2010年5月 7日 (金)

K-20 子安像を刻んだ墓標石仏Ⅱ(千葉市で出会った墓塔)

千葉市で子安像浮彫の墓標石仏を2基見つけました。

 子安像のある石造物を追って、北総を駆け巡り、江戸中期(享保~享和)についての子安塔は、遠方の旭市の数点を残してほぼ見てきました。
16775 現在は、近隣で見逃している子安塔や報告書で漏れているデータを、落ち穂拾いのように探していますが、先日、苔華さまから子安像のある墓標石仏の事例をお教えいただき、墓地も注意して見るようにしました。

  そして「K-19 子安像を刻んだ墓標石仏」を書いた後、5月連休中に、中世からの古刹である千葉市武石の真蔵院と高品の等覚寺を訪ね、その墓地を丹念に探してみると、やはり子安像を刻んだ墓塔があったのです。

武石の真蔵院の十九夜塔子安塔群

 武石の真蔵院は、武石三郎胤盛を始祖とする一族武石氏の菩提寺で大同元年(806)開基と伝えられ、本堂の右手に立つ板碑は千葉市文化財となっています。
 (*武石氏と真蔵院の歴史は筆者のHP「忍性がたどった中世の風景 13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って」をご覧ください。

 真蔵院の本堂左上に建つ浪切不動堂があり、その左横には、十九夜塔と子安塔計10基が並んでいて、その中でも古いのは、延宝11年(1677)の天蓋付きの如意輪観音像(⇒画像)です。

  18611子安塔は、天保6年(1835)の子安像と見まがう像容の観音像がありますが、右手に持っているのが子供なのか、蓮華や宝珠なのか一部欠けているので不明で、はっきり子安像が浮彫されているのは幕末の文久元年(1861(⇒画像)と、明治24年の子安塔です。

 「子安観世音」と記されているのに子を抱かない文政2年(1819)の如意輪観音変形像、また、明治12年の子安塔も古典的な如意輪観音像で、ここもやはり十九夜講から子安講に替わっても、その石塔の像容については、行きつ戻りつしながら明治中期ようやく子安像になっていく過程が見てとれます。

真蔵院のウチラントウ(詣り墓)の石仏群の中に

 不動堂の背後の斜面を登ると、そこは巨木の下に羽衣伝説ゆかりの石祠などが並ぶ神域、羽衣神社です。
そしてさらに上には、江戸前期からのおびただしい数の墓標石仏が立ち並んでいます。

 販売目的で現代墓地に改葬されている寺院墓地が昨今多い中で、新しい家単位の墓石がないのは、ここは両墓制の「ウチラントウ」と称する遺体を埋葬しない「詣り墓」であって、「ハカ」と称する埋め墓はさらに上の台地上にあり、100501_046もっぱらこの埋め墓のほうが檀家主体で改葬され、現代墓地となっているからでしょう。

 真蔵院のウチラントウが墓地開発から免れて、神聖な静寂さの中、江戸前期からの優れた石塔石仏の宝庫となっているのは、現代においては稀有な文化遺産であるとか言いようがありません。

  石仏写真をやっている方々は「墓標石仏」とよんでいますが、遺体を埋葬しない清浄な聖域であるウチラントウの石塔石仏は、埋葬地を示す「墓標」という18074より、故人の年忌法要に際して建てられる供養塔ともいえます。

 この石塔群を丁寧に探すと、なんと子安像のある墓標石仏(=故人供養塔)が、見つかりました。
 文化4年(1807)「秋本妙本信女」銘のある舟形光背の石塔(⇒画像)で、その像容は寛政10年(1798)銘千葉市星久喜町千手院の十九夜塔と寛政11年(1799)千葉市大草寺の十九夜塔の子安像に極めて類似しています。

高品の等覚寺墓地の子安像墓標石仏

 同じく中世からの寺院、高品の等覚寺の墓地を訪ねてみました。

 高品の等覚寺は、戦国時代の最中の元亀2年(1571)この地の豪族安藤勘解由が建てたと伝えられ、創建当時の薬師如来像と江戸前期の月光菩薩像は千葉市文化財になっています。
 等覚寺創立当初から檀家である旧家、路傍に石仏が残るこの一帯は、古城の址でもあり、高低差のある道は迷路のようでした。( 「千葉の遺跡を歩く会」のHPを参照のこと)

 17902_2 境内の入り口には如意輪観音の十九夜塔や文政13年の子安塔が並び、本堂の横は、最近になって檀家ごとに整理された墓地になっていますが、江戸中期の古い墓標石仏も多く、以前は、石塔墓のならぶウチラントウであった(等覚寺から谷を隔てた台地の上に埋め墓を整理した現代墓地があります)と思われます。

 その旧家の大きな石塔の後ろに、子安像を刻んだ江戸中期の墓標石仏がありました。(←画像)
 舟形光背に「寛永二年(1790)十二月十五日 □□(夢道?)妙眞信女」の銘があります。
 天明6年(1786)の千葉市旦谷町公民館の光背型子安塔に続く優しい子安観音像です。

 以上、武石の真蔵院と高品の等覚寺の故人供養塔の子安像の像容はともに、 「K-13 優品の系譜Ⅰ 八千代市林照院の子安塔像容のルーツ」でその系譜を紹介した千葉市域に特徴的なタイプです。
 なお、この像容は、安永7年(1778)千葉市大宮町安楽寺、寛政8年(1796)千葉寺瀧蔵神社の石祠内の神像とも同系統となります。

 ただし、一般的に故人供養塔の造立年については、故人の年忌法要で建てられる可能性も大きく、記されている命日と建塔の年月日は異なることも多いといえます。
 像容の形式変化を年代順に追ってみるという研究手法から言うと、銘文の命日(亡くなった日)と石塔石仏が建てられた日には、1年~12年程度のずれがあるかもしれませんので、像容の編年に際しては、その点が要注意だと思います。

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2010年4月29日 (木)

K-19 子安像を刻んだ墓標石仏

  印旛沼周辺地域の石造物を追っていると、江戸期の庚申塔群、十九夜塔群、そして近代の出羽三山碑群と子安塔群は特に気にすることもないような見なれた風景なのですが、同じ関東地域でも、旧武蔵国(東京・埼玉)では、その様相はだいぶ異なるようです。

