2013年2月 3日 (日)

D-3  荒久古墳と千葉寺

2/2は、千葉県中央博物館での千葉県遺跡調査研究発表会の後、博物館のある青葉の森公園内の荒久古墳千葉寺を八千代栗谷遺跡研究会の仲間と見学しました。

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 荒久古墳は、開析された千葉寺谷の最奥部の古墳です。

 高低差のあるその周りの環境は、船田池が語ってくれています。

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 昭和34年の発掘調査では、1体分の人骨、琥珀製棗玉3個、鉄製の馬具などが出土。大陸の墓制の影響を強く受けた最終末期(8世紀代)の古墳とのことです。
 墳丘は削られて小さくなっていますが、一辺約20mの方墳。周溝の外側に遊歩道を設け、その大きさが体験できるようになっていました。
 石室は凝灰質性砂岩の横穴式で、かつては中に入れたそうですが、今は埋められているらしく入ることなどできません。、
 ここからは、大網街道や千葉寺が一望できました。

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 千葉寺の創建は、和銅2年(709)、行基が観音像を安置したという伝承から始まります。

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 奈良時代には広大な寺域の中に、金堂を中心として講堂、南大門、東大門、西大門などの大伽藍が形成されていたことが、境内から発掘された奈良時代の土師器、須恵器、多数の布目瓦などでわかりました。
 中世は千葉氏の祈願寺として、近世以降は将軍家ゆかりの寺院、そして坂東三十三観音の札所としてにぎわいました。

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 本堂の前に立っている大銀杏は、樹高が30m超、幹廻が8mというもので、樹齢は千年といわれています。

 古代から中世へ千葉氏の成立を考えると、猪鼻の七天王塚(群集墳?)と荒久古墳と千葉寺の3つの関係は、龍角寺古墳群と岩屋古墳と龍角寺の3つに類似対応するように思えます。
 荒久古墳の主は、はたして千葉氏の祖先の国造であったかどうか、謎は尽きません。

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D-2 七天王塚の謎

 2013年2月2日、八千代栗谷遺跡研究会の仲間と、千葉県中央博物館で行われる千葉県遺跡調査研究発表会聴講に先立ち、近くの千葉大学医学部内外の「七天王塚」を探索しました。

Map   google地図に七つの塚と古墳跡の位置を書き込みました

 
 「七天王塚」について、千葉市教育委員会設置説明板から抜粋した内容です。

130202_015_2 『 千葉大学医学部構内に散在する七つの古塚は「七天王塚」または「七つ塚」と呼ばれ、古くから疫病・災害を除く神として崇められている。
 塚の上の古碑に刻まれている「牛頭天王(ごずてんのう)」は千葉氏の守護神の一つで、千学集抄には「千葉の守護神は曽場鷹大明神、堀内牛頭天王云々……」と記されている。
 このことから千葉氏は、猪鼻城の大手口に崇敬する北斗七星の形に七つの塚を配置して牛頭天王を祀り、一族の繁栄を祈ったものと考えられている。
 また一説には、この七天王塚は千葉氏の七人の兄弟を葬った墓であるとか、平将門の「七騎武者」の墓とも伝えられているが定かではない。』

 この七天王塚については、千葉氏の妙見信仰とともに中世にさかのぼることは確かですが、発掘調査はされていません。
 昭和35年千葉市の文化財(史跡)として保存され、また「塚の神木の小枝一本落としても祟る」といわれていて、古代については謎に包まれています。

 ところで、2002年医学部の研究棟建設に伴う発掘調査で、七天王塚の真ん中の帆立貝型の前方後円墳の存在が明らかになりました。

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     左の建物の下に古墳がありました

 墳丘が削られていたこの古墳は、軟質砂岩載積の横穴式石室を持ち、推定全長28m、周溝らしい溝から7世紀初頭~前半の須恵器が検出されており、また周りの土坑などの調査結果からも、古墳終末期~古代の大規模な墓域であったらしいです。

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   (検出された石室残部が、構内の七天王塚の近くに移設されていましたが、10年間でかなり風化磨滅しています。)

