1月13日の明治大学古代学研究所公開研究会「古代印波シンポジウム」は、220名という参加者で大変な盛況で、150部の予稿レジメはすぐになくなり、お手伝いの院生さんは一日中レジメの増刷作業に追われていたそうです。
地域限定超ローカルなテーマを、東京のど真ん中で聞くというのも、私にとって不思議な感覚でしたが、私たちの地元の歴史が考古学と文献史学のコラボレーションで明らかにされていく醍醐味をたっぷりと味あわせてくださった関係者の皆様に感謝です。
印旛沼の北東部は、『国造本紀』のいう「印波国造」の勢力下にあり、その印波の地域には、東部(成田市)の公津原古墳群と、西部(栄町)の竜角寺古墳群の二大古墳群があります。
今回の「古代印波シンポジウム」での白井久美子さんのお話しでは、公津原古墳群は6世紀、竜角寺古墳群は7世紀が中心の古墳や集落遺跡が多く、川尻秋生さんなどの発表によれば、7世紀後半になると「丈部(はせつかべ)」と「大生部(壬生)」などの氏族が共存していた印波国造の支配領域は、もともとの印波国造の本拠の印波評(郡)と、大生部直が急速に勢力を拡大した埴生評(郡)との2つの評(郡)に分かれ、その後(8世紀)、この勢力は、八千代市や印西市方面の開発に向かっていったことが、この地域の墨書土器などからたどれるとのことです。
ところで、このシンポジウムのテーマの舞台になったのは、主に竜角寺古墳群と公津原古墳群。どちらも道のすいている印旛村経由で行くと、勝田台のわが家から車で30分ぐらい行けますが、しょっちゅう行くのは、竜角寺のほうばかり。
公津原古墳群は本HPでも台方下平Ⅰ遺跡現地説明会と合わせて「=成田ニュータウンの中の古墳群=台方下平遺跡にくらした人々の奥津城を訪ねて」という探訪記を載せていますが、夫はまだ行ったことがないのだそうで、翌14日日曜の午後、気晴らしのドライブがてら、再度訪ねてみました。
はじめに麻賀多神社奥宮に参拝、印波国造・伊都許利命の眠るという津ヶ原39号墳を見学。 坂を登りつめて、三年ぶりに台方下平遺跡の調査地点へ行ってみて、ゆるい斜面の台地が、丸ごと土取りされた宅地造成地になっていたことにビックリ。昨今の開発工事は下総台地の地形をすっかり変えてしまいますが、ここも例外ではありませんでした。 (→画像:台方下平遺跡の調査後の姿)
成田ニュータウンの真ん中の公民館に車を停め、ボンベルタ・ショッピングセンター内に残された5~7号墳を観ましたが、驚いたのは、ここ数年間でのこの地区の寂れようです。
成田ニュータウンセンタービルは前から3階以上が空きビルになっていましたが、さらにボンベルタ2棟の大規模店舗のうち東棟が閉鎖され、ゴーストタウン化がよりいっそう進んでしまっていました。
このニュータウンを造るため、公津原に110基以上あった古墳のうち残されたのは39基。
開発の犠牲になった多くの古代遺跡の無念さを思いつつ、同時に現代文明の脆弱さを痛感させられます。
センター広場には「緑と水と太陽のまち 成田ニュータウン」というメモリアルパネルが設置されています。
「 草萌える北総の台地は
永遠の心のふるさと
緑なす公津原にのこる古墳は
人びとの生きた証
水藻にゆれる印旛沼は
憩いのオアシス
ナウマン像を追った3万年の昔から
人びとの命は清冽な水
宇宙の女神は愛の陽光を
おしみなくニュータウンの台地に注ぐ
緑と水と太陽の
シンフォニーがいま始まる 」
成田市にお住まいの大塚初重先生の昭和62年作ですが、この大塚先生のお気持ちが伝わってくるのが、自然地形をそのまま残した赤坂公園内にある船塚古墳(8号墳)です。(→画像2枚:船塚古墳にて)
特に復元するわけでもなく、大きな古墳の姿が見やすいよう下草を刈って芝を張っただけの整備ですが、幼児が草すべりを楽しんだり、夕方人気がなくなると少年たちが自転車でスリリングな墳頂からの滑走を試みていました。
神社に祀られている古墳は信仰の対象ですから、こんなことは畏れ多いことですが、ニュータウンの公園内のこの古墳は、子供たちの遊び場として充分活用されているといえば、言いすぎでしょうか。
印波地域最大の全長85mの山のような古墳の主も、この情景を是として許してくれているように思います。
天王塚古墳(21号墳)に寄った時はもう夕闇が迫るころ、傍らの弟橘姫の古代伝承の残る吾妻神社に参拝して帰路に着きました。
街中が遺跡の成田ニュータウン、遺跡との共存と活用が試されているこの街で、いつか「古代印波シンポジウム」の続きが開催されたらと夢みて、今年のお正月最後のフィールドワークとなりました。
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