2009年12月15日 (火)

K-10 石祠にまつられた女神「子安大明神」像

S1691_2 「K-7」で、酒々井町柏木新光寺跡墓地の元文5年(1740)の石祠内子安大明神像を、「K-8」で、酒々井町尾上の住吉神社の享保 18年(1733)銘の「子安大明神」立像と、如意輪型の宝暦元年(1751)の「子安大明神」座像を紹介しました。
 その後、印旛沼周辺から利根川沿いの東総地域に調査範囲を広げて見ると、子安像が出現し普及していった18世紀中葉の像容は、如意輪観音像の変形型(思惟・半跏の子安像)だけではなく、意外にも正面を見据えた母子像が多いことがわかりました。

(画像は上から、袖ヶ浦市百目木の子安石祠、A柏木新光寺墓地の子安(部分)、B栄町西霊園の子安観音、C虫幡の日向山薬師堂の「八日講」塔、D酒々井町下岩橋大仏頂寺の子安石祠)

S17405_3 私の調査では、宝暦元年(1751)の如意輪観音変形型の子安像に先だつ1740年から1744年の間に、北総では4基の子安塔が出現します。
 それは、
A.元文5年(1740)の酒々井町柏木新光寺墓地の「子安大明神」 (⇒右の画像、上から2つ目)
B.同じく元文5年(1740)栄町西霊園(慈眼院跡)の「子安観音」 (⇒右下の画像、上から3つ目)、
C.元文6年(1741)香取市虫幡の日向山薬師堂の「八日講」塔(⇒右下の画像、上から4番目)そして
D.延享元年(1744)酒々井町下岩橋大仏頂寺の「子安大明神」石祠(⇒一番下の画像)です。

S17405_4 Aの酒々井町柏木の石祠内に置かれた子安像は、2児を育む像。一児が肩で戯れ一児は授乳中という姿です。このような2児保育像の事例は、北総で10基以上数えることができます。

 AとDの子安塔のかたちのルーツは、袖ヶ浦市百目木の子安神社内に大切に祀られている元禄4年(1691)銘の「子安大明神」像です。
 百目木の子安さまについては、今年5月、袖ヶ浦市教育委員会に問い合わせ、百目木の区長さんに連絡していただいて実物を拝観し、その歴史や信仰に関して親しくお話を聞く機会を持つことができました。
 神仏習合に由来して観音を表す「サ」の梵字がありますが、その像容は、石祠内に浮き彫りされた姿が俗体の服装でありことからも、また「子安大明神」の銘文からも、仏像としてではなく女神像として創出されたことは確かでした。
 この百目木の子安様のお堂は、以前は、今の子安神社の裏手の山中にあり、3月14日の縁日には、飴売りなどの露店も出てにぎわったとか。
また字名や屋号に「子安」の名も残っていて、子安信仰がさかんだった往時が偲ばれます。
 S174162今も安産の願掛けの底抜け巾着も奉納されています。安産祈願にひとつ借りていき、成就すると二つ返すといいます。
 また子安講の際にかけた御絵様の掛け軸3本も残されていました。

 Aの元文5年の酒々井町柏木の子安さまは、①石祠内に子安像があること、②2児を保育する像であること。③正面向きであることの3点から、その五十年前に上総で祀られた百目木の子安大明神像がモデルになっていることは明らかです。
 Dでは、子は乳飲み子だけですが、①と③、そして服装もAと同じです。
 座り方は、半跏座です。座禅の形の結跏趺坐をとらないのは、如意輪観音と同じというより、子育てに適した通常の生活スタイルとみてよいと思います。

 S1744_1八千代市上高野では、元禄16年(1703)「子安大明神」の銘を文字で刻んだ石祠が子安神社本殿にまつられています。
 神名のみ文字で刻んだこのような子安の石祠が、神社の境内に他の神々と並んでまつられている姿は、その後北総各地に見ることができいます。
 石や木の祠内に、お札や幣束や丸石をご神体としてまつることが一般的である中で、さらに文字だけでなく、子を育む具象的な女神像を石祠に刻んだ百目木の子安神、そしてAやDの姿は、中世の懸け仏はさておき、近世民衆神道の宗教史上画期的なことだと思います。

 さてBの元文5年(1740)栄町西霊園の「子安観音」とCの虫幡の日向山薬師堂の「八日講」塔は何をモデルにしたのでしょう。
 ①光背型であること、②上半身に条帛を纏い天衣(てんね)を両肩から垂れ下げた菩薩の姿であること、は共通していますが、乳飲み子を抱き方については、Cは、AとDと同じです。

