2015年10月 2日 (金)

M-7 雅叙園百段階段を彩る「華道家 假屋崎省吾の世界」展

2015年秋、目黒雅叙園で開催中の「華道家 假屋崎省吾の世界」展のブロガー内覧会に参加しました。

東京都有形文化財に指定されている雅叙園の「百段階段」は、昭和10年に建てられた近代和風建築。99段の階段の脇には、贅を尽くした7つのお座敷があり、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した傑作といわれています。

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その「百段階段」を舞台にしての假屋崎省吾さんの華道展は、前から行きたいと思って、チケットも確保して初日開催を心待ちにしていたところ、幸いにもその前日の930日にブロガー内覧会が行われることを知り、さっそく応募して、一足早く鑑賞してきました。

雅叙園ロビーの現代アート風の胡蝶蘭作品を前に、内覧会の説明があり、螺鈿と漆芸で装飾されたエレベーターで旧館の入口へと進むと、ケヤキ造りの階段が別世界へと誘います。

01_4               階段脇のトイレにもオンシジュームが。

 

さて、かつての宴会用の各お座敷には、部屋いっぱいに假屋崎省吾さんの作品が絢爛豪華に広がっています。

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美術界の巨匠、荒木十畝、礒部草丘、橋本静水、板倉星光、鏑木清方が精魂込めた「十畝の間」、「草丘の間」、「静水の間」、「星光の間」、「清方の間」。 描かれたテーマによる「漁樵の間」とそして階段を上り詰めた一番上の「頂上の間」。

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天井や壁を飾る絵や建具、そして床の間の掛け軸も最高級の美術品なのですが、それらといけばな作品が見事に調和していました。

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さらに、いけばなと共に飾られている着物のデザイン・プロデュースも假屋崎さん。BGMで穴れているショパンのピアノ曲も假屋崎さん演奏のCDとか。假屋崎さんすばらしい才能と明るく楽しい人柄が会場いっぱいにあふれていました。

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この「百段階段」での假屋崎省吾氏の華道展は今回で16回目とのこと。
琳派四百年にちなみ「和美共感」が、今年のテーマだそうです。
開催期間は101日(木)~1025日(日)まで、詳しくは公式サイトをご覧ください。https://www.megurogajoen.co.jp/event/kariyazaki/

なお、作品の写真(31枚)を、マイフォトのアルバムにアップしました。
假屋崎さんデザインの「黄金の牡丹」やDaumの花器、「花育」アピールの生産者とのコラボ作品など、多彩な写真をご覧ください。
http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/photos/2015930_/index.html


本ブログとマイフォトの写真は、特別の許可をいただき撮影したものです。

 

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2013年10月19日 (土)

M-6 「モースが見た庶民のくらし」展~江戸博にて

 
131017_005_2_7 10月17日、両国の夜空に十三夜の月がさえる中、江戸東京博物館の特別展明治のこころ モースが見た庶民のくらし」“ブロガー・特別内覧会”へ。
 この展示を
企画された小林淳一副館長のギャラリートークをお聴きしながら、展示を拝見でき、とても充実した夜となりました。


 モースについては、日本考古学の始まりというべき大森貝塚の発見のほか、日本の庶民生活を観察したこともよく知っていました。
 でも今回の展示で、こんなにもたくさんのすばらしいモノの収集をしておられたとは、本当にびっくりです。

 まさに、「日本がなくしたものを、彼がとっておいてくれた」珠玉の品々が、今回一堂に里帰りしていました。

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大森貝塚の発見

 今回のモースコレクション展では、「大森貝塚」についての展示は、第1章「モースという人」の導入部のごく一部の展示だけですが、彼のスケッチと実物(縄文後期の土器)が並べてあります。
 
写真が一般的でなかったころの記録、その正確な描写には、若年の一時、製図工であったモースの、実物をしのぐ絵の力を感じました。

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Photo モースが発見した縄文土器(東京大学総合研究博物館蔵・重要文化財)

 
モースのまなざし

 モースの集めた日本人を対象にした民族資料は、彼が愛する人々のごく普段使いのもの、そして日記に書き留めた日本の音風景は、異国での最初の朝の路上を行く下駄のカランコロンという不思議なよく響く音から始まります。

