2010年8月20日 (金)

I-15 国府台の旧木内別邸での弥生遺跡の展示の仕方

  8月17日、市川市木内ギャラリーの「里帰り展」という展示を見てきました。
 八千代栗谷遺跡研究会メンバーの柏葉さんから、いただいたメールでは、国府台台地の敷地内調査により出土した弥生中期~後期の土器が展示されているとのこと。
 100817_068そして また、建物の移築に伴う調査では、宮ノ台期の環濠が確認されたとのことで、「敷地内の庭だけでなく、建物の内部にもロープで環濠の位置を表示しているところが、面白い展示方法だなぁと思いました」との感想が添えられていて、これはぜひ見ておきたいと思い、会の仲間4名で、木内ギャラリーを訪ねました。 
   (→弥生後期前半の甕、八千代市の萱田遺跡群からもこのタイプの甕が多数出土している)

 京成国府台駅から真間川北側の台地上の縁国府神社から右折して切り通しの道を行くと、(かろうじて?)残された森の中に木内ギャラリーがありました。
 100817_018木内ギャラリーは、明治~大正期の政治家 木内重四郎氏の別邸で、国府台の緑地内に広大な和洋折衷の屋敷のうち洋館部分を再移築し、現在は市民ギャラリーとして活用されています。
 木内重四郎は千葉県芝山の出身、木内家は千葉氏一族だったようです。

 そういえば、10年前、近くの小岩保健所に勤めていた頃、国府台遺跡の発掘調査現地説明会があると知り、お昼休みにタクシー乗って、市川橋を渡ってすぐのこの調査現場を訪ねた記憶がよみがえってきました。
 古墳かお寺か国府関係の遺跡かと思っていたら、意外にも弥生の集落と墓、環濠の跡とのこと。当時はあまり強い印象も受けなかったらしく、内容もすっかり忘れていましたが、地域の方々が、「マンション建設に反対し緑を守ろう」という呼びかけの署名活動をされていたことが思い出されます。

 8月17日は真夏の猛暑の中、葛飾区立天文と歴史博物館での考古特別展をゆっくり見た後の午後4時ごろでしたので、少々薄暗くなっていましたが、木内ギャラリーの前庭には、弥生中期の後半の環濠遺構の輪郭を白いロープで表現されていました。
 背後には、この緊急発掘調査の原因となった6階建てのマンションが数棟見えます。此の下には、弥生後期前半の環濠や集落の遺構後期後半の集落中期の方形周溝墓があったそうです。
 100817_102  そしてギャラリー内に入館すると、洋室の床にもロープが。こちらも、庭から続く弥生中期後半の環濠を表しています。100817_094

  発掘調査が終わって埋め戻され施設が建った後も、遺跡の場所を表現する試みは、東京大学浅野キャンパスの方形周溝墓跡の武田先端知ビルのピロティで恒久的に行われていますが、このように現地の展示場の企画展の中で、その位置と規模がわかりやすく「展示」されているのはすばらしいと思いました。

 館内に展示されているパネルでは、ギャラリーから庭へ伸びる中期後半の環濠は、なんと真間山弘法寺本堂右隣の庫裏の南西角に続くと推定され、約240m横浜市の大塚遺跡や佐倉市の大崎台遺跡を上回る東日本では最大級! 
 その後の古墳時代の国府台の古墳群や奈良時代の下総の国府の設置につながるかなり大きな集落だったようです。100817_039

    また土器は、宮ノ台期や弥生後期後半の、八千代周辺でもなじみ深い形態の土器で、特にパレススタイルの装飾壺などは、近代の洋館に不思議にマッチしていました。
 このような展示のあり方、遺跡と文化財の活用の事例として素晴らしいですね。

 さて、10年前の現地説明会のときの地元の方々の開発反対署名が気になって、帰ってからネットで調べてみると、「市川緑の市民フォーラム」として、市川市の自然・文化・まちづくりを考え、活動されている団体に発展されていることを知りました。
⇒ http://www.ichikawa-midori.com/news/mamasan/mamasan_kaisetu.htm

 100817_121そして10年以上の苦闘の活動の結果として、かろうじて(!)残された国府台の森と、近代文化遺産である木内邸の一部が今ここにあること、また現在も真間山や外環道、三番瀬などの開発の嵐の真っただ中で、果敢に立ち向かわれている姿を認識させられています。