 私は、Bの栄町西霊園の「子安観音」を見たとき、これは大日如来像が印を結ぶかわりに赤子を抱いた像ではないかと思いました。
 しかし、大日如来像と女人信仰にはたして関係があるのか、不思議でした。
 その謎は、10月に湯殿山の密教寺院に参籠し、また12月刊行された『小見川の石造物(西地区編)』のCの石塔データを見て、このインスピレーションが当たっていると思いました。

 この大日如来と女人信仰にまつわる発見の話の続きは、また書きたいと思います。今日は、ここまで。

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2009年9月22日 (火)

K-9 子安塔の初出をめぐって-銚子市の子安塔「元禄3年」銘否定の考証

 前々回の「K-7 印旛沼周辺の子安塔の初出をめぐって」で、「公式の調査記録『千葉県石造文化財調査報告』1980のリストに11基だけ載っている子安観音も、見直しが必要かもしれません」と書きました。
 そして「このリストで初出とされている銚子市東岸寺の『元禄3年』塔」のデータがとても気になり、またリストアップされている子安塔11基中、4基の銚子市所在の子安塔をぜひこの機会に見ておかなければと、秋の連休を待って調べに行くことにしました。S_2

 まずは、その前に、データの出どころも押さえておく必要があります。
千葉県中央博物館を訪ね、幸い、収蔵庫内で、この調査報告書の元になったデータを見せていただくことができました。
 
 『千葉県石造文化財調査報告』に「所在地:銚子市若宮町東岸寺、造立年月日:元禄三・正・吉、像容:子安観音、形状:光背型、銘文:(記載なし)」と書かれているデータは、調査カードの時代の欄には「文禄三□正月吉日」と記載されています。
 添付の写真は如意輪観音が右手で子を抱いた姿のようですが、風化して、像容も銘文もはっきりしません。
 Sそれにしても、「文禄」というのは1592~1594年ですから、元禄(1688~1703)をはるかに遡る江戸期以前になってしまい、カードの記載も、調査報告書の「元禄三」の記載も双方とも明らかに間違っていることがわかりました。
 とすると、形状や石材の質からみても、文化・文政期(1804~1829)となる可能性があります。
 
 さて、そのような疑問を晴らすべく、シルバー・ウィークで車の混む道をはるばる銚子まで行ってみると、さすが、中世から石塔文化の栄えた銚子市です。古刹の石塔には、優れた珍しいものも多くありました。

 その中でもまっさきに訪ねた東岸寺には、数多くの月待塔・子安塔がありましたが、お目当ての「元禄3年」銘と誤記された子安塔は、原形をとどめないほどに剥落崩壊し、史料的価値を完全に失った姿だったのです。

(⇒画像の左側が「元禄3年」と記載されていた子安塔、右側は建立年不明であるが、印旛村岩戸高岩寺の文政2年(1819)の子安塔と類似している)

  それでも「文」の文字だけは、はっきり見えましたので、県報告書の「元禄3年」は否定できました。(⇒右上の画像をクリック)

 このお寺の境内には、砂岩(凝灰岩?)製の子安塔だけで10基位あり、そのうち銘文がはっきり読めるのは、文化10年、天保6年、明治44年、大正9年、大正10年の5基、そのほかも像容から文化文政期と思われるものが2基でした。
 
 S16273東岸寺には、子安観音像が現れる前の月待塔としては、宝永3年(1706)銘聖観音立像の十九夜塔と寛延2年(1749)銘如意輪観音像の十九夜塔があります。
 どちらも硬質の安山岩製とみられ銘文もくっきりした保存状態のよい石塔です。

  ⇒右の画像は宝永3年(1706)銘聖観音立像の十九夜塔*

  そして東岸寺はもちろん、この日に訪ねた賢徳寺など銚子市域の寺院境内には、中世からの五輪塔や宝篋印塔をはじめとして、多くの石造物が立ち並んでしました。

 銚子市は、中世から江戸時代、水上交通の盛んな経済的にも栄えた地域で、伊豆や筑波から硬質の石材が流通していた港町であると同時に、石無し県の千葉県では、「銚子石」(犬吠砂岩)とよばれる砂岩の石材に恵まれた地域です。

 江戸期の石仏については、17世紀の後半(元禄のころ)から正徳のころをピークとし、安永のころまでは、硬質の石材をもちいて儀規に忠実で丁寧な作風です。

 硬質製の石材で石仏を刻むことは高度な技術ですが、霞ヶ浦一帯まで中世の真言律宗系の僧と大蔵派の石工が布教に努めたこともあり、また築城のための石材加工技術も進んでいて、江戸時代前半のには、庶民の墓塔至るまで、小松石など安山岩製の石仏を建立することが普及しました。