 今回の第2章の「日本と日本人」のはじめの「よそおう」のコーナーは、片減りし土のついたままの粗末な下駄からスタートします。

 
 
 
 

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布モノの運命

 展示では、武家や公家の女性たち用の高級品の蒔絵の化粧道具などもありますが、なんといっても普段着の着物や下着、手ぬぐいなどが、その姿をとどめていることに驚かされます。

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 左:腰巻と前掛け 右上:手拭い 右下:ぞうきん(弱った生地を重ね合わせ刺し子にしてある)

 これらの布物は、別々のテーマに展示されていますが、「もったいない」の心で使い回しされ、、最後は雑巾としていかされ、捨てられます。それが道具本来の姿でしょう。

 そのいずれ捨てられる運命のモノを、モースは拾い上げ、それぞれの道具本来の理にかなった美しい姿を、時間を止めて示してくれている感じました。

庶民生活の豊さってなんだろう
 使って、飾って、見せびらかして楽しむささやかなグッズ。
 それは職人の技の競い合いとユーモアに共感する遊び心かもしれません。
 モースもまたそんな庶民の遊び心の良き理解者であったと思えます。

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     左:うさぎとたぬきの手あぶり火鉢 右:ミニュチュアの店舗模型(瀬戸物屋)

 

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竹細工の掛け花入れ(キノコ・トンボ・バッタ)、モースの加賀屋敷の自筆に飾られたことが絵日記に載っている

子どもの情景
 モースは当時の町やムラの情景の中で、慈しみ深い家族の姿を、「日本は子どもの天国」「「日本ほど子供が大切に取り扱われ、深い注意が払われる国はない」と表現しています。
 私が驚いたのは、金蒔絵の「犬筥」のような豪華な調度品とともに、それだけではなく、墨で真っ黒になった「手習い帳」や、着物の下に身に着けさせた「迷子札」のような子どもが使った品々を集めていてくれたことでした。

 「こども」のコーナータイトルに飾られている手習い帳には、モースの教え子の宮岡恒次郎の娘の「宮岡きん」の名前があります。「きん」の「き」の字の点が左右逆なのも、ほほえましい限り。
 モースは、真っ黒になっても乾くと新しく書いた文字が墨の上にはっきり残ることを記しています。

 そのほか、モースの娘エディが遊んだ縮緬細工の「うさぎ」や、宮岡恒次郎の妹?の「竹中ひさ」の迷子札など、家族ぐるみで親交のあった弟子や知人の子どもたちの持ち物もコレクションにあって、興味が惹かれました。

03                                  右上:宮岡きんの手習い帳

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   左:安産祈願のための婚礼調度「犬筥」   右:縮緬細工のうさぎ   右上:迷子札

くらしのなかの祈り
 今回の特別展で、私が一番関心があったのは、行者の背に背負われて町やムラを巡り歩く「巡り観音」のモース蒐集の写真のパネルと、そのような習俗の実物資料として蒐集された「巡り地蔵」でした。
 
 「巡り地蔵」は、優しいお顔の子安地蔵で、背負いやすいよう縦長の厨子に安置され、極彩色と過剰な装飾が施されています。
 子育て安産を願う庶民からいくばくかの喜捨をもらいながら、ムラのお堂や辻で開帳されたり、また家々を門付して廻ったのでしょう。

 明治維新後の混乱期に、ボストン美術館などに収められた美術品は数々あるでしょうが、廃仏毀釈されてしまった仏像も限りなく多く、特に古刹の本尊でもないような庶民信仰の仏像がこのようによい状態で保存され、公開されことは極めてまれなことです。
 この「巡り地蔵」は、アメリカで1914年にボストン美術館を経て、モースの民族コレクションのあるピーボディー・エセックス博物館の所蔵となったようですが、このような貴重な民間信仰の実物資料を保存し、里帰りさせていただいたことに、感謝したいと思います。

05 左:「いのり」のコーナー展示   中:「巡り地蔵」  右:「巡り観音」の写真パネル

さいごに
 このほか第2章では、職人の技の世界「なりわい」のコーナーや、モースが見世物小屋で見てコレクションに加えた「生き人形」など、また第3章「モースをめぐる人々」にはモースによって学術的に整理された「モース陶器コレクション」など、貴重で面白いコーナーもまだまだあります。 
 
