2017年3月15日 (水)

S-23 ムラのおかみさんたちは強かった!同日建立のムラの講供養塔

 八千代市の萱田・吉橋・麦丸地区の石造物を調べていて、台座などに刻まれた人名の銘文から、ムラの男性と女性の二つの講により同時に建てられた供養石塔が、寛文八年から元文五年にかけて、四対あることに気付きました。

 吉橋の尾崎大師堂境内の寛文八(1668)年十月十日銘の二十三夜塔は、『房総の石仏百選』に載っている優美な勢至菩薩像塔ですが、同境内には同年同日銘の地蔵菩薩立像を刻んだ日記念仏塔があります。

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 二十三夜塔の願文「右勢至菩薩者廿三夜待開眼成就所 吉橋村施主敬白」に対し、日記念仏塔は「右地蔵菩薩者日記念仏供養成就処 吉橋村施主敬白」と類似していますが、蓮台には、前者が全て男性十八人、後者が「なつ」など女性十六人の名が刻まれていました。

 同じ吉橋の寺台公会堂(勢至堂跡)でも、元禄五年(1692)二月二十三日の二十三夜塔と、同日銘の念仏塔があり、願文と経文はほぼ同じ形式で、前者には勢至菩薩像と男性二十二人の名、後者には聖観音像と女性三十人の名があります。

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 このように男女別に対となる供養塔には、同日ではありませんが、ほぼ同じ時期に建てられた事例では、萱田長福寺の正徳三年(1713)の大日如来像の念仏塔と如意輪観音像の十九夜塔が、麦丸地区では元文五年の庚申塔と十九夜塔があります。

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 吉橋や麦丸の石塔は、像容の作風や願文の形式、文字もよく似ていることから、同一の石工に二基一対として発注されたと考えられます。

 これらの造塔は、そのムラの初めての講としての建立であり、費用もかかる大きな事業だったと思われますが、江戸後期や近代の石塔に女性名がまれであることに比べ、女性の名前がしっかりと記されてあり、江戸前期のムラの女人講に集うおかみさんたちの地位がダンナ衆と同格であったことも注目されます。

 また萱田には、三面にそれぞれ猿を浮彫りし、右面に「およし おきく」など女性三十三名、左面に男性十五名の名が刻まれた延宝元年(1673)銘の笠付角柱型庚申塔があり、さらに萱田の長福寺には、同一の塔に面を違えて男・女別に名を刻んだ寛文九年(1669)銘の三層塔があります。

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 『続房総の石仏百選』にも載っているこの三層塔には、第二層正面に勢至菩薩を浮彫りし、右面に「廿三夜講」、左面に「日記念仏供養」、その下の第一層の龕室左面には「本願花嶋七□兵衛一結施主」「定宥…長十郎」など三十三人の男性名が、右面には「一結施主 女中衆」として「おつる」など二十四人の女性名、裏面には建立発起人とみられる「宥秀」ほか三人の名があり、現状では二十三夜講が女性の講、日記念仏講が男性の講ということになります。

 私は、第一層の龕室の扉枠のある現正面側が裏側で、修理時に表裏逆に据えられたのではないかと思います。この頃の萱田も吉橋と同じように、やはり男性の講が二十三夜講、女性の講が日記念仏講であったと考えますが、いかがでしょうか。

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2016年5月30日 (月)

S-22 北総の「百庚申」探訪

 2月に本ブログに『S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」』をアップしましたが、その後、近隣の百庚申を調べて回っています。

 これは、5月24日に訪ねた千葉県栄町の安食上町の百庚申です。

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 「安食駅東方」という情報しかなかったので、駅前にいたタクシーの運転手さんや上町の地元の方々にお聞きしながら、「旧成田みち」沿いの通称「庚申さま」にたどり着きました。
山の中腹に3基の立派な青面金剛像庚申塔を祀った祠があり、その下の階段脇と道沿いの法面にぎっしりと庚申塔が建っています。
 百庚申として建てられた定型な駒型のほか、大小さまざまな、時代もいろいろな庚申塔がありました。
 特に法面の庚申塔群は、道路整備などで移設集積されたようで、又、笠神社の百庚申とよく似た像容と形式のものもあって、おそらく旧本埜村の梶谷石材の製品かと思えました。