 しかし、江戸後期、特に文化文政期以降、硬質の石材を使用した宗教的な気品のある石仏は少なくなります。

 北総一帯では、石質のやわらかい石材(神奈川県の七沢石など?)製品が広く商品として普及し、各地域では凝ったデザインや省略された像容の石仏が多く作られるようになります。
 何よりも安価で加工しやすいことが特徴で、特に明治以降、各村の女人講は数年おかずに競い合うように砂岩製の石塔を建立しています。
 砂岩・凝灰岩の石造物は、お堂の中に安置された少数の子安塔や丸彫りの大師像などを除き、露地では風化が著しく、文化財としての価値を留めている事例は多くはありません。

 東岸寺でも、砂岩製のこの石仏の「元禄3年」のデータを修正することにより、18世紀初頭の小松石や筑波石などの硬質石材にかわり、18世紀後半から砂岩製の普及品が増え、文化文政期の軟質石材製石仏の全盛期を迎えることが、整合性をもって立証されると思います。

 『千葉県石造文化財調査報告』では、東総には、他に銚子市賢徳寺の延享2年(1742)銘と山武市蓮沼子安神社の延享5年(1748)銘の子安観音像があるとのこと。
 延享から宝暦にかけての18世紀中葉は、酒々井町や成田市でも様々な像容の子安観音・子安明神像が生み出される頃です。
 このことに関しては、このブログの続報でお知らせしたいと思います。

Photo_2 東岸寺の子安塔群

*コメントに寄せられた苔華さまのご指摘で、聖観音立像の十九夜塔の造立年を 「寛永3年」から「宝永3年」に修正しました。ご指摘ありがとうございました。

また、石材についてご助言頂き、一部修正しました。(2009.12.14)

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2009年7月 2日 (木)

K-8 北総に子安像が出現したとき

 集落ごとの産土神社やムラの小さな寺、その多くは今は地区集会所になっている境内に、子安様と呼ばれる子安塔が祀られているという情景は、茨城県南部から北総の印旛沼周辺の地域特有の現象のようです。

 子安塔の分布に関して、各市町村の悉皆調査データがそろっていない現状で、子安塔の無いところはどこかというのは、存在する地域の特定より難しいのですが、私の勤める江戸川区内とその隣接する市川市・浦安市・葛飾区など江戸川沿いで子安塔を見かけることはほとんどありません。

 一方私の住む八千代市では、子安塔が、江戸時代の文化文政期から現れはじめ、明治の中ごろからは各集落が競い合うように建立し続け、現代に至っている状況です。

 この状況を平岩毅氏は、『房総石造文化財研究会会報』24号 (1985)の「下総の子安信仰・石造品分布」で、「印旛村から流れ出して東京湾へ注ぐ新川(下流は花見川)流域は何故か江戸後期の始め頃から次第に子安信仰が盛行し、子安観音の刻像塔が濃密に分布している。そして現在も、各地に子安講が現存している。印旛村岩戸の高岸寺にある十五夜塔(天明四年)に刻まれた両手に子を抱く観音像や、享和三年のもの、近くにある広済寺の享和元年のものなどが古い方で、出現時期としては千葉市の安永五年、船橋市の安永八年などに比べ可成おくれている。」と表現しておられます。

 この文章に接して、下総の子安像刻像塔の調査研究は、他地域の方の研究に甘えていてはいけない、八千代市の郷土史を多少でも学んでいる自分が追及すべき課題なのだと思いました。

 さて、下総の子安塔の出現はどこかというと、酒々井町尾上の住吉神社境内で、ここには享保 18年(1733)銘の「子安大明神」立像と、宝暦元年(1751)の如意輪観音像の変形像の「子安大明神」座像があります。090303_044_2

 北総において突然現れるこの享保の立像は、今のところ北総最古の子安刻像です。(右側の像)

 あえて、この像容に近い石造物を写真集で調べてみると、『東総の石仏』に載っている  宝暦13年(1763)の東庄町小南・福聚寺の弁財天の立ち姿がよく似ています。
 福聚寺の弁財天は、尾上の子安神像30年後の作例で、しかも儀軌による持ち物も違いますが、着衣の表現、駒形の光背、雲のような岩座などよく似ていますから、この子安塔の像容は、18世紀中葉ごろの吉祥天・弁財天など天女の刻像と共通するものかもしれません。

 それにしても、手で持っている赤子の姿は、頭を下にしており、産み落とされたばかりの姿のようです。
 この像容に関して後出では、土浦市手野の薬王寺の境内に宝暦13年(1763)の子安観音立像、粟野の惣持院にも明和3年 (1766)の子安観音立像がありますが、前ページに書いたように酒々井町近隣の地域内では、その後の系譜がたどれません。

 依頼した尾上村女人講のだれかが、母子の姿の子安像について聞いた記憶があったのでしょう。
 その曖昧な情報だけで、見たこともない「子供を持った子安大明神像」の制作を依頼された享保期の石工のとまどいが見えるようです。

