2017年10月22日 (日)

「幕末~近代、ムラの衆が建てた石塔  本埜地区笠神の『百庚申』と『三義侠者碑』」

印西地域史講座 文章レジュメ                 2017年10月22日 
                           於 印西市立中央駅前地域交流館
                              
 「幕末~近代、ムラの衆が建てた石塔 
    本埜地区笠神の『百庚申』と『三義侠者碑』」
                          
                                  
蕨 由美
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 ☆配布資料
  ⇒図1「北総の多石百庚申 一覧表」 -2「北総の一石百庚申 一覧表 」

  ⇒図3 「三義侠者碑」銘文

                                                 
 江戸時代は、前期の寛文・延宝期から、関東の村々では庶民の石塔建立が盛んになり、特に印西市域には、そのころの優れた像容の石仏が今も残っています。
 今回は、本埜地区笠神での調査例をもとに、ムラの人々が幕末から昭和初期まで建て続けた2例の「百庚申」と庚申塔について、また江戸初期の笠神の三義人を顕彰した明治24年建立の「三義侠者碑」とその時代背景についてお話します。
 庚申塔については、2012年12月の印西地域史講座でお話した内容の続きで、北総に特有な多石型の「百庚申」について紹介します。

Ⅰ 庚申塔と「百庚申」
(1)印西市域の庚申塔
 庚申塔は、最も普遍的で数も多く、近世からの村落共同体建立の石塔を代表する石造物です。
 庚申待は、六十日に一回庚申の夜に、眠った人間の体から三尸が抜け出し天帝にその人の罪過を告げられないよう徹夜するという道教に由来した信仰で、室町時代ごろから庶民にも浸透して庚申講が行われるようになると、その供養の証しとして「庚申塔」(庚申供養塔)を建立する風習が、江戸時代に、各地に定着しました。
 近世庚申塔の関東における初出は、元和9年(1623)の足立区正覚院の弥陀三尊来迎塔と三郷市常楽寺の山王廿一社文字塔、千葉県最古は松戸市幸谷観音境内の寛永2年(1625)の山王廿一社文字塔です。
 下総地域への伝播は、江戸川に接する東葛地域からと推定され、印西市域では、寛文元年(1661)銘の、台座に三猿が刻まれた聖観音立像塔が竹袋観音堂に建てられるなど、1660年前後に像容は三猿や諸仏の彫像、文字のみの供養塔などいろいろな形態の庚申塔が普及していきます。
 青面金剛像を主尊に彫った庚申塔が現れるのは、寛文11年(1671)銘の小林の砂田庚申堂の四臂の青面金剛像塔からで、その後は六臂の凝った青面金剛像の庚申塔が建てられていきますが、江戸中期、青面金剛像塔が数的にも最盛期になる享保から宝暦年間にかけて、印西市域を中心に白井市や船橋市の東部、我孫子市・柏市・栄町では、画一的な特徴*の庚申塔が、期間と地域を限定して数多く建てられました。
 (*主尊の目がアーモンド形で、右手に鈴状または人の頭部らしき袋状のものを持ち、宝輪を持つ手が直角で水平に伸び、迫力がない邪鬼がうずくまる姿)

(2)北総と印西市域の「百庚申」
 江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、下総地方の庚申塔は、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となりますが、印西市域の庚申塔で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。
 百庚申は、一石に「百庚申」銘や「庚申」などの文字を多数刻んだ「一石百庚申」と、百基または多数の庚申塔を一か所に造立する「多石百庚申」があり、その目的は祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づくといわれます。
 多石百庚申は、筆者の調査では、千葉県内に41例(⇒表1)あり、この中で、多石百庚申の先駆けとなるのは、文政12年(1829)の印西市松虫の百庚申№21で、青面金剛像塔100基を一時に建立し、灯篭一対も奉賽しています。(現在は都市開発で、松虫寺近隣の路傍2か所に分けて移動されています)
 続いて柏市域など利根川流域で、天保年間から幕末にかけて、数多く建立されますが、像塔の割合は文字塔に比べて少なくなり、やや大きめの像塔10基と定形の文字塔90基がセットの百庚申が主流となります。印西市武西№23と浦部№24、はこのパターンで、文字9基おきに像塔1基を配置する建立当時の姿を今もよく伝えており、文久3年(1865年)の造立の「武西の百庚申塚」は、平成11年3月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。
 一石百庚申は、群馬県倉渕に一石に百体の青面金剛像を浮彫りした寛政6年銘(1792)「百体青面金剛塔」や、長野県野底に「奉請一百體庚申」の主銘の周りに、「庚申」の文字を百の異なった書体で表した安政七年銘(1860)の「百書体庚申塔」ほか、万延元年(1860)前後に群馬県・長野県・福島県などで「百書体庚申塔」が流行しています。
 北総では一石百庚申の数は11例(⇒表2)と少ないですが、多石型に先立って主に文化文政年間に建立され、№4の印西市松崎火皇子神社の「庚申百社参詣供養塔」銘は、百庚申信仰の由来を推定させる銘で庚申塔百社の参詣成就を意味し、北総の多石百庚申建立の理由がうかがえます。
 主銘のみのものなどがあります。

(3)笠神の百庚申
1. 印西市笠神の笠神社と蘇羽鷹神社の立地
 印西市の本埜支所の前の広い田圃の中に突き出した独立台地の裾を巡る集落が笠神で、台地上には笠神城跡がありました。中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に面するこの笠神の集落は、中世村落の最前線でした。逢善寺文書の記述に、14世紀末「有徳ノ在家ノ仁」とよばれる「印西ノ笠上又太良禅門等ノ類」が出てきますが、笠神の地で「香取の海」の重要な航路を支配していた有力者のことと思われます。
 笠神城跡の台地上西端の蘇羽鷹神社には戦国時代の遺構かと思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残り、東側には領主の館跡に建てられた「南陽院」があり、その下には「船戸」の集落、西麓には「根古屋」の集落と「笠神社」があります。

2. 笠神の笠神社(かさがみしゃ)の百庚申
 字笠神前には、かつて城主の守り神で城山後方の山頂にあり、元禄15年(1702)にこの台地の下に遷座したと伝えられる「笠神社」があります。
 下照姫命を祀り、「笠神様」とよばれる神社境内には、左右二列に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が立ち並び、その姿は壮観です。
 これらを調べてみると、慶應元年~3年(1865~7)の三年間に建立された青面金剛像塔17基、「庚申塔」銘の文字塔78基、計95基が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。
 ・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)
 ・慶應2年=36基(像塔7基:文字塔29基)
 ・慶應3年=30基(像塔7基:文字塔23基)
 ・年不明=18基(像塔1基:文字塔17基)
 2014年2月の時点ではまだ新しいコンクリートの基礎上に据えられてあったことから、2011年3月の東日本大地震後に建て直されたとみられ、95基の元の並び方の順は不明ですが、慶應元年塔は左側の列の手前に、慶應二年塔は同列の奥に、慶應三年塔は右側に配置されていたと推定されます。
 石塔脇の寄進者と思われる銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。
 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっていて、この像容は、同時期に近くの栄町上町に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。
 また足元の邪鬼は、石工の個性がよく出ていて、その正面を向く姿はとてもユーモラスです。
 また損傷した石塔数基分が右側の列の後ろに寄せ集められてあり、数えると像塔1基と文字塔4基の計5基分あり、これを復元すれば元は像塔18基、文字塔82基の計100基となります。
 現在の像塔と文字塔の割合は、ほぼ1対4の比率なので、像塔1基に文字塔4基のサイクルで連続して並べられていたと思われます。
 百庚申以外には、5基の庚申塔が百庚申の列に並んでいて、最古は享保7年(1722)銘の二童子と三猿がつく高さ98㎝の青面金剛像塔で、天保9年(1838)銘、万延元年(1860)銘、慶應3年銘(1867)、年不明がつづきます。
 このうち高さ145㎝の文字塔の建立日「慶應三卯年十一月吉日」銘は、百庚申造立の3年目の慶応3年の建立月日と同じで、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に建立されたと推定されます。

3. 笠神の蘓波鷹(そばたか)神社の百庚申
 笠神城の物見台跡と推定される尾根上に鎮座する蘇羽鷹神社境内には、享保18(1733)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申塔と、近代になって建立された百庚申が、狭い境内両脇に整然と並んでいます。
 百庚申は、高さ41~51㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54基と、青面金剛像塔6基の計60基で、右面には一部に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が刻まれています。(以下、造立された年銘別に分けてみました)
 ・社殿に向って右側、鳥居の右横の塚上に明治16年(1883)銘の文字塔5基と像塔1基の計6基
 ・参道左側の燈籠の手前に、明治33年(1900)銘の文字塔17と像塔2基の計19基
 ・社殿前の広場の右側に、昭和10年(1935)銘の像塔3基と、無年銘で文字塔30基の計33基
 像塔と文字塔の配列は、明治16年の8基は中央に像塔を、明治33年の19基は両端に像塔を置き、昭和10年の30基は両端と中央付近に像塔を置いていて、無年銘の30基は昭和10年建立と推定されます。現在、明治33年の19基は仰向けに倒れたまま、落ち葉や苔に覆われていますが、全体に建立後の補修はないとみられます。
 青面金剛像の像容は、笠神社の幕末期の百庚申の主尊の表情にみられる怒髪天を衝くような勢いはなく、衣文の表現も簡略化され、邪鬼もかろうじて存在しているばかりですが、明治以降の像容のある石仏は、一般的に子安像か地蔵像ぐらいであり、近代の青面金剛像の像容例として極めて貴重です。
 この百庚申の建立には三次にわたって52年間かかっており、近代に入って、笠神地区の三世代の人々により造塔が継続された事例は、他に類を見ないものです。
 また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また狭い境内に合わせた数であったと推測されます。

Ⅱ 笠神の「三義侠者碑」
 笠神の島状の台地の南東に面する中腹に、天台宗の南陽院があり、その本堂の前に、基壇を築きその上に、台石に載せた高さ1.5mの自然石の石碑「三義侠者碑」が建立されています。
 明暦2年(1656)に刑死した笠神の三義人を顕彰するために、南陽院住職と三義人の子孫、250名以上の賛同者によって、明治24年に建てられた石碑です。
 この三義侠者碑は、印旛沼周辺の低地部の開発が盛んになった正保・明暦期、小林村との入会地「埜原」の帰属をめぐる闘争を物語る石碑です。
 中世では当然だった村同士の実力闘争も、江戸前期では幕府による懲罰が不可避でした。そしてその犠牲となった村の「義人」に対して、当時は供養を続けるのみで、建碑はできませんでしたが、明治になって、このような立派な顕彰碑が建てられました。
 その背景として、佐倉 惣五郎事件が膾炙したような近代の自由民権思想の高揚が見て取れます。
 なお、篆額の武藤宗彬は蚕業振興に尽力した千葉郡長、撰文并書の須藤元誓は俳人半香舎五世梅里です。

(1)「三義侠者碑」の銘文
 この碑の銘文は、『千葉県印旛郡誌』(大正2年)と、そこからの引用である『印西地方よもやま話』(五十嵐行男著)にも載っていますが、一昨年に改めて印西市教育委員会の石造物調査で、銘文を読み取りました。(その結果、『印旛郡誌』と『よもやま話』と十数カ所の相違がありました。)
 三義侠者碑の銘文は、表3で示しましたが、本文のみを現代文に意訳してみました。
 (漢文の素養のない筆者の拙い訳文ですので、間違いをご指摘いただければ幸いです。)

本文の意訳
 「人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人に勝つ。古より死する者は一に非ず」というが、身は極刑に死んでも、百世まで人の心を感動させるとはこのことであろう。
 正保明暦(1644~1657)のころ、印旛郡笠神村に三人の「義侠者」がいた。
 笠神の地は、丘をめぐる平坦で豊かな土壌で、その東北一帯には利根川と印旛湖がせまり、塩分が多く、アシとオギが茂る広漠とした地で、俗に埜原と呼ばれていた。
 当時は地祖を納めることもなく、草木を刈り、鳥獣や魚を捕っていたこの地は笠神村に接し、多くの民がその利益に頼っていたために、また小林村との争いの地でもあり、両村ともにその利権は決まらず、幕府の領地となっていた。
 正保2年(1645)4月のこと、幕府の役人が検分に来て地図をあらため、それ以後は両村の所有となるに至ったが、このことは笠神村にとってはその利益を専有できないことであり、村民はたいへん嘆き悲しんだ。
 明暦2年のある月、笠神村はその地域を定めようとのぞんだが、小林村は応じず、その年の9月に再び幕府に訴えたが、見直しはなく地図によって裁かれ、笠神村にとってその境は不利な結果に終わってしまった。
 この時、三人の義侠の者があった。鈴木庄吉、岩井與五兵衛、岩井源右衛門の三人で、皆、優れた人物で、意気盛んで物怖じしない不屈の気性が強かった。
 三人は、弁論をもって小林の民を正そうと村境まで臨んだところ、相手の衆は竹槍を突きつけてきたが、三人が落ち着いて反論した。相手の衆は取り囲んで捕まえようとし、三人は身を挺して奮然と闘って蹴散らせたが、数人を傷つけ若干名を死なせてしまった。
 三人はその事情を聞いて、自首して罪を待った。
 こうして埜原の地は、幕府の決定前の昔からの習慣に戻されて笠神村に属したが、三人はともに磔の極刑をもって殺された。
 その所は字押付で、時は明暦2年12月2日のことであった。村人は三人の亡骸を納めて葬り、後に許されてその地に小さな墓を建て、後世への記標とした。
 それから埜原の地は、堤を築いて田を開墾し、稔り豊かな地域となった。今の埜原村である。
 こうしてこの地は笠神の本郷のものとなり、水陸の田は103町8段あまりとなった。
 それ以来、村人は毎年10月に、十日にわたる法会を行い続け、それゆえに明暦から明治まで236年を経ても、水害や旱魃、蝗害、飢饉になることもない。
 今ここに村人が話し合って財を醵出し、碑を慈眼山の上に建てることを決め、桑畑が滄海に変ずるような大変化に備えることとした。
 ああ、これも貧しい民が極刑で死んだことで、却って一つの村の富の源を作ったのであり、 「身を殺して仁をなす」というべきなことである。
子孫は連綿と末永くその血を受け継ぎ、この地に食してきた。
 今や明治の隆盛の世にあって、玉を磨くように、三人の遺した気風を朽ちることなく伝えていこう。
 これはまさに「人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人に勝つ」ということである。
   (以下、漢詩の銘文は省略)

