人信仰」(2006)*1では、「十九夜念仏塔の初出は現在のところ、つくば市平沢の八幡神社に造立された寛永九年(1632)のもの」とされています。



 この塔は、雲母片岩に稚拙な彫りで日月と蓮華座に座す仏像を刻み、造立日が「三月十九日」であることから、十九夜塔とされているとのことです。
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 この塔を見たくて、筑波山麓までドライブしたのは、2012年1月25日、Z-1で報告した石納の結佐大明神を訪ねた日の午後のこと。  
 冬日が西へ傾きはじめたころ、平沢官衙遺跡の後方の丘の中腹に立つ八幡神社に着きました。
 (市販やネットの地図では「八坂神社」となっていて、要注意です。)

 1519この神社は、鎌倉時代、鎌倉の鶴岡八幡宮から 分霊を勧請、境内は鶴岡八幡宮に似せて造営したとのことです。
 流鏑馬もできそうなまっすぐ伸びた参道と、その先の階段を登った社の、山を背景にしたたたずまいは、たしかにミニ鶴岡八幡宮の趣があります。

 

 境内の社殿の前には、茨城県指定文化財の石造六角地蔵宝幢があります。
 文字の消えかかった教育委員会の説明板では、高さ168㎝の花崗岩製で、16世紀末ごろの製作。
 このころ筑波山麓では石造六角地蔵宝幢の造立が流行したとのこと。
 これらの宝幢の特徴は、石灯籠と同じように笠に蕨手があることで、そのため六地蔵石灯籠といわれていたそうです。

 
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 さて目的の「寛永九年の石塔」探しです。

 
 社殿の裏側にも板碑型の石塔や石仏がありますが、お目当ての石塔はここでは見つからず、社殿右側の脇をやや降りたところの児童館の庭に、雲母片岩の同じような板碑型の石塔が数基ぐらい、土留めをかねてずらっと並んでいるのが見えます。

 いずれも彫りが浅く、風化していますが、一つ一つ銘文と図像を確かめてみると、石田さんの報告の挿図と同じ石塔がありました。

163219_2 上に日月、真ん中には蓮の花にうえに、大日如来(あるいは阿弥陀如来?)と思われる仏像が浅く彫られています。
 銘文は「十九日」がかろうじて読める程度です。
     
 その左手にも日月に種子(弥陀三尊と大日如来か)を刻んだ同様な板状の石塔があります。 

 デジカメでは銘文がはっきりしないので、あとで『筑波町石造物資料集 上巻』で調べると、拓本が載っており、「寛永九年壬申」と「三月十九日願主敬白」の読みは確かなようでした。

 布川大平神社の石塔と同じく、他は「吉日」と記すところ、「十九日」にこだわるこの石塔の趣旨は何なのでしょうか。


つくば市北条新田の「寛永十年 十九(夜念仏)」塔の姿

 さて、中上敬一氏は、「茨城県の十九夜念仏塔」*2.で、『最古の塔はつくば市北条の寛永10年(1633)の上部に弥陀3尊種字、中央に「奉造立石塔者号 十九念仏」と刻む自然石文字塔である』とされています。

 平沢八幡神社の石塔は、坐像の像容がはっきり識別できず、大平神社の石塔と同様に、十九日の日付のみでは十九夜塔と認定していないという見解からです。

 実は、昨年(2011)9月、筑波山ハイキングの帰りに、この石塔を探して、泉子育て観音として知られる北条の慶龍寺に寄って、ご住職にこの石塔の場所をお聞きしましたが、北条地区内、あるいは通称「北条新田」というだけではわからずじまいでした。1633103

 日をあらためて、つくば市教育委員会に電話で問い合わせたところ、とてもわかりにくい場所ということで、地図をFAXしてくださいました。
 その地図をたよりに、さっそく2月10日、探索に向いました。
 通りがかりの方にお聞きしてもよくわからず、確かに探しにくい場所で、やっと民家と八幡川にはさまれた大きな榎の根元に数基の石塔があるのを見つけました。
(Googleの地図では[36.164749,140.105398]の地点です。)


163310 その中に、ほとんど前かがみに倒れそうになっている先のとがった板状の石塔があります。
 レフで光を下から反射させてみると、日月と弥陀三尊の種子だけがかろうじてわかり、これが寛永十年の石塔のようです。