 

06 左:モース陶磁器コレクションの展示    右:リアルな「生き人形」(ここはだれでも撮影可)

 この特別展の展示は12月8日まで、詳しくは江戸東京博物館の開館20周年記念特別展公式HPをご覧ください。
 なお掲載写真はブロガー展示会参加に限り、主催者の許可を得て撮影させていただいたものです。
 最後に、この特別展を企画し、内覧会で親しくご説明くださり、私にモースについて新しい視点を与えてくださった小林淳一副館長、江戸時代の名残をとどめた明治初期の私たちの先々代の生活を見せてくださったエドワード・シルベスター・モースさまにあつく御礼申し上げます。

 

 

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2013年10月 8日 (火)

M-5 歴博の「中世の古文書 -機能と形-」展内覧会にて

 博物館の展示で、一番スルーしやすいのは、古文書の陳列ケースでしょう。
 それでいて、館の主催する古文書学習の講座はいつも満杯。
 う~ん、展示の方法が悪いのか、いくら重文で貴重でも、絵画や工芸品にはかなわないって、どの担当者も頭を悩ませておられることでしょう。

 さて、今年開館30周年を迎えた「歴博」こと国立歴史民俗博物館が、2013年のこの秋、ただでさえ苦手な古文書、しかも中世ばかりという企画に果敢に挑んでいます。
 だって、この館が収集した中世文書については「質・量ともに世界一」なんですって。
 かくして、企画展タイトルは、「中世の古文書 -機能と形-」。

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 う~ん、でも難しそう?と思っていたら、HPのプレスリリースにブロガー向け内覧会のお知らせがあり、この展示は「読めなくても大丈夫!」とか。このキャッチフレーズに惹かれてさっそく申込み、10月7日行ってみました。

 まずは、ポスター、「この文書は誰が出した?」そして「義経、頼朝、泰時、後醍醐、尊氏、政元、信長・・・」の名。まさに「空前の総合的中世文書展」なんです。
 会場に入ると、まず入り口右上にスライドが映し出されます。(無視せず、しばし足を止めて見てみましょう)

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 あっ、高校教科書にある「源頼朝下文」(1192)だ! でも、キャプションは釈文でなく「とてもいばった書き方(花押は文書の右端)」。
    (下に「源頼朝下文」、本物です)

  
 次に、スライドが替わって、左パネルにもある足利尊氏の御教書(1352)はていねいな書き方(花押は日付の下)」(うん、普通)。
 でも同じ将軍職でもなんで?

 この企画の面白さは、こんな発見の連続にあるようです。
 

 

 ここにある文書は、名家や寺院に大切に伝えられた伝世の古美術のような文書と、発掘資料のように、裏面が使用された紙の中から発見された紙背文書があり、後者の典型として、「源義経自筆書状」(1185)が展示されています。 
 義経の自筆文書は世に2通だけとか。 
 その1通が一度捨てられた紙背文書としてここにある理由は、当時朝敵だった義経の文書に恩賞などの価値がなかったから。
 その後、伝説の中に義経がよみがえって、近代の目利きのコレクターに見いだされ、屏風の一部分に表装されて、博物館の所蔵になったというこの文書の運命は、ドラマティックですね。 (義経の書状は屏風の右上角の1枚です)

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 さて、膨大な「発見」のあるこの企画展示で、私が一番関心のあったのは、「後醍醐天皇綸旨」(1326)などが書かれた黒い料紙でした。
 内覧会の後、文書料紙に詳しい富田正弘先生にお聞きすると、これは「宿紙」といって、朝廷の図書寮紙屋院で古紙を漉き直した料紙がルーツだったそうです。 4_3

 蔵人所では、天皇の命令でも略式の命令であった綸旨や口宣案には、このリサイクル紙を使うことになっていたのが、いつのまにか有職故実となり、中世、特に南北朝のころの天皇の権威づけなどに、黒い紙を使ったとのこと。
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 後醍醐天皇を描いた『絵師草子』(14世紀)にも、天皇の読む綸旨は黒く描かれています。
 ただし、この「宿紙」、漉き直しただけではきれいなダークグレーにはならないので、墨を入れてわざわざ黒くしたらしいです。