 特に子安塔は、旧下総国でも江戸川べりの地域(市川市・浦安市・流山市・野田市・旧関宿町、そして松戸市西部)では、調査報告書を片っ端からめくっても見つかりません。
 たとえば、『流山市の石仏』『流山市金石文記録集』上巻、同『追録』には、女人講関連で、十九夜塔61基と子安地蔵が3体、「待道大権現」12基、「手古奈大明神」4基の石祠があるだけで、子安像の刻像塔はありませんでした。
 同じく『野田市金石資料集』では「粟島神」石祠のみ、『関宿町の石物』(関宿町文化財調査報告第一集/1983年)も記載がありません。S090504_224

 ちなみに、各市町村の石造物調査では、数限りなくある江戸期の個人の墓標石仏は、ふつう調査対象外なのだそうです。

 数年前、埼玉県にも子安像があるのだろうかと、馬場小室山の縄文遺跡の関係でさいたま市の報告書『石の文化財-浦和の石造物-』を調べているうち、偶然、丸彫りした子安像を載せた墓標の記載を見つけました。
 そして、とうとう昨年(2009)5月4日、馬場小室山遺跡研究会の活動の合間に、東浦和駅南側の大間木字附島のY家の墓地を訪ね、この子安観音像のついた墓塔にめぐりあうことができました。090504_261
  正面台座に、「院号+大姉」と「信女」の女性2人の戒名、命日と思われる明和四年(1767)五年(1768)の銘が、側面に「ありがたき 法の誓いも つきしまに 子安大悲の あらむ限りは」いう和歌が彫られています。

 もっとも、埼玉県には全国的に有名な秩父四番札所の金昌寺の子育て観音像(慈母観音)があります。
 寛政四年(1792)の寄進で、浮世絵師の喜多川歌麿から範をとったとされ、江戸の吉野家半左衛門が先祖近親供養にという主旨で造らせたとも言われています。

 17144 さて、最近になって、このブログをご覧いただいている野田の苔華さまから、貴重な画像データをいただきました。
 野田市中里の○○寺□□家の墓地にある石仏と、船形下今泉不動堂横にある上部が欠けてしまった石仏です。
 さっそく昨日(4月27日)現地へ赴き、私も写真を撮ってきました。

 前者は、舟型光背の浮彫子安像の美しい墓標石仏で、「正徳四午年」(1714)、「秋倉妙香信女」と「秋露童女」の銘が刻まれています。
感染症か、または産後の肥立ちが悪く、母子ともに他界したのでしょうか。

 1782 後者は、思惟相の母像が蓮華を持った子を抱いた如意輪観音変形型の子安像で、残っている銘文は右側が「・・・六子五月十七日」、左側が「・・・天明二/寅二月六日」(1782)です。苔華さまの推理では「・・六子年」は宝暦6年(1756)。
 故人は2人で左右ともに命日だと、26年と一世代分の間があり、また右が故人の命日で左が創建日とすると、26年後の法要になります。
 いずれにせよ、上部の銘文が欠けているので、これ以上は不明です。

 他にも故人の供養目的の子安像の石仏がないのかしらと、データを調べていくと、読誦塔に分類されている中に、上部の欠けた子安像をのせた印旛村鎌苅東祥寺供養塔がありました。
 1768角柱型の台座には「明和五戊子年」(1768) 「奉読誦千部普門品供養」とあり、鎌苅村の男性6名の俗名と寺の和尚の名のほか、中央左に「由労空蔵信女」の銘が刻まれています。

  ちなみに鎌苅東祥寺には十九夜塔が延宝4年(1676)から文政10年(1827)まで7基、うち文化2年(1805)の1基は子安観音像で、ほかは如意輪観音です。
 子安塔(信仰目的の分類で「子安講中」などの銘がある塔)は、嘉永5年(1852)から、平成7年(1995)まで10基で、文久2年(1862)が如意輪観音像のほかはすべて子安観音像が浮彫されています。
 ムラの講の建てる石塔の形式と像容は、前例踏襲が慣習のようで、一時的に子安像を採用しても、幕末まではやはり如意輪観音像に固執し、そして行きつ戻りつしながら、明治以降はすべて子安観音像へと替わっていきます。

 また故人の供養のために、元禄時代から江戸中期にかけて、それまでの板碑型や位牌型の墓塔から、具象的な仏像を刻んだ個人の供養塔を墓塔として数多く建てます。
 その像は、女性の場合ほとんどが如意輪観音像、童子の場合は地蔵像です。

 さいたま市と野田市中里の子安観音像の墓標はきっと、母子が相次いで亡くなったのでしょうか。あえて子安観音像を刻んだ墓標に、遺族の深い祈りが伝わってきます。

 個人による亡き人への供養が目的で、子安観音像(子安講の習慣がない場合、「子育て観音」または「慈母観音」といわれるらしい)が建てられる場合、「講」というムラ社会の了解を経ず自由に建てられるわけですから、数は少ないものの、その時期は早く、またデザインも最先端の斬新で個性的な像が選ばれてもおかしくないでしょう。

 鎌苅東祥寺の読誦塔に刻まれた信女名は、読誦に参加した女性の生前戒名なのかもしれませんが、子安観音像を奉っていることから、読誦の目的は、この亡くなった女性の供養のためだったのでは、と感じられます。

 そして18世紀初頭、印旛沼周辺のムラの女人講の塔に子安像が受容され始めるころ、すでに野田では個人が発注した墓標石仏に子安像が採用されていたのでした。

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2010年4月22日 (木)

K-18 優品の系譜Ⅲ 子を救済する姿を刻む天保期の子安塔

  前回K-17は、江戸中期の子安塔萌芽期の事例でした。
 今回は、後期、江戸文化爛熟の天保のころ(19世紀半ば、K-14の少し前)の作品を紹介し、その作風と系譜をたどってみたいと思います。