 左隣に安置されている宝暦元年銘の「子安大明神」像は、如意輪観音に子供を抱かせた事例です。
 右手は思惟相のまま、そして左手の一本は宝珠かハスの花を持つように子供を抱き、一本は、衣の袖のようにも見 えますが、ひざに伸ばしているかのようにも見えます。
 17世紀後半から、女人講の供養塔として二臂の如意輪像が多量に普及していた中で、母子像を創造するには、最も安易な方法だったはずですが、1764hiragahudouまだその子供の抱き方の表現はあいまいです。

 この作例の像容が授乳の姿として、はっきりと表現されるのは、明和元年(1764) 印旛村平賀の不動堂の子安観音像(⇒画像)と観音堂の同じ像容の子安観音像でしょう。
 その後、船橋市金堀町竜蔵院の子安像(1785)成田市吉倉薬師堂の子安像(1777)、船橋市米ヶ崎無量寺の十九夜塔(1779)といくつかの作例が続き、像容が確定してきます。

 しかし、首を傾げ、右手を頬に当てて考え込むこの思惟相の姿勢のままで、子を抱く姿は、かなり無理のある構図です。

 1776印旛村岩戸西福寺(1776)⇒画像千葉市星久喜町千手院(1780)我孫子市江蔵地(1781)の子安像では、子供の方に首を傾けて両手で抱く自然な姿へと変わっていきます。
 とはいっても、その周りのムラの多くは、幕末までずっと二臂の如意輪観音像を建て続けますから、思惟相の姿勢のまま子を抱くスタイルも根強く残っていきます。

 さて、はじめから正面を向いた母子の子安像もあります。
 次回はその姿の母子像から、子安塔のルーツを追ってみたいと思います。

リンク元 房石研HP  土浦のあれこれ   
      「さわらび通信掲示板」

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2009年6月24日 (水)

K-7 印旛沼周辺の子安塔の初出をめぐって

 6月5日の東京成徳大学での講義では、私なりの「新説」を披露するレジュメを用意して臨みましたが、聴講してくださる方々が石造物に親しむことに重きを置き、どちらかというと子安塔とはなにかというレクチャーと、事例紹介のスライドが中心だったと思います。17405

 印旛沼周辺を調査して得られた私の説は、子供を抱く子安像は、元文5年(1740)2児を伴う子安神像の石祠が現れた酒々井町中心に、印旛沼東部の印旛村・成田市・佐倉市でその像容が模索され、印旛沼の両岸沿いに西へと広がり、文化文政年間に江戸川縁を除く北総全体の村々へ普及していくということでした。

 ⇒酒々井町柏木新光寺跡墓地の元文5年の石祠内子安大明神像

 もっとも、酒々井町では、この石祠の像に先行して、尾上 住吉神社の享保 18年(1733)子安様がありますが、立像であることから、その後の子安塔像容の成立の系譜につながりにくいので、むしろこの元文5年(1740)像のほうをルーツとして考えていきたいと思います。

 (7月11日の八千代栗谷遺跡研究会の調査報告会では、子安塔成立のプロセスとその考証を中心に、お話したいと思っています。)

  東京成徳大学の発表以後、追加調査している千葉市・印西市・我孫子市などの子安塔をみても、おおむねこのフレームに収まるようですが、一方、たぶん私のこの説は、これまでの諸先輩方の想像する子安塔成立のイメージとは異なったものになると思います。 

 というのは、「子安観音の像容の起源として、利根川下流域を中心に、如意輪観音像を刻む十九夜塔が盛んに建てられる中で、子を抱く如意輪観音の姿が創りだされる」という榎本正三氏の説が石造物関係の各市町村史などに一般的に引用されているからです。
 榎本正三氏は、印西市を中心にした女人信仰とそれにかかわる石造物研究の第一人者です。
17182 その説の根拠になっているのが、「我孫子市江蔵地青年館の享保三年(1718)の十九夜塔」です。

   ⇒我孫子市江蔵地青年館の享保三年の十九夜塔

 榎本氏の著書『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』1992でも「子安観音の原型」と記され、また平岩毅氏も『房総の石仏百選』1999で、この塔が「(千葉)県内最古」で「(子安)観音の発祥地を暗示する」と述べておられます。
 印西町教育委員会発行の『石との語らい』1992でも「如意輪観音からの変容」の例として紹介されています。
 その根拠は『我孫子市史資料 金石文篇Ⅰ石造物』(1979)に、この塔は「如意輪観音・十九夜塔」として写真入りで載っていて「(如意輪観音浮彫)」の下に小さなポイントで「*赤子を抱く。」と追記されていることに由来するのではないかと思います。 

