K-10 石祠にまつられた女神「子安大明神」像
「K-7」で、酒々井町柏木新光寺跡墓地の元文5年(1740)の石祠内子安大明神像を、「K-8」で、酒々井町尾上の住吉神社の享保 18年(1733)銘の「子安大明神」立像と、如意輪型の宝暦元年(1751)の「子安大明神」座像を紹介しました。
その後、印旛沼周辺から利根川沿いの東総地域に調査範囲を広げて見ると、子安像が出現し普及していった18世紀中葉の像容は、如意輪観音像の変形型(思惟・半跏の子安像)だけではなく、意外にも正面を見据えた母子像が多いことがわかりました。
(画像は上から、袖ヶ浦市百目木の子安石祠、A柏木新光寺墓地の子安(部分)、B栄町西霊園の子安観音、C虫幡の日向山薬師堂の「八日講」塔、D酒々井町下岩橋大仏頂寺の子安石祠)
私の調査では、宝暦元年(1751)の如意輪観音変形型の子安像に先だつ1740年から1744年の間に、北総では4基の子安塔が出現します。
それは、
A.元文5年(1740)の酒々井町柏木新光寺墓地の「子安大明神」 (⇒右の画像、上から2つ目)
B.同じく元文5年(1740)栄町西霊園(慈眼院跡)の「子安観音」 (⇒右下の画像、上から3つ目)、
C.元文6年(1741)香取市虫幡の日向山薬師堂の「八日講」塔(⇒右下の画像、上から4番目)そして
D.延享元年(1744)酒々井町下岩橋大仏頂寺の「子安大明神」石祠(⇒一番下の画像)です。
Aの酒々井町柏木の石祠内に置かれた子安像は、2児を育む像。一児が肩で戯れ一児は授乳中という姿です。このような2児保育像の事例は、北総で10基以上数えることができます。
AとDの子安塔のかたちのルーツは、袖ヶ浦市百目木の子安神社内に大切に祀られている元禄4年(1691)銘の「子安大明神」像です。
百目木の子安さまについては、今年5月、袖ヶ浦市教育委員会に問い合わせ、百目木の区長さんに連絡していただいて実物を拝観し、その歴史や信仰に関して親しくお話を聞く機会を持つことができました。
神仏習合に由来して観音を表す「サ」の梵字がありますが、その像容は、石祠内に浮き彫りされた姿が俗体の服装でありことからも、また「子安大明神」の銘文からも、仏像としてではなく女神像として創出されたことは確かでした。
この百目木の子安様のお堂は、以前は、今の子安神社の裏手の山中にあり、3月14日の縁日には、飴売りなどの露店も出てにぎわったとか。
また字名や屋号に「子安」の名も残っていて、子安信仰がさかんだった往時が偲ばれます。
今も安産の願掛けの底抜け巾着も奉納されています。安産祈願にひとつ借りていき、成就すると二つ返すといいます。
また子安講の際にかけた御絵様の掛け軸3本も残されていました。
Aの元文5年の酒々井町柏木の子安さまは、①石祠内に子安像があること、②2児を保育する像であること。③正面向きであることの3点から、その五十年前に上総で祀られた百目木の子安大明神像がモデルになっていることは明らかです。
Dでは、子は乳飲み子だけですが、①と③、そして服装もAと同じです。
座り方は、半跏座です。座禅の形の結跏趺坐をとらないのは、如意輪観音と同じというより、子育てに適した通常の生活スタイルとみてよいと思います。
八千代市上高野では、元禄16年(1703)「子安大明神」の銘を文字で刻んだ石祠が子安神社本殿にまつられています。
神名のみ文字で刻んだこのような子安の石祠が、神社の境内に他の神々と並んでまつられている姿は、その後北総各地に見ることができいます。
石や木の祠内に、お札や幣束や丸石をご神体としてまつることが一般的である中で、さらに文字だけでなく、子を育む具象的な女神像を石祠に刻んだ百目木の子安神、そしてAやDの姿は、中世の懸け仏はさておき、近世民衆神道の宗教史上画期的なことだと思います。
さてBの元文5年(1740)栄町西霊園の「子安観音」とCの虫幡の日向山薬師堂の「八日講」塔は何をモデルにしたのでしょう。
①光背型であること、②上半身に条帛を纏い天衣(てんね)を両肩から垂れ下げた菩薩の姿であること、は共通していますが、乳飲み子を抱き方については、Cは、AとDと同じです。
私は、Bの栄町西霊園の「子安観音」を見たとき、これは大日如来像が印を結ぶかわりに赤子を抱いた像ではないかと思いました。
しかし、大日如来像と女人信仰にはたして関係があるのか、不思議でした。
その謎は、10月に湯殿山の密教寺院に参籠し、また12月刊行された『小見川の石造物(西地区編)』のCの石塔データを見て、このインスピレーションが当たっていると思いました。
この大日如来と女人信仰にまつわる発見の話の続きは、また書きたいと思います。今日は、ここまで。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント