2016年3月 4日 (金)

K-33 笠神の熊野神社の年不明の子安塔の推定年代と類型を探る

笠神熊野神社の女人講石塔群

130625_047  印西市(旧本埜村)笠神の向辺田にある小さな神社、熊野神社境内には、「粟島大明神」の祠と、延宝5年(1677)から文政9年(1826)までの7基の十九夜塔、さらに嘉永元年(1848)以降の3基の子安像塔が祀られてあり、江戸時代から近代までの女人信仰の姿を見ることができます。(写真1

313日の房総石造文化財研究会主催 見学会「旧本埜村の石仏を探る」でも、ぜひこの女人講石塔群をご案内したく、見学用資料を作りながら、3基の子安塔のうち「明治」以下の年銘を欠く1基(写真2)の年代が気になり、調べてみることにしました。

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 年銘欠の子安像塔の類型を探す

 年銘欠の子安像塔は衣観音風の被布、足を見せ着物を着て乳をつかむ子、2本の蓮華、切れ長の目など、かなり特徴的な像容で、八千代市近辺ではあまり見られない姿です。

右側面に建立年月日が刻んであったでしょうが、「明治」以下の文字が磨滅していて、残念ながら失われて、年不明の子安塔データ集に入れてしまっていましたが、私が撮った子安塔写真データの中から類型を探してみることにしました。

 そこで旧本埜村を中心に近代の子安塔の写真データを丹念に調べてみると、よく似た像容の子安塔が次の3基(写真3)見つかりました。

 

・明治20年(1887)造谷真珠院(旧印旛村)

・明治22年(1889)竜角寺(栄町)

・明治23年(1890)下曽根市杵島神社(旧本埜村)

(写真3 クリックして拡大)

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  地理的にも、笠神熊野神社はこの子安塔のある範囲の中に位置します。

4基とも同一の石工の作と思われ、笠神の年銘欠の子安塔が明治2023年の間か、その前後であることは確かと思われます。

 造谷真珠院の塔が上部だけなので、判断が難しい所ですが、子安像の面立ちと蓮華の丁寧な彫りは、笠神の塔に類似していますので、私としては、明治20年前後まで絞ってよいのではないかと推定しますが、いかがでしょうか。

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2014年10月28日 (火)

K(メモ)千葉市長作の諏訪神社の子安像塔

 千葉市長作の諏訪神社へ行った際、祠の中にある未報告未記録の子安像塔を見つけました。
 かつて、諏訪神社へはよく訪ねたのに、長作にも子安像塔があったとは、灯台下暗しでした。
 年銘は、たぶん台座にありそうなので、あらためて調査したいと思いますが、類似の作風の子安像は、近隣の天戸町福寿院と、八千代市高津新田の諏訪神社(歴史的には高津新田は長作の分村で、長作の諏訪神社から分霊)にあることがわかりました。
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長作の諏訪神社の子安像塔に類似している天戸町福寿院の子安像塔。年不明です。

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高津新田の諏訪神社 嘉永元年(1848)銘の子安像塔。

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 3基の作風を比較すると、長作⇒天戸町⇒高津新田の順ではないかと思います。
 とすると、長作諏訪神社の子安像塔は、嘉永以前の江戸時代後期の作となるかと推定されます。

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2013年8月25日 (日)

K-32 旧本埜村荒野の子安塔は「享和元年」 & その系統は?

印西市荒野の安楽院跡の子安塔の年銘は?

