ご縁があって、昨月2月3日、西船橋を中心に活動している「かつしか歴史と民話の会」の皆様に、「利根川流域の十九夜塔」と題する講演してきました。
この会は、「京成西船駅」もかつては「葛飾駅」と称していたように、由緒ある地名だったこの「葛飾」の地域で、歴史と民話を学び町の文化を再発見して親しむこと目的にして活動しておられます。
テーマにある「十九夜塔」とは、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、十九夜講を開き、如意輪観音の前で経文、真言や和讃を唱える行事を「十九夜講」と呼び、十九夜講が祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」です。
関東北東部に多く分布し、右手を右ほほに当て首をかしげ、右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻されています。
さて京成西船駅を降り踏切を渡ると、右手の正延寺境内には如意輪観音像の見事な像容の如意輪観音像の十九夜塔が4基(↑)あります。
そして通りの反対側には、通称「成瀬地蔵」の祠の前にも寛延2年(1749)の如意輪観音像の十九夜塔が1基(⇒)があります。
他にも近くの西船7丁目の路傍には、宝永8年の「講中六十八人」銘如意輪観音座像もあり、地元で活動される会の皆様には、このような身近な美しい如意輪観音の姿に惹かれ十九夜塔にご興味を持ったのでしょう。
私もこのブログの「K-4 女人名の刻まれた船橋市不動院の六面石幢」でも書いたように、船橋市内の女人講の石仏との出会いは、興味深いものがありました。
「利根川流域の十九夜塔」というテーマは、榎本正三氏の『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』ほか、千葉県側では石田年子氏・沖本博氏、茨城県側では中上敬一氏・近江礼子氏の先行研究があります。
また十九夜塔の成立についても諸説あるようで、ひたすら子安像塔を追いかけている私の手には余るテーマと思いましたが、八千代市とその西に接する船橋市域の石仏との出会ったこれまでのフィールドワークの成果をから始めて、つくば市と利根町など茨城県の取材を入れて、まとめてみることにしました。
(というわけで、講演は無事終わり、その内容を載せていきたいと思いますが、八千代市域は前に書いているので、このページでは船橋市の女人講に石造物について、簡単に紹介し、次回に十九夜塔の成立についての現地ルポと考察を載せたいと思います。)
船橋市葛飾の石仏散歩
(↑これは、数年前に会員の白石氏のご案内で石仏散歩をした時のアルバムです。 )
海辺の街道筋の地蔵像
船橋市域は、南部の海辺の街道筋と、印旛沼の支流につながる北東部の下総台地、北西部の中山法華経寺に縁の深い地域という特徴ある地域からなります。
海辺の街道筋には、元禄14年銘の本町不動院の六面石幢のほか、関東でも早い年代のしかも像容の優れた石仏が複数あり、その中でも、萌芽期の女人講石塔としたい二つの延命地蔵像があります。
一つは本町2丁目の「西向き地蔵」(↑)、もう一つは京成西船駅近くの「成瀬地蔵」(⇒)で、それぞれの地域で信仰されているだけでなく、興味深い伝説も付会されて、人気のあるお地蔵様です。
本町2丁目路傍「西向き地蔵」は、「万治元年(1658)」「念仏講中間 拾弐人 同女人十六人 さんや村」の銘があり、印内1丁目木戸内地蔵堂 の「成瀬地蔵」には、貞享4年((1868)「念仏講連衆」の銘と「お岩」など女人名19名が刻まれています。
東船橋日枝神社には、寛文9年(1669)「善女人念仏講」銘の光背型如意輪観音像が建立されていますが、元禄時代までの海辺の街道筋の女人講が建てる石塔は、地蔵像も多く、海神6丁目大覚院の元禄11年(1698)銘の光背型地蔵像にも「奉造立念仏講二世安楽之所 海神村同行女人三十六人」と刻まれています。
地蔵菩薩、特に「延命地蔵菩薩経」で説かれる地蔵は、「十種の幸福=女性なら出産できる、健康で丈夫になれる、人々の病を悉く取り除く、寿命を長くする、賢くなる、財産に溢れるほど恵まれる、他の人々から敬愛してもらえる」などのご利益があるとされたので、女人講では特に厚い信仰を受けたのでしょう。
下総台地の十九夜塔
船橋市内で十九夜塔の初出とされる石塔は、海辺ではなく北東部の田喜野井3丁目正法寺にある光背型如意輪観音の珍しい立像(⇒)で、延宝5年(1677)の銘、「十九夜講 如意輪観世音菩薩 現未来願成就為菩提也」と刻まれています。
そして貞享(1684~)から元禄(~1704)には、鈴見町や三山・飯山満など北東部はもとより、夏見や宮本など東側の海寄りの地域にも典型的な光背型如意輪観音坐像の十九夜塔が広がっていきますが、地蔵信仰の念仏講が女人講の基盤となっていた西部の海神や西船の村では、遅れて宝永(1704~)以降に造立されていきます。
西船3丁目の正延寺にも、享保3年(1718)から文化6年(1809)にかけての優れた像容の如意輪観音像の十九夜塔が並んでいますが、船橋市内全体では、88基もの十九夜塔が建てられました。
船橋市域での子安像塔の出現
多くの十九夜塔が建てられていく中、夏見に近い米ヶ崎無量寺では、安永8年(1779)「奉造立十九夜講中」と刻んだ光背型子安像塔 が出現します。
続いて、金堀町 竜蔵院に天明5年(1785)「子安講中」という銘の子安像塔(⇒)が、如意輪観音像の十九夜塔群の中に現れます。
どちらも思惟相の如意輪観音に赤子を抱かせた像容ですが、市内の他の地域に普及することはなく、船橋市域の江戸時代中期までの女人講の石塔は、十九夜塔が中心でした。
一方、隣接する八千代市域と同様に、江戸中期から、薬円台や飯山満町など船橋市域の北西部では、「子安大明神」銘の女人講石祠が神社境内に多く祀られています。
そして江戸後期の文化文政~天保の時代になると、主に印旛沼につながる下総台地の村では、高根町神明社の石祠(1824)のように石祠の中に子安像を、あるいは車方町神明神社の塔(1810)のように光背型の浮彫で子安像を現すようになり、このような子安塔は、十九夜塔の数をしのぐようになります。
⇒東船橋1丁目日枝神社の子安塔 天保12年(1841)
そして子安像塔は、八千代市隣接の北東部では、幕末から近代には女人講の石塔の主流になりますが、船橋市全体としては、その数は西側の八千代市・印西市のように多くはありません。
その中で、前貝塚町行伝寺の文久2年の「鬼子母神」として信仰される子安像塔(⇒)は、「知其初懐妊成就 不成就安楽産福子」の銘があり、如意輪観音像を祀ることがない日蓮宗系地域の子安講の主尊像として注目されます。
北総最西端の子安像塔
西部地域では、中山競馬場に接した古作町熊野神社境内に明治20年(1887)の子安像塔(↓)が祀られていますが、千葉県ではこの像が最西端に位置する子安像塔だと思われます。
中山競馬場の西側は市川市の中山法華経寺の領域、さらにその西は、江戸川流域の民俗文化圏になり、子安塔はもちろんなく、十九夜塔も少ない地域となります。
石仏研究上貴重でもあるこのふくよかな子安塔に出会えたことに、「かつしか歴史と民話の会」の白石さま、ほか皆様に感謝します。
参考資料:
『西船橋地区石造物調査報告(前篇)』船橋市史談会1978
『船橋市の石造文化財(市史資料)』船橋市 1984
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