 (そういえば、今の役所でも再生紙使用が義務のようになっていて、役所に納品する再生紙では古紙配合率の偽装問題まで起きました。
 民間会社ではもう使わないような再生紙。さらに役所内部の文書は裏紙使用。でもこれはプリンターを詰まらせる元凶で、結局は古紙回収やシュレッダー行きでした。)

 企画を担当された小島道裕先生、髙橋一樹先生、小倉 慈司先生の内覧会でのトークはとても面白く、中世文書の世界を十分堪能できました。
 この展示は12月1日まで、そう、読めなくって楽しめる企画展です。

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2013年4月24日 (水)

M-4 東博の「国宝 大神社展」ブロガー内覧会に参加して

 2013年4月9日から東京国立博物館で始まった「国宝 大神社展 」。

 130423_102私も初日からさっそく見学、百数十点の国宝・重文の神宝・神像のパワーに圧倒されてきました。
 中でも、香取神宮の「海獣葡萄鏡 」、氷川女体神社の「牡丹文瓶子 」、吉野の「子守明神像」については興味深く、すでにこのブログにルポを書きました。

   
 帰宅後、図録を見ながら、七支刀や神像、大三輪神社や沖ノ島の奉斎物をもう一度見たいと思っていたら、なんと4月23日夜開催の「ブロガー内覧会」のお知らせ。
 130423_127さっそく応募したら、運よく招待券をいただき、井上洋一考古研究員による「神道のルーツ!考古を探る」、丸山士郎彫刻史研究員による「神は人に見たてられた!?」と題するギャラリートーク付きで、再度、お宝の数々を、改めて「群」としての視点で見てきました。(⇒井上先生が馬具を解説)

 その中から第一・二・五・六章を紹介します。

☆第一章 古神宝
 最高位の人の暮らしをカミさまもなさるわけですが、社殿に納められたお宝は、人が袖を通したことのない豪華な装束や手ズレのない調度品など。
 これらが、未使用のままタイムカプセルに入れられて、今、私たちの前に封が切られてあるのですから、驚きです。

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  ↑熊野速玉大社の古神宝の装束類(14世紀)
 カミさまが着られる装束なので、人が着る物より大きくまたは小さく作られるそうです。
 また、遷宮の際、新たに新調され、古いものは人の手に触れられることなく焼却または埋納されるが、何かの事情で神社に保管された古神宝もあり、今回の展示品は、その貴重な事例とか。



☆第二章 祀りのはじまり
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 神社社殿も、人の手で造られた御神体もなかった原始宗教の時代。
 山の神と海の神への捧げものの考古遺物が、その時代の最高の技術と美意識を語ってくれていました。

   ⇒ 奈良・山ノ神遺跡出土品                
      
神体である三輪山山麓で、出土した
      カミ祭り用の酒造りの道具一式
      古墳時代の土製ミニュチュアです。

    ↓国宝 金銅製雛機
      福岡・沖ノ島祭祀遺跡出土
      実際に糸をかけて織ることもできるミニ織機
      (佐倉の歴博オープン時に、このレプリカに感動したことを思い出しました)        

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☆第五章 伝世の名品
 古墳や国衙跡などの遺跡から普段は傷んだ姿でしかお目にかかることのないお宝の数々が、往時のまま伝世品として輝いて並ぶ姿は圧巻です。

 教科書や図鑑で見てきたおなじみの古鏡や武具について、細密な部分も至近距離で観察できます。

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 特に「辟百兵」のパワーを持つ4世紀の「七支刀」、その金象嵌の判読された銘文も一字一字、「海獣葡萄鏡」の瑞兆を現す獣の姿もはっきりわかりました。

 なお、一般に縦の姿が知られている七支刀を横にして展示しているのは、一か所折れているため、現状維持の安全を石上神宮から強く言われたためとか。
 結果的には、金象嵌を目線の高さで一字一字確認でき、またたくさんの人が一緒に見ることができ、よかったと思いました。