 5月26日に訪ねた船橋市前原東5丁目の庚申塚。

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 ここには享保18年、19年と延享4年の彫りの優れた青面金剛像庚申塔3基のほか、小形の年不明の文字庚申塔64基が並んでいて、百庚申とみられます。

 これは、一石百庚申塔でしょう。

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 5月20日、八千代市麦丸台の庚申塚にあった「一百青面金剛王 當村講中」銘の庚申塔で、文化12年2月の建立。
 北総はたくさんの庚申塔を建立する「多石庚申塔」が20例ほどありますが、1基に「庚申」の文字を多数刻んだものや、「百庚申」の銘を刻んだ事例は珍しいです。

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2016年4月21日 (木)

S-21 須藤梅理を追って - 句碑に見る印旛~利根の俳諧ネットワーク

吉高の宗像神社の芭蕉句碑

 旧本埜村笠神の南陽院に建つ「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(俳号は梅理)を追って、鳥見神社の芭蕉句碑に続き、旧印旛村吉高の芭蕉句碑を調べに行きました。

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 吉高は、須藤元誓が生まれ育ち活動し、そして生涯を終えたムラです。
 春になると、須藤文左衛門(屋号)家の大桜が咲き、最近は、「吉高の大桜」として、印西市の観光名所にもなっています。

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 その旧吉高村の鎮守である宗像神社の境内に入り、社殿に向って右側に、自然石の芭蕉の句碑があります。
 表面に「このあたり 目に見ゆるもの みな涼し / はせを」と流麗な仮名文字で芭蕉の句が、裏面には、松月舎光東の「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句が刻まれています。


 裏面の句の選者は、春秋庵幹雄と半香舎梅理の2名で、「明治三十五年四月一日」の日付です。
 半香舎梅理は須藤元誓。春秋庵幹雄とは、梅理とその父である半香舎梅麿の俳諧の師匠の十一世春秋庵三森幹雄その人です。

 そしてその下には、「俳友賛成員」として19名、「幹事」が17名、「後見」2名(俳友賛成員・幹事と重複)、「企」1名(句の作者と重複)の名前(地名・苗字・俳号)が記されていました。

 

「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句の作者の松月舎光東は、「企」の須藤光東のことでしょう。
 その名の横に「通称太左衛門」とあり、須藤元誓(梅理)が継いだ家でした。

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(画像をクリックして大画面でご覧ください)


 梅理と並ぶ選者の一人の春秋庵幹雄とは、江戸末期から明治初期の俳人三森幹雄(1829 1910年)で、福島県出身。本名は寛、通称は菊治、号は初め静波で、藍染商人の手代として働きながら、地方の師匠のもとで俳句を学び、20代半ばで江戸に出て志倉西馬に俳諧を学ぶ。明倫講社を組織し、1880年、雑誌「俳諧明倫雑誌」を創刊し俳壇に一勢力をなしたが、神道の大成教に属して俳諧による教化運動を進め、正岡子規によって旧派句会を代表する俳人攻撃された一人であるとのこと。(Wikipediaより)

 なお、『梅理家集』には、三森幹雄が「嘉永の暮、奥州より江都へ上るの途次、総の吉高に僑寄し」たことと、さらに二代に亘って交誼を重ねた縁で、幹雄の継嗣の春秋庵準一が、その「叙」を著したと書かれていました。

 

徳満寺地蔵堂の奉納句額と下井・吉高の句碑の俳人名

 この吉高の句碑に記された38名の俳号には、下井鳥見神社の芭蕉句碑の70名と重なる俳号も多く、さらに、利根町布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額にその名と句が掲載されている俳人が10名います。

 徳満寺地蔵堂の奉納句額については、HP「タヌポンの利根ぽんぽ行」 に、入集した99句の俳句と地域、俳号のデータが掲載されていますので、そのデータを参考にして、下井と吉高の句碑と、布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額に重複して俳号が記されている23名の俳人名とその俳句10句を抜き出して一覧表にしてみました。

Photo(画像をクリックして大画面でご覧ください)

 徳満寺地蔵堂の奉納句額に記されているのは、地域と俳号と句のみで名字が不明でしたが、下井と吉高の句碑には名字と俳号が記されているので、共通する10名に関しては、名字もわかりました。