 閉館後は、午後5時を過ぎても昼の猛暑の余熱が残る中、遺跡の立地と成り立ちを知るため、弘法寺から須和田遺跡公園まで歩き、古代まで潟湖だった真間川に落ちる夕日を眺めながら、帰りました。

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2010年8月 8日 (日)

Ⅰ-14 2010年夏の大膳野南貝塚

100227_053s 今年(2010年)の2月、千葉市生涯学習センターでの千葉市遺跡発表会で、大膳野南貝塚の遺跡調査発表を聴いて、驚きました。

  巨大な縄文貝塚の上に、古墳群と古代住居跡、中近世から近・現代の戦争遺跡(高射砲照空部隊)まで、遺跡が複合的に予想以上に積み重なっているとのこと。
 ロビーには、古墳時代後期の方墳から出土した須恵器長頸壺、鉄剣・鉄鏃、水晶の切り子玉や、平安時代の墨書土器が展示され、遺跡の重要性を物語っていました。 (↑画像)

 平成21年度の調査は、貝塚より上の層の遺跡調査にとどまり、3月の現地説明会*もその範囲で、貝塚本体の発掘は22年度4月からで、その結果は夏以降のお楽しみということでした。

 *3月の現地説明会の様子、若い方の素敵なブログHarurora in dreamland∞に見つけました。 (古墳の石室・石棺の画像に、拍手!)

 さてこの夏、8月7日、猛暑快晴の中開かれた大膳野南貝塚の現地説明会、ただただ驚きでした。 まず調査面積18270㎡ってこんなに広~い!

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 しかも大膳野南貝塚は、3方が大膳野北遺跡など遺跡群に囲まれ、東側斜面は、「村田川文化」とでもいったらよいのか、千葉市の原始~近代の遺跡のメッカ村田川の支谷の谷奥に位置しているのです。
 
そして、圧倒されたのは、発掘作業中の南貝層の厚さと広がりです。

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 貝層を構成する貝種も、場所や時代によって大きなハマグリや小さなイボキサゴなど、種類もいろいろ。

 この貝層に守られて、数千年前の人やイノシシ、犬などの骨も多数現れてきていました。
 その状況も、伸展葬の人骨、埋葬された犬、祭祀と思われるシカの頭骨の群列など、縄文時代の風習を推定できる状態がよく保たれて出土しています。 

100807_072s_2100807_051ss貝層から現れた人の頭がい骨

         イノシシの骨 ⇒

 

 遺跡全体にこのような大規模な貝層が、北・南・西の3か所に巡っていて、このうち西貝層はまだ、調査が手つかずの状態なのだそうです。

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 また発掘中の南側では、縄文前期(諸磯b式期)の住居跡(←画像)や炉穴、縄文後期(堀之内1式期)の大型住居跡(↓画像)などが見つかっていて、長い間集落を営み続けた遺跡の歴史の物語っています。

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 そのほか、縄文前期や後期の土器や石器などの遺物も大量に埋蔵されているようで、発掘中の現場のいたるところで顔をのぞかせています。

 100807_030sさて、この規模も大きく、内容も豊富な遺跡はこれからどうなるのでしょう。素人目で見ても、あと半年や一年間ぐらいで調査が終わるとは、思えないほどです。

 千葉市の遺跡を歩く会のHPには、次のように書かれています。

 大膳野南貝塚は、重要な遺跡として認識されており、2004年発行の調査報告書には「保存の措置を講ずるための協議が続けられている」(125頁)と書いてあった。
 100807_062sしかし大膳野南貝塚は、2007年、(独立行政法人)UR都市機構が分譲販売。
 2009年、三菱地所が所有権を取得。
 2009年2月現在、開発のための発掘調査が進行しており、消滅寸前である。
 2009年4月の時点で日本考古学協会も問題を認識しており、関係委員が現地を見学している。

  発掘でたくさんのことを知るおもしろさもありますが、何回かの現地説明会の感動と分厚い報告書を残すだけで、数千年の歴史の目に見えるかたちとその景観の記憶は、はかなく消えてしまうのでしょうか。