 「我孫子の抱き子の如意輪観音が発祥」というのは、酒々井町の子安神が発祥という私の説と矛盾することになるので、まずはとにかく行ってみることにしました。(こうして私の週休日はいつも無残にも費やされてしまう!のです)

 結果は、百聞は一見にしかず、子安観音ではなかった!のです。
 『我孫子市史』が「赤子を抱く」と間違えたのは、未敷蓮華(みふれんげ・つぼみの蓮華)で、実際はやはり如意輪観音像の一般的な十九夜塔でした。

 090623_030また、ここには、安永10年(1781)の「子安大明神」の刻銘の子安塔がありました。清楚でかわいらしい像です。

 印旛村岩戸の西福寺には、これとまったく同じ像容の安永5年(1776)の子安塔が先行してあります。

 ⇒我孫子市江蔵地青年館の安永10年の「子安大明神」

 おかげさまで、子安塔は「印旛沼の東端から西へ」という私の試論の考証を、一からやりなおすことはまぬがれました。
 そして、文献調査に頼るのはあぶないということを学ぶなおす結果にも・・。

 そういえば、公式の調査記録『千葉県石造文化財調査報告』1980のリストに11基だけ載っている子安観音も、見直しが必要かもしれません。

 このリストで初出とされている銚子市東岸寺の「元禄3年」塔も、房総石造文化財研究会の情報では所在が確かめられなかったとか。

 雨が止んだら、また子安塔探しに行きゃなくちゃ・・。

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2006年1月14日 (土)

K-6  男女神を対で祀る民俗と遺跡の関係

 今年の馬場小室山遺跡研究会の事始は、遺跡のある旧三室村の鎮守である「武蔵一宮氷川女体神社」の初詣、それも神主さんの司式による正式参拝でスタートをきりました。
 女体神社は、男神である大宮の氷川神社に呼応する女の神であり、両社一体であったが故にともに「武蔵一宮」でもあったのですが、isigami男女神を対で祀るというのは、先史時代にさかのぼる祭祀の姿でもあったのでしょう。

  昨年、シリーズ「縄文遺跡のある風景」でとりあげた石神台貝塚ですが、ここにはその小字(遺跡)名の由来となった石神さまが祀られています。
 その名のとおり、長細い巨大な石が御神体(⇒)で、この石は地面から生え出るよう社殿の床をつきぬけて直立し、祠の扉を開けるとその頭部を拝むことができます。 そしてその前には摺り石が添えられているのです。

 isigami2 祠の周りには、この付近の畑から出土したと思われる石棒やたたき石がぎっしりと敷き詰められ、性の神を祀る縄文時代からの祭祀の姿を彷彿させていました。

縄文遺跡から男性を象徴するたたき石や石棒と、女性を表す摺り皿などを対に祀った状態で出土する事例もあったとのこと。(「石棒祭儀に伴う象徴的生殖行為とその意味」谷口康浩2005.11.12「縄紋社会をめぐるシンポジウムⅢ」)

  柳田國男の「石神問答」を紐解くまでもなく、男性神、また男女神(陰陽の神)を祀る民俗事例は今でも比較的多く目にしますが、心が19yanyoirinけて見てみると、男性神に呼応する女性の神も辻や路傍のあちこちに残っていることに気づきました。

 石神台貝塚のある舌状台地には、さらに台地の付け根の道がY字に分かれる分岐点に地蔵さまの祠や石仏が密集している場所があります。(⇒空撮写真に「伊付集会所」とポイントした場所

 大きな榎の根元に下から突き上げられて斜めに立っているは、宝暦12年の十九夜塔(⇒)、明治・大正期の子安観音塔などの女人信仰に関わる石塔群です。

 庚申塔や道祖神、馬頭観音などのほか、ムラを悪霊から守る賽のdaikonn神として、道の分岐に子安神を祀るということはよく見られることで、その姿は、八千代市上高野の三叉路に「子安大明神」とその名の通りの神社がある場合のほか、安産祈願のための「犬卒塔婆」が立てられる吉高の大桜の畑の角、二股や三股の大根が供えられている米本三叉路の道祖神(⇒)などでは、今も村の女性たちの信仰が続いていました。 09

  おそらく印旛村伊付分岐点の石仏群も、Y字型の古道の形や巨木(⇒)の洞の形が女体を連想させる故に子安神を祀っていたに相違なく、1町ほどの先の男性神を祀る石神神社と相呼応する女神の寄り代であったのではと感じます。

 そういえば、世の中に「石神」「姥神」「姥山」などという小字名に由来する縄文遺跡が多々あることも気になりはじめました。それらの遺跡名に「石神問答」のシャグジの神をつい連想してしまうのですが、地下の遺構とともに地表に残された神社や祠、立石にも縄文人からのメッセージが託されているのだと思います。
 寺の境内以外の路傍や山中、畑に残された子安信仰の寄坐(よりまし)も、またそのひとつの姿であったのでしょう。