(2)房総の義民・義人の供養塔・顕彰碑
 房総石造文化財研究会の三明弘氏の調査では、房総の義民関係の石造物は推定を入れて23件あり、そのうち「義民」(=村の代表として領主や幕府に直訴して犠牲になった人)関係が10件、「義人」(=多くの人のために正義に殉じた人)関係は13件とのことです。
 千葉県では、佐倉惣五郎のほか、安房の万石騒動の三義民、館山市の大神宮義民七人様供養碑の3事件が有名ですが、刑死直後の供養塔などは施政者から許されず、五十年近くたってから建てられることもあり、明治中期以降の建碑も7件に及びます。
 23件の中には、重税の減免直訴の義民や、飢饉に際し領主に無断で郷蔵を開けた名主、入会の草刈り場(まぐさ場)や用水をめぐる巡る争論での犠牲者のほか、漁場の境界や入会権、漁業権をめぐって隣村に実力行使して咎を受けた大事件も東京湾岸で3件あります。
 船橋市不動院の石造釈迦如来坐像に白米の飯を盛り上げるようにつける「飯盛大仏追善供養」は、船橋市の指定文化財にもなっていますが、その由来は、文政7年(1824)の漁場の境をめぐる争いで相手方の侍を殴打して入牢した漁師総代の牢内の飢えを償うためといわれています。

 (3)義民を生み出す闘争と顕彰碑建碑の背景
 保坂智氏の「近世初期の義民」(『国士舘大学人文学会紀要』 第35号 2002年)によれば、義民を生み出す闘争は、一揆、共同体間闘争、村方騒動、その他の四類型に分けられ、共同体間闘争は、17世紀に集中するとのことです。
 さらに、その要因として第一に中世村落の権利であった自検断権・自力救済を近世権力が否定したにもかかわらず、複雑な在地の権利関係を生まれたばかりの公権力が完全に掌握しきれていなかったこと、第二に中世末から近世初頭に展開した開発が、入会地の草木の用益権や水をめぐる対立を激しくしていったことがあげられます。
 そして、その開発による新たな村の確立に重要な権利獲得の実力闘争が、近世の公権力による処罰により犠牲者を生まざるを得なかったことがこの時代の義民物語であり、まさに、笠神村の三義人はこの典型でした。

 また五十嵐行男氏は『印西地方よもやま話』で、江戸時代に幕府の裁定の反逆者の「義民」を密かに追悼することはあっても顕彰する事は叶わず、明治22年大日本帝国憲法の発布後、板垣退助らによる自由民権思想の高揚した明治24年という時代に、笠神の義人顕彰碑が建立されたことを指摘しておられます。
 笠神に近い佐倉で、木内惣五郎が直訴し刑死したのは、笠神三義人事件の3年前の承応2年(1653年)といわれています。
 地元に残る伝承を参考にしながら18世紀後半に創作された惣五郎物語は、幕末から全国に広まり、福澤諭吉により「古来唯一の忠臣義士」と称えられ、特に自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられました。
 義民の顕彰が、全国各地で盛んになったのもこの頃であったことを考えると、この三義人顕彰碑は、江戸時代初期と明治中期の二つの時代の歴史を語る文化財であるといえるでしょう。

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2015年2月10日 (火)

W-7 臼井周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

佐倉歴史同好会講演レジュメ    2015.1.21 於:臼井公民館2F創作室
                                                             蕨由美

       臼井周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

                                 ⇒スライド  ⇒配布用画像資料

1. 臼井周辺の旧村の風景 —史跡・古道・石塔群を歩く

(1)史跡と名所
・臼井城址(主郭と宿内砦跡など惣構遺構)と外城(先崎城・小竹城・井野城・謙信一夜城跡・阿辰の墓)、
・印旛沼と手繰川・小竹川、佐倉道(街道・宿・道標)、八幡台八幡社・臼井台星神社・稲荷神社、
・実蔵院(明倫中学跡)・長源寺・宗徳寺・光勝寺・円応寺、生谷専栄寺・ぽっくり弁天
井野の千手院・先崎の鷲神社・地蔵尊、青菅の正福寺・青菅旧分校跡、小竹の西福寺、上座の宝樹院、
(2)古道と道しるべ
・佐倉道(成田街道):団十郎ゆかりの成田山道道標・光勝寺下の三叉路道標・臼井台丁字路道標
・「もう一つのさくら道」:水神橋の馬頭観音道標・先崎鷲神社北の二十三夜塔道標
・「かやだ道」:小竹三叉路の聖観音像秩父巡拝塔道標・井野の聖観音像秩父巡拝塔道標

(3)路傍や寺社境内の石仏群
・庚申塚=臼井田、生谷、小竹の後谷津・三叉路、中台三叉路、上座荒具、井野、青菅旧分校
・梵天塚(出羽三山塚)=生谷梵天塚・小竹梵天塚・上座皇産霊神社・井野梵天塚、青菅三山塚、
・馬頭塚=生谷県道脇、臼井田八丁坂、小竹の三叉路・水神橋、上座の手繰不動堂・廃道脇
・女人講石塔群=臼井台実蔵院・臼井田常楽寺・生谷専栄寺・井野千手院・小竹西福寺・上座宝樹院

2. 路傍の民間信仰の石造物
(1)庚申塔 
庚申待は、60日に1回庚申(かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が眠った人間の体から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げ、天帝はその罪過に応じてその人の寿命を縮めるということから、眠らずに語りあかし長寿を祈るという中国の道教に由来した信仰で、それに仏教や神道の信仰なども加わり、室町時代ごろから各地で「庚申講」が行われるようになった。庚申塔(庚申供養塔)は庚申講の人びとによって建てられ、中世は「板碑」として、江戸時代初期からは、願文を刻んだ板碑型石塔や、三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)とともに如来や菩薩像を浮彫した石仏が作られるようになり、寛文期からは、青面金剛を本尊とする庚申塔も現れ始めた。江戸中期には、青面金剛像に、日月や三猿、邪鬼や鶏を伴う手の込んだ彫りの石塔が流行し、またその憤怒の形相に悪魔退治の願いを込め、村の入り口などに建てられるようになる。(佐倉市内庚申塔数は126基)

・寛文3年(1663)新町嶺南寺、寛文10年(1670)と延宝3年(1675)海隣寺町愛宕神社、
・延宝3年(1675)上座335 S家、延宝4年(1676)下志津原路傍、延宝5年(1677)臼井田の田の中、
・元禄4年(1691)先崎みどり台霊園、宝永4年(1707)海隣寺町熊野神社、
・正徳2年(1712)先崎地蔵尊、正徳5年(1715)臼井台手繰坂、享保元年(1716)臼井光勝寺、
・元文5年(1740)井野庚申塚・小竹三叉路、延享2年(1745)小竹後谷津庚申塚、
・寛延3年(1750)青菅旧分校跡・小竹中台三叉路、安永9年(1780)臼井田、など

(2) 出羽三山碑
奥州出羽三山信仰は、千葉県では山岳信仰の中でも最も盛んで、ムラの壮年期の男性は講を組んで登拝し、また集落の奥高い所には梵天塚を築き、大日如来像を安置して梵天立てを行い、登拝の後は記念碑の石建てを行っている。この三山塚(梵天塚)には、湯殿山本地仏の大日如来像、湯殿山を中心に月山・羽黒山の山名を配した江戸期の文字碑、月山を中心にした近代から現代の三山碑が立ち並んでいる。
(佐倉市内出羽三山碑341基うち江戸期71、近代110、戦後145)
安永9年(1760)青菅三山塚、明和4年(1767)臼井古峯神社、文化元年(1803)生谷梵天塚、
文政3年(1820)井野梵天塚、天保6年(1835)小竹梵天塚、文久2年(1862)上座皇産霊神社、

(3)馬頭観音塔
六観音のうち唯一憤怒顔で、煩悩諸悪を排除する菩薩。頭上に馬頭をいただくことから、馬の守護と供養を目的に、馬の墓地のソウマントウ、村境や川べりの路傍に造立されるようになった。
 (佐倉市内の馬頭観音塔は67基)

・延宝3年(1675)臼井田八丁坂の馬頭観音塔群、享保17年(1732)生谷印西街道の馬頭庚申塚、
・元文元年(1736)か?手繰不動堂、寛保3年(1743)小竹三叉路、寛保4年(1744)青菅旧分校
・宝暦10年(1760)江原新田麻賀多神社、明和元年(1764)井野千手院、文化14年(1817)上座廃道

3. 女人講の石造物
(1)十九夜塔
関東北東部では、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていた。
この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」で、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻される。
(佐倉市の十九夜塔は104基)

・寛文9年(1669)・宝暦6年(1756)臼井台実蔵院、寛文12年(1672)臼井田常楽寺、
・享保7年(1722)小竹西福寺、享保14年(1729)青菅正福寺、享保19年(1734)上座宝樹院、
・元文元年(1736)井野千手院、宝暦8年(1758)小竹西ノ作地蔵堂、宝暦10年(1760)先崎雲祥寺、
・文化5年(1808)生谷専栄寺    

(2)子安塔
「子安塔」は、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔石祠。
文字のみの石祠・石碑と、母性的な神仏が子を抱く「子安像」が刻まれた「子安像塔」(後述)がある。江戸中期から現れ、幕末から十九夜塔に代わって女性たちの子安講により多数建てられる。  (佐倉市内の子安塔数は98基)

・「子安」石祠=元文4年(1739)小竹四社明神、宝暦8年(1758)上座熊野神社、宝暦9年(1759)井野八社大神

・子安像塔=宝暦6年(1756)内田妙宣寺、天明3年(1783)大佐倉麻賀多神社、
・寛政元年(1789)海隣寺町愛宕神社、寛政3年(1791) 先崎雲祥寺、寛政6年(1794)鏑木町周徳院、
・寛政12年(1800)飯野観音、享和元年(1801)大蛇町神明神社、文化8年(1811)角来八幡神社、
・天保7年(1836)・明治22年(1889)井野千手院、文政2年 (1819)海隣寺、文久4年(1864)畔田正光寺、
・慶應3年(1867)・明治25年(1892)青菅正福寺、明治32年(1899)小竹西ノ作地蔵堂、
昭和15年(1940)先崎雲祥寺

(3)秩父巡拝塔
江戸時代は、秩父34観音供養塔として観音像を浮き彫りにした石塔が路傍などに建てられ、道標を刻むものもある。
近代20世紀になると、女性たちの講による秩父観音霊場巡礼が盛んになり。その記念の石碑として、寺院境内などに多数建立されるようになる。
(佐倉市内の秩父などの観音霊場巡拝塔323基うち江戸期41基・近代123基・戦後145基)

・明和3年(1766)臼井台実蔵院、享和2年(1802)小竹西福寺、文化4年(1807)上座宝樹院、
・文政8年(1825)臼井古峯神社、安政6年(1859)井野旧道入口、文久元年(1861)小竹三叉路

4. 北総の子安様
(1)「子安像塔」とは 
「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠をいう。
母性を明らかにした主尊(神仏)が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」とよぶ。江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏典などの儀軌にはないオリジナルな石仏である。

(2)北総の子安像塔
北総(下総地域)、特に八千代市など印旛沼周辺から利根川下流域は、女人講による子安像塔の数が多い地域で、1000基以上の子安像塔がある。
そのうち記年銘のある塔は、江戸中期(1717~1803年)までが109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基で、江戸時代計は404基、明治からの近・現代では525基、総計934基が現存する。

1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(17世紀後半から18世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で推定1200基以上。
一方、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増える。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
千葉県最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の元禄4年の「子安大明神」石祠で、①二児を配した子安像が②石祠内にある。
北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像が初出。これに次ぐ元文5年酒々井町の子安像石祠は①と②の特徴をもつ。
同じく酒々井町尾上住吉神社の宝暦元年の子安像塔は③思惟相型の如意輪変形像で、①②③の特徴は北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっている。北総の子安像塔発祥の地域は酒々井町と推定され、18世紀末までに8基の建立があり、ここから隣接する旧印旛村・旧本埜村・成田市へ広がる様相が確認できる。
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3. 江戸時代後期から近現代までの子安像塔の特徴
後期前半(文化文政・天保期)に、千葉市・佐倉市・旧印旛村・佐原市などで増加、印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市にも広がるが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されない。
近・現代は、白井市・八千代市・印西市・佐倉市・千葉市などの地域に偏って分布する。
江戸後期からは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像が主流。
優雅に天衣をまとう像や、子が這い上がろうとする動的な表現など、華麗で円熟した作がある一方、軟質石材の安易な彫りも多い。
近代は、豊満さを強調した母子像や、細部まで像容を同じくする意匠の定番化がみられる。 