 銘文を自分の目で検証するのは難しく、結局、『筑波町石造物資料集 上巻』*3.のデータの銘文「五十□人 敬白 / □□・・ /奉造立石塔者十九□□/ 寛永十年□酉 八月吉日」を信じるしかありません。

 この石塔の周りには、寛政十二年(1800)の「庚申供養塔」、種子(キリーク)に「十九夜念仏供養」銘の雲母片岩の塔、花崗岩の「十九夜供養」の文字塔や、銘のない石仏(大日如来か阿弥陀如来?)浮彫の雲母片岩の石塔などが、それぞれ樹の根と一体になって残されていました。0

 傍らに集会所のような小屋があり、もとは「念仏小屋」があったらしいようです。

 筑波山山麓の石造物は、中世前期に律宗系の大きく精巧な五輪塔や宝篋印塔、丸彫りの地蔵像など優れた石造物を残しましたが、江戸時代前半の念仏塔・庚申塔・十九夜塔などは、光背型浮彫像の石塔より、雲母片岩の自然石に種子や文字を刻んだだけの素朴な石造物が多いようです。
 これらは、プロの石工の手になるというより、修験の行者などが、彫りつけたもののようにも思えます。

 いずれにせよ、筑波山麓の2キロの近距離にある2基の石塔の存在から、十九夜塔の発祥地は、北条や平沢、小田など中世にさかのぼる集落のある筑波山麓の地域と思われ、また大日如来や阿弥陀如来を主尊とした「念仏供養塔」がその母体と推測されます。

110929_3 その念仏塔が、「十九日」の造立日や「十九夜(供養)」にこだわる「十九夜念仏塔」へ、そして如意輪観音を主尊にする「十九夜塔」へ発展していくルートは、なんとなく理解できたように感じられますが、なぜ「十九」なのか、その後、なぜ如意輪観音を主尊とする女人講の主流が一気に「十九夜講」となるのかは、やはり疑問のまま残りました。

参考文献

*1.  石田年子「利根川中流域の女人信仰-野田市・十九夜塔を中心にして」 『研究報告』第10号 千葉県立関宿城博物館 2006
*2.  中上敬一「茨城県の十九夜念仏塔」 『茨城の民俗』第44号 2005
*3. 『筑波町石造物資料集 上巻』 筑波町史編纂委員会 1983

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2012年5月16日 (水)

Z-3  利根町大平神社の謎の「念仏供養塔」と「時念仏」

 千葉県で2番目・3番目に古い十九夜塔の画像を再掲

 120425_033_3我が家のある印旛沼周辺は、江戸時代前半の塔が、浮彫の如意輪観音像を刻む十九夜塔が数多く残されている地域ですが、千葉県で十九夜塔成立のルーツを追っていくと、利根川べりの承応元年(1652)石納結佐大明神の石塔(宝篋印塔か)、そして九十九里に沿った山武郡の2基、明暦元年(1655)の普賢院の六地蔵立像石幢、万治2年(1659)大正寺の宝篋印塔に至ることを、「Z-1 千葉県最古の十九夜塔を訪ねて」に書きました。

おかげさまで、骨折した足も癒えた2012年4月25日、芝山町の普賢院 (⇒画像)と、山武市の大正寺(↓画像)に行くことができましたので、その時撮影した千葉県で2番目・3番目に古い十九夜塔の画像を改めて掲載します
   

 120425_017_2さらに山武市内には、他に戸田の金剛勝寺に万治元年(1660)銘、松ヶ谷の勝覚寺に寛文3年(1663)銘の如意輪観音像を刻んだ光背型の十九夜塔が2基あり、その後の寛文年間後半に北総全体に広がる如意輪観音像浮彫の十九夜塔全盛期を予告しているようですが、沖本博氏がご指摘(*4)の通り、山武郡における寛文年間までの初期十九夜塔は、この4基のみで終わっています。

 一方、利根川下流域の旧佐原市と旧印西市、その北岸の利根町に淵源を求めてみると、「Z-2 利根町の如意輪観音像を刻む最古の十九夜塔」で報告したように、利根町布川の万治元年(1658)万治2年(1659)銘の2基の如意輪観音像線彫りの板碑型十九夜塔にいきあたりました。

 さて問題はこの先です。
 如意輪観音が主尊として確立する以前の十九夜塔は、いかなる信仰形態をし、どのような姿をしているのか、先輩方の文献にでてくる石造物を同じ利根町で追ってみたいと思うのですが・・・