 また、下井の句碑には半香舎四世東水の、吉高の句碑には五世こと須藤梅理の門下の俳人の名が列記されていて、南は山田(印西市)、北は北辺田(栄町)におよぶ水郷地帯がその活動エリアであったと思われます。また利根町などでの句会にも参加し、交流していたことでしょう。

 ちなみに、徳満寺地蔵堂の奉納句額の須藤梅理の句は「似た形(なり)の 山も揃ふて 夕かすみ」でした。

 また下井の句碑に記されている「師戸 渡辺義芳」は、20年前に調査した吉橋八幡神社の句額(『史談八千代』19号P15 No.126)の「師ト 義芳」と思われます。さらに丁寧に調べれば、印旛~利根周辺の俳諧ネットワークが見えてくることでしょう。

須藤梅理の太左衛門家

 160411_032さて、毎春、楽しみにしている吉高の大桜見物ですが、今年(2016年)は4811日が満開で、私は混雑する週末を外して11日に行きました。

 地元の方にお尋ねすると、須藤太左衛門家は大桜に一番近い大日堂横で、花見シーズンにタケノコご飯が名物の「峠の茶屋」を開いているお宅でした。
 接客中で忙しくされているご主人は、須藤梅理のお孫さんとか。

 また吉高にもう一基あるT家屋敷内の句碑も、梅理が係った芭蕉の句碑で、俳人の句や名前も多数刻んであるので、ぜひお訪ねしたいと仲介をお願いしようと思ったのですが、T家は現在留守宅となっているそうで、アポを取るのは難しそうと感じられました。

 機会を見て、なんとかT家の句碑も記録したいと考えていますが・・・

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2016年3月12日 (土)

S-20 「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(梅理)と明治俳諧の世界




130528_001_2印西市下井鳥見神社の芭蕉句碑

 印旛沼の旧本埜村干拓地を南北に貫く県道12号線。江戸時代からの堤防道で、うねうねと曲がるカーブの左右の下には、洪水の度に堤が切れた「押堀(おっぽり)」といわれる池が点々と連なり、水害との闘いであったこの地の歴史を語っている道です。

 その12号線沿いの押堀のひとつ、甚平池の北側に小さな祠を祀る下井鳥見神社があり、その前には自然石の芭蕉の優雅な句碑があります。

 この鳥見神社の下には、郷土の先覚者の吉植庄一郎とその子息で歌人の庄亮の墓地や、印西大師の札所、また寛政12年銘の聖観音像十九夜塔や昭和9年銘の子安塔があり、私もしばしば訪ねるところでした。

 

 神社の前の句碑には「原中や ものにもつかす 鳴雲雀 はせを(芭蕉)」と流麗な字で、台石には「俳諧稲穂連」と刻まれています。


 印旛沼周辺には、瀬戸の徳性院などいくつかの芭蕉句碑がありますが、この碑は特に優れた碑でしょう。というのは、句碑の形や銘の書体の良さもさることながら、最近の印西市教育委員会の石造物調査で明らかになった裏面と台座に刻まれた銘文とその内容です。

 碑の裏面には「四世半香舎東水」の句と、明治29年銘で「江南亭梅理」による東水への賛と経歴、また台石には地域の俳人たちの名が刻まれています。

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鳥見神社の芭蕉句碑を建立した「江南亭梅理」さんとは

 「江南亭梅理」とは、半香舎五世の「須藤元誓」さん。
 そう! 笠神の南陽院にある「三義侠者碑」の碑文の撰文と書を書かれた方でした。


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 『印旛村史 近代編史料集Ⅱ』の「文化」の部に、昭和4年の「梅理家集」の抄録が掲載されてあり、その解説によれば、須藤元誓は弘化2年(1845)に、代々医家であった吉高村の前田元珉の三男として生まれ、名は理三郎。早くから和漢の書を修め、医術を究めたとのこと。
 分家して須藤家を継ぐが、詩歌や俳諧は半香舎一世で梅丸の俳号を持つ父の元珉や、前田家を継いだ義兄の宗達こと二世梅麿の業績を受け継ぎ、俳諧結社である半香舎の五世となったとのことです。

「梅理家集」には、梅理の俳諧の師匠の三森幹雄の子の春秋庵準一が「叙」を、梅理の甥二人が「閲歴」を書いていますが、閲歴の中のエピソードに、16歳の時、父の死に心痛めて、それまで一生懸命に書写した漢籍や医術書を捨ててしまったほどだったとか。