18323_2 昨秋の八千代市郷土歴史研究会の「ふるさと歴史展」のコーナーをお借りして、写真展「北総の子安様 石に刻まれた母と子の像」を試み、15点の子安塔写真を観賞していただきました。
 江戸時代のムラのお堂お宮の片隅や路傍に花咲いた庶民芸術としての子安塔を知っていただく機会になったかと思います。

 特に、文化文政期に続く天保年間は、人目をひくような粋で凝った像容の子安塔が現れる時期でした。

 右上の写真は、天保3年(1832)の銚子市名洗町不動尊の子安塔です。
 腹かけをした幼児が母の乳房を求めてその膝に這い上がろうとし、母は子の両手を優しくとって引き上げて乳を含ませようとしている像です。

 子安像のほとんどの子は、抱かれている乳嬰児ですが、この後ろ姿の子供は、一歳過ぎのようで、それでも母の乳房が恋しいらしく、その動的な表現が印象的です。183910

 「施主 みつ」となっていますから個人の奉納で、安産子育て祈願とともに、亡き子が子安観音の御手にいだかれるよう冥福を祈ったのかもしれませんし、また這い上がろうとする子の姿は、奉納者自身の救いを求める祈りをあらわしているのかもしれません。

 

 この銚子市の子安塔像容は単独ではなく、天保10年(1839)の土浦市真鍋の八坂神社の子安塔にも、同様な像を見ることができます。
 (右のこの画像は、HP「土浦のあれこれ」から、使わせていただきました)。

 比べてみると、天衣の有無と母像の半跏した下肢が左右の異なる以外、意匠はまったく同じで、しかも作風も極めて似ていますから、同一の石工によるものだと推定できます。

 182912千葉県銚子市と茨城県土浦市は、今は県が異なり遠いように感じられますが、古代・中世からの水上交通圏でもある「香取の海」文化圏は、江戸時代の子安塔の信仰文化圏とほぼ重なり、かつては密接な関係のあった地域だったと思われます。

 

 このほか、天保3年銚子市名洗町の子安塔像容に先行する作品として、文化12年(1815)神埼町大貫の興福寺の子安塔があります。
 子安塔としては銚子の塔より大型で彫りも丁寧ですが、母像の表情はまだやや硬く、また子との関わりの表現も、銚子市と土浦市の像容のほうがより「救済」を表現していると感じられます。
 とはいっても、この塔が子安塔像容に与えたインパクトはかなり画期的だったことでしょう。

189730 時代は下って、明治30年(1897)の香取市大戸川の禅昌寺の子安塔です。
 子の姿は、銚子市と土浦市の天保像をまねていますが、幕末から明治期に流行ったさまざまな持物や装飾が付け加えられ、天保期のダイナミックでしかも可憐な作風はかえって失われています。

 やはり、彫像も含め文化芸術の技や作風には、「旬」というべき時があるのだと感じられます。

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2010年4月13日 (火)

K-17 肩にも子がいる2児子育てタイプの子安塔

 江戸時代中期(1716~1803)では、数少ない(といわれた)子抱き像のある子安塔について、北総、特に印旛沼東辺を中心に調査を重ねて、これまで75基をカメラに収めてきました。
 このほかに、「子安(子易)」の文字銘があって像のない石祠が35基あり、これを加えると、北総では江戸中期だけでも、110基以上の子安塔が確認できます。

  このうち子抱き像のある子安塔は、酒々井町から発して、印旛村~成田市~栄町、佐倉市~千葉市東部と北総の東部に広がっていきます。
 1754また「子安」文字銘の石祠は、八千代市から発して、その周辺の四街道市、富里市、習志野市~船橋市、印西市へと四方に分布していくことがわかりました。

 北総の地域では、江戸前期に、大日如来像や地蔵像を主尊とする念仏講の供養塔から派生して、中期には、如意輪観音像を主尊とする十九夜その他女人講の供養塔が圧倒的な数で建立されていきます。
 子抱き像のある子安塔は、中期になってもその数は少数ですが、幕末から近代で爆発的な数となります。
 その萌芽がすでに1740年台、特に安永年間に多く芽生えていることは確かです。
 そしてその像容は、すでに述べたように、如意輪観音に子を抱かせた像だけでなく、さまざまなタイプの子安像が試行錯誤で創られ、そのうちいくつかのタイプは、後期(文化文政期)の子安塔の像容に影響を与え、またはその面影を残していきます。1764_2

 北総にはそのうち、抱き子のほかに肩にも子のいる2児子育てタイプの子安塔が、中期に12基存在します。

1. 酒々井町 柏木 新光寺墓地 元文5年(1740)「子安大明神」銘 石祠

2. 酒々井町 酒々井 朝日神社 宝暦4年(1754)「子安講中」銘 光背型(⇒右上のトレース図)
 
3. 成田市 高 台十字路 明和元年(1764)「十三夜・十七夜・十九夜」銘 光背型(⇒右の画像)

4. 印旛村 伊篠 白幡神社 明和 7年(1770)「子安大明神」銘 石祠

5. 栄町 木塚大日堂 安永3年(1774)「子安供養塔」銘 光背型

6. 栄町 南集会所 安永3年(1774)「子安供養塔」銘 光背型17795

7. 酒々井町 酒々井622新堀 安永5年(1776)「子安講中」銘 光背型

8. 栄町 押付善勝庵 安永5年(1779)「十九夜塔」銘 光背型(⇒右の画像)

9. 成田市 北須賀 白旗神社 天明2年(1782)「十九夜」銘 光背型

10.佐倉市 大佐倉 麻賀多神社 天明3年(1783)「子安大明神」銘石祠

11.成田市 飯仲 住吉神社 天明3年(1783)「子安大明神」銘 石祠(⇒右下の画像)

12.栄町 三和青年館跡 寛政2年(1790)「十六夜講中」銘 光背型

 このうち1.と4.と10と11.は石祠、また2.と7.と11.は如意輪変型の思惟像、他は正面を向いた像と、その形態はさまざまですが、母親の肩にいる子は、(3.をのぞき)左肩に後ろから前へ両手を伸ばしている点で一致しています。
 さらに江戸後期の天保期にも、栄町では、布鎌酒直香取神社(1831)と、木塚天王前(1832)の2基の2児子育てタイプの子安塔が造られ、印旛村の瀬戸では近代にも肩に手をかけた子のいる子安塔があります。