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 猛暑続きのこの夏、8月22日は珍しく午前中、薄曇りでの天気だったので、印西市荒野の安楽院跡にある子安塔の年銘を知るため、拓本を使って調査しました。
 二十年前の千葉県の調査カードに「文久元酉年」と記されていた子安塔です。
 下部は草に埋もれ、左傍らには「嘉永三年」(1850)銘の如意輪観音の像も崩れた十九夜塔が倒れかけて並んでいます。
 「文久」では、数の多い幕末のものだし、また損傷も大きいので、私も深く追求せず、一覧表の「文久元年」欄の1基として処理していました。

 130822_016ところで現在、旧本埜村(現印西市)の石造物調査のデータ整理をお手伝いしていますが、その調査カードの記載は「嘉永二酉年」。
 この読みの違いを何とかしなくてはと、画像データの銘文部分をみると、「○○酉元年」と読めるので、「嘉永二酉年」ではなく、寛政元年(1789)、享和元年(1801)、文久元年(1861)のどれかと推定できます。

 改めて子安塔の画像データをすべて並べて見ると、江戸中期の終わりごろの像容に近く、銘文の型式も江戸中期ごろの入れ方。
 では、寛政か、享和か。というわけで、曇りの日を待って、この日の調査となったわけです。
 そして、結論は、「○和酉元年」で、「享和酉元年」(1801)。拓本の「」の文字がはっきり浮かび上がりました。

「享和元年」子安像塔の成立過程を考える
2_3 旧本埜村の荒野安楽院跡の子安像塔(上の一枚目の右端)を、享和元年(1801)に推定したことにより、この子安塔が現れるまでの旧本埜村地域の子安像塔の変遷を追ってみました。

 旧本埜村に子安像塔が現れるのは、印旛沼周辺地域でも早い方で、初出は思惟相の如意輪観音像に子を抱かせた行徳稲荷神社の宝暦5年(1755)の子安像塔です。(右上図の中央)
 ふっくらとした肉付きのこの像は、酒々井の尾上住吉神社の像(1751)の系譜を引き、印旛村平賀の像(1764)に引き継がれます。2_5

 そのあと、安永5年(1776)に本埜村瀧水寺に登場する華麗な子安像塔(右図の右側)は、主尊が正面を向き、懐と肩に二人の子がいる像容で、栄町に特徴的なスタイルに属します。

 さて、荒野安楽院跡の子安像塔の像容ですが、宝暦5年の行徳稲荷神社の像と安永5年の本埜村瀧水寺像とは異系統と思われ、別途にその出自を探る必要があります。

 下図の左端は、本埜村竹袋の寛政5年(1793)の如意輪観音像です。
 宝暦の像に比べ繊細な造りで、天衣が翻る装飾は、江戸中期後半から後期にかけての如意輪観音像などにも見られます。

3 中央の寛政8年(1796)の瀧水寺の像は、寛政5年竹袋の如意輪観音像に似ていますが、懐に子供がいます。同所の安永5年の子安像の記憶が石工をして、鳩尾の丸みをそのまま子の表現にさせたのかもしれません。
 右端が、享和元年の荒野安楽院の像です。
 天衣の表現や細い腕など寛永5年竹袋の像の彫りに似ています。
 たぶん、江戸中期の子安像塔は、まだ盛んに建てられていた如意輪観音像を刻む十九夜塔に押されて、大きくは派生せず、散発的に作られる状況だったのだと思います。
享和元年荒野の像も、宝暦5年行徳像や、安永5年瀧水寺像から直接影響を受けるのではなく、独自の系譜で生み出された像容と考えられるのではないでしょうか。

 下図は、享和元年の荒野の子安塔と同年、およびそれ以降の近隣の子安塔です。
 石質が房州石系のもろい石なので、風化しやすくカビも生えて状態がよくありませんが、腕が不自然に細く、包みを抱えるような子の表現などが共通しています。

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2013年4月19日 (金)

K-31 東庄町の2基の子安像塔は、吉野「子守明神像」の絵姿がルーツ?

