2016年3月23日 (水)

T-6 「国史跡 井野長割遺跡」見学会

 2016年2月27日、佐倉市の「国史跡 井野長割遺跡」の見学会が開催され、佐倉市教育委員会のO倉さんの案内で、遺跡の中を丁寧に説明いただきながら40分ほど歩きました。

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 かつて何度も通った井野長割遺跡遺跡ですが、やはり朝の光の中、縄文人が残した姿を地上にとどめている環状盛土遺構のマウンドが感動的でした。

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 井野長割遺跡の出土遺物も展示されていました。

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 井野長割遺跡遺跡については、下記URLのHPをご覧ください。
 http://sawarabi.a.la9.jp/joumon/inonagawari/inonagawari1.htm

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2015年10月13日 (火)

T(メモ) 佐倉市間野台貝塚の発掘調査現場

 10月4日、Fecebookで、我が家から1.5km位のところで、発掘調査が行われ、昨日終了して、明日(10/5)には埋め戻すと知り、さっそく自転車で見てきました。
 場所は間野台貝塚の一角、四街道方面から佐倉へ抜ける佐倉街道沿いの馬の背のような高台で、南側は染井野の低地でその先は鹿島川の支流、街道の北側は間野台小学校と間野台公園がつづく下り坂という立地です。
 現場へ行くと、市内の方がやはりカメラを持って見学に見えておられました。

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佐倉街道側から南側をみる(向う側は低地)

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南側から佐倉街道方向
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貝層の様子

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残土中のハイガイとオキシジミの貝殻

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 縄文早前期の貝塚として、佐倉市では戦前から知られていたようで、『佐倉市史・考古編』2014や『印旛の原始・古代』2007(印旛郡市文化財センター)にも詳しい記事があり、これからしっかり読みたいと思っています。
 おかげさまで、有名な遺跡の一端を垣間見ることができて、ラッキーでした。

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2007年1月20日 (土)

T-5 緑なす公津原にのこる古墳は 人びとの生きた証

 1月13日の明治大学古代学研究所公開研究会「古代印波シンポジウム」は、220名という参加者で大変な盛況で、150部の予稿レジメはすぐになくなり、お手伝いの院生さんは一日中レジメの増刷作業に追われていたそうです。
 地域限定超ローカルなテーマを、東京のど真ん中で聞くというのも、私にとって不思議な感覚でしたが、私たちの地元の歴史が考古学と文献史学のコラボレーションで明らかにされていく醍醐味をたっぷりと味あわせてくださった関係者の皆様に感謝です。

 印旛沼の北東部は、『国造本紀』のいう「印波国造」の勢力下にあり、その印波の地域には、東部(成田市)の公津原古墳群と、西部(栄町)の竜角寺古墳群の二大古墳群があります。
 今回の「古代印波シンポジウム」での白井久美子さんのお話しでは、公津原古墳群は6世紀、竜角寺古墳群は7世紀が中心の古墳や集落遺跡が多く、川尻秋生さんなどの発表によれば、7世紀後半になると「丈部(はせつかべ)」と「大生部(壬生)」などの氏族が共存していた印波国造の支配領域は、もともとの印波国造の本拠の印波評(郡)と、大生部直が急速に勢力を拡大した埴生評(郡)との2つの評(郡)に分かれ、その後(8世紀)、この勢力は、八千代市や印西市方面の開発に向かっていったことが、この地域の墨書土器などからたどれるとのことです。

 ところで、このシンポジウムのテーマの舞台になったのは、主に竜角寺古墳群と公津原古墳群。どちらも道のすいている印旛村経由で行くと、勝田台のわが家から車で30分ぐらい行けますが、しょっちゅう行くのは、竜角寺のほうばかり。
 公津原古墳群は本HPでも台方下平Ⅰ遺跡現地説明会と合わせて「=成田ニュータウンの中の古墳群=台方下平遺跡にくらした人々の奥津城を訪ねて」という探訪記を載せていますが、夫はまだ行ったことがないのだそうで、翌14日日曜の午後、気晴らしのドライブがてら、再度訪ねてみました。
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 はじめに麻賀多神社奥宮に参拝、印波国造・伊都許利命の眠るという津ヶ原39号墳を見学。 坂を登りつめて、三年ぶりに台方下平遺跡の調査地点へ行ってみて、ゆるい斜面の台地が、丸ごと土取りされた宅地造成地になっていたことにビックリ。昨今の開発工事は下総台地の地形をすっかり変えてしまいますが、ここも例外ではありませんでした。 (→画像:台方下平遺跡の調査後の姿)