 1783そのことから、肩に子のいるこのような2児子育ての像容は、石工の気まぐれではなく、儀軌とまでいかなくても、なにか図像学的に宗教的な意味があったということが示唆されると思います。

 3.の成田市 高の大きな光背型の明和7年像は、栄町の5.と6.と8を経て、9.の成田市北須賀の天明2年像でその整った形が完成します。
 そしてこれ以降は、栄町曽根集会所の天明5年像のように肩の子が省略された像が基本となり、さらに胸に抱かれた子が蓮華を持つなど様々に変化していきます。

 肩にも子のいるこの像容のルーツは、石祠に像のある子安塔の初出である袖ヶ浦市百目木子安神社の元禄4年「子安大明神」像であることは前にも書きました。
 この百目木子安神社の像を見たのか、風聞で知ったのか、あるいは、掛け絵などの他に参考となる図像が存在したのか、今は定かではありません。
 またこの百目木子安神社の像自体が、図像学的にどのような経過で「創出」されたのかも不明です。

 長くなりましたので、この謎解きは、続編で考察したいと思います。

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2010年3月 9日 (火)

K-16 石祠にまつられた女神「子安大明神」像-Ⅱ

 k-10で「子を育む具象的な女神像を石祠に刻んだ子安神の姿は、中世の懸け仏はさておき、近世民衆神道の宗教史上画期的なことだと思います。」と書きました。
 1783 今回はk-7~k-10で書いた北総の石祠型子安像の続きです。

 印旛沼周辺の村々では、子安神像を刻む石祠が神社境内などに祀られていて、現在確認できたその数は、北総で14基になりました。
 しかも酒々井町柏木の子安像の入った石祠は、元文5年(1740)の銘。
 それまで子安神を祀る無銘または文字銘だけの石祠があちこちの神社に建てられていた江戸中期、石祠の中に具象的な母子像を彫りだすという子安塔の出現は、「1750年代に十九夜塔の如意輪観音像が変化し子安観音像ができた」という説よりも早い成立をうかがわせます。 (⇒右画像は大佐倉麻賀多神社境内の子安さま1783年)

 それからも幕末の慶応元年(1865)の松戸市金ヶ作八坂神社の子安神石祠まで、数的には多くありませんが、北総各地のムラの鎮守の境内に石祠型の子安塔が建てられていきます。
 1762 そして明治以降は、神仏分離の影響でしょうか、子安像を刻んだ石祠の造立はなくなって、あっても文字銘だけの石祠に戻ってしまい、同時に寺院やムラのお堂境内の十九夜講の如意輪観音像も、そのほとんどが現世利益的な子安観音像に入れ替わっていきます。  

 石祠内の子安像は、その時代流行の子安観音などの像を小さく縮小して丁寧に彫りこんだ像が多く、また大事に祀られてきたためおおむねその姿もきれいです。 (⇒右画像は成田市松崎 富宮神社境内 1762年)
 特に美しいのは、文化3年(1806)の印西市宮内鳥見神社の子安像(↓の画像)でしょう。

1806 石祠内の子安像の変化を追うと、その像容は下記のようにまさに流行の先端の意匠となっています。

A.2児子育て明神像(袖ヶ浦市百目木1691年)タイプ系=酒々井町柏木新光寺1740年

B.如意輪観音像の変形型=成田市松崎富宮神社1762年

C.半跏斜め右向きの千葉市型タイプ(千葉市旦谷町1786年)の系統=千葉市大宮町 安楽寺1778年 

D.聖観音型=印西市宮内鳥見神社1806年 (↑の画像) 

E.グラマータイプ(八千代市大和田円光院1861年)系=金ヶ作八坂神社1865年

 さて、石造文化財の分類の子安塔の数からみると、寺院や地区集会所に並ぶ近世後半から近代前半までの子安観音像が圧倒的に多いわけですが、それは連続して立塔するイシダテの風習をもつ地域のやや粗製のものが数量的に多く占めているからといえます。
 一方で1基か2基の子安塔を代々大切に祀っている地域もあり、精巧で優れた像容の子安塔は、むしろこういう地区に多く見られます。

 また、儀軌にない子安信仰の奉祀の仕方はさまざまですが、近世のムラでの祀り方はおそらくこうであったのでは思わせる事例を紹介します。

 これは成田市北須賀白幡神社境内の子安神社に祀られている3基の石造物です。

17821788_2
 簡単な覆屋の中の、右は天明2年(1782)の十九夜塔で像容は2児子育て明神像です。
 左は天明8年(1788)の伝統的な如意輪観音の十九夜塔。
 そして真ん中は、18世紀中葉と思われる無銘の石祠ですが、中には「子安神社奉射謹言」のお札が2枚祀られています。
 「奉射」はオビシャのこと。新春に神に奉仕する当番(頭役)の代替わりの儀式とナオライを行う行事で、まれに弓で的を射る儀式が残っている場合もあります。

 神社や寺院の境内、ムラの辻や集会所にある「子安神社」と称する神社は、ほとんどが木製の小さな祠です。
 その多くはお札かご幣か鏡、あるいは丸石や陰石をご神体として祀っていて、「子安大明神」などの文字銘のある石祠以外、石造物調査の網にかからないものが多く、また民俗調査でも最近はすたれてわからなくなっている事例が多いと思われます。
 この子安神社の場合、仏教的な如意輪観音、神道形式の石祠とお札、舟形光背に刻まれた子安明神像という3つの代表的な形式が併存しています。
 まさにこの姿は、近世の子安講や十九夜講など、庶民の神仏混淆の信仰形態を表しているといえるでしょう。

  北総における子安像のある石祠データ(=はタイプ 0.は上総)