利根町大平神社の石塔群を訪ねて

 実は、布川の徳満寺を含め、利根町の十九夜塔や子安塔を訪ねたくても、利根町の石造物については、調査報告書が刊行されていません。

 『利根町史』(*1.)に、たとえば寺社の項目には「大平神社 大平/祭神 大国主命/(中略)/石塔 念仏供養塔 寛永十五年(1638)外10基 /宝篋印塔 寛永四年(1627)建立 村念仏衆次の通り。北方村43人(以下、9つの村名と人数 略)」、布川の徳満寺の記述も「十九夜念仏 寛文六年(1666)。外石塔類20余基」と記されているだけなのです。

 そのような状況で、大変役に立ったのは、「タヌポンの利根ぽんぽ行」というサイトです。
 

 利根町の寺社・史跡・民俗行事などが探訪地図付で丁寧に紹介され、石造物についても、画像と銘文、寸法をつけて見たままに掲載されています。
 

 このWebサイトに助けられ、十九夜念仏塔らしい「石塔 念仏供養塔 寛永十五年」を探して利根町大平神社を訪ねたのは、前日の雪が残る2012年2月初めでした。120202_032

 榎本正三氏の「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(*2.)によれば、初期の十九夜塔は、念仏信仰、特に「時念仏」と不可分な関係にあるらしいとのことです。

 中上敬一氏の「時念仏信仰」(*3.)によると、時念仏とは、二世安楽を祈念して食事を一日一食にして己が身を苦しめ、精進潔斎をして一日念仏勤行を行った逆修供養の一つです。

 120202_034供養の期間は三年あるいは三年三か月で、毎月の功徳日に村の寺堂に講員一同が集まり昼食を共にし、念仏と和讃を唱え、満願成就のあかつきには石造の供養塔を建てました。
 中世では西日本に、「時衆」や「斎講」などの銘がある時念仏供養の板碑や宝篋印塔が二十数基あるそうです。

 
 関東では寛永2年からの江戸初期の時念仏塔が、つくば市など茨城県南部に集中して多く、それらは塔の形態は大日如来や湯殿山を本尊とし、出羽三山信仰を背景としていること、また自然石に石仏を平面的に刻む素朴な姿が特徴です。

120202_069寛永四年の宝篋印塔

 さて、利根町大平神社の石塔群ですが、『利根町史』にある宝篋印塔は、2011年3月の大地震で相輪部分が倒れて脇に横たえてありました。

 中上氏の「時念仏信仰」(*3.)によれば、塔身に金剛界五仏と露盤に弥陀三尊を表す種子、基礎右側面に「寛永四年三月十四日時念仏結集敬白」、正面に「奉造石塔1基時念仏三年三月」のほか文間郷10ヵ村284人の村ごとの人数が記されていて、郷土史の資料としても貴重な時念仏塔とのことです。

寛永十五年の謎の石塔

 この宝篋印塔の右上に、謎の石塔(石祠・石龕)があります。

1638 「タヌポンの利根ぽんぽ行」の記事に、〈その背後の壁面をよく見ると、「寛永十五年」「念佛之」「九月十九日」という文字が断片的に見えます。(中略)町史にある「念仏供養塔」と推定しました。〉とあります。
                   
 私も中をのぞいて、文献を参考にデジカメの記録から銘を読むと、「(種子)寛永十五年(1638)戊刁/奉造立文間五ヶ村念仏之誦衆/九月十九日本願三海」とありました。
 種子はアーンク(=大日如来)、刁(チョウ)は「寅」字の異体字です。

 榎本氏が「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(*2.)に写真入りで紹介され、沖本博氏が「九月十九日造立ということから十九夜念仏とみられる」(*4.)と述べておられる石塔です。

 16386今は、中に五輪塔の空輪がありますが、建立当時は仏像や舎利など納められていたものと思われます。

 よく似た形態の石塔をWebで探すと、福島県に鎌倉時代の「須釜東福寺舎利石塔」がありました。

 

 中上氏は、近くの小文間にある「寛永八年」銘の同様な石祠があり、その関連から本願「三海」が時念仏の布教者で、湯殿山の修験者であったと推定され、この石塔は十九夜塔ではなく、時念仏塔であるとされています。(*5.)