(3)考察:「子安像塔」成立の背景
元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗、②石仏を彫る技術の普及、③「慈母観音」像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感があった。
慈母観音像は、16~17世紀初頭、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも多量に輸入された白磁製の像で、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、17世紀半ば、「子安観音」として各地方に普及、浸透していったと考えられる。

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2014年12月13日 (土)

W-6 武石公民館講座「千葉市武石町の旅」 

2014.11.23 上田市武石公民館講座 「千葉と武石をめぐる歴史の旅」第二回 
千葉市武石町の旅 レジュメ   蕨由美

1.  武石町に武石氏ゆかりの史跡を訪ねて

千葉市花見川区の武石町は、頼朝挙兵の後ろ盾になった千葉常胤の三男胤盛が承安3年(1171)に武石郷に居城し、郷名をもって武石氏を称した由緒ある旧村です。東京湾の埋め立てで海浜ニュータウンが造成され海辺は遠くなりましたが、昭和47年漁業権を放棄するまでは、花見川河口の漁村でもありました。

写真は⇒2014.10.21千葉の武石氏にかかわる史跡探訪Ⅰ

(1)真蔵院
大同元年(806)興教大師による開山と伝えられ、建久八年(1197年)武石三郎胤盛が、母(秩父氏)の菩提を弔いて柳地蔵菩薩を祀って、中興開山したと考えられます。
境内には秩父緑泥岩の「武石の板碑」、波切不動堂、その裏山には羽衣神社があり、墓地(両墓制のマイリバカ)を抜けると、武石城や大小塚があったと伝承される畑の台地に出ます。

1. 阿弥陀一尊板碑「武石の板碑」(千葉市指定文化財)
緑泥片岩の高さ2.37mの武蔵式板碑。伝承によれば、武石胤盛の母親の菩提を追善供養に建立した7基の板碑のひとつ。当初は、須賀原の愛宕山古墳に建立され、江戸時代に真蔵院の波切不動堂の山下に移したと伝えられ、今は本堂前に設置されています。
板碑銘文「(右為)先妣聖霊出離生死証大菩薩也/永仁第二暦/季秋卅之天」、梵字=種子(しゅじ)はキリークで、阿弥陀如来を表しています。
この永仁4年(1296)の年銘は、久安2年(1146)~建保3年(1215)の生涯だった胤盛の建立とするには、約百年のかい離があり、永仁元年(1293)に武石氏を相続した武石三郎胤晴と考えられています(和田1984)。
また、同じ永仁4年造立の元箱根の宝篋印塔に「武石四郎左衛門尉宗胤」の銘を残した武石宗胤(1251~1314)が建立したという見方もできます。裏面に「施主常胤」とあるのは、これは後世の追刻とのことです。

板碑とは=中世に仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に、種子や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものです。
武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を長い板状に加工して造られ、上頂部を三角に加工し,その下に2条の溝があります。
種子は、サンスクリットの文字(=梵字)で仏尊を表し、その下には蓮の模様が彫られています。

2. 波切不動堂
正元元年(1259)12月10日、武石胤盛の曾孫、武石長胤が建立。胤盛が守り本尊とした一寸八分の金仏の不動尊が祀られているといわれ、かつてここが海辺だったころ、漁民の信仰を集め、毎年8月には不動祭で賑わいました。

3. 羽衣神社
波切不動堂の裏に「羽衣神社」の石碑があります。千葉氏に広く伝わる羽衣伝承の地のひとつで、この裏山に天女が舞い降りたとも、この下の池に舞い降りたとも言われ、羽衣を奪われた天女から生まれたのが千葉氏(武石氏)の祖といわれています。
天女は常胤の妻、胤盛の母。真蔵院と愛宕山にはこの母についての悲しい物語が残されています。

4. 織田玄林の妻子の墓
安永年中、村人に甘藷栽培法の良法を伝授し、増産に貢献した織田玄林の妻子の墓があります。享保のころ甘藷栽培を導入し、民を飢饉から救った青木昆陽の遺徳をたたえる昆陽神社が近くにありますが、昆陽がこの地で甘藷とかかわったのは、わずかの期間でした。各地で甘藷の普及につくしたのは名も無い農業技術者で、馬加村周辺でも実際に貢献したのは薩州浪人の織田玄林と伝わっています。

(2)武石神社と城館跡伝承地
真蔵院の裏山から京葉道路武石インターへ続く台地上には、武石城(中世前期では館跡というべきか)があったといわれています。
 千葉県千葉郡誌に「幕張町大字武石に在りて武石城址の内にあり。圃中小塚あり上に椎樟等の雑樹を生ず。小石祠あり傍に古墓の壊石あり。土地の人は「おたけ様」と称す。即ち武石様の略にして武石胤親(三郎又は蔵人丞と称す)の墓なりとなす。其の西方40間餘の処又小塚あり、竹篠叢生す。それ其の妻の墓なりとなす。蓋し胤親は足利義明に仕へ其の昔国府臺の戦に討死せしと云ふ。」と書かれています。
特に城郭らしき遺構は残っていませんが、畑の隅の「おたけ様」伝承の塚には、鳥居と、昭和15年に造営され、平成19年に改築された「武石神社」の社殿があり、その境内にある昭和15年造営時の「武石神社」銘の石碑には「当神社ハ千葉介常胤朝臣ノ三男武石三郎平胤盛朝臣以下武石氏累世ノ神霊ヲ祭祀スルノ社ニシテ往古ヨリ此ノ地ニ鎮座シ地人尊崇シテお武石様ト称ス」との謂れ文が刻まれています。
また平成19年には「おたけし様の御由緒」の看板も設置されました。

(3)愛宕神社古墳
真蔵院の板碑が元あったというのが、須賀原の愛宕神社の古墳です。
『千葉郡誌』によれば、武石三郎胤盛の母(秩父重弘の娘)は故あって海中に身を投げ、漁人の網にかかったその遺骸を葬ったのが、須賀原愛宕山で、7基の石碑を建立したとのこと。 江戸時代の宝暦3年に開墾された際に、残されていた板碑1基が真蔵院へ遷されました。
また石室があり、直刀、鏃、耳環などの遺物が出土したとのことで、古墳時代の古墳を中世に塚墓として利用したようです。
現在は、平成21年に改築された社殿の中に「愛宕大権現」の石碑が祀られ、その脇には「貞永元年壬辰三月廿四日」と「下総国千葉郡武石郷」の銘が刻まれています。
石碑の石質や形状から、近世以降の作と思われますが、由緒板に寄れば、貞永元年(1232)の3月24日は、千葉常胤の33回忌の命日にあたるそうです。

(4)三代王神社
武石三郎胤盛が武石に居城して31年後の建仁2年(1202)、郷中安全の守護神として明神神社を創建、天種子命(アマノタネノミコト)を祀る神社で、文亀元年(1501)に社号を三代王神社にあらためましたが、武石明神といわれました。
船橋市・千葉市・八千代市・習志野市の9神社の神輿が二宮神社境内に参拝する下総三山の七年祭り(千葉県無形文化財)では、三代王神社は産婆役を務めます。
この祭りの起源は、室町時代の頃に馬加城主の千葉康胤が嫡子出産に際し、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の神主に馬加村(幕張)の浜辺で安産祈願をさせたことに由来するといわれ、その康胤の奥方の夢枕にたち、安産を守護したのは、この武石明神であったと言われています。

2.  武石長胤ゆかりの長作町の寺社

武石町の北隣の長作町は、武石長胤が領して拓かれた村で、長胤は千葉常胤の三男、胤盛の曾孫として鎌倉幕府に仕えています。

写真は⇒2014.10.24 千葉の武石氏にかかわる史跡探訪Ⅱ

(1)諏訪神社
境内には寛永5年(1628)建立,天保7年(1836)再建と伝えられる社殿と林が残っています。
長作の諏訪神社の創建の時代はわかりません。伝承では「延暦年中、坂上田村麻呂東夷出征の際、信濃惣社上下諏訪に陳し、連に東平あらんことを祈願し、稍鎮定の帰途に至り、上下惣社当所に遷置す。之を本村の鎮座とす。」とのこと。
諏訪神社は全国に1万余社あるといわれ、その多くは鎌倉時代に勧請されています。諏訪神は、山の神・風の神として生活の源を司る神であり、また古くから山の狩猟神として信仰されました。そしてその狩猟に使う弓や矢からの連想で、軍神として信仰されるようになり、坂上田村麻呂の東征の守護などの伝承が付与されて、頼朝や北条氏など多くの武将からも篤く崇敬されたといいます。特に鎌倉時代、諏訪大社の御射山(霧ヶ峰高原八島湿原)を舞台にした祭礼には、鎌倉幕府の下知によって信濃国内に領地をもつ御家人すべてが回り番で費用を負担し、全国から御家人が参集しました。
幕府は建暦2年(1212)以来、殺生禁断のため全国の守護・地頭に鷹狩りを禁止しましたが、諏訪大明神の御贄狩(みにえがり)だけは例外としました。このため諸国の御家人らは諏訪社を勧請して、その御贄狩と称して鷹狩りを続けたともいわれます。(井原今朝男『県史 長野県の歴史』)
特に、武石氏は諏訪大社に近い長野県旧武石村にも領地があり、このような背景から、その創建はおそらく長胤の活躍する鎌倉時代ではないかというのが私の想像です。

・社殿の彫刻=天保7年に改築された本殿の向拝竜は、銘から嶋村多宮定直の作で、本殿胴回りの彫物は全て、江戸後期から明治にかけて活躍した竹田重三郎(結城小森村)と推定されます。
本殿右側の彫刻「西王母」、背面の彫刻「菊慈童」、左側の彫刻「寿老人」、右脇障子「唐婦人」、左脇障子「大舜」。
拝殿は、嘉永年間(1848-1853)に建立で、嶋村本流江戸彫工の祖、八代源蔵嶋村俊表(文久3年1873没)の四十才頃の作。

(2)天津神社(=妙見神社)
大正時代に天津神社と改名される前は、「妙見神社」で、千葉氏が信奉した神仏であり、武石長胤の守り神であったであろう妙見を祀った神社です。ご本尊の妙見像は秘仏で、「昔盗まれたが、寒川の漁師により海中から拾われ、返してもらった」という伝説があるそうです。
2003年に八千代市郷土歴史研究会で、社殿内部を拝見した際、明治18年に奉納された妙見像の絵馬が確認されました。
(3)長胤寺
正元元年(1259)千葉一族である武石長胤が長作の地を領し、弘長2年(1262)自らの館を寺として創建したと伝えられる日蓮宗の寺院です。

「當山縁起」を記した石碑があり、そこには長胤寺の由来について次のように記されています。
「源頼朝に仕え、千葉中興の祖と言われる千葉介常胤公は七人の男子を儲ける。
各々、千葉介新助胤正、相馬次郎師常、武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、東 六郎胤頼、七男は出家し日胤を名乗り、三井寺にて祈祷僧となる。
三郎胤盛が、現在の武石の地を、承安元年(1171)11月15日伝領す。武石城の始まりである。
四世孫武石小二郎入道長胤公が、正元元年(1259)12月10日長作の地を領す。弘長2年(1262)自らの館を寺とする。
上総七里法華弘通の師、日秦上人(永享4年1432~永正3年1506)の法孫日傳上人により、天文14年(1545)日蓮門下に改宗、のち元禄14年(1701)東金最福寺の流れに、属す。
爾来法華経の信仰道場として連綿相続している。  三十六世 清寿院日祥」

碑文中の「上総七里法華」とは、土気城主酒井定隆が顕本法華宗の日泰上人に帰依し、千葉、市原、山武、長生にまたがる領内7里四方、270余りの寺にわたって法華宗に改宗させた宗教政策のことで、戦国時代の房総の宗教史を特異なものにしています。
鎌倉時代に武石長胤が長作の地に創建したころは真言宗であった長胤寺が、戦国時代に濱野村本行寺開祖の日傳によって顕本法華宗に改宗されたということにより、いわゆる「七里法華」の影響と酒井氏の勢力がはるかこの地にまで及んでいたことがわかります。その後、昭和16年(1939)大陸侵攻の戦時下、宗教統制によって、顕本法華宗(京都妙満寺)と本門宗(北山本門寺)が日蓮宗と合同、長胤寺も「日蓮宗」となり、戦後、顕本法華宗が再独立しても、そのまま現代に至っています。

参考資料:
和田茂右衛門1984 (千葉市教育委員会編)『社寺よりみた千葉の歴史』千葉市教育委員会
ホームページ「歴史に好奇心!さわらび通信」・「千葉市の歴史を歩く会」
武石町~長作町の地図

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2014年9月 5日 (金)

W-5 ユーカリが丘周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

ユーカリ悠友大学講演レジュメ         2014.9.7 於:小竹小学校地域学習室

              ユーカリが丘周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様
                                                              蕨由美(房総石造文化財研究会)

                                 ⇒スライド

1. ユーカリが丘周辺の旧村の風景 —史跡・古道・石造物—
(1)史跡と名所
・印旛沼と手繰川・小竹川
・臼井城外城跡(先崎城・小竹城・井野城)
・佐倉道(成田街道)
・先崎の鷲神社・地蔵尊
・青菅の正福寺・青菅旧分校
・小竹の西福寺・四社明神
・上座の宝樹院・熊野神社・上座貝塚
・井野の千手院・井野長割遺跡・八社大神

(2)古道と道しるべ
・成田街道(佐倉道):団十郎ゆかりの成田山道道標・臼井台の子安観音道標
・「もう一つのさくら道」:水神橋の馬頭観音道標・先崎鷲神社北の二十三夜塔道標
・「かやだ道」:小竹三叉路の聖観音像秩父巡拝塔道標・井野の聖観音像秩父巡拝塔道標