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2005年12月31日 (土)

K-5 子安鬼子母神像のルーツ

kariteibo  2005年暮れ、新しい年のカレンダーに替えようとして、2005年の古美術カレンダーの中のある写真が捨てがたく、しばし手にとって、スキャナーで画像保存しました。
その画像とは、訶梨帝母座像、鎌倉時代の滋賀県園城寺蔵の重要文化財彫刻の写真(⇒)です。

この神像は、、他人の子供を奪って食べてしまう鬼神だった訶梨帝母(ハーリティ)に対し、釈迦が彼女の末子を隠して子を失う母の悲しみを悟らせたことから、彼女は仏教に帰依して子供の守り神となったという鬼子母神説話(「雑宝蔵経」)に由来し、この説話は密教とともに日本に伝えられ、平安後期には安産祈願の修法が盛んに行われたといいます。
この訶梨帝母が天女の姿で右手に柘榴(吉祥果)をもち、子を抱いた像は、ルネッサンス時の聖母子像にも似た慈愛に満ちた母性を感じさせる刻像です。

IMG_0597 この夏、八千代市の女人信仰と子安観音像容成立の過程を追って、萱田町長妙寺の子安鬼子母神像を調べに行きました。
日蓮宗系では、鬼子母神説話に基づく子を抱いた訶梨帝母像を、子安観音像に似た子安神として祀るとのこと、その事例を萱田町長妙寺の子安鬼子母神像にも見ることができます。
「ぢの呪い」と八百屋お七の墓があることで有名な長妙寺境内に入ると、水子の霊を供養する現代の慈母観音像の横に子安像が3基ありました。
嘉永2年(1849)建立の像(⇒)は、懐に子を抱き左手にざくろの実(枝)を持つ子安型の鬼子母神座像で、台石に「女人講中」のほか講の女性の名も記されています。
鬼子母神像には合掌した鬼型もありますが、日蓮宗地域の女人講では子安型の訶梨帝母石像を祀ることもあるようで、船橋市内では前貝塚町行伝寺の文久二年(1862)造立の光背型の子を抱く立像があるそうです。

もっとも、近代の建立では、長妙寺の明治16年(1883)像、昭和39年(1964)の像のように「子安鬼子母神」と刻されていなければ、右手に蓮を持った如意輪系の子安観音とその像容の区別がつかないものになっていきます。

日蓮宗系に多いこの子安神像は、近世末期から近代にかけて、安産子育ての現世的祈願とともに子安講が子安像を祀る慣習が村々で一般化していくととともに、神保領だった船橋市や八千代市の一地域でも、宗旨にふさわしい像として造立されていったのでしょう。

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2005年12月21日 (水)

K-4  女人名の刻まれた船橋市不動院の六面石幢

rokukannon2005年7月17日「女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から」の記事について、船橋のmoriさまから11月14日、次のようなコメントをいただきました。

「船橋に不動院という、文政7年(1824)の船橋浦での猫実村との漁場争いで入牢し、なくなった漁師惣代2名の追善供養のための大仏で有名な寺がありますが、実はその境内にやはり女性名ばかり書かれている観音をレリーフにした六角柱の石塔があります。猟師町云々と書かれていますので、やはり漁師のおかみさんたちが漁の無事を祈ってたてたのではと思います。これも、細かい字で判読しにくいものが多いですが。」

3年前船橋の史跡を撮りにいき、不動院の2基の庚申塔の間にあった六面石幢に魅せられて、何枚か撮影してあったのですが、残念ながら寄進者名銘文の鮮明にわかる画像がなかったので、先日(12/17)もう一度見にいきました。不動院は、船橋市中央図書館からすぐのところです。

六面石幢には「奉新造六観世音 女念仏講為二世安楽 元禄十四巳年今月今日」の銘、六観音の浮彫りの下には、「猟師町横丁 不動院月栄代」それ以下に、「妙真 妙案 妙栄 妙凉・・・」など出家した尼と思われる法名が19名、「おふう おい女 およし・・・」などの女性の俗名20名が刻まれています。meibun2 meibun5meibun1

ところどころむずかしい変体仮名で読めないところや、連名の最後に刻まれている「万女」が固有名詞なのか、じっくり調べなければいけない課題はありますが、時は元禄14年(1701)、赤穂浪士の討ち入りのあったころ、念仏講に結縁した女人ひとりひとりがはっきりと個人の名前を出して、この六面石幢を建てたことがわかりました。