 また、文久2年夏に麻疹が大流行した際は、兄の助手として昼夜奔走し、数百人の患者を救ったそうです。

 千葉大学の前身の千葉病院医学教場で医学を修め、内外科医術免許を得て、医師として活躍する傍ら、寸暇を惜しんで、文学・詩歌を儒家などに、俳諧は父について学び、父没後は三森幹雄を師として三十年以上、地域で活動し、その門人は八十余人。そして昭和4年(1929)、81歳で生涯を終えられました。

梅理の句

『憑蔭集』(船橋大穴の齋藤その女傘寿の記念の句集)から十三才の時の句

馳走とは聞くもききよし一夜鮨

Photo_5『明治俳人名鑑』から

みつうみや風は寒くも春心

春の山見馴れし影を見出しけり

長みしか隙な枝なき柳かな

黄鳥の臆気をかしき余寒かな

草や木にさはらて吹きぬ春の風

 

『梅理家集』から

今朝はかり人に待たれて初鴉

人の世や日傘も絹の二重張り

些と風のあれと思ふや月の雲

松の風竹の凪聞く炬燵かな

 

「三義侠者碑」の「撰文幷書」の人物、格調高く難解な文と異体字だらけの篆書体に近寄りがたい印象を持っていましたが、その俳句を拝見し、親しみを持ってその足跡を追ってみたくなりました。まさに印旛沼畔に文化の華を咲かせた方だったのですね。

 

下井の鳥見神社句碑の銘文データを次に掲載します。
(画像をクリックして大画面でご覧ください)

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 なお、下井の鳥見神社句碑に加えて、梅里が建てた吉高宗像神社の芭蕉句碑についてと、両碑の人名銘に見る印旛沼周辺の俳諧ネットワークについては 、次回にアップします。

 また、『八千代の文人たち―歌碑・句碑を訪ねて』の著者村上昭彦氏には、『憑蔭集』『明治俳人名鑑』の情報など、近代の俳諧について詳しくご教授いただきました。あつく御礼申し上げます。

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2016年2月24日 (水)

S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」

 
印西市笠神の笠神社
蘇羽鷹神社


 151228_1551今は広い田圃の中、中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に突き出した小島のような独立台地、その裾を巡る集落が印西市笠神で、台地上には笠神城跡があります。

 この台地の東側中腹には中世領主の館跡の名残を残す南陽院の境内があり、また台地上西端の蘇羽鷹(そばたか)神社には戦国時代の遺構と思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残っています。

 古城址の東麓には「船戸」の集落、そして西麓には「根古屋」の集落の中に笠神社(かさがみしゃ)があります。 

                             (右写真は笠神社の百庚申)

 

 「百庚申」とは=下総の百庚申

 下総地方の庚申塔は、江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となって数多く建てられるようになりますが、下総と印西市域の庚申塔群で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。

 百庚申は、駒型の定型の文字塔9基毎に、青面金剛像塔を1基ずつ1単位として10組並べて路傍などに配置されることが一般的で、道路拡幅などで神社境内などに移設されていることも多々あります。

 庚申塔100基建立の目的は、祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づきますが、中には、100基連立せず1基のみに「百庚申」と刻んで代用した「一石百庚申」もみられます。

 なお後者の「一石百庚申」には、その銘文から「百体参詣記念」を意味するものもありました。

 下総では「百庚申」(一石百庚申を除く)は24か所、印西市では、笠神の笠神社と蘇羽鷹神社のほか、武西・浦部・小林・松虫台の百庚申があります。

 特に文久3年(1863年)造立の「武西の百庚申」は、「中尊」として大きな庚申供養塔を中央に、その左右に5単位の庚申塔列が規則正しく配列されてあり、当時の形態を良く残していることから、平成113月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。

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              武西の百庚申 2012.11.27撮影

 

笠神の笠神社の百庚申

 笠神の根古屋には、「笠神様」とよばれる「笠神社」があり、その境内に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が、左右二列に立ち並ぶ姿は、壮観です。
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 これらを調べてみると、慶應元年~3年(18657)の三年間に建立された青面金剛像塔18、「庚申塔」銘の文字塔7795が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。


・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)

・慶應2年= 34基(像塔7基:文字塔27基)