(3)路傍や寺社境内の石仏群
・庚申塚=小竹後谷津・小竹三叉路・小竹中台三叉路・上座荒具・井野・青菅旧分校
・梵天塚(出羽三山塚)=小竹・上座皇産霊(みむすびのみこと)神社・井野梵天塚、青菅三山塚
・馬頭塚=小竹三叉路・水神橋・上座手繰不動堂・上座新田踏切
・女人講石塔群=井野千手院・小竹西福寺・西ノ作地蔵堂・上座宝樹院・井野町稲荷神社

2. 路傍の民間信仰の石造物
(1)庚申塔 
庚申待は、60日に1回庚申(かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が眠った人間の体から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げ、天帝はその罪過に応じてその人の寿命を縮めるということから、眠らずに語りあかし長寿を祈るという中国の道教に由来した信仰で、それに仏教や神道の信仰なども加わり、室町時代ごろから各地で「庚申講」が行われるようになった。庚申塔(庚申供養塔)は庚申講の人びとによって建てられ、中世は「板碑」として、江戸時代初期からは、願文を刻んだ板碑型石塔や、三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)とともに如来や菩薩像を浮彫した石仏が作られるようになり、寛文期からは、青面金剛を本尊とする庚申塔も現れ始めた。江戸中期には、青面金剛像に、日月や三猿、邪鬼や鶏を伴う手の込んだ彫りの石塔が流行し、またその憤怒の形相に悪魔退治の願いを込め、村の入り口などに建てられるようになる。
・延宝3年(1675)上座335 S家
・元禄4年(1691)先崎みどり台霊園
・正徳2年(1712)先崎地蔵尊
・元文5年(1740)井野庚申塚・小竹三叉路
・延享2年(1745)小竹後谷津庚申塚

(2) 出羽三山碑
奥州出羽三山信仰は、千葉県では山岳信仰の中でも最も盛んで、ムラの壮年期の男性は講を組んで登拝し、また集落の奥高い所には梵天塚を築き、大日如来像を安置して梵天立てを行い、登拝の後は記念碑の石建てを行っている。この三山塚(梵天塚)には、湯殿山本地仏の大日如来像、湯殿山を中心に月山・羽黒山の山名を配した江戸期の文字碑、月山を中心にした近代から現代の三山碑が立ち並でいる。
・安永9年(1760)青菅三山塚
・文政3年(1820)井野梵天塚
・天保6年(1835)小竹梵天塚
・文久2年(1862)上座皇産霊神社

(3)馬頭観音塔
六観音のうち唯一憤怒顔で、煩悩諸悪を排除する菩薩。頭上に馬頭をいただくことから、馬の守護と供養を目的に、馬の墓地のソウマントウ、村境や川べりの路傍に造立されるようになった。
・元文元年(1736)か?手繰不動堂
・寛保3年(1743)小竹三叉路
・寛保4年(1744)青菅旧分校

(4)その他
・道祖神・水神社・富士塚(浅間神社)・二十三夜塔など

3. 女人講の石造物
(1)十九夜塔
関東北東部では、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていた。
この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」で、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻される。
享保7年(1722)小竹西福寺、享保14年(1729)青菅正福寺、享保19年(1734)上座宝樹院
・元文元年(1736)井野千手院
・宝暦8年(1758)小竹西ノ作地蔵堂
・宝暦10年(1760)先崎雲祥寺

(2)子安塔
「子安塔」は、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔石祠。
文字のみの石祠・石碑と、母性的な神仏が子を抱く「子安像」が刻まれた「子安像塔」(後述)がある。江戸中期から現れ、幕末から十九夜塔に代わって女性たちの子安講により多数建てられる。
・「子安」石祠=元文4年(1739)小竹四社明神、宝暦8年(1758)上座熊野神社、宝暦9年(1759)井野八社宮
・子安像塔=寛政3年(1791) 先崎雲祥寺、天保7年(1836)・ 明治22年(1889)井野千手院、慶應3年(1867)・明治25年(1892)青菅正福寺、明治32年(1899)・明治42年(1909)小竹西ノ作地蔵堂

(3)秩父巡拝塔
江戸時代は、秩父34観音供養塔として観音像を浮き彫りにした石塔が路傍などに建てられ、道標を刻むものもある。近代20世紀になると、女性たちの講による秩父観音霊場巡礼が盛んになり。その記念の石碑として、寺院境内などに多数建立されるようになる。
・享和2年(1802)小竹西福寺
・文化4年(1807)上座宝樹院
・安政6年(1859)井野旧道入口
・文久元年(1861)小竹三叉路

☆以上参考文献:『志津の史跡と名所』宮武孝吉 平成12年 志津文庫  ☆参考HP:「しづのまちを歩こう」

4. 北総の子安様
(1)「子安像塔」とは 
「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠をいう。
母性を明らかにした主尊(神仏)が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」とよぶ。江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏典などの儀軌にはないオリジナルな石仏である。

(2)北総の子安像塔
北総(下総地域)、特に八千代市など印旛沼周辺から利根川下流域は、女人講による子安像塔の数が多い地域で、1000基以上の子安像塔がある。そのうち記年銘のある塔は、江戸中期(1717~1803年)までが109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基で、江戸時代計は404基、明治からの近・現代では525基、総計934基が現存する。
1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(17世紀後半から18世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で推定1200基以上。一方、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増える。
2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
千葉県最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の元禄4年の「子安大明神」石祠で、①二児を配した子安像が②石祠内にある。北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像が初出。これに次ぐ元文5年酒々井町の子安像石祠は①と②の特徴をもつ。同じく酒々井町尾上住吉神社の宝暦元年の子安像塔は③思惟相型の如意輪変形像で、①②③の特徴は北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっている。北総の子安像塔発祥の地域は酒々井町と推定され、18世紀末までに8基の建立があり、ここから隣接する旧印旛村・旧本埜村・成田市へ広がる様相が確認できる。
3. 江戸時代後期から近現代までの子安像塔の特徴
後期前半(文化文政・天保期)に、千葉市・佐倉市・旧印旛村・佐原市などで増加、印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市にも広がるが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されない。近・現代は、白井市・八千代市・印西市・佐倉市・千葉市などの地域に偏って分布する。
江戸後期からは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像が主流。優雅に天衣をまとう像や、子が這い上がろうとする動的な表現など、華麗で円熟した作がある一方、軟質石材の安易な彫りも多い。近代は、豊満さを強調した母子像や、細部まで像容を同じくする意匠の定番化がみられる。 

(3)考察:「子安像塔」成立の背景
元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗、②石仏を彫る技術の普及、③「慈母観音」像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感があった。
慈母観音像は、16~17世紀初頭、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも多量に輸入された白磁製の像で、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、17世紀半ば、「子安観音」として各地方に普及、浸透していったと考えられる。

文献:「北総の子安像塔」蕨由美2010.2011.2012『房総の石仏』20・21・22号 房総石造文化財研究会

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2014年3月 3日 (月)

W-4 八千代市村上地区の古代集落と須恵器「壺G」

以下は2014.3.2 八千代栗谷遺跡研究会学習会(於:八千代市立郷土博物館)での考講演用レジュメです。(⇒スライド
引用される場合は、著者までメールでご連絡ください(
⇒アドレス)。無断使用はご遠慮ください。

                         村上地区の古代集落と須恵器「壺G」 
                                          蕨 由美

 8世紀末から9世紀初めの遺跡から見つかり、形から「壺G」と分類されるスリムな須恵器。その用途は、仏に供える花瓶、調味料を運んだ容器、東北侵攻の兵士が携えた水筒など諸説あります。
八千代市村上込の内遺跡など房総から出土した壺Gとその遺跡の様相の再検討から、壺Gの用途を考察してみました。

1. 須恵器「壺G」とは
 壺Gは、静岡県の花坂島橋窯と助宗窯などで生産された長頸壺のことで、高さ20 ㎝位の細長い形で頸が長く、堅牢で優雅な形をしつつも、ほとんどが平底で、糸切痕やロクロ回転痕を未調整のまま残すなど、やや雑なことが特徴です。
 奈良文化財研究所が、須恵器の壺の形状をアルファベット順に分類した際、「G類」に定められた須恵器であることから、「壺G」とよばれています。
器形は、太型・中太型・細型に分類され、中太型・細型は日本~関東~東海・近畿地方に広く分布しますが、細型の時期は784~794年の長岡京期に限定される特徴があります。 ⇒スライド02
 八千代市内の遺跡では、村上込の内遺跡のほか、萱田遺跡群の北海道遺跡と井戸向遺跡から出土しています。

2. 壺Gの用途は?
 壺G用途は、「堅魚煮汁容器説・水筒説・徳利説・花瓶説など諸説あって定まらない」とされてきましたが・・・

a. 「堅魚煎汁運搬容器」説
 「荷札木簡の記述により、この壺の産地の駿河と伊豆から、長岡京へ調味料の堅魚煎汁を運んだ容器」という巽淳一郎氏の説*。 
*巽淳一郎1991「都の焼物の特質とその変容」『新版 古代の日本 近畿Ⅱ』角川書店 ⇒スライド04 

 その後、関東から東北、海のない山梨県からも出土していること、またこの容器説に対し、瀬川裕市郎氏は「堅魚煎汁はゼリー状で、木製容器に入れたはずで、運搬に用いる必然性はない」*と批判。  
 *瀬川裕市郎1997「堅魚木簡にみられる堅魚などの実態について」『沼津市博物館紀要』21 沼津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館 ⇒スライド05

b. 「東北遠征兵士の携帯用水筒」説
 「東北の城柵から少量の発見例があり、桓武朝における東北遠征にともなう兵士や都から下る官人の携行品である」という山中章氏の説*。
 *山中章 1997「桓武朝の新流通構造 : 壺Gの生産と流通」『古代文化』第49巻11号 ⇒スライド06
 2007年の国立歴史民俗博物館で企画展示「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」では、壺Gが長岡京とそのころの東北支配の拠点地と東日本で多く出土していることを強調、「特異な形式をもつ壺Gの移動に代表される物流の進展」という趣旨で、各地の壺Gが展示されました。 ⇒スライド07 

c. 「仏事使用の花瓶(けびょう)」説
 「仏像が手にする金属製花瓶と同形で、これを模した。仏教の東国伝播に伴って、小さなお堂で使った仏具の花瓶」という佐野五十三氏の説*。
 *佐野五十三1999「壺Gの成立と伝播」『静岡県考古学研究』№31
 *佐野五十三1998「須恵器花瓶の成立-仏の手から塔婆の世界へ-」『静岡県考古学研究』№30 ⇒スライド09

 佐野氏は仏像・絵画などの資料に残る花瓶を検討整理する中で、観音像の持つ古代花瓶の形状と須恵器壺の変遷の関連を分析し、その形態と時期が一致することを指摘、仏の手を離れて自立式となり花活けの花瓶となった須恵器こそ壺Gであると述べています。
 さらに「壺Gの成立と伝播」では、出土した遺跡と型別の分布の関連を整理し、「壺Gは、古代の公的な施設・機関に関係する遺跡が圧倒的に優位であること」、「集落からの出土も一般的」で、東国では竪穴住居から奈良三彩・金銅仏などが出土していることも指摘されています。
 また2007年静岡県遺跡調査報告会で、千葉県袖ケ浦市遠寺原遺跡・山梨県韮崎市宮ノ前第Ⅱ遺跡、群馬県佐波郡十三宝遺跡の壺G出土の遺構と遺跡全体の様相を例示し、壺Gが村の寺や仏堂などの遺構に付随する遺物であると話されています。

3. 壺Gと仏教関連遺物が伴出した千葉県内の遺跡
「壺G 出土遺跡一覧表」(山中章 1997)や『 古代仏敎系遺物集成・関東: 考古学の新たなる開拓をめざして 』(考古学資料から古代を考える会 2000)のデータリスト、さらに最近の発掘調査報告などに基づき、壺Gの出土した遺跡について伴出した仏教関連遺物や掘立建物などの遺構について調べてみました。

 1.  海神台西遺跡(船橋市)=墨書土器「岑寺」
 2.  北海道遺跡(八千代市)=墨書土器「勝光寺/大田」・「尼」・「経」
 3.  井戸向遺跡(八千代市)=仏鉢、三彩托、三彩小壺2、銅造宝冠如来像、山吹双鳥鏡、墨書土器「寺坏/寺」・「寺」・「佛」、火打金
 4. 村上込の内遺跡(八千代市)=仏鉢、瓦塔、灯明皿、火打金、墨書土器(詳細は6.の項で)等
 5.  庄作遺跡(芝山町)=仏鉢、瓦塔、墨書土器「井/佛西」
 6.  真行寺廃寺(山武市)=仏鉢、浄瓶、香炉蓋、瓦塔、墨書土器「武射寺」・「大寺」「仏工舎/小」、文字瓦「寺/寺□」
 7. 柳台遺跡(匝瑳市)=仏鉢、浄瓶、墨書土器「千俣□(仏カ)
 8.  台畑遺跡(千葉市)=墨書土器「寺吉」・「寺」他
 9. 南河原坂窯跡群(千葉市)=仏鉢、水瓶、香炉蓋、高坏形香炉、墨書土器「堺寺/上」
 10.  川島遺跡(富津市)=水瓶、香炉蓋、高坏形香炉
 11.  草刈遺跡(市原市)=灰釉浄瓶、薬壷、佐波理製箸、墨書土器「草苅於寺坏」
 12. 永吉台遺跡(市原市)=四面庇建物、瓦塔、仏鉢、銅鏡、香炉蓋、墨書土器「土寺」・「田寺」・「山寺」・「寺」
 13. 高岡大山遺跡(佐倉市)=四面庇建物、銅鋺、瓦鉢、香炉、墨書土器「寺」・「佛」・「神」
 14. 臼井屋敷跡遺跡(佐倉市)=三彩托、総柱建物 遺跡復元想像図 ⇒スライド12
 15. 坊作遺跡(市原市)=墨書土器「法花寺」・「佛騰」・「造寺」
 16. 谷津貝塚(習志野市)=瓦塔片、灯明皿、墨書土器「中村寺」 ⇒スライド11

