2013年4月21日 (日)

F-5  謎が深まる市氷川女体神社の「牡丹文瓶子」

 謎が深まるさいたま市氷川女体神社の「牡丹文瓶子」
                (「国宝 大神社展」の展示から)

 私が、さいたま市緑区の馬場小室山遺跡にかかわったのは2004年秋からですから、もう10年間になります。
 その間、見沼の歴史と民俗にも触れることも多く、特に氷川女体神社については初詣や磐船祭、史跡散策を通じて、関心を深めてきました。
 その女体神社の有する多くの文化財のうち、埼玉県有形文化財の「牡丹文瓶子 一対」が、2013年4月9日からの東京国立博物館での「国宝 大神社展」に出品されていました。 (↓図録から)

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 2005年に『利根川』第27号に「馬場小室山遺跡と出会って」に、次のように書きました。

「1989~1991年第一調整池建設に伴って発掘調査された四本竹遺跡からは、古銭や790本のおびただしい数の祭竹が出土した。
 字「四本竹」とよばれたこの地は、四方を竹で結界して行われた御船祭御旅所の祭祀跡とされ、その起源は発掘調査で見つかった竹の本数から、古代まで遡る可能性も示唆されている。
 また、この祭儀に用いられた一対の牡丹唐草文瓶子は中世陶磁器を代表する15世紀の美濃焼として東京国立博物館に納められ、御座船に載せられた神輿は桃山時代の作として、瓶子とともに県の文化財に指定されている。」

 井上香都羅さんの『みむろ物語-見沼と氷川女体を軸に-』では「この一対の瓶子は伝えによると、享保十年八月七日、一つが沼から出て、もう片方がその三年後に浮き出てきたと伝えられています。」といういわくつきの神器です。

 東京国立博物館に展示されているというこの瓶子が見たくて、東博に足を運んだ際探してみたのですが、十年前の「日本の陶磁」の特別展示をしたときに出品されていたが、今はしまってあるとのこと。またの機会を期待するだけになっていました。

100504_168 今回の「大神社展」では、「伝世の名品」の部に「黒釉牡丹唐草文瓶子 元時代 13-14世紀」と書かれ、中世の代表的な瓶子として展示されていました。
 私は、モノクロ写真でしか見たことがなかったので、褐釉としては釉薬の色が濃いが黒釉とまではいかないことと、瓶子としてのプロポーションがどっしりして、文様の彫りもおおらかなことが意外でした。

 そして図録の解説では「かつては室町時代の15世紀に瀬戸窯あるいは美濃窯でつくられたものと考えられていたが、轆轤が左回転であること、胎土が緻密で灰色を呈していることから、中国産の可能性が考えられるようになった。・・・ただしこの種の黒釉陶器の生産の様相についてはまだ不明な点が多く、具体的な産地はつまびらかではない。」と書かれています。
100504_187 要するに舶来品らしいが、産地不明ということなのでしょう。今後の研究が待たれます。

 例年5月4日には、「氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡」で、復活した「祇園磐船竜神祭」が行われます。

 この祭りに、この瓶子のレプリカが使われたらいいなと思いました。
 (写真は、2010年5月4日の「祇園磐船竜神祭」の神事です。)

 

「祇園磐船竜神祭」の様子↓ http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/07.05.04nyotaijinnja1.html
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/100504/No.50.html

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2008年9月29日 (月)

F-4 わたしの「貝輪=楽器」論

 先日、馬場小室山遺跡研究会のワークショップで縄文人が好んで?身につけたという「貝輪」の製作をみんなで試してみました。⇒2008夏のワークショップ〔貝輪製作実験工房〕

080810_023_2  貝輪を、ベンケイガイを使って実際に作ってみると、いくつかの疑問点とともにいろいろなことがわかってきました。
 まずは、子供でもコツがわかれば、敲き石と砥石で上手に作ることは可能ですが、運・不運による失敗例がとても多いこと。特に、「細く・丸く」を追及するほど割れやすく失敗するということです。

 精巧な土製耳飾りや漆塗りの木製装身具に比べ、貝輪は、ベンケイガイでも他の貝でも装身具としては特に美しいわけではないのに、こんなに多大な労力をかけて縄文早期から弥生時代まで連綿と作られ続け、また北海道まで運ばれて愛用されたのはなぜなのでしょう。 

 ベンケイガイやゴホウラのサトウガイの貝輪の形の特徴を他の素材に移した腕輪として、縄文時代から土製腕輪が、さらに、弥生時代から古墳時代には銅釧や鍬形石、車輪石などが作られ、威信財・宝器へと発展していきますが、ただのリングではなく、ちょっといびつな貝輪の形へのこだわりが根強いことに不思議な気がします。