・慶應3年= 33基(像塔8基:文字塔25基)

・年不明=  17基(像塔1基:文字塔16基)

 

 20123.11東日本大地震の後に、倒れていたこの百庚申は建てなおされ、現在はコンクリートの基礎上に据えられており、元の並び方の順は不明です。

 損傷した石塔が片隅に寄せ集められてあり、これを復元すればおそらく元は100基あったと思われますが、現在は、百庚申以外の庚申供養塔5基を入れて、ちょうど100基となります。

 青面金剛像塔と文字塔の割合は、1877とほぼ14の比率なので、像塔1基に文字塔4基の5基1単位で連続して並べられていたと思われます。

 石塔脇の寄進者銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。

 

 百庚申以外の5基のうち、145㎝の高さの文字塔で建立日が「慶應三卯年十一月吉日」銘の庚申供養塔は、百庚申の三年目の慶応3年の建立月日と同じであることと、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に、百庚申の「中尊」として建立されたのではないかと考えています。

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 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっています。
 この像容は、同時期に近くの栄町安食に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。

 また足元の邪鬼が正面を向き姿はとてもユーモラスで、石工の個性が出ています。

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 笠神の蘓波鷹神社の百庚申


151228_263_2 笠神城の物見台の跡が残る蘓波鷹神社境内には、享保181734)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申供養塔と、近代になって建立された百庚申が台地上の狭い境内両脇に整然と並んでいます。

 百庚申は高さ4151㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54と、青面金剛像塔660で、右面に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が記されています。

・明治16年(1883)銘
  = 6基 (
像塔1基:文字塔5基)

・明治33年(1900)銘
  =19基(像塔2基:文字塔17基)

・昭和10年(1935)銘=3基 (像塔のみ3基)
・年銘のない文字塔=24基 これらは配列から昭和10年と推定されます。

 
 建立には3次にわたって52年間かかっており、また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また境内の大きさに合わせた数であったのでないかと推測されます。

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 一般に近代に入ってからの庚申塔建立は少なくなり、特に青面金剛像を刻んだ像塔は珍しくなりますので、蘇羽鷹神社の6基の像塔はとても貴重です。

 蘇羽鷹神社の百庚申は、これまで未報告な事例でしたので、まだその考察の域には達していませんが、近代に入っても続く庚申信仰の姿と笠神地区の結束力を示しているように感じられました。

 

(附)下総の「百庚申」

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        鎌ヶ谷市大仏・八幡神社の百庚申 2009.9.10撮影

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           印西市小林・砂田の百庚申  2010.12.1撮影

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         印西市松虫の百庚申(文政12年)路傍から2か所に移動されている。 2012.1.1撮影

           *参考資料:榎本正三「武西の百庚申」1999『房総の石仏』第12号

 

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2016年2月21日 (日)

S-18 印西市笠神の三義人顕彰碑と向かい合って

   笠神の三義人顕彰碑を読む

 現在調査中の印西市旧本埜村の石造物の中に、笠神の三義人顕彰碑があります。
 石造物調査表をデジタルデータ化する作業をお手伝いさせていただいているのですが、美辞麗句と異体字や篆書の銘が多い明治期の漢文石碑は、実は最も苦手の石造物なのです。 (「○エ門」や「○兵エ」崩し字銘の続く江戸期の石塔の方がまだ楽かも・・)

 義人碑ということでその内容に興味があり、また碑面の状態も良さそうなので、自分の力で文字起ししてみようと、とりあえず天候と日差しの按配を考慮しつつ、写真撮影を試み、三回目にしてやっと解読できる画像を得ることができました。

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 まずは、最初の碑額(篆額)部分は「三義俠者碑」と読めたものの、本文の「人衆者勝天」の次の「共」のような単純な文字がわからない。『異体字解読字典』や『五體字類』やネット検索を駆使、これも「天」の異体字で、きっと「人衆者勝天天定亦勝人」(人のむれは天に勝つが、天定まればまた人に勝つ)と読むのでしょう。
 房総石造文化財研究会の早川正司氏にもご指導いただき、とりあえず全文入力が終わり、その後、この碑文が掲載されている『千葉県印旛郡誌』(大正2年)と、そこからの引用である『印西地方よもやま話』(五十嵐行男著)を入手し照合すると、これらには碑文と十数カ所の相違があることがわかりました。