 また、七支刀の5月6日までの当初の展示予定が、石上神宮森宮司さまのご厚意で5月12日まで延長されるとのことです。

☆第六章 神々の姿

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   ↑第六章の入口
弓を引き、つがえる姿の随身立像(1162)と若松神社(滋賀県・12世紀)の獅子・狛犬が迎えてくれます

 仏像になぞられて神像が作られた8~9世紀、「創作」されたカミの姿は、記紀神話と同じくまさしく人間の姿でした。

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   ↑松尾大社の女神・老いた男神・若い男神の像(9世紀)  ↓櫛石窓神社の女神坐像(11世紀)

 130423_259その品格ある風貌も、老若男女、童形までそれぞれの特徴を表現し、よく見ると個性豊か。
 女房装束の女神も、当時の甲冑装束の武人(武神?)も仏像のように儀軌に縛られることがなく、自由に造形されています。

 なお、坐像が多く、腰から下の奥行が寸詰まりになるのは、神殿の狭い内陣の扉奥に秘匿されたからとか。
 また一木彫であったのは、樹の霊気を宿すためでしょうか。

 御姿を見せることのない神像の数々が、これだけそろうと、古代の人が理想とした体格、風貌、そして家族、また時代による彫刻技法や表現、装束の変化などを、楽しく考察できました。130423_207         ↑ 南宮神社(広島県)の神像群(12世紀) 
            男神4躯、女神3躯に、男の子と女の子の神像が1躯ずつ仲良く並んでいます。

 最後に、Webやブログなどの発信者、ブロガーの存在意義を評価して、このような内覧会を開催してくださった東京国立博物館の広報担当の皆様に感謝します。
 このような新しい試みは、きっと博物館・美術館の今後の活動の方向に良い結果がもたらされると思います。

 なお、このページに掲載した写真は、主催者から撮影許可をいただいています。

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2012年8月11日 (土)

M-3 創作空間「縄文の丘」を訪ねて

 創作空間「縄文の丘」、それは夢のような世界でした。
 研究と蒐集、作品制作と鑑賞、そしてその時空を超えた空間での生活!
 先日訪ねた戸村正己・真理子ご夫妻のお家とお庭は、今思い返すと真夏の陽光に広がる白昼夢のような光景でした。

02_2 戸村正己さんは少年のころから縄文土器に感動、加曽利貝塚博物館で故・新井司郎氏に土器製作を学び、若くして亡くなられた師の遺志を引き継ぎ「独自の土器づくり」活動を展開、縄文びとが土器づくりに込めた思いを伝えられておられるとのこと。
 特に戸村さん制作の「祈りの人形(ひとがた)」縄文土偶には、戸村邸を訪ねた多くの方々が感動されているとの情報で、ぜひ一度訪ねてみたいと声も多くあり、八千代栗谷遺跡研究会のイベントとして企画した訪問でした。

 千葉県八街市用草の「縄文の丘」と訪ねたのは、2012年8月5日。
 
 ご一緒したのは考古学好きと、土器つくりを趣味としているメンバーの総勢23名です。15_2

 6台の車を連ねて下総台地の畑道から細い林道を抜けると、ロッジ風の戸村さんの家に到着。
 広い前庭の片隅に塚があり、無造作に土器が半ば土に埋もれています。
 戸村さんから復元土器を自然に任せ、風化する過程を観察されているという説明を受け、発掘現場に立ち会ったような臨場感のある気分のまま、お家の中に誘われ、玄関を入ると、床下がガラス張りになっていて、地中にあるがごとく、注口土器などの実資料が展示されています。

 中のホールは、日本列島で発掘された主だった土偶が、完全な姿で復元され、壁面には縄文後期の山形土偶からミミズク土偶へうつり変わっていく過程が一目瞭然にわかるよう展示されていました。
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奥の書斎は、北日本の晩期を象徴する遮光器土偶の世界、戸村さんはその棚から、姿はミミズク型で中空の大型土偶を手にされて、大型の遮光器土偶の特徴の中空にする技法がミミズク型土偶に影響していく現象など丁寧に説明くださいました。

 ホールから続くテラスには、中部地方の陽気な丸顔が微笑む深鉢など、ダイナミックで手の込んだ中期勝坂式の大きな深鉢が並んでいます。
 そして遠方に目を移すと、野山のお花畑をイメージする花壇の周りに、ヴィーナス風の逸品の土偶が、木立や草花を背景にたたずんでいました。 112