 これらの遺跡の中でも11.の草刈遺跡の壺Gは、K370住居から、浄瓶や薬師如来の持つ薬壷など多くの遺物と共伴して出土しています。⇒スライド10
 またこのほか、墨木戸遺跡(酒々井町)・駒形遺跡(千葉市)・根崎遺跡(千葉市)からも、壺G が出土しています。

4. 萱田遺跡群にみる古代仏教の跡
 「村神郷」内の複数の集落を構成する萱田遺跡群の白幡前遺跡には、溝で囲まれた四面庇の建物があり、瓦塔・瓦鉢・浄瓶・「寺」や「佛」墨書土器などの遺物が集中することから、ここには集落全体の「村寺」といえる仏教施設があったとされます。スライド14

 寺谷津の北側の井戸向遺跡からは、仏鉢・三彩小壺・銅造宝冠如来像・墨書土器「寺」・「佛」などが出土し、ここには一族の持仏堂があったと推察されています。 ⇒スライド15
 さらに北の北海道遺跡では「勝光寺」の墨書土器が出土しています。 ⇒スライド16

 『八千代の歴史 通史編』(2008)では、萱田遺跡群では白幡前遺跡の「村寺」を拠点として単位集団ごとに仏教信仰が浸透していき、北へ離れた北海道遺跡から権現後遺跡にかけては次第にその跡も希薄になると考察されていますが、北海道遺跡と井戸向遺跡から出土した壺Gを付け加えることにより、ムラの中のやや離れた小集落にまで広く仏教信仰が浸透していたとも考えられます。

5. 村上込の内遺跡の古代集落の様相
 古代の村上込の内遺跡は、8世紀前半~9世紀後半の約150年間の集落遺跡です。8世紀前半という時期は、養老7年(723)「三世一身法」の施行により、郡司層による開墾が進み始めたころでした。
 この時期の住居跡155軒と掘立式建物跡24棟は、集落中央の住居のない広場の周りに、A~Eまで5つのブロックに分かれて展開します。
墨書土器は270点にのぼり、同じ文字の土器がブロック単位でまとまって出ていることから、一族のような単位集団が何世代かにわたりおなじブロックに住み続けたと推定され、8世紀後半から9世紀前半にかけて最盛期となり、10世紀頃には生活の痕跡が消えてしまいます。
 村上込の内遺跡の調査報告書の遺物と遺構を再検討して、あらためて仏教関連と思われる遺物を探し、遺跡のブロックごとに分析してみました。 ⇒スライド18

6. 村上込の内遺跡で仏教に関連するモノは?
・A群=瓦塔片・墨書土器「前廾*」「奉」・長頸瓶・仏鉢(瓦鉢)・掘立建物3棟
・B群=灯明皿
・C群=長頸瓶(太型の胴部)・掘立建物4棟
・D群=長頸瓶壺Gのほか、長頸瓶破片が数点、灯明皿、墨書土器「聖*」、掘立建物13棟
・E群=掘立建物4棟・火打金
  *「前廾」は、「菩薩の前に」の意味。
  *「聖」は、「釈迦、または仏法の徳を秘めた聖人」の意味。

 さらに壺G出土のD群の遺跡の様相を図にすると、出土ピットに隣接した093住居跡に墨書土器「聖」など仏教関連遺物が多いことがわかります。⇒スライド19

 以上の結果、村上込の内遺跡の仏教施設は、A~Eのどの群にも属さない北はずれの瓦塔が集落全体の礼拝対象であっただけでなく、集落全体を率いるD群の有力者一族の単位集団内にも、持仏堂のような施設があったのではないかと考えられます。

まとめ
 壺Gが仏像の持つ花瓶にその形状が一致するという佐野氏の説に着目し、村上込の内遺跡など千葉県壺G出土遺跡の調査データを検討してみた結果、この地域のおいては「壺Gは仏具としての花瓶」説が、最も妥当であると思われました。8世紀後半から9世紀の壺G 伝播は、民衆レベルの仏教の急激な拡大と東国の開発の促進が背景にあります。(『静岡の風土と風と私」佐野 2005)
 今後の遺跡分析の視点に仏具である壺Gを加えることによって、8~9世紀の集落内の信仰形態について、村上込の内遺跡などの出土遺跡の性格がより明らかになると考えます。

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2012年12月16日 (日)

W-3 印西市内の民間信仰の石造物&北総の子安さま

以下は平成24年12月16日 印西地域史講座(於 印西市立中央駅前地域交流館)の講演用レジュメです。(⇒スライド
引用される場合は、著者までメールでご連絡ください(⇒アドレス)。無断使用はご遠慮ください。

                              
           印西市内の民間信仰の石造物&北総の子安さま
                        蕨 由美 (房総石造文化財研究会会員)
                                                       
 印西市域、特に旧印西町は、北総の中でも石造物の宝庫で、昭和53年から15年間かけて印西町が調査した数は、3056基の多きに達しています。
 その中でも特に、庚申塔が366基、十九夜塔などの月待塔が310基、子安塔が129基など、地域の民間信仰の講に関連する石仏・石塔は、総数の約3分の1を占めます。
 これらの石塔石仏の概要、特に各出現期の様相を、旧印旛村・本埜村の事例も交えてお話してから、私が特に研究している子安像塔について、詳しくご紹介したいと思います。

(1)「庚申塔」
 庚申待は、60日に1回庚申(かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が眠った人間の体から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げ、天帝はその罪過に応じてその人の寿命を縮めるということから、眠らずに語りあかし長寿を祈るという中国の道教に由来した信仰でした。それに仏教や神道の信仰なども加わり、室町時代ごろから各地で「庚申講」が行われるようになります。
 こうした庚申講の人びとによって建てられたのが、庚申塔(庚申供養塔)で、中世は「板碑」として、江戸時代初期からは、願文を刻んだ板碑型石塔(*)や、三猿とともに如来や菩薩像を浮彫した石仏が作られるようになり、寛文期からは、青面金剛を本尊とする庚申塔も現れ始めます。
 そして江戸中期には、青面金剛像に、日月や三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)、邪鬼や鶏を伴う手の込んだ彫りの石塔が流行し、またその憤怒の形相に悪魔退治の願いを込め、村の入り口などに建てられるようになりました。

 
*関東では、都内最古の近世庚申塔は足立区正覚院の弥陀三尊来迎塔1623年、埼玉県最古は三郷市常楽寺の山王廿一社文字塔1623年、千葉県最古は松戸市幸谷観音境内の1625年山王廿一社文字塔と報告されている。3基とも板碑型である。

・旧印西市内の庚申塔
江戸初期:観音像や地蔵像、阿弥陀如来像などの諸仏や銘文のみに三猿を彫ったものが多い。
 竹袋観音堂の寛文元年(1661)銘 = 聖観音立像、台座に三猿が浮彫り。
 武西百庚申の隣の寛文10年(1670)銘=「奉待庚申供養」と天蓋付三猿。
 砂田庚申堂内 寛文11年(1671)銘=四臂の青面金剛像 
 大森長楽寺の天和3年(1683)銘 =「奉起立庚申待成就之由」の文字と三猿
                           
江戸中期:「二世安楽」を祈願し、青面金剛像を浮彫りするのが庚申塔の最盛期の主流。
 上町観音堂の元禄13年銘(1700)銘=青面金剛像の笠付塔で道標を兼ねる
 大森長楽寺の正徳5年(1715)銘=青面金剛像に2童子2仁王2鬼、三猿。            
 結縁寺青年館の享保17年(1732)銘=青面金剛像に笠付の典型的な庚申塔

江戸後期:簡略化され文字塔に。
 末期には「百庚申」が浦部・武西・小林に建てられる。      
 
 また、赤く塗る地域がある。(悪疫退散・疱瘡除け祈願の趣旨か?)

・旧本埜村の古い庚申塔
 押付4水神社 延宝3年(1675)=駒型 三猿 
 物木317 庚申塚 貞享3年(1686)=四臂合掌の青面金剛 
 中田切38白山神社貞享4年(1687)=六臂合掌の青面金剛

・旧印旛村の古い庚申塔
 吉高 十三仏板碑付近の元禄 13年(1700)=青面金剛像 光背型
 造谷 宝永3年(1706)銘=笠付型青面金剛像 

(2)十九夜塔
  関東北東部では、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていました。
この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」であり、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻されます。
  十九夜塔の発祥としては、茨城県つくば市平沢の八幡神社にある雲母片岩の石塔が、稚拙な仏像らしき座像と「寛永九年(1632)三月十九日」の銘が刻まれていることから、これが最古と推測されています。
 千葉県では承応元年(1652)の香取市結佐大明神境内の「十九夜侍之供養/十二月十九日」銘の宝篋印塔の残欠が古く、次いで、明暦元年(1655)造立の芝山町加茂普賢院の「十九夜待」銘のある六地蔵立像石幢、3番目は、万治2年(1659)山武市本須賀大正寺の「十九夜念佛」銘の宝篋印塔で、このころまでは十九夜の講も念仏講と不可分であり、また主尊も定まっていなかったようです。

 如意輪観音を主尊とした十九夜塔の初出は、茨城県利根町布川の徳満寺に万治元年(1658)に造立された4手の如意輪観音像を線彫りした板碑型石塔ですが、如意輪観音像を舟型光背に浮彫りした典型的な十九夜塔が出現するのは、万治3年(1660)千葉県山武市戸田の金剛勝寺の二臂像の石塔からとなります。
 寛文期に入ると、寛文3年(1663)山武市松ヶ谷の勝覚寺、寛文5年(1665)印西市小倉青年館の石塔をはじめ、寛文10年(1670)まで千葉県内で38基が造立され、さらに寛文11年から延宝8年(1680)までの10年間の数は125基を数えます。そのうち旧印西町は特に多く、近隣の印旛地域の中核となる地域でした。

・旧印西市内の十九夜塔(如意輪観音)江戸初期から中期への変化
   小倉青年館の寛文5年(1665)=市内最古 二臂像  
   別所地蔵寺の寛文8年(1668)=厳めしくたくましい二臂像 
   和泉青年館の寛文8年(1668)=厳めしくたくましい六臂像
   古新田青年館の寛文8年(1668)=天蓋のある如意輪観音                  
   小林光明寺の寛文9年(1669)=一部透かし彫りの六臂像  
   戸神青年館の寛文12年(1672)、 竹袋観音堂の寛文13年(1673)
   和泉会館の延宝5年(1677)=たおやかな腕の六臂像 
   大森古新田青年館の天和2年(1682)=沈思黙考の二臂像
   和泉会館 元禄5年(1692)=天衣をまとう二臂像
   大久保勢至堂 元文元年(1736)=未敷蓮華を持つ二臂像
   小林光明寺 天明2年(1782)、 宗甫観音堂 天明2年(1744)
   中央公民館前 寛政元年(1789)=「江戸道」道標の二臂像

  
・旧本埜村の十九夜塔
 中根福聚院 寛文9年(1669)=一部透かし彫りの六臂像  
 押付大師堂 寛文10年(1670)、將監密蔵院 寛文10年(1670)
 中田切白山神社 寛文13年(1673)、松木8墓地 延宝3年(1675)

・旧印旛村の十九夜塔
 山田 円蔵寺 寛文 6年(1666)、  松虫寺 寛文 8年(1668)
 吉高 公会堂 寛文9年(1669)、  岩戸 広福寺 寛文 9年(1669)
 萩原 1531墓地 寛文9年(1669)、 平賀 観音堂 寛文12年(1672)
 造谷 真珠院 寛文12年(1672)、 平賀 3139墓地 寛文12年(1672)
 鎌苅 東祥寺 文政10年(1827)=化政期の凝った二臂像

(3)「子安像塔」
 「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠をいいます。
 私は、母性を明らかにした主尊(神仏)が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」とよんでいますが、その像容は、江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏典などの儀軌にはないオリジナルな石仏です。

 
北総の子安像塔
1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
   北総(下総地域)、特に八千代市など印旛沼周辺から利根川下流域は、女人講による子安像塔の数が多い地域で、1000基以上の子安像塔があります。そのうち記年銘のある塔は、江戸中期(1717~1803年)までが109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基で、江戸時代計は404基、明治からの近・現代では525基、総計934基が現存しています。
北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(17世紀後半から18世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で、推定1200基以上あるのに対して、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増えます。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
   千葉県最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の元禄4年(1691)の「子安大明神」石祠Fig.20で、①二児を配した子安像が②石祠内にあるという特徴があります。
   北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像Fig.21が初出で、これに次ぐ元文5年(1740)酒々井町の子安像石祠Fig.22は①と②の特徴をもっています。同じく酒々井町尾上住吉神社の宝暦元年の子安像塔Fig23は③思惟相型の如意輪変形像で、①②③の特徴は北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっています。酒々井町では18世紀末までに8基の建立があり、ここから隣接する旧本埜村・旧印旛村・成田市へ広がる様相が確認できました。
   以上から江戸初期に上総で発祥した子安像塔は、約半世紀後の江戸中期に酒々井町に現れて北総各地に広がったと推定されます。

          
 