 旧字体は、手書きIMEで文字を探し、字典で確かめながら入力していきましたが、最近は、環境依存文字とはいえ、旧字体や異体字もいろいろとそろっていることに驚きました。一字一字、碑文と格闘しながら入力したのが、次の翻刻文です。
 (文字化けしないよう画像で貼り付けました。画像をクリックし、拡大してご覧ください。)

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  笠神の三義人顕彰碑が語る時代
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 碑文の大意は次の通りです。

 隣村小林村との入会地だった利根川印旛沼畔の葦原「埜原」の帰属をめぐり、明暦2年(1656)、笠神村の鈴木庄吉・岩井五兵衛・岩井源右衛門の3名が小林村に正しに行ったところ、竹槍のようなものを持った小林村民に囲まれ、格闘となり数名の死傷者を出してしまった。
 3人は自首し、同年12月2日に磔刑となったが、三人の主張通り、埜原は笠神村のものとなり、後に築堤と開発で豊かな田圃となった。
 笠神村民は小さな墓を建て、毎年十夜の法要を236年間行い、おかげで村は豊かに栄えてきた。

 この入力作業中、房総石造文化財研究会の勉強会で、三明弘会員の「房総の義民(義人)と石造物」の発表をお聴きする機会がありました。
 千葉県では、佐倉惣五郎墓所(宗吾霊堂)のほか、安房の万石騒動の三義民の墓石、館山市の大神宮義民七人様供養碑の3事件の石造物が有名ですが、三明氏の調査では、房総の義民関係の石造物は推定を入れて23件あり、そのうち「義民」(=村の代表として領主や幕府に直訴して犠牲になった人)関係が10件、「義人」(=多くの人のために正義に殉じた人)関係は13件とのことです。
 刑死直後の供養塔などは施政者から許されず、五十年近くたってから建てられることもあり、明治中期以降の建碑も7件に及びます。
 また、御上への直訴の犠牲者のほか、入会の草刈り場や漁場を巡る隣村との出入りで咎を受けた義人碑も、意外に多いことが、わかりました。

 保坂智氏の近世初期の義民『国士舘大学人文学会紀要』 第35号 2002年によれば、義民を生み出す闘争は、一揆、共同体間闘争、村方騒動、その他の四類型に分けられ、共同体間闘争は、17世紀に集中するとのことです。
 さらに、その要因として第一に中世村落の権利であった自検断権・自力救済を近世権力が否定したにもかかわらず、複雑な在地の権利関係を生まれたばかりの公権力が完全に掌握しきれていなかったこと、第二に中世末から近世初頭に展開した開発が、入会地の草木の用益権や水をめぐる対立を激しくしていったことがあげられ、そして、その開発による新たな村の確立に重要な権利獲得の実力闘争が、近世の公権力による処罰により犠牲者を生まざるを得なかったことがこの時代の義民物語であり、まさに、笠神村の三義人はこの典型でした。

 五十嵐行男氏は『印西地方よもやま話』で、江戸時代に幕府の裁定の反逆者の「義民」を密かに追悼することはあっても顕彰する事は叶わず、明治22年大日本帝国憲法の発布後、板垣退助らによる自由民権思想の高揚した明治24年という時代に、笠神の義人顕彰碑が建立されたことを指摘しておられます。
 笠神に近い佐倉で、木内惣五郎が直訴し刑死したのは、笠神三義人事件の3年前の承応2年(1653年)といわれています。
 地元に残る伝承を参考にしながら18世紀後半に創作された惣五郎物語は、幕末から全国に広まり、福澤諭吉により「古来唯一の忠臣義士」と称えられ、特に自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられました。
 義民の顕彰が、全国各地で盛んになったのもこの頃であったことを考えると、この笠神の三義人顕彰碑は、江戸時代初期と明治中期の二つの時代の歴史を語る歴史的な文化財であると思いました。

 笠神の三義人顕彰碑 銘文データ
(環境依存文字を使用していますので、文字化けの際はお許しください。「埜」=林+山 画像データを参照 )

