Y13 弥生のお鍋と上手なご飯の炊き方
さいたま市馬場小室山の縄文遺跡や八千代市栗谷の弥生遺跡に関わって3年半。
考古学のプロ方々に土器の見方、それもかなりマニアックな土器型式と編年を手ほどきいただき、土器を学ぶことの面白さにはまってしまった昨今ですが、素人の私の目から土器を見る時の関心は、まずは文様を含む「うつわ」としての見た目と機能とでしょう。
大正のころの「民芸運動」、すなわち『日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出す』という視点に通じるかもしれませんが、やはり「使われてこそ!のうつわの美」を感じたいと思います。
そう思っていた昨年5月、考古学協会のポスター発表での以下の3点の一連の展示が興味深く、発表者の小林正史さんにマンツーマンで詳しく説明していただきました。
「関東地方の弥生中・後期深鍋の作り分けと使い分け」
「縄文深鍋のスス・コゲからみた調理方法-胴下部コゲの形成過程を中心に-」
「スス・コゲからみた弥生深鍋による調理方法-側面加熱痕を中心に-」
「甕」といっている弥生土器は、やはりご飯やおかずを炊くお鍋だったのだというすごく当り前のシンプルな定義、そして、東南アジア民族の事例からこの土器でふっくらしたご飯を炊く方法を推定していることにちょっと感動し、いつかまたこの研究の続きをお聞きしたいと思っていたら、千葉県中央博物館でこのテーマの展示「弥生時代の鍋-その作り方と使い方-」と、庄田慎矢さん・小林正史さん・渡辺修一の講演会があり、やちくりけん(八千代栗谷遺跡研究会)のメンバーと誘い合わせ、行ってきました。
弥生中期後期の深鍋の徹底した観察による黒斑や煤・焦げの付き方の分析や実験から、土器の焼き方、おかずを煮たのか、ご飯を炊いたのか、またどうやってご飯をおいしく炊いたのかという研究から、次のようなことが今わかってきたそうです。
1. 縄文土器は開放型野焼きで、西日本の弥生土器は弥生時代のはじめから覆い型野焼きで造られていますが、南関東の弥生土器は、中期は開放型野焼き。 やがて後期のころは覆い型野焼きが採用されますが、壷は覆い焼き、鍋は開放型というのもあるそう。
2. 深鍋は、3~4リットルを境に小さ目はおかず用、大き目は炊飯用の作り分けがなされたらしい。
3. 弥生時代中期末より側面加熱痕をもつ深鍋が出現、現代東南アジアの民族調査事例から、炊飯の終わりに蒸らし調理した痕と考えられることから、おかゆやおこわではなく、今私たちや炊飯釜で炊くようなふっくらした御飯を炊いて食べていたらしいとのこと。
なるほどね~。
ところで、ご飯の炊き方。私は所帯を持った時から電気炊飯器に頼りっぱなしで、はずかしいことにお鍋で炊いたことがないのですが、母は、「電気じゃおいしくない」と、ガスコンロと厚手の文化鍋で炊いています。
あらためて、「ご飯の炊き方」をネット検索してみると、それぞれノウハウがあるのですが、やはり通は、深めの土鍋に限るらしい。→ 「土鍋奉行」
吹きこぼれとコゲができるのが長所であり、欠点らしく、また土鍋の底は釉薬を施していないので、最初はおかゆや野菜を煮て、目止めをすることがコツとか。
また、ご飯を炊くために必須なのは「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、じわじわ時に火を引いて、赤子泣いても蓋取るな」の蓋!
そして、多少は吹きこぼれてもよいらいしいけど、できれば、首のくびれた文化鍋のあの形がベター。
そう、煤で真っ黒になっているけれど、おらが村の栗谷遺跡のA080-5の栗谷式のお鍋 、これこそまさしくご飯を炊くために最適のお鍋でしょう。(画像の真ん中の土器)
それに蓋だってちゃんとこのおうちから出土しています。
一度、このお鍋で炊いたご飯が食べてみたいですね。
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