 100807_080s 都市計画の中で、公園用地などに利用され残される遺跡と、元の地形すら誰も想像できない姿に変えられてしまう遺跡。
 この大膳野南貝塚はどうなるのでしょう。
 千葉市には大規模な貝塚がたくさんあるので、もう十分だという考えに立つのか、大貝塚が群としてある姿こそ貴重だととらえるか、行政の良識ある判断が試されているのだと思います。

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2008年9月11日 (木)

I-13 「栗谷古墳」ってどこ? 見つかった半世紀前の調査記録

 この夏は、八千代市教育委員会が発掘していた「平戸台8号墳」調査のおっかけで、実に充実した時を過ごさせていただきました。(「追っかけられた」調査担当者のT松さんには、はなはだご迷惑をおかけしまし、ごめんなさい。)
調査過程の内容は「=姿を現した八千代市平戸台8号墳=その発掘調査と見学ルポ」をご覧ください。
 

 さて、この秋発刊する予定の八千代市郷土歴史研究会の研究機関誌『史談八千代』の原稿でこの調査速報をレポートするに当たり、平戸台8号墳の特徴である「後期群集墳・板石組合せ箱式石棺・追葬」、そして市毛勲氏の言ういわゆる「変則的古墳」(主体部が墳丘裾部にある)に関してその類例を文献で調べていくうち、「阿蘇村栗谷古墳」という文字が目に飛び込んできました。

 図書館で借りた中村恵次氏の追悼遺稿集『房総古墳論攻』に載っていた「千葉県における後期古墳―とくに群集墳の分布・内部施設被葬者について―」という1961年の論文の中に、「類例を若干あげるならば、印旛郡印旛村油作一号墳・同阿蘇村栗谷古墳・香取郡昭栄村地蔵原一号墳・・・・」と古墳名が列挙されています。

 ひとつひとつの古墳名に出典文献の註が付いていて、大川清1954「千葉縣印旛郡阿蘇村栗谷古墳」『古代』第11号とあります。そうか、そのころ八千代市は印旛郡阿蘇村だったんだ!

 実は、「保品栗谷古墳」という古墳名が、八千代市の遺跡一覧と、1979年刊『八千代市の歴史』にあり、そこには次のように書かれています。
  名称:保品栗谷古墳
  所在地:保品栗谷
  立地:台地先東北端
  形式:不明2基
  大きさ:不明
  内容:明治・大正時代に破壊され、人骨や直刀などが出土したという。その後昭和47年土取りのために消滅した。周辺は土師器の散布が多い。

 その後、八千代市史編さん委員会が編集した1991年の『八千代の歴史 資料編 原始・古代・中世』と、今年出た『八千代市の歴史 通史編 上』にも記述がなく、公式の記録から姿を消し、幻の古墳となっていました。

 『房総古墳論攻』のコピーをT松さんに渡し、「栗谷古墳の出典が載っている」とお話しすると、さっそく、この『古代』第11号のコピーを届けてくださいました。

 内容は、栗谷古墳は戦時中の開墾により封土が削られて開棺されてしまった古墳で、戦後間もなくのころの調査では、棺は蓋石3枚、左右各3枚と前後1枚の側壁、底石4枚の緑泥雲母片岩で築造した長さ約180㎝幅約65㎝の組合式石棺で、内部には長刀3口刀子3口、鉄鏃若干、玉類のほか、人骨が2人分以上検出されていました。
 また棺の位置が地表下にあることから、「封土の裾近くに位置する類例に所属するもの」と推察しています。また北西50mの位置にもう1基、封土が削られ破壊された石棺が土中にあるそうです。

 活字は旧字体で、遺物の絵もとてもレトロですが、2段組み5ページにわたる詳細な報告で、断片的にしかわからなかった栗谷古墳の姿が、平戸台8号墳の姿とともに鮮明によみがえってきました。

 また、先日『八千代市の歴史』のこの項を書かれた村田一男先生から滝口宏編『印旛手賀』復刻版の昭和26年のページのコピーをいただいていたことも思い出し、読み直してみると、11行ほどの記述ですが、栗谷で行われた石棺調査の遺物などが要領良くまとめられてあり、末尾に「本調査は、この地域としては学術調査の非常に少ない場合の一例として貴重な資料を提供するものであった」と書かれています。