[正面中央上部(碑額)]
三義俠者碑

[正面中央部(本文)]
人衆者勝天天定亦勝人自古死者非一而身死於極刑曠百世而感動人心者
蓋有故也正保明暦之間印旛郡笠神村有三義俠者笠神之地繞丘平坦沃壌
其東北一帯瀕利根川及印旛湖斥鹵廣漠蘆荻爲叢時俗穪之埜原當時未賦
地租以故蒭蕘者徃焉佃漁者徃焉而笠神村與之接地過半民多頼其利矣會
與小林村争地利不决兩村共爲幕府采邑正保二年四月幕吏臨撿更製圖爲
後以其地爲兩村所有至是笠神村不得專用其利村民啣之數相鬩明暦二年
某月笠神村欲定其地域小林村不肯再訴諸幕府年之九月幕府復據嚮地圖
而裁之笠神村竟爲曲當此時有三義俠者曰鈴木庄吉曰岩井與五兵衛曰岩
井源右衛門皆豪邁不覊意氣相投確執不屈親莅疆上欲辨論以釐正之小林
之民以竹槍擬之三人抗辯自若彼衆圍而搏之三人奮然挺身格鬪傷數人至
死者若干餘衆潰散於是也三人具状以聞自縛而竢罪幕議改前裁制復其舊
慣埜原之地隷属笠神村而處三人以極刑共磔殺於其所貫字押付實明暦二
年丙申十二月二日也村人収而葬之後遇赦建一小墓碣于其地爲記標後世
埜原之地築堤墾田殖成數區現今埜原村是也而笠神爲之本郷其水陸之
田一百三町八段餘屬焉爾来村人爲之設祭毎歳十月有十夜法會自明暦至
明治經二百三十六年雖水旱蝗饑未甞不擧行也今茲村人胥議醵財樹碑于
慈眼山頭以備桒滄之變嗚呼匹夫死於極刑却作一村冨源豈殺身以爲仁者
非邪宜哉子孫連綿永血食於其土也今也遇明治之隆治而重磨貞珉以埀不
杇蓋三子者遺風之猶存者而然耶抑亦人衆而勝天天定亦勝人者也歟銘曰
 刀水混混 旛湖邐迆 原流不罄 斥鹵薿薿 斯田斯圃 勗把耒耜
 放利惹怨 奈虞芮藟 任俠戮力 折姦挫宄 各甘極刑 慿義一死
 三柱亭亭 視野爲擬 物換星移 或閭或里 雞鳴狗吠 四隣煙起
 維此義俠 爲民福祉 子孫有榮 英魄所倚
                 従七位 武藤宗彬 篆 額
明治二十四年十二月二日          須藤元誓撰文并書                  
                     柁谷文刻字

[裏面銘文]
            明暦二丙申天
      一無善汲禅定門
 梵字(ア)本如善心禅定門 靈位
      道真禅定門
      十二月二日

      一 重右衛門分地庄吉
      本 與五兵衛先祖
      道 源右衛門先祖

【注】
人衆者勝天天定亦能勝人=人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人を破る。(『史記・伍子胥列伝』)
自古死者非一=古より死する者は一に非ず(唐宋八家文 祭田横墓文)
斥鹵=セキロ. 塩分を多く含んでいて、農耕のできない荒地
蒭蕘=スウジョウ 草刈りと木こり
佃漁=デンギョ 鳥・獣をとること(佃)と、魚をとること(漁)
采邑=さいゆう 領地 知行所  啣=くわえる  相鬩=あいせめぐ  
據=より 嚮=キョウ むかう さき  莅=リ のぞむ  疆=キョウ さかい
釐正=リセイ きちんとととのえ正すこと  
碣=ケツ いしぶみ  墓碣=墓石   珉=たま  杇=こて ぬる
桒滄之變=桑畑が滄海に変ずるような大変化 
邐=リ つづく  迆=イ ななめ  罄=ケイ むなしい  薿=ギ しげる
勗=キョク つとめる   耒耜=ライシ 鋤の意  芮=ゼイ 小さい草の意   
藟=ルイ かずら  宄=キ 内乱   閭=むら
武藤宗彬=千葉郡長。明治21年、発起人となり、蚕業振興の組織化をはかり、桑苗3万本の年賦貸付をなす。

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2014年11月 6日 (木)

