2008年2月11日 (月)

Y13 弥生のお鍋と上手なご飯の炊き方

 さいたま市馬場小室山の縄文遺跡や八千代市栗谷の弥生遺跡に関わって3年半。
考古学のプロ方々に土器の見方、それもかなりマニアックな土器型式と編年を手ほどきいただき、土器を学ぶことの面白さにはまってしまった昨今ですが、素人の私の目から土器を見る時の関心は、まずは文様を含む「うつわ」としての見た目と機能とでしょう。
 大正のころの「民芸運動」、すなわち『日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出す』という視点に通じるかもしれませんが、やはり「使われてこそ!のうつわの美」を感じたいと思います。

 そう思っていた昨年5月、考古学協会のポスター発表での以下の3点の一連の展示が興味深く、発表者の小林正史さんにマンツーマンで詳しく説明していただきました。

080210t_013 「関東地方の弥生中・後期深鍋の作り分けと使い分け」 
「縄文深鍋のスス・コゲからみた調理方法-胴下部コゲの形成過程を中心に-」 
「スス・コゲからみた弥生深鍋による調理方法-側面加熱痕を中心に-」 

 「甕」といっている弥生土器は、やはりご飯やおかずを炊くお鍋だったのだというすごく当り前のシンプルな定義、そして、東南アジア民族の事例からこの土器でふっくらしたご飯を炊く方法を推定していることにちょっと感動し、いつかまたこの研究の続きをお聞きしたいと思っていたら、千葉県中央博物館でこのテーマの展示「弥生時代の鍋-その作り方と使い方-」と、庄田慎矢さん・小林正史さん・渡辺修一の講演会があり、やちくりけん(八千代栗谷遺跡研究会)のメンバーと誘い合わせ、行ってきました。

 弥生中期後期の深鍋の徹底した観察による黒斑や煤・焦げの付き方の分析や実験から、土器の焼き方、おかずを煮たのか、ご飯を炊いたのか、またどうやってご飯をおいしく炊いたのかという研究から、次のようなことが今わかってきたそうです。

1. 縄文土器は開放型野焼きで、西日本の弥生土器は弥生時代のはじめから覆い型野焼きで造られていますが、南関東の弥生土器は、中期は開放型野焼き。 やがて後期のころは覆い型野焼きが採用されますが、壷は覆い焼き、鍋は開放型というのもあるそう。

2. 深鍋は、3~4リットルを境に小さ目はおかず用、大き目は炊飯用の作り分けがなされたらしい。

3. 弥生時代中期末より側面加熱痕をもつ深鍋が出現、現代東南アジアの民族調査事例から、炊飯の終わりに蒸らし調理した痕と考えられることから、おかゆやおこわではなく、今私たちや炊飯釜で炊くようなふっくらした御飯を炊いて食べていたらしいとのこと。

 なるほどね~。
 ところで、ご飯の炊き方。私は所帯を持った時から電気炊飯器に頼りっぱなしで、はずかしいことにお鍋で炊いたことがないのですが、母は、「電気じゃおいしくない」と、ガスコンロと厚手の文化鍋で炊いています。

 あらためて、「ご飯の炊き方」をネット検索してみると、それぞれノウハウがあるのですが、やはり通は、深めの土鍋に限るらしい。→ 「土鍋奉行」 
 吹きこぼれとコゲができるのが長所であり、欠点らしく、また土鍋の底は釉薬を施していないので、最初はおかゆや野菜を煮て、目止めをすることがコツとか。
 また、ご飯を炊くために必須なのは「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、じわじわ時に火を引いて、赤子泣いても蓋取るな」の蓋!
 そして、多少は吹きこぼれてもよいらいしいけど、できれば、首のくびれた文化鍋のあの形がベター。

 そう、煤で真っ黒になっているけれど、おらが村の栗谷遺跡のA080-5の栗谷式のお鍋 、これこそまさしくご飯を炊くために最適のお鍋でしょう。(画像の真ん中の土器)

 それに蓋だってちゃんとこのおうちから出土しています。
 一度、このお鍋で炊いたご飯が食べてみたいですね。

Kuriyadoki

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2006年7月23日 (日)

Y12 ゆりのき台の土器は「香取の海」のユニバーサルデザイン?