 縄文人の腕輪である「貝輪」は、福岡県の山鹿貝塚で、女性が貝輪を十数個も装着して葬られていたという発掘事例があります。大珠や鹿角製の杖なども伴っているので、この女性は「特別な地位」にいたといわれていますが、本当なのでしょうか。
 また、千葉県の古作(こさく)貝塚では、蓋つきの壺型土器に大小20個の貝輪が大事にしまわれた状態で見つかっています。
 祭りや特別なイベントの際に少女たちが身につけるための共同体の財産だったのでしょうか。

 080915_052_3 製作実験で、失敗作の山の中から、無事4個の貝輪が完成しました。
 この完成品を実際に腕にはめてみようをしましたが、私の手が通ったのは、4個のうち1個のみ。 でも、10歳の女の子の腕には4個とも入りました。
 このとき気づいたことは、2個目を装着したとき、チャリンと2個の貝輪が触れ合うきれいな澄んだ音が響いたことです。
 4個とも腕に通し、リズムをとって腕を上げ下げしてもらうと、シャカシャカシャカシャカシャン、シャカシャカシャンと、よい音色が実に心地よく、これはきっと踊りの際に身につける一種の楽器だったのではと思いました。

 音としては、風鈴、または短冊の形に切った竹や木の一端をひもで縛り合わせた民俗楽器の「びんざさら」に似ています。

 「ささら」は中世の田楽踊りになどで盛んに使われ、近世には、笛や太鼓の派手な楽器にとって代わられて衰退していきますが、踊り手が慣らす楽器として「ささら踊り」や盆踊りなどに根深く残っています。
 そして「ささら」の木片が隣の木片へと次々に衝撃を伝えるとき発する「シャ」という擦過音に近い打音は、きっと貝輪をたくさん着けた腕を振りながら踊る音と共通するように感じます。
 
 ただし、「ささら」は手に持って鳴らすもの。身に着けて踊って音を出す楽器の民俗事例はそう多くはありません。
 古墳から出土する鈴釧(すずくしろ)が最後でしょうか。
 石川県和田山古墳出土の鈴釧は、貝輪の形の腕輪に9個の鈴が銅で一体に鋳造されたもの。 大陸からもたらされた金属工芸のわざが、伝統的な貝輪に融合しています。
 鈴釧にしても、銅環の複数装着にしても、そしてそのルーツの貝輪にしても、それらを身につけて踊りながら鳴らされる音は、まさに神を呼び、魔を払う神秘的な響きであったことでしょう。

 貝輪は、アクセサリーとしてだけでなく、縄文の初めから、装着して踊る際の宗教的な楽器として機能したがゆえに、楽器・装身具から宝器へとその姿を他の素材に移しながら、その形は古墳時代にいたるまで珍重されてきました。
 貝輪のもつ「楽器」=魔力の記憶は、いつしか音を失っても貝輪の形にひそかに受け継がれてきたのだと思います。

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2008年5月19日 (月)

F-3 「おちゃわん」考

080427_009s_2 「ご飯を食べるため左手に持つものが、おちゃわん」と子供のころから言われてきた「茶碗」。
 ご飯を食べる器がなぜ「茶碗」といわれるのか、それがわかったのは、茶道(裏千家)の先生から茶器に関するうんちくを傾聴した中学のころだったでしょうか。
 人のなせる技と自然の力が微妙にミックスしたやきものの不思議な美の世界には、今も関心があります。

 先日、東京国立博物館の薬師寺展を見に行った際、「特集陳列・高麗茶碗」の展示(~2008年7月27日)をついでにのぞいてみました。

 080427_016s_2これは、「魚屋茶碗 銘さわらび」。(「さわらび通信」の名にこじつけたて撮ったわけではありませんが、)小堀政峯(1689~1761)が、箱の蓋裏に「さわらびのもえいづる春に成りぬれば のべのかすみもたなびきにけり」 (源実朝『金槐和歌集』)と記した名品だそうで、春霞のような釉薬の淡い景色が素敵です。

 

 ところで、「おちゃわん」といううつわの世界に話を戻します。

 「白粥の 茶碗くまなし 初日影」 (内藤丈草・1662~1704・尾張犬山藩士であったが病弱のため致仕し僧侶になる)