3. 江戸時代後期から近現代までの子安像塔の特徴
 後期前半(文化文政・天保期)に、千葉市・佐倉市・印旛村・佐原市などで増加し、印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市にも広がりますが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されません。近・現代は、白井市・八千代市・印西市・印旛村・千葉市などの地域に偏って分布しています。
 江戸後期からは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像が主流となります。優雅に天衣をまとう像や、子が這い上がろうとする動的な表現など、華麗で円熟した作がある一方、軟質石材の安易な彫りも多く、保存状態はよくありません。
 近代は、豊満さを強調した母子像や、細部まで像容を同じくする意匠の定番化がみられるようになります。 

 
4. 「子安像塔」成立の背景
 元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗、石仏を彫る技術の普及、「慈母観音」像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感がありました。
 慈母観音像は、16~17世紀初頭、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも多量に輸入された白磁製の像で、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、17世紀半ば、「子安観音」として各地方に普及、浸透していったと考えられます。
 

印西市内の近世後期以前の子安塔
・子安神の石祠・文字碑(旧町村別)
 印西 宮内 鳥見神社  元文3年(1738)=「子安大明神」石祠  
 印西 松崎 火皇子神社 寛延3年(1750)=「子安大明神」笠付角柱型
 印旛 山田 宗像神社  寛延3年(1750)=「子安大明神」石祠
 印西 白幡 八幡宮    宝暦12年(1762)=「子安大明神」石祠
 印旛 瀬戸 宗像神社 安永3年(1774)=石祠
 印旛 吉田 宗像神社 安永4年(1775)=笠付石祠
 印旛 師戸 宗像神社  安永4年(1775)=唐破風型石祠「子安大明神」 
 本埜 竜腹寺 日枝神社 安永5年(1776)「子安□・・・□」石祠 
 印西 明神前 宗像神社 寛政10年(1798)「子安大明神」石祠

・子安像塔(旧町村別)
 本埜 行徳 稲荷神社 宝暦5年(1755)「十九夜念仏講中」③思惟相型
 印旛 平賀 不動堂  明和元年(1764)「念仏講中善女」③思惟相型 
 印旛 平賀 観音堂  明和元年(1764)「(女)講中」③思惟相型
 印旛 鎌苅 東祥寺  明和 5年(1768)「普門品供養・・」墓標仏 上部欠 
 本埜 滝 瀧水寺    安永5年(1776)「子安観世音」①二児型
 印旛 岩戸 西福寺    安永5年(1776)「講中」 
 本埜 下曽根市杵島神社 安永8年(1779)「十九夜塔」①二児型 
 印旛 岩戸 高岩寺    天明4年(1784)「十五夜」
 印西 松崎 火皇子神社  天明7年(1787)
 印旛 吉高 大日堂     天明 8年(1788)(村名)  
 印西 鹿黒 火の見下    享和2年(1802)「講中」
 印旛 岩戸 高岩寺  享和3年(1803)「講中二十七人」
 印西 宮内 鳥見神社  文化3年(1806)②石祠内に浮彫像
 本埜 角田 薬師堂     文化9年(1812)「子安供養塔 講中」
 印旛 吉高 公会堂     文化15年(1818)
 印旛 岩戸 高岩寺     文政2年(1819)「子安塔」未敷蓮華をもつ
 印旛 岩戸 広済寺    文政6年(1823)「子安大明神 女人講中」
 印西 小林 光明寺墓地 文政8年(1825)「女講中」
 印旛 瀬戸 徳性院    文政10年(1827)
 印旛 山田  集会所 文政11年(1828)
 本埜 角田 薬師堂     文政13年(1830)
 本埜 行徳 稲荷神社   文政13年(1830)

 参考資料:『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』榎本正三 崙書房、 
        『石との語らい』印西町教育委員会 平成4年

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2012年8月19日 (日)

W-2 北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜-

平成24年8月19日 日本石仏協会主催 第34回石仏公開講座(於:大正大学) 
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           北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜-                                                                                                               蕨 由美

(1)「子安像塔」とは
「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠を言う。そのよび名は「子安さま」「子安観音」「子安大明神」「子育て観音」とさまざまであるが、ここでは、母性を明らかにした主尊が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を月待塔も含め、全て「子安像塔」と呼ぶことにする。

(2)北総の子安塔をたずねて
北総は、庚申塔と並んで、女人講による月待塔や子安塔の数がたいへん多い地域である。特に八千代市とその周辺では、寺院や神社の境内、かつて仏堂だった地区集会所などに子安像塔が建ち並でいるが、その多くは近世末から近代にかけての石塔で、祠の中に大切に祀られているもの、雨風にさらされ崩壊寸前の姿のもの、今も続く子安講が建てた真新しい塔などさまざまである。
北総の子安塔について先行する調査研究では、榎本正三氏の印西市を中心にした女人信仰研究の著書論文があるが、当時は『千葉県石造物文化財調査報告書』(昭和55年)のほか北総全体の石造物データが不十分で、子安像の初出とその系譜を把握するに至っていない。この度改めて子を抱く像の淵源を求め、北総全体をフィールドに調査を行ってみたところ、約934基の子安像塔、特に子安像像容の成立にかかわる江戸中期(1717~1803年)までの子安塔については109基の像容を把握することができた。子安像塔が濃密に分布する北総においてこれらの像容を図像学的に分析することにより、その成立と発展の系譜、すなわち庶民が儀軌にとらわれない新しい神仏の姿を創造していくプロセスが明らかしていきたい。(なお市町村は1991年4月時点の名称・区域による)

1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
北総の悉皆調査データがそろっている10市町村の月待塔と子安像塔、そして子安神名などを刻んだ石祠を年代別に集計し、表1~3と図2~3に、筆者調査の北総の全子安像塔数を図4に示した。
月待塔のほとんどが如意輪観音像の十九夜塔であり、その数は、江戸時代17世紀後半から18世紀代にかけて500基(石田年子氏の千葉県全体での把握数は1200基以上)建てられているのに対して、子安像塔の数は1割にも満たず18世紀末(寛政12年)までで29基にとどまる。
子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に数が増えるが、その多くは、八千代市や印旛村とその周辺に限られることから、この要因はこの地域の各子安講が数年おきに連続して建立する「イシダテ」の風習に由来するものと思われる。
一般に十九夜塔が多い利根川べりなどの地域から子安像塔が生み出されてくるといわれるが、むしろ月待塔が少ない酒々井町で18世紀末までに8基の建立があり、この傾向は、隣接する印旛村・本埜村・成田市がそれに続くことから、北総の子安像塔発祥の地域として酒々井町域が注目される。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
千葉県で最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の石祠で、元禄4年(1691)「子安大明神」「百見木村」「戸国村」の銘をもつ。
(⇒右図)
北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像が初出であるが、特異な像容で、後続の子安像塔とのつながりが見いだせない。
次いで、元文5年(1740)銘の酒々井町の子安像石祠と、同年銘の利根川沿いの栄町の光背型「子安観音」坐像、そして翌元文6年(1741)銘の「八日講」(出羽三山信仰の講)の子安像塔が小見川町で現れる。
元文5年酒々井町の子安像石祠は、①二児を配した子安像が、②石祠内にあることで、この2つの珍しい特徴は、袖ケ浦市百目木の元禄4年の「子安大明神」石祠の特徴であり、また北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっている。
            
① 二児を配した子安像
主尊の肩と懐に二児を配する像容は中期で14基ある。地域的には、酒々井町から、佐倉市・本埜村を経て光背型となり、下総町・成田市に伝播し、栄町では中期~後期の子安像の特徴点となる。

② 石祠内の子安像
子安像を彫った石祠は、ムラの産土神社境内の子安神社に子安大明神として祀られていていることが多い。中期では酒々井町・成田市・佐倉市・千葉市で計8基、後期では印西市・船橋市・白井市などでもその姿が見られる。八千代市や八日市場市では「子安大明神」銘の文字のみの子安石祠が多く、子安像は見られない。        

③ 思惟相型の如意輪変形像
酒々井町域は、さまざまな像容の子安像が試作されたところで、同町尾上住吉神社では宝暦元年、如意輪観音像の右手が思惟相のままに、左手に子を抱かせた「子安大明神」像が創られた。17世紀年後葉から如意輪観音像が主尊の十九塔が多造されていたので、如意輪観音像の変型の子安像が早くに現れても不思議ではないと思われるが、意外にもこの像が最初である。その後、印旛村・富里市・船橋市にも造られ、江戸中期の事例が計14基みられる。これらの思惟相型の如意輪変形子安像は、同時に二児がいる像や石祠内の子安像のものも多く、酒々井町からの伝播の過程が類推できる。

④ 横向きに傾斜した像容
如意輪観音の変形像の首を立膝側に傾けた姿勢は、頬に当てた右手を腹部に回して両手で子を抱き抱え、視線を子の方に向けることで、慈愛の表現がより強くなる。
安永7年(1778)千葉市大宮安楽寺の石祠内の子安像は思惟相の上体の傾斜が残る如意輪像の変型で、右立ち膝の斜めのラインと上体の斜めのラインが平行する。丸みを帯びた宝髻と被布のようにも見える長い垂髪が優雅である。子を懐に入れ、右へ傾斜したこの姿勢は、天明6年(1786)千葉市旦谷町などの光背型となり、千葉市市域の像容の特徴として、江戸後期に継承される。
逆に立膝の反対の左側に上体が傾斜した姿勢は安永5年(1776)の印旛村の例に始まり、千葉市など各地で数点見られる。

⑤ 正面を向いた子安像
酒々井町で子安像塔が生まれたころ、利根川南岸の栄町と小見川のムラの小さな仏堂境内などでは、月待塔に正面を向いた子安像が生み出された。
その後、下総町や栄町では、この正面向きの母像に二児が戯れる子安像が現れ、また小見川町や隣接した佐原町、神埼町の母子像は、膝に抱かれた子が正面向きで蓮華を持ち、あるいは合掌するなど子の姿が多様化し、やがて後期の文化文政期の複雑な像容へと変化していく。

⑥ 蓮華を持つ子安像
月待塔では、如意輪観音像を主尊とする十九夜塔が圧倒的に多いが、銚子市・佐原市・成田市など東総では、江戸時代前期から中期の初めにかけて、十五夜待・十七夜待などの銘文と共に、聖観音像や地蔵菩薩、勢至菩薩、大日如来像を主尊とする月待塔がみられ、銚子市では、蓮華を持った聖観音菩薩に子を抱かせた像が早くから登場する。また六臂像の持つ蓮華をそのまま左手に持った二臂の如意輪観音像が、正徳期ごろから北総各地に現れ始め、子安像塔も蓮華を持つ像容が多くなり、江戸後期は北総の子安像塔の主流となる。                
以上の北総における子安像塔の成立プロセスを、図5に示した。

3. 江戸時代後期から近現代までの特徴ある子安像塔
北総には、江戸期の紀年銘のある子安像塔が、江戸中期末1803年まで109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基、計404基現存している。後期前半の文化文政・天保期に、千葉市・佐倉市・印旛村・佐原市などで増加、中期ではほとんど見られなかった印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市・沼南町においてもその数が急増する。青面金剛像を刻む庚申塔が、江戸後期後半になると像容のない文字塔になっていくのと対照的である。
また中期に皆無だった柏市・習志野市・鎌ヶ谷市などでも後期に若干みられようになるが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されず、東葛地域内でも分布に明瞭な境界が存在する。さらに明治から近・現代にかけて525基の造立が続くが、その傾向も、白井市・八千代市・印西市・印旛村・千葉市など印旛沼西側周辺から花見川にかけての地域に偏った分布がみられる。
子安像塔の像容や形式は、江戸中期から江戸後期・近代・現代で、大きく変化するが、そのうち江戸後期から近代までの特徴ある像容を紹介する。

① 蓮華を持つ正面向きの子安像
中期に特有の、1.石祠内に像を刻む、2.胸と肩に二人に子がいる、3.右手を頬に当て傾斜する思惟相、という三つの像容の特徴は、後期後半には、ほとんど見られなくなる。
江戸後期から近代、主流を占めるのは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像である。授乳姿も多いが、乳房を見せる表現は文化4年ごろからで、江戸期は近代ほど積極的ではない。天衣を優雅にまとい、また光輪がつくこともあり、江戸時代後期の化政期から天保期では、個性的で円熟した作風がおおい。
近代では印西市の右側の写真のように、天冠台上の宝髻を高く直線的に表現し、正面を向き、右手で子を抱く特徴的な像容が数多く造られる。左膝の前に波打って下がる衣の裾、子の右手が母像の左乳房をつかみ左手に達磨を持つなど細部まで同一の生真面目な作風の像は、明治期後半から現代まで計59基を数える。
そのうち、天衣が両肩から頭部背後に水平に広がり逆三角形を形作る典型像は43基であり、同一意匠の複製が量産される近現代の特徴点を表している。

                                               
 ② 横向きに傾斜した像容
中期の千葉市域に多くみられる半跏方向に傾斜し懐中の子をみる像は、後期にも連続して増加、分布も広がる。文化6年白井市、文化11年八千代市の子安像塔は、ともにその市域の初出である。
            

③ 児が這い上がる姿を動的に表現する子安像
中期にはなく、後期になって造られ愛好された像容として、乳幼児が母の膝上に這い上がる後ろ姿を動的に表現する子安像があり、北総では江戸後期に17基、明治期に6基がみられる。
この膝に這い上がる子を右手で受けて授乳を促す精巧で華麗な像は、天保十年代に北総西部の船橋市と鎌ヶ谷市を中心に、そして印西市・八千代市・印旛村では明治期に流行した子安像である。
            
