2013年1月25日、鎌倉の永福寺跡見学会の後、鎌倉観光スポットである頼朝の墓に詣でました。

頼朝の墓
ここには、「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」を題した鎌倉市の史跡案内板があり、次の解説文が書いてありました。
「この平場は、鎌倉時代を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。(中略)
建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、後の時代の武士たちからあつい信仰を集めました。
鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存在しましたが、17世紀の初期までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。
現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。」
頼朝の墓について見学中の学生に説明をしていたボランティアの方にお聞きすると、平場の右脇(東側)の細い山道を登ると、「大江広元の墓」があり、その近くが「義時の法華堂跡」とのこと。

大江広元墓への近道
行ってみると、やぐらのような墓穴3基が並んであり、横穴の内部に近世の五輪塔や灯ろうなどが置かれ、外回りを石材で近代式に整備されていました。

大江広元の墓(手前)と、毛利季光の墓(左)

大江広元の墓穴の内部
江戸後期の亀趺に載った大きな石碑もあり、中央が『大江広元』の墓、左が大江広元の4男で毛利家の祖である『毛利季光』の墓で、さらに参道を別にして並んでいる右側の墓穴は『島津忠久』の墓とされています。
さて、案内板のもう一つの法華堂跡『北条義時墓』はいったいどこ?
1224年に亡くなった北条義時は、「吾妻鏡」によると、「右大将家法華堂(源頼朝公の墓)の東の山上を墳墓とす」と記載されていて、3基の横穴墓の階段下の広場がその位置らしいのですが、現地には詳しい説明板もなく、よくわからないまま帰りました。

大江公墓所から階段下の広場(北条義時の墓堂・新法華堂跡)を望む
帰宅後インターネットで調べると、鎌倉市役所と湘南工科大学の共同サイトの『北条義時法華堂跡』発掘調査紹介のページ http://www.shonan-it.org/hojyo/index.html では、平成17年に発掘調査が行われ、その墳墓(新法華堂)の場所が特定されたという調査の概要が載っていました。
確かに頼朝の法華堂跡の平場より東側で一段低い位置の広場で、御堂を建てて儀式ができる立地です。
中世前期、トップリーダーの墓は、平泉中尊寺の金色堂のように遺骸を納めた上に廟堂を築き法華堂としたわけで、頼朝の法華堂と狭い尾根を挟んだ隣の一段低いところに義時の墓堂であるもう一つの法華堂が建立されたのです。
これで、市がたてた案内板のタイトル「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の意味がわかりました。
となると、この上の階段の上の3基の横穴墓は?
大江広元・毛利季光・島津忠久の墓とされたのは、島津藩・毛利藩の画策による江戸後期(石碑では文政6年)の整備によるのでしょう。
下の参道に入り口には、安政5年の「法華堂山/覚阿大江公御塔前」の立派な灯篭もありますが、大江広元の墓は十二所の明王院裏山という伝承もあります。
この3基の横穴墓の実態は、古墳後期の横穴墓 ⇒中世のやぐらとして祭祀場所 ⇒江戸後期に鎌倉武家だったの毛利・島津両家の祖先墓と、各時代を経て今に至る名所?になっているものと思われます。
それにしても、この何とも不思議な遺構は、外様の雄藩として明治維新を推進した薩長の島津・毛利家が、江戸時代になって、鎌倉政権の一翼の武家としての誇りを家祖の墓として形にし、今に残したということで、近世~近代の時代を語る遺構としての意味があるかもしれません。
でも一般の観光客には理解しにくいでしょうね
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