 0. 元禄4年(1691) 袖ヶ浦市百目木子安神社=A 
 1. 元文5年(1740) 酒々井町柏木 新光寺墓地=A 
 2. 延享1年(1744) 酒々井町下岩橋大仏頂寺=A’
 181613_23. 宝暦12年(1762) 成田市松崎 富宮神社=B
 4. 明和7年(1770) 酒々井町伊篠白幡神社=A
 5. 安永7年(1778) 千葉市大宮町 安楽寺=C
 6. 天明3年(1783) 佐倉市大佐倉麻賀多神社=A
 7. 天明3年(1783) 成田市飯仲住吉神社=B
 8. 寛政8年(1796) 千葉市千葉寺瀧蔵神社=C
 9. 文化3年(1806) 印西市宮内鳥見神社=D
 10. 文化13年(1816) 千葉市加曽利町=D (⇒画像) 
 11. 文政7年(1824) 船橋市高根町神明社=D
 12. 天保1年(1830) 白井市今井青年館=A’
 13. 安政6年(1859) 鎌ヶ谷市軽井沢八幡神社=D
 14. 慶応1年(1865) 松戸市金ヶ作八坂神社=E

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2010年2月19日 (金)

K-15 ふくよかな母と子~八千代・白井・船橋の明治・大正期の子安塔

  北総において、S1877如意輪観音像の十九夜塔にかわって、子安観音像の具象的な像容を彫刻した子安塔を盛んに建て始めるのは、明治に入ってからです。
 その勢いは、明治6年以降特に著しく、講による「イシダテ」の風習のある地域では、天衣を翻し大きな蓮華を持って子供を抱く聖観音型の子安観音像が、定番のごとく建てられます。
  しかしこのころは、墓塔も庚申塔も三山碑も文字塔が主流。
 具象的な像を彫刻する技術はレベルダウンして久しく、心惹かれるような石仏に出会うことは御世辞にもほとんどありません。
 「イシダテ」の習俗も惰性となる時、その建てられる石塔もS1886駄作になってしまうのは仕方ないことかもしれません。

  そのような事例ばかりの中で、明治時代中ごろから大正年間に八千代市西部~白井市~船橋市東部の子安塔群に、実にほのぼのとしたふくよかな母子像が見られます。
  (名付けて「ふくよかタイプ子安像」というのはどうでしょう。)

私が実見して集成したこのタイプの子安像は次のリストの通りです。S1887_20

1. 船橋市八木が谷 長福寺 明治3年(1870)
2.白井市名内 東光院 明治10年(1877) (右1番目の画像)

3.八千代市麦丸 東福院 明治14年(1881)
4.鎌ヶ谷市軽井沢 八幡神社 明治16年(1883)
5.八千代市萱田町 薬師寺 明治16年(1883)
6.八千代市吉橋 花輪公会堂 明治18年(1885)
7.八千代市大和田新田上区 八幡神社 明治18年(1885)
8.八千代市吉橋 寺台公会堂 明治19年(1886)(右2番目の画像)

S19139.船橋市八木が谷 長福寺 明治19年(1886)
10.船橋市古作町熊野神社 明治20年(1887)(右3番目の画像)

11.八千代市萱田 長福寺 明治21年(1888)
12.八千代市米本 善福寺 明治23年(1890)
13.船橋市金堀町 竜蔵院 明治33年(1900)
14.船橋市古和釜町東光寺 明治35年(1902)
15.船橋市金堀町 竜蔵院 明治43年(1910)
16.白井市折立 来迎寺 明治45年(1912)
17.八千代市村上 辺田前公会堂 大正2年(1913)(右4番目の画像)

18.八千代市吉橋 寺台公会堂 大正3年(1914)
19S1917.船橋市八木が谷 長福寺 大正4年(1915)
20.船橋市古和釜町 東光寺 大正5年(1916)
21.船橋市金堀町 竜蔵院 大正6年(1917)(右5番目の画像)

22.船橋市米ヶ崎 無量寺 昭和2年(1927) (右6番目の画像)

23.八千代市高津 観音寺 昭和2年(1927)
24.八千代市村上 正覚院 昭和4年(1929)
25.八千代市大和田新田字庚塚 昭和9年(1934)(右7番目の画像)

 このタイプの初出は、船橋市八木が谷の長福寺の像で明治3年(1870)の作です。残念ながら保存状態は良くありません。
S1927 その次に現れるのは、白井市名内の東光院の小さなお堂に祀られている小ぶりの子安観音像で、白井市教育委員会の調査では、明治10年(1877)の作だそうです。
  船橋市古作町熊野神社に子安神として祀られている明治20年(1887)の像は、北総における子安塔分布の最西端に位置する像として貴重な像です。(私の子安塔集成リストでは、この西側、江戸川流域の旧村で子安塔建立の習俗は無いようです)
 
 このふくよかタイプの像は、仏像の名残の聖観音の持ちものの蓮華や如意輪観音の思惟のポーズもなく、近代という時代に適応した新しいデザインで、乳を無心に吸う丸々とした子と童女のようなあどけない表情の母の姿が特徴です。S1934_9
 母像の髪型は、被布のように長く垂らした髪を頭頂で双髷に結いあげ、リング状の宝冠を着けています。
 フリルのようなよだれかけをした子供の頭部が大きく強調され、それは大正2年(1913)八千代市村上の辺田前公会堂の子安塔で頂点に達します。

 富国強兵を背景に『産めよ増やせよ』の時代、宗教的な因習を排し、母子保健に力が注がれた時代でもありました。
 ふくよかで栄養がいきわたったような母子像はそんな時代の象徴でもあったのでしょう。
 このふくよかタイプの子安塔は、 昭和9年(1934)の八千代市大和田新田字庚塚の子安塔で終焉し、以後は戦争の時代を迎えるとともに、子安塔建塔を続けるムラも少数になります。

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2010年2月12日 (金)

K-14 優品の系譜Ⅱ 八千代市米本長福寺の子安像の前とその後

S  先日(2月4日)、八千代八福神めぐりで米本の長福寺へ行った際、その境内入口にあるという子安塔を探したのですが、どうしても見つかりません。
 あらためて9日にご住職にもお聞きしに行ったのですが、ご住職も「庚申塔や地蔵像はいつも見ていますが、子安観音は・・・?」とは首をかしげるばかり。
 S1843214さては、墓石が高く積み重ねられた無縁塔の中に、紛れているのではと、その中を捜したところ、やはりありました! 
 そばには、文字碑の十九夜塔や青面金剛像を浮彫にした庚申塔なども積まれてあります。