デザインも洗練されていて、それなりにお金がかかったことでしょうが、町や村の働く女性たちはそれぞれ負担する力も立場も持っていたといえます。

rokukannon2帰りに中央図書館によって、『調査報告書船橋市の石造文化財』を閲覧し、悉皆調査記録を見てみました。この報告書のデータを見ると、念仏講による供養塔の初出は、本町1丁目の「西向観音」として有名な万治元年(1658)の延命地蔵で、「念仏講中間 拾弐人 同女人十六人 さんや村」と刻まれているとのこと。

その後の念仏塔は寛文期には、女性のみの講となり、また男女で行われていた十九夜講も女性だけで行われるようになると、各町村でさかんに女人講=十九夜講による如意輪観音の十九夜塔が建てられ、さらに十九夜講が発展した子安講により天明5年(1785)から子安観音像を建立され、文化文政期には一部の地域で急速に普及していきますが、その傾向は、船橋市内も八千代市内も同じように感じます。

不動院には、この六面石幢のほかにも、「飯つぶ地蔵」として肩から口にかけて白米の飯を盛り上げてつける供養式で有名な釈迦如来座像や、江戸時代の2基の立派な庚申塔など、優れた江戸時代の石造物が残されています。

船橋のmoriさまの寄せてくださったコメントがきっかけで、再度たずねた不動院。今回その石造物を熟覧してきましたが、信仰心のほか強い経済力もあった猟師町の人々、とくに女人たちの姿に思いをはせた2005年師走でした。

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2005年12月12日 (月)

K-3 八千代市内最古の十九夜塔は寛文の丸彫り如意輪像でした

2005年7月17日 (日)「女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から」の文章の中で「延宝2年(1674)造立の如意輪観音像は、市内十九夜講の石仏として最古であり、高津の十九夜塔でも最大、しかも六臂の姿は荘厳です。」と、また同様な主旨を『史談八千代』30号に書きましたところ、訂正のご意見を賜りました。murakami19yatou1
実は、高津の延宝二年(1674)の十九夜塔は市内最古ではなく、現在編纂中の市史『八千代市の歴史』草稿中で「初出」とした最古のものは正覚院釈迦堂の右裏手の寛文11年(1671) 10月19日の丸彫り像であると、八千代市史編纂委員のK様から、八千代市郷土歴史研究会会長へご指摘があったそうです。

さっそくこのご指摘にこたえて、正覚院へその石像を見つけに、また調査でもらした参考報告文献がないかを探しに八千代市郷土博物館資料室へ行きました。

確かに正覚院釈迦堂の裏の川嶋家墓地に奥の崖下、夏は灌木に覆われるような斜面に変わりはてた姿の如意輪観音像があります。
ただし、首から上は失われて地蔵像らしき頭部が接合され、右腕もありません。
横には地蔵像の残欠も転がっています。

murakami19yatou2 これが十九夜塔と判断できるのは、像の背面の衣に「像立十九夜女人 念仏講衆」と刻まれているからでしょう。さらに銘文は「村上村(?) 池証山(鴨鴛寺)」と続くらしいのですが、場所が急斜面の裾部ですので、石像を動かさない限り判読は難しそうでした。(→はデジカメを石像と崖面の間に入れて撮った画像)

その足で近くの郷土博物館で『よなもと今昔』のバックナンバーを閲覧し、村上地区の石造物悉皆調査データからこの十九夜塔の調査データを見ることができました。
同報告による銘文は「像立十九夜女人 念仏講衆 □□菩提也 村上村道□ 池証山鴨鴛寺 寛文十一辛亥年十月十九日敬白」だそうです。
高津の十九夜塔より3年先立つ造立。小ぶりとはいえ、丸彫り像です。欠損していなければ、さぞ立派な観音像であったことでしょう。
文化財の価値としては惜しい姿ですが、背面の銘文は女人講の成立を示す歴史資料としてたいへん貴重です。

この石像の銘文を記録された『よなもと今昔』の研究会の皆様に敬意を示すとともに、『江戸期の石造物』リストに依存して調査不足であった『史談八千代』30号の拙文の間違いをお詫びし、八千代市郷土歴史研究会会長のご助言で、高津の延宝二年十九夜塔についての「この石塔は八千代市内最古」という文言は、「この石塔は最も像容が整ったものとして八千代市内最古」と、訂正したいと思います。
以上謹んで訂正いたします。

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2005年8月21日 (日)

K-2 子安観音像の像容成立の謎

高津の十九夜塔群の変遷の背景を探るため、市内の江戸時代の十九夜塔も調べ始めました。
特にその像容が如意輪観音から離れ、子供を抱いた「子安観音」像となる時期とそのプロセスが、以前からの私の個人的な課題でした。