 私は、十九夜塔について「十九夜」の銘がない場合でも、女人講が建てたか、建立日が十九日か、如意輪観音像かのうち、2つの条件が満たされれば十九夜塔とみなしてよいと思っています。


 この大平神社の石塔に関しては、大日如来を主尊とし、五か村をあげての時念仏の講が建てた石塔で、「念仏供養塔」の域をでないと思われますが、寛永年間で三十数基をかぞえる時念仏塔、そのほとんどが、「○月吉日」と記す時念仏塔(まれに1、6、9、12、14日銘などもあり)の中で、「九月十九日造立」という銘は、19の数にはそれなりの意味(功徳)を持たせていたと思います。
 その「19日」のもつ意味がなんであったかは、謎です。

 1703_2利根川下流域で、如意輪観音像を刻む十九夜塔が普及するのは、この石塔から、二十数年後の寛文年間になってからですが、一方、湯殿山信仰と不可分な関係があった時念仏も、大日如来を梵天塚に祀って八日に講を営む出羽三山講へと変わっていくのでしょう。

大平神社境内のさまざまな女人講関連の石造物

 さて、大平神社の境内には、このほか、次のような女人講に関わるさまざまな石造物が並んでいます。

・元禄10年(1697)の如意輪観音像浮彫の十九夜念仏塔*6(⇒画像)

・宝永5年(1708)の地蔵菩薩像浮彫の十六夜念仏供養塔

・宝暦8年(1758)の如意輪観音像浮彫の十七夜講の供養塔

・文化11年(1814)の如意輪観音像浮彫角柱型の十九夜供養塔

・文政9年(1826)「女人講中」銘の子安像塔(⇒画像)18269_2

・天保2年(1831)の「女講中」・「道祖神」文字銘の石祠

 ここでは、女人講の信仰形態が画一的ではなく、また時代とともに多様に変化する姿を、一目瞭然に見ることができます。

 次回はさらに、時念仏とも未分化であった十九夜塔の原初的な姿を追って、筑波山麓へと旅します。

参照文献

*1.『利根町史(5)-社寺編』利根川町教育委員会1993
*2.榎本正三「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(『房総の石仏』第5号1987)
*3. 中上敬一「時念仏信仰」(『日本の石仏』第49号1989)
*4. 沖本博「千葉県の十九夜塔-その性格と歴史的背景について」(『日本の石仏』第49号1989))
*5.中上敬一「十九夜念仏源流考」(『日本の石仏』第54号1990)
*6.「タヌポンの利根ぽんぽ行」のオーナーさんからいただいた詳細な写真を検討したところ、「元禄十六年」ではなく「元禄十丁丑年」と推定できましたので、「元禄十年」としました。

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2012年4月30日 (月)

Z-2 利根町の如意輪観音像を刻む最古の十九夜塔

 前回のZ-1で、千葉県で最古の銘の十九夜塔は承応元年(1652)の香取市石納の塔、次いで明暦元年(1655)の芝山町加茂普賢院の六地蔵立像石幢、そして万治2年(1659)山武市本須賀の大正寺の宝篋印塔と書きました。
 石幢や宝篋印塔はこの当時もっとも手の込んだ形態の石造物であり、また香取市石納の塔もまたそのような宝篋印塔であったと私は思います。

 寛文年間になると、十九夜塔がさかんに造られていきます。
 その数、榎本正三氏の『女人哀歓』によれば、旧印西町だけでも219基を数える十九夜塔のうち14基は寛文12年までに建てられています。

 また最新の資料(*1.*2)から、寛文10年(1670)までの初期十九夜塔造立数を、市町村別(2005年までの旧市町村名)に数えてみると、

120202_2 千葉県側では 旧印西市 12基
           旧佐原市 6基
           旧印旛村 6基
           我孫子市 5基
 茨城県側では、利根町  10基
           伊奈町   7基
           取手市   6基
           藤代町    3基
           鹿嶋市   3基
の建立が見られます。       (↑栄橋から利根川)

  *1.中上敬一「茨城県の十九夜念仏塔」『茨城の民俗』第44号2005
  *2.石田年子「血盆経と下総の十九夜念仏講」『房総石造文化財研究会 第17回石仏入門講座石仏入門講座 講演資料』2011.