 「さわらび通信」に八千代市内の弥生土器の画像を自分のメモ代わりに、載せておきましたが、7月1-2日のシンポジウムにむけて、演者が当日のスライドに使用できるよう、土器見会や展示会で撮った印旛沼周辺の主に後期の弥生土器の画像を整理して「やちくりけんブログ」に連載してみました。
 昨年夏、弥生土器に興味を持ち始めたころの撮影は単にメモ代わりだったので、きれいに撮れていなくてアップをためらうようなものも多く、またどんな形や施文がポイントなのかもよくわかっていなかったので、重要なものを選びそこなっていたかと思います。

 あらためて画像アルバムを整理していて、すばらしい土器なのに写りがイマイチと思うのも多々あり、そのひとつに萱田遺跡群(現ゆりのき台)の権現後遺跡のD151号住-1とD030号住-1がありました。 (→ 「Ⅰ 権現後遺跡(ゆりのき台)の土器」Gongenusirodokis_1

 それでも、「ゆりのき台のどこからこんな土器が出るのでしょう?おどろきました。」と一般の方から、コメントをいただき、こんな間に合わせの画像でも感動してくださる方がいらっしゃるのだと思い、八千代市の文化財整理室にご無理を言って、再度撮影に赴きました。(現在の「やちくりけんブログ」には入れ替えた画像を載せています)
 特にD151号住-1の土器は、プロポーションも付加条縄文の施文もじつに美しい土器ですね。

 この土器の形を表現するのに、その属性を並べて言うと、「複合口縁で、頚部無紋で、胴部縄文のやや細長い形の甕」と言うことになりますが、このかたちの土器は画像アルバムを整理していても、報告や論文の実測図を眺めていても、印旛沼周辺ではたぶんひとつの遺跡で完形や略完形の整った土器が一つや二つある「ありふれた」形のよう。

 アップした土器図鑑から並べてみると、西は松戸市の原の山第6号住居址01、手賀沼周辺では柏市東宮前1号住-1柏市根木内台貝塚第1号住柏市中馬場59号住(467)柏市南小橋、印旛沼の北側では、白井市の捕込附遺跡1号住-1と2、栄町のあじき台30号住-188と189、印旛沼の南側では、江原台第113号住-02Y-6号址-4吉見台B5号住-11、そして八千代市内でも、栗谷A091住-1境堀1-005住-01などなど・・・

 シンポジウム予稿集の深谷昇氏の「周辺地域の様相3 栃木県から」の報告によれば、鬼怒川を通じて地理的に密接な完形を持つ栃木県域と印旛沼周辺、さらに手賀沼や霞ヶ浦周辺でも見られる共通した形とのこと。(やはり古代~中世の「香取の海」文化圏が先史時代でも通用するってこと?)

Nadakuni  そういえば霞ヶ浦の土浦市上高津貝塚ふるさと歴史の広場で撮った画像が、パソコンにねむっていました。 永国の和台遺跡出土の土器(⇒)だそうです。

 また予稿集の小玉さんが作った編年図では、このかたちの土器は、後期の初めの頃から(特に印旛沼周辺では)その終わりごろまで、ちょっとずつプロポーションを違えながら、ずっと続いて作られたようですが、二つとして同じ土器がない個性的な関東の弥生後期の土器の中で、しきたりとして普遍なのか、こういう形が丈夫で使いやすかったのか、このかたちの「平凡さ」は不思議です。

 このシンポジウムでも「東関東系」とか言っていた栃木~茨城~北総・東葛にわたるユニバーサルデザインのこの土器のかたちに、なにか簡便な名称はないのでしょうか。

 こんな独り言をシンポジウムの前にメールしたら、鈴木正博氏から研究史をしっかり勉強しなさいと釘を刺され、『山内清男さんが菊池義次さんに教示した「長岡式」を代表として、「長岡式系土器群」と呼ぶのが無難です』と忠告いただきました。
 (「長岡式」っていうと、石神第Ⅱ地点第4住-1の土器しか連想しない私は、やっぱり不勉強なのでしょう)