 さて問題は、古墳の場所です。
 「阿蘇郵便前を約弐粁ほど北進すると、道は印旛沼の岸に出るため䑓地上から下り坂になる。坂を下りおわると、道は東へと折れて保品の部落に通じる。
 この坂を下りきったところの西側に、道路から水田をへだてて標高二〇米の䑓地の端近く二基の古墳があり、その一基が本墳である。」

 大川清氏の論文には地図がなく、上記のように行き方が丁寧に記述されています。開発で道も地形も大きく変わってしまった地域ですが、10年前に八千代市郷土歴史研究会で行った古道調査のフィールドワークの経験で、たぶん東京成徳大学の前の坂を下りきった神野入口の左手台地だとわかりました。

 現在そこには老人ホーム「八千代城」がそびえ建っていて、その手前下には、偶然にも上谷・栗谷遺跡調査を行っていた八千代市遺跡調査会のプレハブが空き家のままになっています。

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 「八千代城」の旧地権者の方の家を、知人の八千代市郷土歴史研究会のメンバーのご紹介でお訪ねすると、「確かに八千代城敷地のやや左寄りの場所です」とお答えくださり、また「先代が調査の記念にと仏壇の下にしまってあった資料があるから」と見せてくださったのは、まさしく『古代』第11号の大川清氏の論文でした。

 ところで、現在遺跡の場所とデータを調べるためには、インターネット、特に千葉県の場合「ふさの国文化財ナビゲーション」を使っていますが、最近、奈良文化財研究所の遺跡データを非公式に利用している「遺跡ウォーカー」というすぐれものがあります。

 Googleの航空写真が出るので便利ですが、その位置は若干アバウト。(中には海の中のとんでもない場所を指す遺跡もありますので、要注意)
でも「栗谷古墳」でキーワード検索すると、詳細データとだいたいのこの場所が出ます。(でもちょっと北西に寄りすぎかな?) 重要な遺物データは入っていませんが、県文化財地図データにはちゃんと遺構だけはリストアップされていたのですね。

74s_3    1974年の航空写真と比べてみて地形の変化が大きいことに、今更ながらびっくりしてしまいます。

 平戸8号墳のおっかけで、偶然巡り合えた「阿蘇村栗谷古墳」。
 地域の小さな調査データでは、市町村合併や文化財担当係の世代交代で散逸してしまうことも多々あると思います。
 特に戦後間もなくの報告は、アブナイですね。

 今回、中村恵次氏の追悼遺稿集がきっかけで見つかった大川清氏の論文、旧家の仏壇に大切にしまわれていたことと合わせ、また滝口宏編『印旛手賀』の記事とともに、五十年近くたって今、また陽の目を見たことを喜びたいと思います。

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2008年3月23日 (日)

I-12 国史跡・下総小金中野牧跡の今後に注目

080322_028s  昨日(2008.3.22)、鎌ヶ谷市での下総小金中野牧跡国史跡指定記念のシンポジウムと現地見学会のお知らせをいただいたので、八千代市郷土歴史研究会のメンバーと誘い合わせて参加してきました。
 天候にも恵まれ、午前中の現地見学会は90名近くの参加があり、フキノトウやヒガン桜も咲いている中野牧「捕込」跡を歩き、その遺跡の持つ歴史や植物観察の見方を解説していただきました。

 下総小金中野牧跡は、江戸幕府が軍馬供給をまかなうため慶長年間に設置した小金牧の一つの中野牧の遺跡です。
 080322_061s原野に放し飼いされた野馬を捕獲選別する施設である「捕込」(とっこめ)や、野馬が牧外に逃走するのを防ぐための「野馬土手」(のまどて)が、昨年、牧跡として全国でも初めて国指定史跡になりました。 詳しくは⇒Wikipedia -小金牧

 中野牧捕込跡は、高い土手で区切られた3つの区画からなり、その残された姿は一見、中世城郭跡に似ていました。

 午後からはその国指定一周年を記念して、『野馬のいた風景~地域に愛される史跡を目指して~』と題したシンポジウムが開かれました。

080322_088s  このシンポジウムを通して感じたことは、遺跡の保存と活用を考える上で、この中野牧跡の国史跡への過程に学ぶことが多いということです。
 まず第一に、都市計画道路の用地であったこの遺跡の文化的・歴史的価値を所有者の方々が理解し、道路計画を変更させ、1967年千葉県の文化財に指定、そして、開発ラッシュの時代をくぐりぬけ、ようやく保護の対象となった経過です。
 第二に、こうした現地説明会や展示会、シンポジウムを重ねて、積極的に遺跡の持つ価値や活用法をともに考え、文字通り「地域に愛される史跡を目指して」鎌ヶ谷市の職員と市民ボランティアが積極的に活動している姿です。