 石室を伴った古墳を取り巻く七つの塚が、首長墓を中心に北斗七星を意識して築かれたか、千葉氏が歴史に登場する平安時代以降、妙見信仰に関連して群集墳の7基を北斗七星になぞらえたかは、私にとってとても興味ある謎です。

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        医学部の外、バス通りの反対側にも2基の塚があります

  ところで、天気予報に反して、七天王塚見学中、急な雨と突風に見舞われました。
  地元に伝わる七天王塚の祟りは、天気女の私の神通力も効かず、本当みたいですね。

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D-1 鎌倉の「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と、大江公など3基の墓穴のなぞ

 2013年1月25日、鎌倉の永福寺跡見学会の後、鎌倉観光スポットである頼朝の墓に詣でました。

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    頼朝の墓

 ここには、「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」を題した鎌倉市の史跡案内板があり、次の解説文が書いてありました。

   「この平場は、鎌倉時代を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。(中略)
  建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、後の時代の武士たちからあつい信仰を集めました。
 鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存在しましたが、17世紀の初期までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。
 現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。」 

 頼朝の墓について見学中の学生に説明をしていたボランティアの方にお聞きすると、平場の右脇(東側)の細い山道を登ると、「大江広元の墓」があり、その近くが「義時の法華堂跡」とのこと。

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   大江広元墓への近道

 行ってみると、やぐらのような墓穴3基が並んであり、横穴の内部に近世の五輪塔や灯ろうなどが置かれ、外回りを石材で近代式に整備されていました。

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   大江広元の墓(手前)と、毛利季光の墓(左)

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   大江広元の墓穴の内部

 江戸後期の亀趺に載った大きな石碑もあり、中央が『大江広元』の墓、左が大江広元の4男で毛利家の祖である『毛利季光』の墓で、さらに参道を別にして並んでいる右側の墓穴は『島津忠久』の墓とされています。

 さて、案内板のもう一つの法華堂跡『北条義時墓』はいったいどこ?

 1224年に亡くなった北条義時は、「吾妻鏡」によると、「右大将家法華堂(源頼朝公の墓)の東の山上を墳墓とす」と記載されていて、3基の横穴墓の階段下の広場がその位置らしいのですが、現地には詳しい説明板もなく、よくわからないまま帰りました。

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  大江公墓所から階段下の広場(北条義時の墓堂・新法華堂跡)を望む

 

 帰宅後インターネットで調べると、鎌倉市役所と湘南工科大学の共同サイトの『北条義時法華堂跡』発掘調査紹介のページ http://www.shonan-it.org/hojyo/index.html では、平成17年に発掘調査が行われ、その墳墓(新法華堂)の場所が特定されたという調査の概要が載っていました。

 確かに頼朝の法華堂跡の平場より東側で一段低い位置の広場で、御堂を建てて儀式ができる立地です。

 中世前期、トップリーダーの墓は、平泉中尊寺の金色堂のように遺骸を納めた上に廟堂を築き法華堂としたわけで、頼朝の法華堂と狭い尾根を挟んだ隣の一段低いところに義時の墓堂であるもう一つの法華堂が建立されたのです。

 これで、市がたてた案内板のタイトル「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の意味がわかりました。

 となると、この上の階段の上の3基の横穴墓は?

 大江広元・毛利季光・島津忠久の墓とされたのは、島津藩・毛利藩の画策による江戸後期(石碑では文政6年)の整備によるのでしょう。

 下の参道に入り口には、安政5年の「法華堂山/覚阿大江公御塔前」の立派な灯篭もありますが、大江広元の墓は十二所の明王院裏山という伝承もあります。

 この3基の横穴墓の実態は、古墳後期の横穴墓 ⇒中世のやぐらとして祭祀場所 ⇒江戸後期に鎌倉武家だったの毛利・島津両家の祖先墓と、各時代を経て今に至る名所?になっているものと思われます。

 それにしても、この何とも不思議な遺構は、外様の雄藩として明治維新を推進した薩長の島津・毛利家が、江戸時代になって、鎌倉政権の一翼の武家としての誇りを家祖の墓として形にし、今に残したということで、近世~近代の時代を語る遺構としての意味があるかもしれません。

 でも一般の観光客には理解しにくいでしょうね

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