 さて、権現後D151号住-1の土器、各地の並み居る定番の土器の中で、ひときわプロポーションが女性的で垢抜けた土器と思いませんか。同じ形の制服でもちょっとした仕立て方の違いで個性が出るように、ゆりのき台の弥生人は、新感覚の人々だったのかもしれませんね。

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2006年5月 2日 (火)

Y-11 保品おおびた遺跡の弥生土器

 この夏の7月1~2日、市民と研究者による栗谷遺跡(八千代市保品)をめぐる弥生土器シンポジウムを地元で行うことになり、考古学は素人の私もこの企画へ幹事として参加し、何かと忙しい日々となってきました。
 でも、パブリックアーケオロジーの実践といっても、土器しかも弥生後期だけに興味のある八千代市民はごくまれでしょうから、郷土史や自然保護にも関心のある方にもお誘いして、来ていただいても接点がもてるようにと、シンポジウム予稿集に「第Ⅳ部 保品神野遺跡群周辺の自然と歴史と文化財」のページをいただきました。
 そして昨日(5月1日)さっそく、「保品の自然」に関するレポートをお願いしたSさんをお誘いして、保品・神野地区をフィールドワークしてきました。

 保品と先崎の間の「間谷津」(=まややつ)の「保品野草保存園」でのルポは、 「史跡歳時記・皐月の保品Ⅰ」にもUPしましたが、ここで行われている古代米の栽培は、先史時代に遡る稲作り当初の農法の実験でもあり、とても興味深く思いました。
 
 保品の「少年自然の家」にも自然植物観察園があり、ここは、日当たりのよい湿地の「保品野草保存園」に対し、半日影の水はけのよい斜面に適応したクマガイソウなどの群落が見所です。 (⇒「皐月の保品Ⅱ)

 さらにここには、「少年自然の家」施設建設時(昭和48年)発掘調査で出土した土器などが展示されていたように記憶していたので、古墳時代の土器と一緒に弥生の土器があるかもしれないと、館の中に入らせて、見せてもらいました。Oobitadoki
 二階ホールに上がるとガラスケースに珍しい五領式?の壷に混じって一個だけ、弥生の甕がありました。
 下部は見慣れた附加条縄文、胴部最大径のやや上に刺突紋のラインがあり、S字の結節紋が2~3段、複合口縁で、頸部は無紋です。 (画像をクリックして大きな画像をご覧ください)

 『八千代市の歴史 資料編 原始・古代・中世』のP55に6号住居から出土した遺物の実測図があり、この土器も載っていますが、本文の概要の中では「弥生式土器(久が原式、前野町式)」と書かれています。

 ちなみに7軒の竪穴式住居址が検出され、弥生の住居跡はこの火災で焼失した跡のある6号1軒のみで、ほかは古墳時代のようです。
 複合口縁~頸部無紋~S字の結節紋、そして胴部が附加条縄文の典型的な北関東系、印旛沼北側や佐倉市側によくある土器ですが、刺突紋のラインに、南関東系の甕の特徴である有段を意識している点に、なんとなく栗谷式のにおいも感じられます。

Oobita2 「少年自然の家」の係の方に、「ケースから出して見せてください」とお願いすると、親切にたくさん鍵を持ってきて錠を開けようとされたのですが、鍵が合いません。
 実は8年前から鍵の行方がわからなくなってしまって、ケースを解体しないと出せないということが判明しました。
  「そんな貴重なものとは知らなかった」そして「博物館に移したほうがよいでしょうか」と尋ねられたのですが、「私は、出土地に最も近い施設に常時公開されているべきと考えているので、今のままがよいと思います」と答えました。Oobita3

  外へ出て、施設の南側の畑を歩くと、ほんの少しですが、弥生~古代と思われる土器片がありました。
 眼下の印旛沼干拓地には、田から田へと次々に水が張られています。
 水面が大きく広かった昔のすがたに、多少でも似た風景の拡がる田植え直前だけの印旛沼の景観でした。

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