 その棚の下には的確な解説がついていて、下半身が失われて出土した土偶をどのように考証し想定して復元したのか、その努力の過程もわかります。

 この女神たちに誘われて森の中に入ると、なんと竪穴住居が復元されています。
 「縄文の丘」の「迎賓館」だそうで、中は、炉を中心に意外と快適で、落ち着きのある空間でした。
 森の中で八街名物のスイカをふるまわれ、まるで林間学校のキャンプのようにはしゃいだ後、母屋に戻ると、和室にも囲炉裏が切ってあって、自在鍵には、千歳市美々遺跡の動物形土製品を模した横木が宙を飛ぶ海獣のような姿で取り付けられているのがユーモラスです。

19 一巡して食堂で飲み物をいただき、カウンターに目を転ずると、縄文土器を模した杯、そしてどこかで見たようなキャンディ入れ。 真脇遺跡の鳥形突起付土器がモデルの、奥様の真理子さんの作品。
(鳥形突起付土器は⇒ 「縄文グッズin八千代 」J-4をご覧ください)
 

 さりげなく縄文土器が日常の器として使われている生活。
 アトリエであり、私設ミュージアムであり、研究室であるこの家は、 まずは第一に戸村さんご夫妻の生活するうらやましい限りのマイホームなのです。

113_5 最後に、玄関横の階段下につつましく置かれた「子どもを抱く土偶」(東京都宮田遺跡出土・縄文中期)に目が留まりました。
 欠損した母像の顔が見事に復元されています。

 完全な姿で出土することがほとんどない土偶たち、その姿を現代によみがえらせるには、科学的な考証がとても大事ですが、さらに、時代考証だけでは表現できない縄文びとの心と祈りをどのように復元し伝えるか。
 その課題にも、大胆に挑戦される戸村さんの技と才能に感動するばかりでした。
 そしてこの復元された小さな母子像を通し、太古の母の思いと祈りが、時空を超えていまの私たちにも届いたということにも、戸村さんご夫妻に感謝したいと思います。

この続きの画像は、マイフォトでご覧ください。                                 ⇒2012.08.05「縄文の丘」の祈りの世界

「やちくりけんブログ」⇒ 「縄文の丘」戸村正巳氏邸&印旛郡市埋蔵文化財センターその他の見学と学習会の報告

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2007年5月26日 (土)

M-2 西アジアの遺丘(テル)の風景と最古の女神像

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  今日(5/26)午前中は、五月祭でにぎわう東京大学へ出かけ、東大総合研究博物館で今日から開催の企画展「遺丘と女神-メソポタミア原始農村の黎明」を見てきました。 (残念ながら、会場は撮影禁止ですので、会場内の画像はありません。館の公式HPも図録もまだできていません)
 展示の主人公はシリアのテル・セクル・アル・アヘイマル遺跡から出土した約9000年前の女神の土偶。「メソポタミア地域最古の写実女性土偶。初期農耕民の信仰が分かる」のだそうです。
  070526_002s高さ約15cmぐらいで未焼成ですが、泥をクリーニングして現われた顔は、ポスターの未整備な姿とは違い、目鼻立ちくっきりの艶やかな面差し、後姿は長野県棚畑のヴィーナスさながらの丸くぷっくりしたお尻が印象的です。(6月10日まで実物を展示、以後はレプリカ)

 もうひとつこの展示で、印象深かったのは、「遺丘(テル)」の姿。
 会場のプロローグを飾るは、1956年のテル・サラサートの写真と江上波夫先生の詩でした。

 070526_004sテル・サラサートの丘に立ちて
               江上波夫

  この遺丘(テル)は村落(むら)の亡骸
 村落(むら)に生まれ 村落(むら)死し
 代代(よよ)の村落(むらむら) その亡骸を
 ここに埋め 積み重なりて
 風悲しき丘となれり

 黄泉(とこつよ)のこの村落(むら)むらの
 070526_011s萱ぶきの屋根は崩れ
 泥土の壁も空しく
 土台(つちくれ)のみ積み重なりて
 家々の骨格(ほねぐみ)を露わす