 八千代市にも下野牧の野馬土手があちこちにあったのですが、今は大和田新田と船橋市の境に低い土手がかろうじて残っているだけです。
 鎌ヶ谷市には初富小学校前に桜並木の土手が残っていて、こちらも捕込と一緒に国指定史跡になりましたが、住宅街と畑の混在する台地のあちこちにじゃまな?土手がなぜあるのか、住民にとってこの不思議な風景が、こうした活動を通じ、その謎が解き明かされ、残された貴重な自然と文化遺産に愛着を持つ存在となりつつある、そんな予感を感じました。

080322_037s 遺跡が保護されたからといって、ただのやぶ山の状態で放置することは、治安や生活環境の問題がおこりますし、第一にもったいない。残された捕込の跡を、「薬草の丘や、ポニー牧場 にしたら」という提案もシンポジウムでされましたが、遺跡の活用は自治体と 住民にとって大きな宿題でもあると思います。
 佐倉市の井野長割遺跡や柏市の松ヶ崎城跡、そしてさいたま市の馬場小室山遺跡。
 遺跡の活用という宿題は、みんなで考えることに意味があると思いませんか。

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2007年9月28日 (金)

I-11 幻?の環濠集落・田原窪遺跡

 11月24~25日の八千代市郷土歴史研究会の市民文化祭での展示発表が今年も近づいてきました。
 今年度は、ふるさとの歴史展「旧村のいま・大和田新田のすがたⅡ」として、たぶん私はその時刊行される『史談八千代』32号に書いた「民俗行事にみる旧村の伝統と新しい街・大和田新田」と「埋蔵文化財調査から見た大和田新田の原始・古代の姿」の二つのテーマを担当しそう?です。
 9410801s_2 後者は、郷土史展としてまれな考古学分野のテーマですが、過去の展示ポスターを整理していて、実は13年前、市内の遺跡の現地説明会のルポを展示したことを思い出しました。

  それは1994年10月8日に行われた田原窪遺跡の現説と、10月22日の間見穴遺跡の現説の速報ルポでした。
 いずれも佐山貝塚のある舌状台地にあるのですが、八千代市遺跡調査会で調査された田原窪遺跡は弥生中期の遺構、千葉県文化財センターで行われた間見穴遺跡は、帆立貝形や円墳からなる古墳群で、両者ともに興味深い遺構でした。
 特に、そのきれいな円弧を描く見事な環濠遺構が眼前に出現していた田原窪遺跡は、私にとっては八千代市の先史時代の遺跡に興味を持ったきっかけになった遺跡です。
 西日本で盛んに築かれた(=掘られた)環濠集落遺構ですが、関東では横浜市の大塚・歳勝土遺跡が一部保存されていて有名です。9410812s

  その環濠が八千代市市域でもみられるということは、当時の私にとって「重大事件」でした。
 その時の写真を探していたら、やっと資料と一緒に出てきました。
 まだデジカメなんて考えられない頃で、性能の悪いカメラで撮った写真は色あせていましたが、環濠も宮ノ台式の土器もその時の感動そのままに残っています。
 さっそくスキャナーで保存しておきました。

9410803s3_2 ところで、この田原窪遺跡ですが、発掘調査後埋め戻され、「大学町」という住宅街になってしまいました。
 緊急発掘ですからやむおえないことですが、問題は「その後」です。
 なかなか調査報告書が発行されないのでどうしたのかしらと、埋文行政にたずさわっている方にお聞きしたところ、住宅開発を行った業者が倒産してしまい、整理に必要な費用が宙に浮いてしまっているのだそうです。

 今も整理に精を出されておられる担当の方もいらっしゃるし、いくらお金がないといっても県下でも貴重な遺跡ですから、市民に情報を明らかにし、その声を市政に反映させれば善処の余地はあると思います。
  ともかく一日も早く調査の中身を見たいですね。

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