 茶器の「茶碗」がご飯を食べる器として転用されて、陶磁器の「お茶碗」でご飯を食べるようになったのは、江戸ではいつ頃のことでしょうか。

 高原町(台東区寿町二丁目)の地名のいわれに「此地承応二年(1653)旧幕府茶碗用達人高原平兵衛ト云者ノ賜地トナリ高原屋敷ト唱ヘ来タリヲ明治二年町名トス」 (東京府志料)
 随見屋鋪(中央区新川一丁目)のいわれに「同所新川一の橋の北詰、塩町の辺、その旧地なりといへり。このところに瀬戸物屋多く住せり。ゆゑに、茶碗鉢店とも号く。あるいは、随見長屋ともよべり。」 (河村瑞賢、1617~1699。『江戸名所図会』)
とあり、そのころ江戸では陶磁器が流通しはじめていたと思われます。

 それまでは、弥生時代以来、飯椀、つまり木のお椀でご飯を食べていたのでしょう。
 (Wordの漢字変換もよくできていて、「飯」と「茶」のわんの字はちゃんと書き分けている!)

 縄文時代以来、漆器を含む木の器が日本の食文化を代表する食器であったはず。 現代も正式な本膳などは漆器に限っていますし、江戸時代の大奥でも陶磁器のお茶碗は、夜だけでの「お夜食茶碗」であったとか。
 「瀬戸物」(関西では「唐津もの」)が民間でも使用され始めたのは、さらに寛政以降のことらしいです。 (大河ドラマの関連で読んでいる『天璋院篤姫』徳永和喜著にそう書いてあった)

 080202_027s「晴れの日」用の椀は、壺・平・汁・飯の四つの蓋つき椀「八十椀」 (蓋付で8点だから「八重椀」というのは間違いか?)が基本で、民俗事例として20客揃いの八十椀を各講中で共有する「貸椀制度」がありました。 (『民具研究ハンドブック』S60・雄山閣出版)

 明治以降、山林が入会から国有になって伐採が不自由になり、木地師が定住して農家に転じてしまうと、木器の生産は急に減り、代わって陶磁器の生産がふえて日常生活にゆきわたります。 (『日本の生活文化財』S40・第一法規出版)
  どの家でも、お茶碗でご飯を食べるようになったのはそのころ。また木器にかわるちょっとぜいたくでプライベートなお茶碗は、また個人によって使い分ける銘々器の始まりでもあったと思います。

 080202_056s江戸の足軽屋敷などの発掘調査現場では、お茶碗を含む多量の陶磁器が考古資料として出土します。
 木器より残りやすいということもありますが、江戸では少々余裕のある家では、美しく衛生的な「せともの」が元禄時代から、食膳をにぎやかなものにしていたことでしょう。

⇒右のふたつの画像は、「御先手組」屋敷跡 東大追分学寮跡発掘調査見学会 で撮影(2008.2.2)した出土陶磁器です。

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2007年12月29日 (土)

F-2 中の山古墳(さきたま古墳群)出土の須恵質埴輪壺について

071202_129  12月8日のさきたま古墳群の奥の山古墳現地見学会の際、解説くださった若松良一先生に、歩きながら隣接する中の山古墳から出土した「埴輪壺」について興味深いお話を耳にしました。
 それは、通常の円筒埴輪ではなく、長い胴をした須恵器の壷で、さきたま史跡の博物館に常設展示されているとのこと。
 最近、弥生時代の生活用の壷が古墳の埴輪へと姿を変えることに興味を持っていましたので、耳をダンボのようにしてお聴きし、現地説明会が終わってから展示室で、じっくり拝見、さらに学習室で調査報告書の解説のページをコピーしていただきました。

 中の山古墳は墳丘長79m、剣菱形の二重の周濠を持ち、かつて石棺の如きものが発見されたと伝えられることから別名、唐櫃山(かろうとやま)古墳と呼ばれている前方後円墳です。071208t_041

 若松先生の考察によれば、この古墳から出土した須恵質の壺は底部を焼成前に穴を開けてあり、最低21個体、また須恵質の朝顔形円筒埴輪7個体が、周堀に転落した状態で確認され、本来は円筒埴輪のように墳丘上や中堤に廻らされていたと推定されています。
 ただし、この灰色をした長胴壷は、古墳前期の埴輪壺や底部を穿孔した土師器とは時間的な隔たりが大きく、平底を持つことから別系統で、須恵器の技法によって造られ埴輪的な性格を持っていて「須恵質埴輪壺」の名を与えたそうです。
 系譜としては、百済系の平底壺を大型に製作し、底部を穿孔して仮器化したものという見方を示されておられます。