 これらの多くは、如意輪観音像を浮き彫りにした舟型光背の石塔で、「十九夜念仏」あるいは「十九夜供養」の銘がある、あるいは建立日に「十九日」と明記されています。

 利根川とその支流の小貝川・手賀川・長門川・利根常陸川の流入地点が、早い段階から十九夜塔普及の地域となっているようですが、特に利根川をはさみ、現在の県道4号・千葉竜ケ崎線の栄橋、かつての布川の渡しのあたりは、その後急速に広がっていた十九夜塔の原点のひとつと考えられます。

布川の徳満寺の十九夜塔を訪ねて

 120202_130s江戸期、女人講の主流となる十九夜講の主尊がなぜ如意輪観音なのかはまだ私にはわかりませんが、『女人哀歓』ほか、さまざまな報告では、如意輪観音像を刻んだ十九夜塔の初出は、万治元年の茨城県利根町布川徳満寺の板碑型塔とされています。

 千葉県側から千葉竜ケ崎線の栄橋を渡ると、すぐ左手の高台の森が徳満寺です。
 この寺院の参道と山門は、利根川の河畔から台地へ直登する階段を上ったのでしょうが、河川改修により県道の栄橋北詰をすぐに左折します。

 今は、ここが正門で、左に「布川城跡」の碑が立っています。(↑)

111012_004s 布川城は南北朝時代に豊島左兵衛尉頼貞により築かれ、関ヶ原の戦い後に廃城なるまで、利根川水運の要衝として機能し、豊島氏が去った後には、徳満寺が今の門前の場所から本丸跡に移動してきたそうです。

 正門を入ってすぐ左、囲いの中に2基の石塔があり、解説板が設けられています。
 左が笠部を失い塔身のみが残された「時念仏塔」で、この塔の建立は元禄14年(1701)ですが、111012_0052s_2「当時の時念仏講の開始は寛永元年(1624)10月23日」と解説板に記されています。
 右が、一目見たかった万治元年(1658)銘の十九夜塔。 
 下部に蓮華の浮彫を配した江戸前期の板碑型の一般的石塔ですので、「日本最古の十九夜塔」と解説板になければ、見落としてしまうでしょう。 (⇒画像をクリック)
 碑面には、蓮華座の上に、右手に宝珠、左手に未敷蓮華を持つ観音坐像が線彫りされ、「十九夜念佛一結之施主(等)三十(余)人」「万治元戊戌年十月十九日」と銘が刻まれています。

 徳満寺は、元禄時代に第7世住職が身丈約2.2mの木造地蔵菩薩立像を京都の六派羅密寺より勧請、「子育延命地蔵」として参拝客を集めました。赤松宗旦の『利根川図誌』にも記されたように、年に1回の開帳の際門前に「地蔵市」が立つなど、庶民で賑わう寺院でした。

 また、本堂廊下に掲げられている「間引き絵馬」は、柳田國男が思春期にこれを見て衝撃を受け、農政学、後に民俗学を志したというものです。Photo_3
 子育て祈願でにぎわう寺院に「間引きを戒める」絵馬が奉納されているというのは、秩父札所の菊水寺のほか、沼南町弘誓院や長南町笠森寺にもあります。

 江戸後半期、子育て意識が家の存続繁栄と不可分な「家の子」重視であったことは、また同時に家計のためには「子返し」も辞さないという少子化社会の時代でもありました。(参考:太田素子『子宝と子返し 近世農村の家族生活と子育て』)
 時の施政者や宗教者の、農村社会のこの少子化志向に対する危機感が、『小供そだてつる教え草』などの「教諭書」や『子孫繁栄手引書』による間引き図の絵馬の掲示につながったと私は考えますが、殺生の罪を産婦に科すこの絵馬は恐ろしく、あまり気持ちのよいものではありません。

 


布川神社の十九夜塔を訪ねて

0 さて、『女人哀歓』によれば、徳満寺の万治元年の十九夜塔に連続して、すぐ近くの布川神社にも翌万治2年(1659)銘の如意輪観音の線彫りした板碑型「十九夜念仏」塔があるとのこと。

 こちらも4月下旬に訪ねてみると、社殿は利根川を見下ろす高い台地上にあり、急な石段の参道がついていて、その参道の右手、台地の裾の草むらの中に石塔が数基、120419_0122_2その中に徳満寺の十九夜塔によく似た板碑型の石塔がありました。1672s

  線彫りの如意輪観音像は六臂で、下に「十九夜念佛一結施主/五十六人為二世安楽也/干時万治二己亥稔/十月十九日敬白」の銘文があります 
 その左には、像容から寛文年間と思われる如意輪観音像塔と、寛文12年の「時念佛一結衆」銘の風格ある大日如来の石仏が草に埋まって並んでいます。