 
④ ふくよかな母と子の像
明治時代初頭から大正年間に八千代市西部~白井市~船橋市東部の子安塔群に、ほのぼのとしたふくよかな母子像が見られる。
近代という時代に適応した新しいデザインで、乳を無心に吸う丸々とした子と童女のようなあどけない表情の母の姿が特徴。フリルのあるよだれかけをした子供の頭部が大きく強調され、母像の髪型は、被布のように長く垂らした髪を頭頂で双髷に結いあげ、リング状の宝冠を着す。
ふくよかで栄養がいきわたったような母子像は、大正2年の八千代市村上の辺田前公会堂の子安塔で頂点に達する。富国強兵を背景に『産めよ増やせよ』の時代、そして宗教的な因習を排し、母子保健に力が注がれた時代を象徴するような像容である。                    大正2年(1913)八千代市
 このタイプの子安像塔は類型を入れて33基あり、昭和9年(1934)の八千代市大和田新田の子安塔で終焉する。 
そしてこの後、戦争の時代を迎えるとともに子安塔を建塔するムラも少数となる。                

⑤現代の子安像塔
佐倉市・八千代市・印旛村の旧村では、戦後再び造塔が盛んになり、1945年からの数は、現在114基を超えている。
昭和50年代(1975~)ごろから機械による石材加工の技術も進み、現在も子安講がまだ続いている地区では、伝統的な像容をアレンジした美しい像の造塔が、行われている。

(3)考察:「子安像塔」成立の背景
江戸時代の前半、東日本ではおびただしい数の如意輪観音の十九夜塔が、ムラの十九夜講に集う女人たちによって建てられた。女性は皆、お産や月経で穢れた身なので死後は血の池地獄に落ちるとされ、そこから救済されるためには、如意輪観音菩薩にすがり念仏を唱えることが必須とされたからで、この如意輪観音を祀る女人信仰が、江戸後期に子安信仰へ変化する過程で、「子安観音」が生み出されたといわれる(注1.)が、その時期は、地域によって異なる。
筆者は、子安信仰は仏教的な祭祀とは別に、「道祖神」や「子安石」(丸石や女陰石)を祀る習俗や「子安大明神」を祀る神道的祭祀がムラやイエの基層信仰としてあり、その祭祀の中で子安像塔も創造されたと考える。
縄文時代からの安産のお守りのタカラガイを「子安貝」と呼ぶように、「子安」という言葉は、男女の交わり⇒子宝⇒安産⇒子の健やかな発育という原始からの現世的利益を祈願する信仰を表す。
この素朴な子安信仰が、石祠内にお札の代わりに、「子安明神」の姿としてその浮彫りや丸彫り像を祀る子安像塔を生み出した。
またこの子安像は同時に、聖観音・如意輪観音などの観音菩薩像や、本来が子安祈願であった出羽三山の湯殿山信仰の本地仏大日如来像と習合して、舟型光背に子を抱く「子安観音」の石仏が創出された。
そのため、「子安観音」の像容は仏像風だが、仏教の変化観音(三十三観音)の儀軌にはないオリジナルな石仏であり、江戸時代の地域の民俗信仰に由来すると言ってよいだろう。
           
一方、「慈母観音」や「悲母観音」といわれる像がある。その姿は、頭からすっぽりと白い布を被る女性像で、子を抱く像も多い。これらの像容は、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも輸入された観音像に由来する。中国の「送子観音」は、子宝に恵まれることを祈願目的として「送子娘娘(ニャンニャン)」を祀る民俗信仰から生まれた像で、現在も盛んである。
「白衣(びゃくえ)観音」は、三十三観音の一観音菩薩で、古くからインドで崇拝され、仏教に取り入れられてからは阿弥陀如来の后、観音菩薩の母ともされた。
16~17世紀初め、明で生まれた「慈母観音」像は、当時の中国での地域文化への適応を推し進めたイエズス会宣教師マテオ・リッチが作らせた「東アジア型聖母像」であり、白衣は、聖母の純潔を象徴し、幼子はイエスを表す。特に福建省で大量生産された白磁の慈母観音像は、海商鄭父子によって福建省から長崎に運ばれ、当時の潜伏キリシタンの霊的需要を満たしたと、若桑みどりはその著『聖母像の到来』(注2.)で述べている。
白磁の慈母観音像*は、輸入品を模して平戸でも造られ、その像容が如意輪観音像よりも、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、安産子育てを願う村々の女性達に受け入れられ、17世紀半ば、「子安観音」として、急速に各地方に普及、浸透していったと考えられる。もちろん石造の子安像のもととなった図像として、掛け軸の画像や木彫の像もあったであろうが、17世紀初頭以前にさかのぼる年代の明らかなものはほとんど現存してない。

以上、江戸時代、17世紀後半から18世紀前半の元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、次の3つの要因があったと考えられる。
①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗
②石仏を彫る技術の普及
③慈母観音像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感

追記*白磁の慈母観音像について
慈母観音像は、長野県山ノ内町の福昌寺と旧見王寺、旧真田藩海野家、兵庫県篠山市畑大渕の長徳寺などに現存し、文化財や寺宝となっている。
東京国立博物館に37点収蔵されている白磁の像は、いずれも、幕末と明治初期の長崎浦上のキリシタン大弾圧の際に、信徒から押収したキリシタン遺物である。
関東では茨城県小美玉市の文化財に、明朝より伝来の秘仏という白磁製「子安観音像」がある。宝永年間(1704~1710年)ひとりの信者が長崎において霊夢を蒙り授けられた観音像で、もと、竹原中郷の長福寺(天台宗永福寺末)境内にあったものと伝えられる。
千葉県では、昭和29年(1954)に大多喜町台区の西福寺(明治元年廃寺)の薬師堂内から発見された「白磁製マリア観音像」が、千葉県立中央博物館大多喜城分館に収蔵され、大多喜町指定有形文化財になっている。
また袖ケ浦市の百目木の子安神社にも、この白磁の慈母観音像が安置されている。ここには、子安像塔の千葉県内初出とみられる元禄4年(1691)銘の「子安大明神」の石祠が祀られてあり、子安像成立にかかわる接点が推定できる。

参考文献
注1. 榎本正三『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』崙書房 平成4年
注2. 若桑みどり『聖母像の到来』青土社 平成20年

参考電子データ 「下総地方中部8市町村石造文化財データベース2011年版」白井豊・吉村光敏・吉田文夫・西岡宣夫

筆者の既報告論文 「北総の子安像塔の系譜=江戸時代中期におけるその出現と成立について」2010年9月 『房総の石仏』第20号
「北総の子安像塔=江戸時代後期(文化~天保期)の展開について」   2011年7月 『房総の石仏』第21号
「北総の子安像塔=江戸時代末期から現代までの様相について」     2012年8月 『房総の石仏』第22号
いずれも 房総石造文化財研究会(野田市古布内1682-3石田年子方 ℡04-7196-3375)発行

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2011年7月18日 (月)

W-1「いつな大権現の世界」-飯縄信仰のルーツ探訪-

            「いつな大権現の世界」-飯縄信仰のルーツ探訪-
                                          蕨 由美(2011.6.23初稿、2011.7.15青字部分追加)

Ⅰ 萱田の飯綱神社へのお誘い
1.「いつな大権現」道標に導かれて
成田街道の「いつな大権現」道標に導かれ、萱田の飯綱神社を訪ねてみましょう。急な石段を上ると、左手に神仏混淆だった特徴を残す鐘楼、正面には玉垣に二十四孝彫刻を施した壮麗な社殿があります。

2. 萱田 飯綱神社 三十三年祭
飯綱神社では、平成8年(1996)11月3日「三十三年祭」が行われました。三十三年目毎に行われるお祭りで、十一面観音菩薩が三十三に化身し三十三年目にもとの十一面観音菩薩に戻ることに起源しているのと考えられています。

3. 萱田の飯綱神社の信仰を伝える資料
飯綱神社の創建は、ここに陣を張った太田道潅が戦勝祈願して埋めた十一面観音像を、元和八年(1622年) 白狐の神託により発見したという故事に由来します。
明治の初め、神仏分離により、お稲荷さまと同じ、宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)が祭神として奉られました。近代になっても、近隣はもとより遠方からの参詣者が絶えず、「萱田市(いち)」や句会、また「飯綱権現講」も盛んでした。
・「大和田町案内圖 飯綱神社縁起」=昭和2年(1927) 飯綱神社社務所が発行。神仏分離後の整理された近代の縁起 です。
・「飯綱神社ノ由来」
「元和8年9月24日」に記された縁起の本書は、明治元年佐倉城主堀田氏に提出、明治2年飯綱大神となって、本地十一面観音と不動明王像が別当長福寺に引き取られるにあたり、飯山憲治氏が書き写されたとのことで、江戸時代の神仏習合の信仰と伝承を伝えています
・『成田名所図会』(別名『成田参詣記』中路定得・定俊著 安政5年刊)
「萱田駅」に「神明社」の紹介記事に続けて以下のような文があります。
「又萱田村の飯綱権現と称する神あり。毎月廿四日の神事あり。(本地不動明王、長鼻狐にのる)○稲荷神社考に、世に飯綱権現と云は信濃飯縄山の茶吉尼(ダキニ)なり云々。密家にて稲荷神を茶吉尼(天女形像なり)に混合せたる上より、云出たるなりと覚ゆと云々。」 

Ⅱ 飯縄信仰のルーツを信州に訪ねて

1. 飯綱山頂をめざして
神仏分離以前に萱田に祀られていた「飯綱権現」は、長野県飯綱山を発祥とする修験道の神です。剣と索を持つ烏天狗が白狐に乗った形で表され、戦勝の神として足利義満、上杉謙信、武田信玄などの中世の武将たちに信仰されました。飯縄信仰とはなにか、その謎を解く旅にお誘いします。

2. 飯綱山頂の奥宮と飯縄神像
標高1,917mの飯綱山頂から50m下ったところに飯綱神社奥宮の祠があります。昭和36年(1961)に地元有志の奉仕によりコンクリートで再建、登山者の避難小屋を兼ねています。祠内には「飯縄山大明神」の石像や、明治18(1885)年銘の木像が祀られています。
山頂付近には、中世に飯縄山を開山した千日太夫が籠って修行したという西窟などの祭祀遺跡も残されていました。

3. 長野県荒安の飯綱神社里宮
善光寺の裏山、七曲を登りきった荒安に飯綱神社里宮があり、神仏分離後は皇足穂命(すめたりほのみこと)神社として保食神(うけもちのかみ)を祭神としています。代々飯綱修験道を受け継いだ「千日太夫」の冬季居所として武田信玄が創建。近世は朱印地百石の神領を有し、千日太夫の後継の仁科氏の屋敷がありました。仁科氏が去った明治以降は、荒安集落の氏子で神社を守っています。
里宮から右へ行った「飯縄山大明神 延命地蔵大菩薩」の石標から奥へ入ると、坂東三十三観音や六地蔵の石仏群が残されています。

4. 戸隠神社と飯縄信仰
戦国時代が終わり、平和な江戸時代になると、戦勝祈願の修験飯縄山から、農耕の水を司る「九頭竜」を祀る戸隠山へと、庶民の信仰は移っていきます。戸隠山は朱印高千石、東叡山寛永寺の末寺の戸隠山顕光寺を中心に門前町ができ、各地から戸隠講の登拝が続きました。飯縄神は、戸隠神社境内の一隅にひっそりと祀られています。

Ⅲ 関東縁辺の飯縄信仰の寺社探訪
関東縁辺の山々や岬には、飯縄信仰の寺社がいくつか残っています。その多くは火防・家内安全・海難除け・五穀豊穣の御利益で信仰され、天狗の形で庶民に親しまれてきました。

1. 高尾山薬王院に登る
薬師信仰の霊場だった関東西端の高尾山は、中世に飯縄権現を勧請、戦国武将の信仰を集め、関東一円の山岳信仰の中心となりました。今も江戸時代建立の本堂・飯縄権現堂・奥の院を拝観し、標高599m山頂の展望を楽しむ人々でにぎわいます。

2. 津久井城跡の飯縄神社
八王子城・高尾山と並ぶ北条氏の相模の防衛拠点、津久井城跡の東山頂「天狗山」には、建久八年(1197)領主・築井太郎次郎義胤が城塞の守護神として祀った飯縄神社の祠があります。
北条氏が去った後は、麓の根小屋太井村の鎮守となり、現在に引き継がれています。

3. 東端の霊場 いすみ市の飯縄寺を訪ねて
太平洋を望む太東岬に近いいすみ市泉に、「天狗のお寺・おいづなさん」と親しまれる飯縄寺があります。縁起書では「元は満蔵寺と称したが、室町時代、太東岬海中から現れた飯縄尊像を奉り、飯縄寺と改称した」とのことです。
戦国時代、万喜城の城主であった土岐氏は飯縄権現を軍神として信仰、庇護しました。江戸時代に岬から里に移転、海難除けとして各地の漁師に、また江戸市中からも信仰を集めました。寛政9年(1797)完成の本堂は初代伊八(1751~1824)作「天狗と牛若丸」、「波と飛龍」のすばらしい欄間彫刻などが施されています。
内陣には、寺院にはめずらしい社殿型の宮殿があり、中には秘仏の飯縄権現像が納められているそうです。右陣には、前立本尊の飯縄権現像があり、格子越しに拝観できます。また、現在も古い版木で手刷りした飯縄権現の御影のお札を頒布しています。

4. 三光寺妙見堂の飯綱権現像
万喜城跡内も三光寺には、室町時代後期の飯縄権現像が残されています。
三光寺は「万木城鎮守妙見社の別当となす」と社伝にあり、本堂から切り通し道をはさんだ向かい側にある妙見堂には、妙見大菩薩を中心に、右に飯綱大権現、左に愛宕大権現が祀られています。妙見大菩薩は万喜城の守護神、愛宕大権現は城主の守り本尊として常に戦場に持参したといわれています。