 昨今の寺院は、墓地や駐車場の整備で境内も景観が一新し、石仏なども再配置され、中には片づけられてしまっているのも。
 無縁供養塔の中にきちん安置されているのは、まだ良いほうなのかもしれません。

  S1848_5さてこの長福寺の子安塔、見てすぐ思い浮かんだのは、鎌ヶ谷八幡神社の華麗な子安さま(右上)の像容です。
 高く結いあげた宝髻、首をかすかに傾け、右の手のひらを見せて子供の顔を支えようとしています。
  子供が膝から胸に這い上がろうとしているその動きがリアルです。
 高く翻る細い天衣、左足を覆って前に垂れた衣の裾からわずかに見える右足の先。
 実に細やかで独創性に富んだ像容です。
 長福寺の像の左手は如意輪観音のように左ひざの上に置かれていますが、鎌ヶ谷の像はなんと左手にダルマを持っています。S1857

 調査データから、このような特徴の子安像をあげてみると次のようになります。

 1.鎌ヶ谷市鎌ヶ谷八幡神社   天保14年(1843)3月 女人講 (画像:右の一番上)

 2.船橋市八木が谷五 長福寺 弘化5年(1848)2月 女人講中 (画像は、風化が進んで美しくないので省略)

 S18673.八千代市米本 長福寺入口 弘化5年(1848)3月 内宿女人講中  (画像:右の2番目)

 4.船橋市八木が谷五 長福寺 安政5年(1857)4月 女人講中 (画像:右の3番目)

5.八千代市麦丸 東福院   慶応3年(1867)11月 女人講(画像:右の4番目)

 6.八千代市島田台 長唱寺  明治31年(1889)10月(画像:右の一番下)  

 このうち、ダルマを持つのは1.と5.です。

 S1898またこの像容の事例は、数は多くありませんが、近代になっても継承され、島田台長唱寺の明治31年の八千代市で一番優美な子安塔として結晶します。

 江戸時代の中期に盛んに建てられた石仏・石塔も、江戸後期になると、一般的にその華麗な姿を消していきます。
 特にムラの念仏講による阿弥陀像や勢至菩薩像の造立は、八千代市では享保年間(~1735)が最後。そして江戸期だけで300基を超す庚申塔も安永年間(~1780)を過ぎると、ほとんどが駒型文字塔となって、笠付で青面金剛像を力強く浮彫した石像も姿を消してしまい、馬捨て場や交通の要所に盛んに建てられた馬頭観音像もマークのような馬頭のモチーフと文字だけの石塔になっていきます。
 そんな中で、文化文政期に増えだすのが子安塔のリアルな像容で、やがて幕末から明治になると如意輪観音を刻んだ十九夜塔と入れ替わり、子安塔だけになっていきます。
 特に儀軌のない子安像は、石工がその才能を自由に発揮できる素材でもあったのでしょうか。
 寺社境内や路傍など公開された場に置かれたその作品は、講のメンバーだけでなく、一般の参拝者の目にふれたり、その評判が口コミで伝わったりして、優品であればその像容や作風が模倣されていくことが、データの集積でわかりました。(現代なら、商標登録や著作権に抵触するかも?)
 それにしても、「K-13優品の系譜Ⅰ」の子安像も、このページの紹介例も、後続する事例より、初めて現れる作品に最もおおらかで力強い作風を感じますが、いかがでしょうか。

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2010年2月11日 (木)

K-13 優品の系譜Ⅰ 八千代市林照院の子安塔像容のルーツ

S1814_112_7     私が子安塔と女人信仰に興味を持ったのは6年前。 八千代市郷土歴史研究会の旧村調査で出会った高津観音寺の十九夜塔群と、その関連で調べた米本の林照院(ともに八千代市内)の文化11年の子安観音像(←画像)のもつ石造物としての巧みさ、味わい深さであったように思います。

(⇒2005年のバックナンバー「K-1 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から「K-2 子安観音像の像容成立の謎」)

 このころは、その子安塔の分布や像容の系譜についてもよくわからず、また参考資料も乏しく、結局、八千代市内とその周辺、そして北総全体に範囲を広げて、子安塔のデータを調査、集成して分析することにしました。

  現在、約4百基以上のデータを整理していますが、約半数を占める幕末以降近代の子安塔は、石工の技術が乏しい駄作も多く、また風化、損傷し、さらにコケ類の繁殖で見るに堪えない像が多いのも現実です。

 そのような江戸後期(19世紀)以降の作でも「優品」と思われる子安塔に出会うこともあります。
 私が子安像に関心を寄せるきっかけになった八千代市内初出の文化11年(1814)子安観音もその事例でしょう。

 2005年11月に発刊した『史談八千代』30号に掲載した「高津と八千代市内の女人信仰に関わる石造物の変遷について」では次のように書きました。
17866_3 「(江戸)後期(1804~1867文化~慶応年間)は、文化文政期に突如として市内に子安観音像が登場する。米本林照寺境内の文化11年(1814)銘の子安観音像が初出で、その数は幕末になるに従い、市内北西部や街道筋では徐々に増えていくが、高津や勝田などでは明治も半ばを過ぎて、また下高野では大正2年(1913)で初めて子安観音像を建立しているなど、その受容時期は地域によって異なる。」と。

  まだ八千代市内の分布しかわからなかった頃でしたので、「文化文政期に突如として」と書いてしまったのですが、北総全体の子安塔の出現と系譜が見えてきた今では、「現れるべくして現れた」というべきでしょう。S1798_2

  この像の特徴は、懐に小さな嬰児を入れて細い指の両手で腹部を抑え、宝髻に白衣観音のような被りものをした顔を右に傾けて抱いた子を見つめています。足は如意輪観音像と同様に右足を立膝して座る半跏座の姿勢で、傾けた頭部から肩のラインが立膝した右足のラインと並行している構図が、意匠として印象的です。