S(メモ) 小岩田三谷の念仏講&地蔵菩薩像庚申塔

 2014年11月5日の「上小岩遺跡から柴又への見学会」コースの北小岩の八幡神社境内の地蔵堂では、私たちの到着を待って、小岩田三谷の念仏講の皆様が、オガミをしてくださいました。
小岩田三谷の念仏講は、江戸川区の登録無形民俗文化財で、念仏の声調、和讃の南葛節の節回しなどに古い形態を残しています。

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 本尊の三谷地蔵さまは、万治元年(1658)の銘を持つ江戸川区内最古の庚申塔です。
青面金剛像庚申塔成立以前の江戸初期の貴重な石造物で、江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料になっています。

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2014年9月12日 (金)

S(メモ) 佐倉市直弥の宝金剛寺の石造物

 2014年9月9日、宝金剛寺での「佐倉市入門講座」が終わった後、宝金剛寺境内の墓地の石造物を眺めてきました。

1. 墓地入口に最近移された六地蔵。貞享4年(1687)の銘がありました。

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 2. 北条氏勝四百年遠忌の記念樹「玉縄桜」と氏勝公供養塔

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3. 江戸前期の「下総型」の五輪塔の残欠や墓石、小さな一石宝篋印塔もあります。
 『佐倉市史』第16号の「宝金剛寺の五輪塔」によれば、室町末期にみられる砂岩「銚子石」製の「下総型」とよばれる石造物で、ここの五輪塔は正保年間を中心に造立されたとのこと。
  地輪の銘には、中興の覚秀僧正が覚朝僧正に対して造立した旨が記されているのもあるそうです。
 なお、佐倉市内では、寛永年間から安山岩の宝篋印塔などが有力武士により造立されるようになります。
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4.五輪塔の前にあった墓標仏。
如意輪観音像と小さな地蔵像が浮き彫りされています。妻と子 の菩提を供養したのでしょうか。
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5. 秩父三十四番供養塔など、江戸後期から明治にかけての秩父巡拝塔が並んでいました。
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2014年8月12日 (火)

S(メモ) 「上座荒具一号墳」の庚申塔

 上座の宝樹院の前の道をさらに自転車で行き、ユーカリが丘駅南口前の成田街道との合流点手前にあった庚申塚「上座荒具一号墳」と庚申塔を撮影しました。
 この庚申塚には、庚申塔が13基。
 そのうち、元文五年(1740)銘と文化三年(1806)銘の庚申塔は、青面金剛像を浮き彫りした立派なものです。

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元文五年銘笠付庚申塔
残念ながら笠がなくなっていました。2010年6月にはちゃんとあったので、2011年3.11地震で落ちてしまったのでしょうか?

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2010年6月18日撮影の元文五年銘笠付庚申塔です

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文化三年(1806)銘の庚申塔
駒形でデザインがあか抜けています。邪鬼が仰向けなのは、ちょっと意外。

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2014年8月10日 (日)

S(メモ) 開発で移された「井野の子安観音」

 八千代市勝田台から佐倉市宮ノ台間のバス停西谷津のあたりは、最近住宅開発と都市計画道路の工事がさかんで、景観が一変しています。
 たしかこの道端に、井野の5番組ツジキリと「井野の子安観音」との名でガイドブックに載っている天女のような勢至菩薩石塔があったはずと思いつつ、車で通りすぎてました。 747_0

 2014年8月7日、近くに車を置いて歩いてみると、雑木林が駐車場に変っていても、ツジキリはちゃんと残っていましたが、子安観音は見当たりません。
 涼しくなった夕方、家から出てらした近くの旧家のご婦人お二人にお聞きすると、あった場所が私有地と判明し、1~2年前駐車場になった際に、千手院に遷したとのこと。
 またこの観音像は、「浅間様」と称し、子供が七五三の年齢になったとき、家族でお参りして、子供の成長をお願いし、特に7歳の時は、7月に稲毛の浅間様にもお参りにいったとのことでした。

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 千手院へは、紫陽花の写真を撮りに先日訪ねたばかり。でもそのような像は見あたらなかったなあと思いつつ、千手院へ行き、境内をくまなく探すと、修理改築中の本堂後の林のそばに、楚々と立っていらっしゃいました。
 「寛政十一年(1799)正月吉日」の銘、寄進者40名の名刻んだ台座も無事でした。
天女と思ったこの像容。観音像というより、浅間(冨士)信仰のコノハナサクヤヒメのイメージが合いそうです。

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