 その後、エックス線解析した結果、約30キロ離れた寄居町の末野遺跡第3号窯で焼いたものであることが判明。中の山古墳は埴輪が一般に置かれなくなる6世紀末から7世紀初めの築造と推定されることから、時代的にこの埴輪壺は最後の埴輪といえるでしょう。
 この日、口頭では、埴輪の風習が朝鮮半島に伝播し当地で須恵質に変容し、それが百済滅亡など半島情勢の急変による人の移動にともなって、逆輸入された可能性も示唆されておられました。
 壺型&器台型埴輪から形象埴輪へ、そして時代の変遷でいったん廃れ、またその終末期に埼玉の地で、姿を変えて埴輪壺として一時的に復活する現象は面白いですね。

 なお、桃崎祐輔氏の「笊内37号横穴墓出土馬具から復元される馬装について」という報告で、大分県日田市の天満天満2号墳では、埼玉中の山古墳のものと類似する須恵器埴輪壺も出土していると追記されています。

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2007年10月28日 (日)

F-1 長い頸の「壺G」の謎

071027_084_5   先日、国立歴史民俗博物館で企画展「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」を見てきました。
 その中で、注目したのは、最後のほうに展示されていた「壺G」という地味な須恵器です。
 壺Gは8世紀末から9世紀初頭に静岡県の花坂島橋窯と助宗窯で生産された長頸壺のことで、企画の主旨としては、「特異な形式をもつ壺Gの移動に代表される物流の進展」を示し、長岡京とそのころの東北支配の拠点地と東日本で多く出土していることを強調していました。
 私がとても興味をもったのは、武蔵国府などのほか、佐倉市や酒々井町と並んで、八千代市の村上込の内遺跡など身近な古代集落からも出土した壺Gの展示、そして「壺G」と呼ばれる不思議な名前と、展示プロジェクトの一員の山中章氏の図録解説にあった「堅魚煮汁容器説・水筒説・徳利説・花瓶(ケビョウ)説など諸説あって定まらない」というその用途の謎でした。
 私は花瓶説が一番しっくりするように感じられましたが、山中氏の解説では「自立しにくい製品が多く、ぶら下げて使用したと考えられる」とのこと。(実際に見てみるとそんなことはないと思うけど・・)

 そして、壺Gの本場、静岡県に行くことでもあったら気にとめて見てみようと思っていた矢先、偶然にも壺Gの研究をされている佐野五十三氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所)に実物を見せていただきながらお話を聞く機会に巡りあいました。

071027_083  まず「壺G」という名は、奈良文化財研究所が壺Aからアルファベット順につけたちょっと珍しい須恵器壺の一つだということ。(なあ~だ。そうだったのか)
 形は太型から中細~細型まで、ちょっとだけ型式変化するようですが、いずれも高さ20㎝位の細長い形で頸が長く、堅牢で優雅な形だが作りは雑のようです。
 分布は、平城・長岡・平安京の旧都から東海・関東に多く分布し、東北の数か所の城や柵でも見つかっています。
 わが八千代市では、村上込の内遺跡のほか、井戸向、北海道遺跡など萱田の集落から出土しています。

 さてその用途ですが、佐野五十三氏の説は仏教用具としての花瓶説。
 そういえば、私は2004年9月、古代の十一面観音像に惹かれて、滋賀県や若狭の観音霊場を巡りたずねました。その時拝観した渡岸寺十一面観音羽賀寺の十一面観音の持つ花瓶が印象的でしたので、仏像の持つ花瓶に着目した佐野さんの説にはとても納得しています。

 佐野さんは千葉県袖ヶ浦市の遠寺原遺跡、群馬県十三宝遺跡のなどの仏教施設遺構からの出土例から、「行基などによる仏教の東国布教」にも関連付けておられます。
 そういえば、八千代市の萱田遺跡群では瓦塔や奈良三彩の小壷や小金銅仏、そして「寺」「仏」の墨書土器など仏教関連の遺物も多く出土しています。
 壺Gに花一輪添えて仏前に供えていた村の人々。寺といってもささやかなお堂だったかもしれませんが、少しばかり古代の村の姿を豊かに想像させてくれる一品ですね。

 さらに壺Gについては、なぜ産地限定で短命だったのか、東日本に分布が偏るのかなど、謎が残るようですが、今後の検討に期待しましょう。

写真は、静岡県の寺家前遺跡(上)と川合遺跡(下)出土の壺G (筆者撮影)
十一面観音像は、秘仏のため撮影禁止ですので、各自治体のHP画像に許可を得てリンクしています。

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