K-20 子安像を刻んだ墓標石仏Ⅱ(千葉市で出会った墓塔)
千葉市で子安像浮彫の墓標石仏を2基見つけました。
子安像のある石造物を追って、北総を駆け巡り、江戸中期(享保~享和)についての子安塔は、遠方の旭市の数点を残してほぼ見てきました。
現在は、近隣で見逃している子安塔や報告書で漏れているデータを、落ち穂拾いのように探していますが、先日、苔華さまから子安像のある墓標石仏の事例をお教えいただき、墓地も注意して見るようにしました。
そして「K-19 子安像を刻んだ墓標石仏」を書いた後、5月連休中に、中世からの古刹である千葉市武石の真蔵院と高品の等覚寺を訪ね、その墓地を丹念に探してみると、やはり子安像を刻んだ墓塔があったのです。
武石の真蔵院の十九夜塔子安塔群
武石の真蔵院は、武石三郎胤盛を始祖とする一族武石氏の菩提寺で大同元年(806)開基と伝えられ、本堂の右手に立つ板碑は千葉市文化財となっています。
(*武石氏と真蔵院の歴史は筆者のHP「忍性がたどった中世の風景 13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って」をご覧ください。
真蔵院の本堂左上に建つ浪切不動堂があり、その左横には、十九夜塔と子安塔計10基が並んでいて、その中でも古いのは、延宝11年(1677)の天蓋付きの如意輪観音像(⇒画像)です。
子安塔は、天保6年(1835)の子安像と見まがう像容の観音像がありますが、右手に持っているのが子供なのか、蓮華や宝珠なのか一部欠けているので不明で、はっきり子安像が浮彫されているのは幕末の文久元年(1861)(⇒画像)と、明治24年の子安塔です。
「子安観世音」と記されているのに子を抱かない文政2年(1819)の如意輪観音変形像、また、明治12年の子安塔も古典的な如意輪観音像で、ここもやはり十九夜講から子安講に替わっても、その石塔の像容については、行きつ戻りつしながら明治中期ようやく子安像になっていく過程が見てとれます。
真蔵院のウチラントウ(詣り墓)の石仏群の中に
不動堂の背後の斜面を登ると、そこは巨木の下に羽衣伝説ゆかりの石祠などが並ぶ神域、羽衣神社です。
そしてさらに上には、江戸前期からのおびただしい数の墓標石仏が立ち並んでいます。
販売目的で現代墓地に改葬されている寺院墓地が昨今多い中で、新しい家単位の墓石がないのは、ここは両墓制の「ウチラントウ」と称する遺体を埋葬しない「詣り墓」であって、「ハカ」と称する埋め墓はさらに上の台地上にあり、もっぱらこの埋め墓のほうが檀家主体で改葬され、現代墓地となっているからでしょう。
真蔵院のウチラントウが墓地開発から免れて、神聖な静寂さの中、江戸前期からの優れた石塔石仏の宝庫となっているのは、現代においては稀有な文化遺産であるとか言いようがありません。
石仏写真をやっている方々は「墓標石仏」とよんでいますが、遺体を埋葬しない清浄な聖域であるウチラントウの石塔石仏は、埋葬地を示す「墓標」というより、故人の年忌法要に際して建てられる供養塔ともいえます。
この石塔群を丁寧に探すと、なんと子安像のある墓標石仏(=故人供養塔)が、見つかりました。
文化4年(1807)「秋本妙本信女」銘のある舟形光背の石塔(⇒画像)で、その像容は寛政10年(1798)銘千葉市星久喜町千手院の十九夜塔と寛政11年(1799)千葉市大草寺の十九夜塔の子安像に極めて類似しています。
高品の等覚寺墓地の子安像墓標石仏
同じく中世からの寺院、高品の等覚寺の墓地を訪ねてみました。
高品の等覚寺は、戦国時代の最中の元亀2年(1571)この地の豪族安藤勘解由が建てたと伝えられ、創建当時の薬師如来像と江戸前期の月光菩薩像は千葉市文化財になっています。
等覚寺創立当初から檀家である旧家、路傍に石仏が残るこの一帯は、古城の址でもあり、高低差のある道は迷路のようでした。( 「千葉の遺跡を歩く会」のHPを参照のこと)
境内の入り口には如意輪観音の十九夜塔や文政13年の子安塔が並び、本堂の横は、最近になって檀家ごとに整理された墓地になっていますが、江戸中期の古い墓標石仏も多く、以前は、石塔墓のならぶウチラントウであった(等覚寺から谷を隔てた台地の上に埋め墓を整理した現代墓地があります)と思われます。
その旧家の大きな石塔の後ろに、子安像を刻んだ江戸中期の墓標石仏がありました。(←画像)
舟形光背に「寛永二年(1790)十二月十五日 □□(夢道?)妙眞信女」の銘があります。
天明6年(1786)の千葉市旦谷町公民館の光背型子安塔に続く優しい子安観音像です。
以上、武石の真蔵院と高品の等覚寺の故人供養塔の子安像の像容はともに、 「K-13 優品の系譜Ⅰ 八千代市林照院の子安塔像容のルーツ」でその系譜を紹介した千葉市域に特徴的なタイプです。
なお、この像容は、安永7年(1778)千葉市大宮町安楽寺、寛政8年(1796)千葉寺瀧蔵神社の石祠内の神像とも同系統となります。
ただし、一般的に故人供養塔の造立年については、故人の年忌法要で建てられる可能性も大きく、記されている命日と建塔の年月日は異なることも多いといえます。
像容の形式変化を年代順に追ってみるという研究手法から言うと、銘文の命日(亡くなった日)と石塔石仏が建てられた日には、1年~12年程度のずれがあるかもしれませんので、像容の編年に際しては、その点が要注意だと思います。
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