5. 矢指戸の入り江に見つけた飯縄神社
太東岬より南方、いすみ市大原矢指戸の小さな入り江奥の崖際に、飯縄神社がありました。戦国末期、万喜城落城の際に城に奉ってあった本尊を背負って落ちのび奉ったものと言われています。
伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神としています。

6. 茨城県「あたご天狗の森」の飯綱神社
岩間山と呼ばれた愛宕山山頂の愛宕神社の奥社として飯綱神社が祀られています。その奥には十三天狗の石祠に囲まれて、飯綱神社の本宮という銅製六角堂「御奉殿」があります。
11月には、愛宕山麓の五霊地区の人たちによって「日本三大奇祭の一つ」という「悪態祭り」が行われます。

Ⅳ 下総に飯縄信仰の残照を探る
1. 松戸市旭町金蔵院の本尊飯縄不動尊
金蔵院は、真言宗豊山派の密教寺院。寛永6年(1629年)に法印良慶和尚が「飯綱不動尊」を本尊として開創された背景に、北条方の武将であった旧高城氏の家臣団による江戸川流域の六新田成立があります。川の氾濫を鎮め、家内安全などの祈願寺として尊崇を集めました。「飯綱不動尊ご帰院のこと」という伝説と絵馬があります。

☆注:このご本尊について『史談八千代』35号(2010.11.27発刊)P63に下記のように書きました。【なお、流山市内の東福寺にも江戸時代の飯綱権現立像があり、『流山の仏像』に載っているその写真を見ると、金蔵院本尊と極めて類似した像容であった。守龍山東福寺には、「鰭ヶ崎」の地名の由来となった竜と霊仏の出現伝説がある。東福寺の飯綱権現像も、小金城主高城氏の飯縄信仰に関連する彫像なのであろうか。】
このなぞにつき、『流山の仏像』の発刊元の流山市立博物館に問い合わせ、調査を依頼しましたところ、2011年7月上旬に「この報告書刊行の昭和58年11月1日以後に、流山市東福寺から松戸市金蔵院へ移されたものと東福寺から回答があり、同一の仏像である」との回答をいただきました。


2. 物井四街道市の不動堂の飯綱権現像
物井地区の千代田公民館に接する、「御山の不動堂」は、旧金剛寺の境内堂で、不動明王三尊が祀られ、その左後に「木造飯綱権現立像」が安置されています。本体82cmの飯綱権現像は火焔光背を背に岩座の上の白狐の上に立つ大きな像で、「物井村 金剛寺住 清鑁 元禄五年(1692)甲ノ九月 敬白)の胎内墨書銘があり、不動堂と二童子像と共に、四街道市の文化財になっています。
金剛寺は室町時代に開山され、江戸時代も広い境内と「御山」と称する寺域をもつ密界道場でした。かつては、臼井城主原氏の戦勝を祈願するため金剛寺境内に飯綱権現堂が造立され、祀られていたと推定されます。

3. 吉見(佐倉市)の飯綱神社
物井と臼井の中間近くの吉見野田にも、小さな飯綱神社があります。この一帯は、文明11年(1479)の太田道灌の臼井攻めの最前線になった地域でした。
『飯綱神社縁起 この地に鎮座する飯綱神社は御本地長野県飯綱山より勧請したもので御祭神は蒼稲魂(ウカノミタマノミコト)大神別称豊受大神といい農民に幸福を与える五穀の神である。当杜の御神体は僧形神像にして体内に本地仏薬師如来を蔵している。伝えによると本地仏薬師如来は当所甚左衛門家の先祖が、吉見古海道沿いの井戸にて、朝水と共に汲み揚げたものでその後、占者の筮によりこの地に飯綱権現として祀ったものである。以来飯綱権現の守護により野田の村人は火難疫病の禍から除かれたという。』

4. 白井市谷田の飯綱権現社
北総鉄道沿いの深い森の中に、小さいながらも鳥居・灯篭・狛犬などが整った飯綱権現社があります。
ニュータウン事業により昭和56年この地に遷宮され、このことを記す記念碑には「当社は八千代市萱田飯綱神社の兄社に当ると言伝えられ 当地の代々名主を勤める湯浅家の守護神として古くから祀られて来た」と記されています。
飯綱権現社が元あった場所は、現在社殿のある台地から谷津を挟んだ東側の舌状台地先端で、現在は北総鉄道の軌道内となっています。

5. 千葉市と旧沼南町の神社境内に残る飯綱信仰の石造物
・千葉市旧長峰村元飯綱神社の石造物
千葉市若葉区大宮町の大宮神社の境内、本殿の左の石祠群に「飯綱神社」の石標と、「保食神」の石祠があり、明治44年(1969)旧長峰村字上和田にあった小さな飯綱神社をここへ合祀する際に運んできた石標と石祠と推察されます。もとの飯綱神社の場所は、都川とその支川の分岐点に突き出した大宮町台地の西先端部で、「城の腰城」跡がその南側に隣接していました。城の腰城近辺は1555~1571年、上杉軍に呼応して原氏の拠点臼井城を攻撃した里見・正木軍との戦いの前線の要所でした。
・旧沼南町布施の香取鳥見神社の「飯綱権現」石祠
文政9年銘の石祠で、香取鳥見神社は、戦国時代の手賀系原氏に関連する神社でした。戦国時代の飯綱信仰の痕跡がほそぼそ続いていたのかもしれません。

Ⅴ 飯縄信仰とは
1. 現代の高尾山薬王院の説く「飯縄大権現」(公式HPから)
「御本尊飯縄大権現は、不動明王の仮の姿として衆生を救済する徳を備えた仏神ですが、本地の不動明王のほか、迦楼羅天、荼吉尼天、歓喜天、宇賀神と弁財天の五相合体をしたお姿とされています。つまり、諸悪を根絶するため、忿怒の相を表した不動明王、くちばしと両翼を持ち、自在に飛行して衆生救済を施す迦楼羅天、衆生に富貴を授け疾病を除き、夫婦和合の徳を施す心を持った歓喜天、白狐に乗り、先を見通す力を授ける荼吉尼天、さらに、五穀豊穣、商売繁盛、福寿円満、などを授ける宇賀神と弁財天のそれぞれの相を合わせ持った御本尊様なのでございます。」
松戸市旭町金蔵院など密教寺院では、現在、この解釈を由緒書に採用しています。

2. 飯縄神の像容の特徴
中世の彫像では、長野市松代町永福寺蔵の応永十三(1406)年の銘銅造飯縄大明神像が記年銘のある最古の飯縄神像といわれます。そのほか三光寺の飯縄権現像も室町時代後期、また米沢市上杉神社と長岡市常安寺には上杉謙信の兜前立てとして像容の異なるふたつの飯綱神像が残されています。
近世の図像としては、各地の寺社に護符やその版木がいくつか残されていますが、そのうちに「物井村 菩提山金剛寺」の飯綱権現像の図像の特徴を紹介します。(『四街道市の文化財』22号(1997年)四街道市教育委員会)
「火焔光を背に、左右の背上に二枚の翼を付け、頭上に白蛇が巻く螺髪であり、弁髪は左肩にかかり、面門は水波の相、両眼は大きく開く忿怒の相、胸には胸飾をつけ、右手に宝剣を執り、左手に羂索を持し、岩座上に五鈷杵を咥えて疾駆する白狐の背上に敷かれた青蓮華の上に半身の構えで立ち、白狐の尾は後方に高く上げ、その先端に宝珠を載せている。」
しかし、各地の寺社の図像や彫像などの飯縄神の像容は、さまざまなヴァリエーションがあり、統一されていません。また火伏の神として江戸時代その信仰が広まった秋葉権現の像容とはっきりした区別もつかないのが現状です。密教の本尊図像ではあまりおこらないこのような図容に違いが生じた理由について、「飯縄修験にはしっかりした信仰組織が存在せず、図像を管理できなかったから」と推測されています。

3. 飯縄神の正体(本地)とご利益
明治初期の神仏分離で、飯綱神社里宮は(すめたりほのみこと)神社として保食神(うけもちのかみ)を祭神としましたが、江戸時代は「飯縄山大明神 延命地蔵大菩薩」のほか、「略縁起」では大日如来・不動明王・勝軍地蔵を本地としていました。
室町後期の『飯縄廻祭文』〔叡山文庫〕が説く飯綱神は、白狐に乗って天竺から日本に飛来した「十天狗」のうち、「三郎王子の御名を智羅天狗と申し奉る、信濃の飯縄嶽に住み給う」とあり、その利益を次の十三の誓いとして約束したと書かれています。
1.刀杖の難を除く 2.師君の機に叶う 3.妻子眷属和合たり 4.虚名口舌の難を違ゆる 5.戦場に利徳あり 6.沙汰心論に勝つ 7.敵を滅ぼす 8.病患を除て延命なり 9.田畠地を領す 10.失火盗賊の難を遁るる 11.七珍万宝を得る 12.福祐満足たり 13.咒咀悪霊の祟りなし
飯縄大権現を祭る鹿児島市烏帽子嶽神社の口伝の「十三の御誓願」も上記の13ヵ条と同じですが、江戸時代になると、各地の由来記では微妙に変化します。
近世の縁起や由来記では、次のような利益を説きます。
・近世中期 天明5年(1785)のいすみ市飯縄寺の『勧化帳所載縁起』
「飯縄大権現ハ海中出現の尊像なり・・・十三の誓願を持って常に国家を守護す。第一、天下太平国土豊穣。第二、除刀杖の難。・・・・第十三、渡海安穏を得しむ。」
・近世後期の長野県荒安飯縄神社の神主仁科家発行の略縁起
 略縁起の表題を『日本最初 火防開運 飯縄山略縁起』とし、「失火盗賊の難を遁るる」を第一に、「刀杖の難を除く」は9番目となっています。

4.  萱田の飯綱神社と長福寺の説くご利益
・「飯綱神社ノ由来」では、「盲人ハ立所眼開キ、蹇(あしなえ)モ万足ナリ。聾人モ耳聞エ、唖モ物ヲ言フ。・・貧家ハ福徳増歩シ、家運長久ノ門ヲ守リ、別テモ火難、水難、釣難、疫病等ノ大難ヲ消滅スル。・・永ク子孫ヲ折盛ナサシム」と書かれています。
・別当寺であった萱田山長福寺では、明治13年コレラ流行期に、飯綱本地十一面観音に家内安全子孫長久などを祈願する日護摩祈祷の結社加入の勧誘文に「虎列刺(コレラ)消除」が加えられていました。
・昭和2年「飯綱神社縁起 大和田町案内圖」では「其所願に霊験著しい」飯綱神社であるが、具体的な利益は神社仏閣の項に「齲歯瘤腫の病を治する霊験高く」とだけ記されています。(十返舎一九の「戸隠善光寺往来」には、戸隠の「九頭龍権現は岩窟内におられ、梨を神供とする。虫歯を患う者は、梨を断ってお祈りすると必ずなおる」とのこと。飯綱修験も統括していた戸隠信仰のご利益とクロスしたのかもしれません。)

Ⅶ おわりに
中世後期に秘密の魔力をもって武運長久をかなえる神として武将たちに信仰された飯綱信仰は、江戸時代以降、その本質がわかりにくくなりながらも、時代とともに変遷する姿とご利益によって社会に適応し、各地の寺社で祀られ続けていたようです。
明治初期の神仏分離により、関東や長野県での飯綱信仰の寺社はおおむね衰退していきますが、高尾山薬王院や飯縄寺などの密教寺院、「相模の飯綱さま」とよばれる座間神社、そして萱田の飯綱神社では、多様化した社会のニーズに対応した宗教活動を維持してきました。
その中でも萱田の飯綱神社は、現在も「飯綱神社」の名称で神社神道の形態とる神社として一番大きな規模を保ってきました。またその特異な祭神にまつわる謂れや建造物などを維持していることからも、八千代市はもちろん関東において、たいへん貴重な文化財といえるでしょう。

参考文献(文中紹介の小冊子を除く)
「飯綱神社」(『千葉縣千葉郡誌』千葉縣千葉郡教育会 1926年)
「飯綱信仰の歴史」小林一郎(『長野』第31号長野郷土史研究会1970年)
「飯綱信仰とは何か」小林一郎・「飯縄山略縁起」小林計一郎(『長野』第109号1983年)
「中世末の飯綱修験と飯綱権現像」高橋平明(『山岳修験』第9号日本山岳修験学会 1992年)
『特別展 飯綱信仰』(いいづな歴史ふれあい館 2006年)
「高尾山史料集からみた薬王院有喜寺の歴史」村上直(『高尾山』大本山高尾山薬王院1978年)
『四街道市の文化財』22号(1997年)四街道市教育委員会
『千葉県指定有形文化財 本堂保存修理工事 落慶記念 飯縄寺』(2000年)
『白井市石造物調査報告書』第4集(1989年)白井市教育委員会
『史談八千代』24号・35号 八千代市郷土歴史研究会

参考Webサイト
「城ノ腰城 (2) 推測:城ノ腰城はいかなる城か」<「千葉市の遺跡を歩く会」
「千葉大宮巡り(59)字上和田の飯綱神社跡に残る石仏」<「房総史譚」

☆追記:このレジュメとスライドは、2011年6月27日の東京成徳大学での特別授業講演用に6月23日に事前アップしたものを、7月15日に青字部分を追加改訂し、講演依頼を受けた八千代市郷土歴史研究会の広報担当理事の了解で7月18日に再アップしたもので、文責は著者(蕨由美)にあります

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