調べてみて八千代市内では、江戸後期文化文政期に突如として市内に子安観音像が登場します。米本林照院境内の文化11年(1814)銘の子安観音像が初出で、その数は幕末になるに従い、市内北西部では徐々に増えて行きますが、高津や勝田などでは明治も半ばを過ぎて、また下高野では大正2年(1913)で初めて子安観音像を建立しているなど、その受容時期は地域によって異なっていることがわかりました。
koyasukannon この画像は、先週撮った米本林照院の子安観音像です。垢抜けたすばらしいデザインの子安観音像ですが、残念ながら石の質が悪く、表面が剥離してきており、「文化十一年」の文字の部分も剥落した断片をくっつけて撮影しました。
男性中心の世界観の仏教では、観世音菩薩は明らかに男性であり、江戸時代になるまで日本では赤子を抱く観音像はおそらくなかったでしょう。江戸中~後期における子安観音像の像容成立のプロセスは現在よくわかっていませんが、私が見聞きした範囲で、子安観音像の像容成立の背景を考察してみたいと思います。

二十六聖人記念館の結城了悟館長のご教示によれば、鎖国になる頃、長崎港に福建省から白磁の子供を抱いた白衣観音像がもたらされました。白衣観音は清浄菩提心を表し、諸観音を生み出す母と考えられ、その柔和な姿は、江戸初期西日本に多かった潜伏キリシタンにも聖母像の代用として受け容れられました。
今も長崎と大村藩の寺々にはそのような観音像がまつられて、またキリシタンの子孫の家から発見された「マリア観音」も多々あり、私も国立東京博物館でキリシタン取締りの際の幕府押収品としてみたことがあります。
やがて平戸焼きのより柔和な、慈愛満ちた母子像に近い観音像が造られ、日本中に普及したと思いますが、寛政4年(1792)、秩父四番札所の金昌寺では、「マリア観音」と後世俗称された美しくも大胆なあの有名な子安観音像が奉納され、近隣では佐倉城下の鏑木の子安観音(通称「子育地蔵」)が寛政6年(1794)に建立されています。
関東・南東北近辺の子安観音の石仏としては、小林剛三氏の「郡山地方の子安信仰塔」挿図に、左足を半伽にして首を傾け、あるいは片手に蓮華をもった「如意輪観音に子を抱かせた像」と、「如意輪観音像から変化したとは考えられない像」の絵が載っていますが、後者について、頭から布を被って肌を表さず子を抱くその像容は、おそらく江戸初期のこの子供を抱いた白衣観音像の系譜を引くのではないかと、私は思っています。

鎖国から百五十年程たって、関東・南東北各地に造られるようになった子安観音像。その像容の変化の秘密を探るために、事例を含め、皆様にご教示いただければ幸いです。

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2005年7月17日 (日)

K-1 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から

 S1674 八千代市郷土歴史研究会の旧高津村の研究調査も今年で2年目。私は高津の女人信仰について、子安講の民俗事例と十九夜塔・子安塔を中心に調べまとめたいなあ、と思っています。
 幸い、高津では主婦たちの子安講がまだ続いていますし、高津観音寺の境内には十九夜塔・子安塔がずらっと並んでいて、まずはこの石造物の記録が資料となります。
 昨年は、その中で2番目に古い正徳三年(1713)の如意輪観音像のもっぱら容姿に魅せられて、郷土史展のポスターや「史談八千代」の表紙作品用に撮影しましたが、今年は、女人信仰がテーマですから、半跏思惟像の如意輪観音から、子供を抱いた子安観音に像容が変化する信仰の変遷とその造立の主体を知るため、造立年と寄進者名の銘文をまじめに読んで記録してみようと思いたちました。name1
 なかでも延宝2年(1674)造立の如意輪観音像は、市内十九夜講の石仏として最古であり、高津の十九夜塔でも最大、しかも六臂の姿は荘厳です。
 さて、この像の丸みがかった衣の裾と台座の部分に模様のようなものが彫られています。よく見ると、「おつる・おみや・おまめ」などひらがなの女性名がびっしり。結願した方々のお名前ですが、女性の俗名というのは、珍しいですよね。(⇒画像をクリックして読んでみてください)

 2005デジカメ画像と目視で読めるところは何とか読みましたが、両脇は隣の石塔とくっつきすぎていて、判読は難しい。拓本をとってみたらという助言もあり、今日の午後から郷土歴史研究会の会員に応援してもらい、チャレンジしてみました。
 場所は、崖の上のようなところで、後ずさりもできない。結局拓本での判読も難しく、最後は、歯医者さんのようにミラーを当てて、目のよい若い会員に見ていただきました。
 全部で50名のうち41名の判読が成功、ちなみに「おまつ・おなつ・おまめ」は2名ずつ、尼さんらしい「春香」という漢字名も1名ありました。
 郷土歴史研究会の皆様、ありがとうございました。

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