 昨年(2012年)の12月、東庄町の石造物調査を続けられている房総石造文化財研究会のI様から、「東庄町の新調査分の子安塔、纏まりましたのでお知らせします。」というメールをいただき、さっそく、暮れも押し詰まった29日、東庄町に向いました。
 今回は、この日に見た東庄町窪野谷字平台の妙見神社と隣村の大友の天満神社神道系の子安像塔と、その像容のルーツについての考察をご紹介したいと思います。

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 最初に訪ねた東庄町窪野谷字平台の妙見神社には、子安塔2基がありました。
 妙見神社は、石祠だけの屋敷神より小さな神社ですが、安永9年(1780)銘の庚申塔の向かいに、天明7年(1787)銘と、無銘の子安像塔2基がありました。
 天明の子安塔は、主尊が正面前向きで子が小さな蓮華をもつ香取地域に特徴的な像容です。
 その隣の右隣の子安像塔は、平安朝の女房装束の斜め向きの立ち姿で、抱いた子をいつくしむように顔を傾けて見つめています。
 美しい彫りですが、残念ながら建立年を含め、銘文はありません。

 続けて回った隣村の大友の天満神社にも、角柱に同じ絵姿の女神像を線彫りした安政2年(1855)の子安像塔がありました。
 嘉永2年(1849)の駒型の「子安大明神」文字塔と並んであることから、妙見神社の無銘の女神像も、神道系の「子安大明神」像塔と思われます。
 妙見神社の無銘の子安像塔と、大友天満神社の安政2年銘の子安像塔は、母子ともに正面向きの仏像系の像容が多い東総の子安像塔の中では、神道系の「明神」像として、たいへんユニークな像容です。
 幕末以降、神仏判然令により神社に「仏像」を置くことがはばかられるようになり、神像、神塔が主流になる傾向が、この地域の女人講の石造物にも表れているのでしょう。  (↓右画像は 「大神社展」図録から)

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 この東庄町の子安像塔の像容の由来はどこにあるのでしょう。Dscf0047
 2013年4月9日から、東京国立博物館で「国宝大神社展」が始まり、私もその初日にさっそく見学に行きました。
 その展示の中でも、特に気に入って眺めていたのが、「子守明神像」でした。
 南北朝時代の絹本着色画像で、国宝「木造玉依姫命坐像」で有名な吉野水分(みくまり)神社の「御子守」信仰にかかわる画像です。               (水分神社社殿⇒)
 小袿と思われる女房装束の立ち姿で、左向きでうつむくように抱いた赤子を見つめている大和絵風の画像です。Dscf0158
 月のような円形の中には胎蔵界大日如来をあらわす種字「アーク」が、下に小さく描かれているのは、侍女か、寄進者でしょうか。
 吉野水分神社は、水資源とその配分を意味する「みくまり」が「みこもり」となまり、「子守明神」と呼ばれ、子授けの神として信仰を集めたとのこと。 
 本居宣長も、両親が子守明神へ祈願して授けられたといわれています。

              (勝手神社、子守明神の夫神を祀る⇒) 
 子を抱く姿の中世にさかのぼる女神像は珍しく、また子安像塔にも共通する姿でもあるので、帰ってから、さっそく図録からスキャンしました。
 そして、東庄町に2基の子安像は、この「子守明神像」の絵をモデルにしたのではないか感じ、画像を並べて見ると、やはりたいへんよく似ています。

 東庄町は古代から東国支配の拠点であり、また中世は千葉氏の一族東氏の根拠地で、その鎮守の東大社は、吉野水分神社と同じ玉依姫尊を祀りました。
Dscf0046 江戸時代は小藩や旗本の領地が入りまじり、博徒が横行もありましたが、学問も盛んで、江戸後期には平田篤胤が逗留しています。

 江戸後期、東総に国学とともに子守明神の絵姿などももたらされたと仮定すると、幕末期廃仏毀釈の走りとして、子安観音像に替り、子守明神像が子安像塔として出現するのも不思議ではないと思えます。
 

 「大神社展」で「子守明神像」を見て、12年前の2001年春に吉野水分神社へ行ったことを思い出し、古い画像データを探してみました。
 デジタルカメラの性能も画素数も不十分な頃の画像ですが、神社の社殿や子授けや乳の出を祈願する奉納物なども写っていました。

 幕末~近代の東庄の石造物のルーツに、吉野の子守信仰が多少でもかかわっているのではないか、子安像塔を追いかけてきて、またまた小さな発見をしました。

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