 住み人は 老いも若きも
 冷たき床に永遠(とこしえ)の沈黙(しじま)にたえ
 壁際のパン焼竃に
 火は消えて六千有年
 ティグリスの曠野に
 人知れず横たわる
 
この村落(むら)むらの亡骸

 われらいま 科学の魔杖もて
 この村落(むら)むらの亡骸に
 光と 動きと 言葉を与え
 この遺丘(テル)をして 
 現世(このよ)に 鳴動せしめんとす

 会場の真ん中にも大きな遺丘(テル)モデルと遺丘断面パネルが立体的に表現されています。
 この風景はどこかで見たはず!
 そう! 発掘調査直後の馬場小室山遺跡、そして栃木県の寺野東遺跡のジオラマ模型の姿そっくり。
 2005年10月1日馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」で、明大の阿部芳郎先生が『「環状盛土遺構」より、「遺丘集落遺跡群」』と定義したほうが良いと提起された遺丘(テル)の実像に少しでも触れることができたように感じました。
 070526_058s(ただ、遺丘モデルの裾に置かれたらくだの模型の小ささで推し量ると、その規模は十何倍も違いますが・・・)

 そのほか「メソポタミアの最古の土器」、線刻や黒と赤で彩色された紋様があざやかな「メディアとしての土器」なども、日本列島の縄文紋様の土器に思いを馳せながら、興味深く観てきました。

  総合研究博物館を出て、息子のかかわっていた文芸サークルの五月祭展示会場にちょっと寄って、午後からは、お茶の水の明治大学へ赴き、日本考古学協会の公開講演会を聴き、駅への帰り道、お茶の水クリスチャンセンター4階の聖書考古学資料館に寄ってみました。

 この資料館の開館は月曜と土曜の午後1~6時までで、そのほかの日はいつも閉まっていますが、今日はちょうど開いていて、ラッキー!
 シリアからイスラエル~エジプト~ローマの古代遺跡と遺物(ブラック・オベリスク、粘土板文書、円筒印章、壷・碗などの土器、土偶など) が展示されていて、さらに膨大な旧約聖書の背景となる西アジアの考古学資料を身近に親しむことができました。 (ここも撮影禁止です)
 解き明かされる最古の人類の歴史、考古学協会の講演会も含め、その文化の源流を訪ねる一日でした。

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2007年4月22日 (日)

M-1 行ってきました!国立東京博物館の レオナルド・ダ・ヴィンチ展 

070421_041_2 昨日の土曜日(4/21)は、久しぶりに「遊んで」過ごしました。

行った所は国立東京博物館の 特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ-天才の実像」
今、街中も駅も、小さな博物館も教会も、レオナルドの《受胎告知》のポスターやチラシであふれているし、NHKも朝日新聞も特集報道で真っ盛り!
近頃は、ちょっと込みそうな特別展は金曜日の夜の延長開館など利用し、人ごみをかきわけてとか、行列を作って並ぶなんてめったにしないのですが、今回のダ・ヴィンチ展は、ダメモトで申し込んだ記念講演会(池上 英洋 氏「レオナルドで知るルネサンス―波乱の生涯と、激動の時代の魅力」)の入場券が抽選で当たったので、一番込みそうな土曜日の午前中から出かけることにしました。(→混雑状況

070421_022_1 有名な美術展は、駅を下りた時からなんとなく興奮するのですが 、桜の花から新緑へと景色の変わった上野の公園も、動物園を過ぎるとほとんど東博へ人が流れて行くよう。
門を入ると、本館から東洋館の端までずっと人の列、「ここが本館の「受胎告知」の40分待ちの最後尾」と案内しています。聞けば、第2会場の平成館の方は、まだそんなに並ばなくてもよいとのことなので、まずは、先にそちらの会場から見てまわりました。

フィレンツェのウフィツィ美術館で開催されていた企画展「The Mind of Leonardo 」をアレンジした特別展で、ダ・ヴィンチの「手稿」を元に、彼の創造世界を解き明かす試みが、実験模型の再現やCGによる映像などでふんだんに紹介されています。