 特徴あるこの像容の系譜を画像アルバムから探してみると次のようになります。

 1.千葉市旦谷町公民館 天明6年(1786)「講中」 (右上の画像)S1799_11_2

 2.千葉市星久喜町千手院 寛政10年(1798)「十九夜 奉造立」 (右2番目の画像)

 3.千葉市大草町大草寺跡 寛政11年(1799)「十九夜講中」(右3番目の画像)

 4.千葉市新町天満宮 享和4年(1804)(右下の画像)

 5.八千代市米本林照院 文化11年(1814)(剥落により銘不明) (左上の画像)

S1804_2 6.成田市旧下総町大和田コミュニティセンター 文化13年(1816)「子安女人中」(左下の画像)

  1.~4.の千葉市の4基は丸顔でふくよかな容姿で、1.~3.は左手に小さく細い未敷蓮華を持ち、また4.は宝珠を持っています。
  5.と6.は面長の顔が特徴で、6.は子供が懐の中ではなくしっかりと授乳している姿です。

 全体として慈愛に満ち穏やかで静かな雰囲気の母子像です。

 子安塔は 儀軌にとらわれない自由な像容で、同じものはあまり見られないのですが、千葉市旦谷町の像が特に抜きんでた優品であったからでしょうか。
S1816_2 そのスタイルは千葉市東部から微妙に変化しつつ、八千代市へそして成田市へと伝わっていきました。

 八千代市林照院の子安塔もこの系譜の中で重要な位置にあると思うのですが、露地に置かれたその保存状態は残念ながら最悪で、先日訪ねた時は、崩落と白い苔の繁殖が一層進んでいました。

 祠に納められた成田市の子安塔(←画像)が、軟質石材にもかかわらず保存状態がとても良いのとは対照的ですね。


    

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2010年1月 9日 (土)

K-12 東総の子安塔~蓮華を持つ子安像の系譜

 S100108_001 昨日(2010年1月8日)九十九里まで車をとばし、蓮沼海岸の殿下の子安神社を探しに行きました。
 ここにあるという延享5年(1748)の子安塔は、『千葉県石造文化財調査報告』(1980)のリストにある11基のうちの一つですが、「殿臺新田・・・講中」の銘文記録を手掛かりに昨年10月に探しに行った時は、蓮沼殿台の小さな子安神社にしか、たどりつけず、その日は探索を断念、それからずっと気がかりになっていた子安塔です。

 殿下と殿台は別の集落らしく、また今回もカーナビは役立たず、散歩のお年寄りのご婦人にお聞きして、細い路地の三叉路に建つ小さな神社を見つけました。

  鳥居の先に間口半間の木造の祠、中には粗末な燈明立てのほか何もありません。

 その傍らに簡単な覆い屋の下、4基の石仏がまとめて祀られています。

S1748_5 合掌する菩薩像にくっついてすぐ後に据えられている子安塔は、硬質の石質ですが、損傷がひどく、二つに折れたのを継いで据えられていました。

 「延享」の元号の残存状態も実に心もとないのですが、「五年戌辰」から延享5年と「推定」できます。

 私の足と資料からあつめた千葉県内のデータでは、元文年間の1740年ごろから安永年間の1780年ごろまで相次いで30基以上、子安塔が「創作」されていきます。
 この蓮沼殿下の子安塔は、造立年銘で8番目に古い像でした。

 像容は、舟形光背で、右足を立てた半跏座をとり、思惟相ではなくしっかりと前を向き、右手は子供を抱いて左手は膝に置いています。
子供の像は、損壊して上部がありませんが、子安塔出現期の像容としては、最もシンプルでオーソドックス、このあとに続く子安塔の基本となるスタイルでした。

S174522

  さて東総には、この延享5年の3年前の延享2年(1745)の銘を持つ聖観音像に子を抱かせた子安立像が、昨秋訪ねた銚子市賢徳寺にありました。(⇒画像)

 聖観音は異形ではなくノーマルな観音という意味で、「正観音」ともいわれ、二臂で正面を向き、左手で未開敷(開きかけ)の蓮華を持ち右手をそえてそれをつまむポーズをしています。

 如意輪観音像ほど多くはないものの、月待ち塔の主尊や墓標仏として、寛文~享和年間(16世紀末~18世紀末)ごろの優れた像容の像を各地に見ることができます。

 さて銚子市賢徳寺延享2年銘の子安立像ですが、いくつか疑問点があります。

 子ども像の上部が失われているほかは、軟質の石材にもかかわらず保存状態が良すぎ、また両袖口の波を重ねたような装飾は他に類型を見ないからです。
S17754 石工が後世にきれいに再加工したのか、銘文をそのままに新しく「復元」模像を作ったのか、なぞは尽きません。

  未敷(つぼみ)または開敷の蓮の花をもつ子安像が一般的になるのは、やはり銚子市賢徳寺の安永4年(1775)銘の子安塔(⇒画像)からです。
 この塔の母像は正面向きで威厳ある面持ちですが、蓮華に手を伸ばしそうな子供の仕草が躍動的です。
 これ以後、特に天明(1781)からの子安塔は、ほとんどが大小いろいろな形の蓮華を左手で持ち、右手で子を抱くスタイルが主流になっていきます。

 またこの傾向は、如意輪観音像の二臂像で先行し、幕末まで如意輪観音像のみを石建てする集落の二臂如意輪観音像でも、明和の初め(1764~)ごろから右手は思惟相、左手は蓮華を持つタイプが多くなります。

 もともと如意輪観音像は、六臂だった時にも蓮華も持っていたので、自然な成り行きですが、中には、抱き子と見まがうような未敷蓮華をもつ如意輪観音もあらわれ、憂い顔ばかりのありふれた如意輪観音像も華やかになっていきます。

 かくして幕末から近代の子安塔のほとんど、そしてあまり作られなくなる二臂の如意輪観音像にも、蓮の花が必須アイテムとなります。

 S1794『庶民のほとけ』(頼富本宏 NHKブックス)には、「また仏教文化史の権威である岩本裕博士によると、観音の代表的持物である蓮華(正確にはハス)は、生産の象徴であるとともに女性性器をシンポライズしているともいう。」と書かれていました。