 急な階段を登り、社殿をのぞくと、利根町の指定文化財になっている慶応元年(1865)玉蛾作の神功皇后と武内宿祢」など奉納絵馬が掲げてありました。
S 江戸時代、神功皇后は安産子育ての守り神として信仰されていて、その像は、五月幟や絵馬などにもよく描かれています。

 布川神社は鎌倉時代に豊島摂津守が建立、祭神は、久々能智(クグヌチ)之命。イザナギ、イザナミ二神が生んだ木の精霊。
 関東では珍しい祭神で、 別当は徳満寺。その記録には享保19年(1734)正一位布川大明神とあり、明治維新の際、つまり明治元年(1868)布川神社と改称したとのことです。

 いずれにせよ、万治元年と2年銘の二つの板碑型石塔を持つ布川の地が、如意輪観音像をビジュアルに表現した十九夜塔の原点であることは確かでしょう。

 一方、「Z-1  千葉県最古の十九夜塔を訪ねて」で千葉県の初期の十九夜塔を紹介しましたが、明暦元年(1655)銘の六地蔵立像石幢の地である芝山町と、その近接地、万治2年(1659)銘の宝篋印塔のある山武市の地域もまた、十九夜塔発祥地の一つとして注目されます。

 九十九里海岸沿いの山武市域では、万治3年(1660)銘の光背型の浮彫如意輪観音像塔に「奉唱十九夜念佛・・」の銘がある供養塔が建立。
 その後、常総各地では寛文年間から、この如意輪観音浮彫像の十九塔が一斉に建てつづけられ、庚申塔と並んで主要な石造物となりました。

 次回も利根町で、時念仏塔と関連する石塔を追ってみます。

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2012年3月27日 (火)

Z-1 千葉県最古の十九夜塔を訪ねて

十九夜塔とその分布

1677_2 女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音(多くは画像)の前で経や和讃を唱え、飲食する講を「十九夜講」、その講が建立する石塔を「十九夜塔」といい、主に如意輪観音像か「十九夜」の文字が刻まれています。 

                   (香取市八筋川甲・宝蔵寺の十九夜塔 延宝5年⇒)

 中上敬一氏の2005年の報告*では、
栃木県が2702基、茨城県が1672基、福島県が1449基、
千葉県が1175基、群馬県が142基、埼玉県が108基とのことです。(*『茨城の民俗』第44号2005)
 また、石田年子さんが昨年(2011)房総石造文化財研究会主催の第17回石仏入門講座で発表した最新の集計では、千葉県で1997基がリストアップされていて、各市町村の悉皆調査が進めば、もっと増えることが予想されます。

 私の調査エリアでは、特に利根川下流域を中心に、「香取の海」といわれる霞ヶ浦から印旛沼・手賀沼、そしてこの湖沼群から遡上する河川沿岸の村々に特に濃厚に広がっているようです。

 利根川流域の千葉県側の十九夜塔については、印西市を中心に調査研究された榎本正三先生の『女人哀歓 利根川べりの女人信仰』に詳しく述べられています。
 私もこの本をたよりに印西市域の古い十九夜塔と子安塔を何度も訪ねて回りました。

 まずは、千葉県で一番古いといわれる十九夜塔を訪ね、さらにその成立に関わる石塔を茨城県側にも広げて考えてみたいと思います。


大震災後の香取市利根川北岸を行く

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 今年(2012年)1月、十九夜塔研究では千葉県でNo.1の石田年子さんから「千葉県で一番古い十九夜塔は、香取市石納の結佐大明神境内の石塔」という最新の情報を画像付きでお教えいただいて、すぐに現地へ行ってみました。

 石納の結佐大明神は、茨城県内に飛び地になったような利根川北岸にあり、前年の東日本大震災の液状化被災の著しい地域で、波打つ農道は寸断され、田圃は重機による復旧工事の真最中でした。

 「土木の風景」 香取市石納地区の液状化対策現地調査

 明治初期の迅速測図に現在の水系のラインを重ねた地図を「歴史的農業景観閲覧システム」で見てみました。

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 120125_045_2県境であった利根川は、かつてこの神社の北側を屈曲して流れていて、現在大きく液状化しているところは、その利根川の旧河道を埋めた土地のようです。

 すぐそばに真言宗豊山派の観照院があり、明治9年にここに石納小学校が開校されていますので、かつては水郷の中核的な村落であったと思われますが、その後、村の東南半分は、直線化された利根川の流路になり、移転を余儀なくされたことでしょう。

 さて、訪ねた石納の結佐大明神は、水郷の小さな神社ですが、真新しい鳥居など、震災被災後の整備もされて、社殿の背後の石塔群もきれいに修復されていました。

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千葉県初出の十九夜塔=石納の結佐大明神の塔は「宝篋印塔」?