070421_032その中でも興味深かったのは「《最後の晩餐》における心の動き」の映像。キリストへの裏切りが告げられると使徒たちがそれぞれ個性的な反応を示す、その反応を劇的なイメージでひとつの作品に描いていることをCGで表現しています。

もう一つは「調和のとれた動き、プログラムされた動き」の例として、3つの連続した動きを調和させた作品《聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ》の紹介。一枚の絵の中に、幼子イエスの身を投げかけるようなしぐさ(後の受難の予見)、母マリアの思わず抱き戻そうとする動き、そしてマリアの母アンナが天を指し示しイエスの犠牲が神の意思によるものとマリアに気づかせる動作が描かれています。

遠近法や光と影の使い方などの技術を駆使して三次元の立体像を二次元に表現することの難しさもさることながら、一瞬をとらえた絵の中に動きと物語性を持たせるなんて本当にすごいことだと、ただただ感心してしまいました。
時系列的な物語性の表現としては、「信貴山縁起」など何枚かの絵に描き分ける絵巻のような表現形態もあるのでしょうが、人の能力の限界を超越したレオナルド・ダ・ヴィンチの才能に敬服しました。

池上氏の記念講演では、ルネッサンス当時の戦国社会、ダ・ヴィンチ家の生活や系譜(男女の歳の差のある婚姻、婚外子レオナルドの処遇、産褥死の多さ)などの歴史考証も興味深かったのですが、レオナルドの科学の探求について、解剖などのあった当時は抵抗もあった試みもあえて行ったことの背景には、被造物に働く神の業の法則をその中に見出そうとした彼の信念があったと述べられたことが印象的でした。

さて、講演会も終わった3時過ぎ、30分待ちぐらいになった「受胎告知」の行列の後に並び、本館特別5室へ向かいました。
ポスターやカードで見慣れていた「名画」、やはり本物はさすがですね。
ニスの除去などの修復でよみがえったというこの絵の美しいこと! 
油絵とは思えないほどの精密さと、大胆で奥行きとひろがりのある構図。
でも、列の中で先へ進んで外に出なければならず、うっとりしている間もありません。

また、平成館に戻り、「伝」レオナルド・ダ・ヴィンチ作という《少年キリスト像》などを見たり、休んだりして、午後6時の閉館間際、また本館特別5室へ。このときは最後尾でゆっくり見ることができました。
マリアの美しい表情も、天使の羽も、衣の量感も、背景の山河もすばらしい!の一言ですが、間近で見た地面を覆う草花。緑色ではなく、漆のような黒褐色の地色に、薄い色の葉の線、そして白・青・紫色の可憐な花が描かれています。
この草花を見たとき、思い出したのは、一年前、東京国立近代美術館で開かれた「生誕120年 藤田嗣治展」でのある絵でした。
1枚は《アッツ島玉砕》、もう1枚は《十字架降下》、その暗い色彩の地面にもわずかに草花が描かれていました。また《優美神》の作品では、草花がテーマではないかと思えるほど、丹念に描いています。
晩年レオナードの洗礼名をつけた藤田嗣治は、この《受胎告知》の草花に思うところがあったのでしょうか。
その頃の修復前のこの絵では、地面の草花ももっと暗かったことでしょう。
藤田嗣治は、このめだたないこの草花になにか心引かれていたのではないかと、思い巡らしました。

ミーハーといわれればそのとおりですが、みんなが見たくなるものは見てみなきゃと、私も行列の一員になった話題の展覧会。
4月21日だけで来場者数が1万数千人だったようです。

そういえば、小学生の頃(1959年)、この東博で「正倉院展」を見ました。
高校教師だという友人の父親に、一般より優遇された高校生の団体の列に入れてもらったのですが、それでも一時間以上は並びました。
その時見た鳥毛立女屏風や螺鈿の五絃琵琶、白瑠璃碗などは、その時受けた国際的な古代日本の印象とともに、今でも鮮やかに覚えています。

070421_046並んだということでは、2002年春に行われた巨勢山古墳群の條ウル神古墳現地見学会がすごかったですね。
このときの人出は1万人とか。

楽しかったきのう一日、夕暮れの上野公園を歩きながら、今度はぜひ、ウフィツィ美術館でダヴィンチやラファエロの作品に接してみたいと思いました。

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