 男女の性別を超越しているはずの観音像が、赤子に乳を含ませる子安の像容を得て母となり、蓮華を持つことによって野仏の如意輪観音もまた「女性尊」に変化したのです。 
 江戸期~近代の北総の石仏の様相は、あの世の「血の池地獄」の恐怖におびえ社会的にも虐げられた存在ではなく、もっと女の性と母性を現世で強く主張するたくましい女たちの姿を表しているのだと感じています。

   蓮華を持つ香取市内野長楽寺跡の子安塔 寛政6年(1794)

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2009年12月23日 (水)

K-11 湯殿山本地仏の大日如来像と子安像との不思議な関係

 栄町西霊園の元文5年(1740)の子安像を目にした時、この母子像のかたちを創造するにS1814_11あたって、石工が参考にしたのは、大日如来像ではないかとひそかに思っていました。
 胸に子を抱き、乳を飲ませているが、引き締まった体つきと真正面を見据えた姿勢は威厳があって、子育てにいそしむ母親のイメージより、大日如来像を連想させます。 K-10参照
  他にも酒々井町今倉新田の松島神社の文化11年(1814)子安塔(⇒画像)など、大日如来像を連想させるそのような作風の子安塔をいくつか見てきました。

 大日如来は湯殿山信仰の本地仏であって、ムラでは「奥州参り」の主尊です。
 出羽三山登拝をすませたムラの男たちは「八日講」に入り、毎月8日、宿に集まってオコモリしますが、その際、「穢れるから」といって、炊事に女性の手を借りたり、一緒に祈祷したりしない風習が、北総のムラに今も残っています。
 「八日講」というのは、弘法大師が湯殿山を開山したのが4月8日だったことにちなむとか。またその年は丑年だったので、今も丑年の巡拝は「丑年御縁」といって特に御利益が多いのだそうです。

 出羽三山はかつて、月山・羽黒山・葉山からなり、湯殿山は「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかったそうですが、葉山信仰が衰退後、真言宗系では「湯殿三山」とよばれて、下総では、江戸時代の三山碑もその銘文は「湯殿山」が中心に刻まれています。

 ところで、湯殿山講(「八日講」)は、江戸時代の初めから男性だけの女人禁制の講だったのでしょうか。
 今回、丑年御縁年で、八千代市郷土歴史研究会出羽三山信仰を学ぶ研修旅行に行ってきました。
 確かに、羽黒山の山伏修行の羽黒山修験本宗荒沢寺には、「是より女人禁制」の碑が高々と建っていましたが、それは聖なる常火を守っていたからで、ここを迂回する女人道が羽黒山頂まで続き、そこには西国三十三番の観音石像が一丁毎にあったそうです。
 また湯殿山の登拝口の真言宗系寺院は女人遥拝所として栄え、春日の局御寄進の大日如来像など、女人信仰が凝縮されたさまざまな仏像や寺宝で飾られていたことは、意外でした。

  出羽三山の旅から帰って、石造物調査データを整理していると、近隣の石仏に、「二世安楽○○男女」という銘が記されている大日如来像があることに気付きました。

S八千代市勝田 字新山 ボンテン塚の享保十年(1725)十月九日 銘「奉造立大日尊 二世安楽所 善男女 勝田村同行五十三人」
・佐倉市土浮正福寺 正徳四年(1714)2月8日 銘「奉新造立八斎戒現當二世安樂之所 男女同行二拾二人」 (⇒画像中央の像)
・同じく享保十五年(1730)「奉造立大日尊像一躯 土浮村 八斎戒講中男女同行四十八人」(⇒画像左の像)

 男性も女性もともに二世安楽の御利益を得るため、厳しい八つの斎戒を守って湯殿山の大日如来に念仏し、その記念に建てた塔です。

 12月9日、小見川史談会から発刊されたばかりの『小見川の石造物(西地区編)』が届き、さっそく子安塔のデータを拾い出していた最中、元文6年(1741)銘の子安塔データを見たときは驚きました。なんと「八日講」の銘のあるのです。

 翌日、仕事が休みでしたので、猪突猛進、小見川に飛んでいき、虫幡の迷路のような細い山道を登り、やっと日向山薬師堂にたどりつきました。
S1684 元文6年の子安塔の銘文は「奉待八日講中 西友村 元文六年辛酉三月吉日 同行廿六人」、像容も、栄町西霊園・元文5年像と、柏木新光寺墓地・元文5年像の像と比較して、双方と密接に関連する像容でした。

  S1687 この子安塔を含め8基の供養塔群(↑画像)の真中には、やや大きめの大日如来像(⇒画像)がありました。
 貞享4年(1687)11月の建立、銘文は、「奉修日記夜待二世安楽処 虫幡村 辻下西共 信善女人 道行九人」、明らかに女人の日記念仏講です。
 さらに、この右隣の文化十年(1813)の「念仏講中」の子安像は、意識的に左の大日如来像を模した形なのです。

  大日如来をまつる湯殿山信仰「八日講」が、村里の女人信仰として存在したことを物語る貴重な子安塔群と推察しました。

 S2_3子安講と女人禁制の修験道の出羽三山信仰との間になんの関係がと思うでしょうが、「死と再生の旅」である山伏修行は、夫婦の交わりから出産までの追体験でもあり、その本質は性的な宗教儀礼です。
  高津の梵天塚の大日如来の丸彫り像(⇒画像)は、私には下総で最も優れた心惹かれる石仏ですが、その前には、女体をシンボライズする丸石が置かれています。
 この丸彫りの大日如来像には建立年が刻まれていませんが、正徳3年(1713)、女性たちが高津観音寺に建てた如意輪観音石像に並ぶその品格から1700年代初めごろでしょう。

 S_2元禄から正徳ごろ(1700年前後)まで男女ともに念仏していた下総の湯殿山信仰が、その後、男性の奥州参りと女性の十九夜講(子安講)に分離していったのかは不明です。
 しかし1740~50年ごろ、下総に発生した子安像のうち、正面向きの子安像の像容に、湯殿山信仰に由来する大日如来の像容が影響していたとしてもおかしくはないと確信できました。

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