 石田さんから教えていただいた千葉県最古の十九夜塔は、石塔群の片隅にある不思議な石塔でした。

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1652 不釣り合いな破風付の石祠用の屋根が載っていますが、右手に積まれた部材にある宝篋印塔の笠部が載ると思われることから、江戸初期の宝篋印塔が元の形だったのでしょう。
 基礎部には「承応元年(1652)壬辰年/十九夜侍之供養/十二月十九日」、中段の塔身部に梵字「キリーク」が刻まれています。
 キリークは阿弥陀如来・千手観音も表しますが、この場合はおそらく如意輪観音だと思われます。

 その他、
  承応4年(1655) 「大日念仏」板碑型文字塔
  寛文11年(1671) 「廿日待」 宝篋印塔
  120125_014貞享3年(1686) 「二十三夜」 板碑型文字塔
  元禄5年(1692) 「二十六夜」 勢至菩薩像塔
  宝永4 年(1707) 「二十一夜」 如意輪観音像塔
  延享3年(1746) 「十七夜」 如意輪観音像塔
   寛政11年(1799) 「淡嶋・十九夜」 虚空蔵像塔(⇒)
など全部で16基あります。

 

 うち十九夜塔と思われるのは、この承応元年銘の石塔と、虚空蔵像塔のほか、板碑型文字塔と如意輪像塔が各1基の計4基です。
 


 さらに、隣接する観照院には文化7年(1810)の「十五夜」子安像塔(↓)がありました。1810_15_2

 江戸前期からの念仏塔・月待塔・子安塔が、こんなに幅広くバラエティ豊かに並んでいるのは、興味深いことです。

 このように供養の対象も主尊の像容も石塔の形もさまざまな形態を試行する姿は、十九夜塔成立の揺籃(物事が発展する初めの時期や場所)を示すものなのでしょう。

 その他、香取市の利根川北岸では、八筋川甲・宝蔵寺の延宝5年(1677)如意輪観音像の十九夜塔、野間谷原・水神社の元禄16年(1703)板碑型の「十九夜・二十三夜」塔を見ることができました。

 香取市の旧佐原市域の子安像塔については、『佐原市石造物目録』2002を参考にかなり丁寧に見に行ったつもりでしたが、同じ千葉県内でも利根川の北側については意外に盲点であったと感じました。

千葉県で次に古い十九夜塔は

 1655ところで、この石納の塔に次ぐ十九夜塔については、明暦元年(1655)8月造立の芝山町加茂普賢院の六地蔵立像石幢(⇒)と、万治2年(1659)山武市本須賀の大正寺の宝篋印塔が、以前から報告されています。

 実は、この記事を書く前に芝山町と山武市へ行く予定でしたが、3月9日、左足甲の骨を折る怪我をしてしまい、現地調査をずっと先延ばしせざるをえなくなりました。

 沖本博氏の 「千葉県の十九夜塔」 『日本の石仏』No.49(1989)と、千葉県山武市公式ホームページから借用した画像でご紹介することをどうかお許しください。

 芝山町加茂の石幢には「奉新造立石地蔵十九夜待」の銘があり、中上氏の表「千葉県の十九夜念仏塔年表」*では千葉県内初出の十九夜塔になっていました。

 1659

 三番目の山武市本須賀の宝篋印塔(⇒)には、「上総国山辺庄武射郡南郷本須賀村 奉唱満十九夜念佛二世安隠之所 萬治二年己亥三月十九日 結衆七十五人敬白」と銘が刻まれて、山武市ホームページにあるように、かつては県内初出とされていました。

 香取市石納の承応元年の十九夜塔も、このような形の宝篋印塔だった想像できます。

 さて、これより古い十九夜塔は、というと、やはり利根川流域から北側に広がるようです。 

 続きの「十九夜塔の源流-2」は、県境を超えて茨城県の石塔を訪ねてみたいと思います。

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