I-15 国府台の旧木内別邸での弥生遺跡の展示の仕方
8月17日、市川市木内ギャラリーの「里帰り展」という展示を見てきました。
八千代栗谷遺跡研究会メンバーの柏葉さんから、いただいたメールでは、国府台台地の敷地内調査により出土した弥生中期~後期の土器が展示されているとのこと。
そして また、建物の移築に伴う調査では、宮ノ台期の環濠が確認されたとのことで、「敷地内の庭だけでなく、建物の内部にもロープで環濠の位置を表示しているところが、面白い展示方法だなぁと思いました」との感想が添えられていて、これはぜひ見ておきたいと思い、会の仲間4名で、木内ギャラリーを訪ねました。
(→弥生後期前半の甕、八千代市の萱田遺跡群からもこのタイプの甕が多数出土している)
京成国府台駅から真間川北側の台地上の縁国府神社から右折して切り通しの道を行くと、(かろうじて?)残された森の中に木内ギャラリーがありました。
木内ギャラリーは、明治~大正期の政治家 木内重四郎氏の別邸で、国府台の緑地内に広大な和洋折衷の屋敷のうち洋館部分を再移築し、現在は市民ギャラリーとして活用されています。
木内重四郎は千葉県芝山の出身、木内家は千葉氏一族だったようです。
そういえば、10年前、近くの小岩保健所に勤めていた頃、国府台遺跡の発掘調査現地説明会があると知り、お昼休みにタクシー乗って、市川橋を渡ってすぐのこの調査現場を訪ねた記憶がよみがえってきました。
古墳かお寺か国府関係の遺跡かと思っていたら、意外にも弥生の集落と墓、環濠の跡とのこと。当時はあまり強い印象も受けなかったらしく、内容もすっかり忘れていましたが、地域の方々が、「マンション建設に反対し緑を守ろう」という呼びかけの署名活動をされていたことが思い出されます。
8月17日は真夏の猛暑の中、葛飾区立天文と歴史博物館での考古特別展をゆっくり見た後の午後4時ごろでしたので、少々薄暗くなっていましたが、木内ギャラリーの前庭には、弥生中期の後半の環濠遺構の輪郭を白いロープで表現されていました。
背後には、この緊急発掘調査の原因となった6階建てのマンションが数棟見えます。此の下には、弥生後期前半の環濠や集落の遺構と後期後半の集落、中期の方形周溝墓があったそうです。
そしてギャラリー内に入館すると、洋室の床にもロープが。こちらも、庭から続く弥生中期後半の環濠を表しています。
発掘調査が終わって埋め戻され施設が建った後も、遺跡の場所を表現する試みは、東京大学浅野キャンパスの方形周溝墓跡の武田先端知ビルのピロティで恒久的に行われていますが、このように現地の展示場の企画展の中で、その位置と規模がわかりやすく「展示」されているのはすばらしいと思いました。
館内に展示されているパネルでは、ギャラリーから庭へ伸びる中期後半の環濠は、なんと真間山弘法寺本堂右隣の庫裏の南西角に続くと推定され、約240m横浜市の大塚遺跡や佐倉市の大崎台遺跡を上回る東日本では最大級!
その後の古墳時代の国府台の古墳群や奈良時代の下総の国府の設置につながるかなり大きな集落だったようです。
また土器は、宮ノ台期や弥生後期後半の、八千代周辺でもなじみ深い形態の土器で、特にパレススタイルの装飾壺などは、近代の洋館に不思議にマッチしていました。
このような展示のあり方、遺跡と文化財の活用の事例として素晴らしいですね。
さて、10年前の現地説明会のときの地元の方々の開発反対署名が気になって、帰ってからネットで調べてみると、「市川緑の市民フォーラム」として、市川市の自然・文化・まちづくりを考え、活動されている団体に発展されていることを知りました。
⇒ http://www.ichikawa-midori.com/news/mamasan/mamasan_kaisetu.htm
そして10年以上の苦闘の活動の結果として、かろうじて(!)残された国府台の森と、近代文化遺産である木内邸の一部が今ここにあること、また現在も真間山や外環道、三番瀬などの開発の嵐の真っただ中で、果敢に立ち向かわれている姿を認識させられています。
閉館後は、午後5時を過ぎても昼の猛暑の余熱が残る中、遺跡の立地と成り立ちを知るため、弘法寺から須和田遺跡公園まで歩き、古代まで潟湖だった真間川に落ちる夕日を眺めながら、帰りました。
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