 成田ニュータウンの真ん中の公民館に車を停め、ボンベルタ・ショッピングセンター内に残された5~7号墳を観ましたが、驚いたのは、ここ数年間でのこの地区の寂れようです。
 成田ニュータウンセンタービルは前から3階以上が空きビルになっていましたが、さらにボンベルタ2棟の大規模店舗のうち東棟が閉鎖され、ゴーストタウン化がよりいっそう進んでしまっていました。
 このニュータウンを造るため、公津原に110基以上あった古墳のうち残されたのは39基。
 開発の犠牲になった多くの古代遺跡の無念さを思いつつ、同時に現代文明の脆弱さを痛感させられます。

 センター広場には「緑と水と太陽のまち 成田ニュータウン」というメモリアルパネルが設置されています。

 「 草萌える北総の台地は070114_054
    永遠の心のふるさと
   緑なす公津原にのこる古墳は
    人びとの生きた証

  水藻にゆれる印旛沼は
   憩いのオアシス
  ナウマン像を追った3万年の昔から
   人びとの命は清冽な水

  宇宙の女神は愛の陽光を
   おしみなくニュータウンの台地に注ぐ
  緑と水と太陽の
   シンフォニーがいま始まる 」070114_072

  成田市にお住まいの大塚初重先生の昭和62年作ですが、この大塚先生のお気持ちが伝わってくるのが、自然地形をそのまま残した赤坂公園内にある船塚古墳(8号墳)です。(→画像2枚:船塚古墳にて)
 特に復元するわけでもなく、大きな古墳の姿が見やすいよう下草を刈って芝を張っただけの整備ですが、幼児が草すべりを楽しんだり、夕方人気がなくなると少年たちが自転車でスリリングな墳頂からの滑走を試みていました。
 神社に祀られている古墳は信仰の対象ですから、こんなことは畏れ多いことですが、ニュータウンの公園内のこの古墳は、子供たちの遊び場として充分活用されているといえば、言いすぎでしょうか。
 印波地域最大の全長85mの山のような古墳の主も、この情景を是として許してくれているように思います。

 天王塚古墳(21号墳)に寄った時はもう夕闇が迫るころ、傍らの弟橘姫の古代伝承の残る吾妻神社に参拝して帰路に着きました。
 街中が遺跡の成田ニュータウン、遺跡との共存と活用が試されているこの街で、いつか「古代印波シンポジウム」の続きが開催されたらと夢みて、今年のお正月最後のフィールドワークとなりました。

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2006年8月29日 (火)

T-4 桑納川の川底に眠る遺跡群

06827_115先日(8/27)、船橋市郷土資料館で「川底から発見された土器-桑納川(かんのうがわ)流域の土器文化」の小企画展を見てきました。

八千代市と船橋市の境の桑納川川底から大量に発見された縄文後晩期と、平安時代頃の土器、近隣の金堀台貝塚と北之崎遺跡の資料が展示されています。

両市の合同調査にたずさわったT松さんに昨年から発見の次第や顛末をお聞きしていましたし、3月に飛ノ台史跡公園博物館でその一部が展示されていましたが、今回は採取遺物の全部と採取地点の景観、近隣の遺跡の遺物との関連などその全貌が公開されているとのことで、さっそくT松さんにも同行をお願いし見学、帰路現地にも行って来ました。

「縄文遺跡のある風景 in印旛沼周辺の遺跡群」に追加UPしましたので、ご覧ください。

調査のきっかけは一昨年、渡辺誠氏が、資料館に「鑑定」をお願いに持ち込んだ縄文後晩期の土器群で、採集地点は八千代市側の高本下弁天地点。その後、両市の合同実地踏査や、高古橋付近で河川改修工事を前にしての県と両市の調査も行われたそうです。

夥しい数の縄文土器底部、長く低湿地にあった証拠に真っ黒な泥炭がついたままのリアルな深鉢のかけら、漆塗りらしい土器、製塩土器片、石棒や耳飾なども並んでいます。

低湿地の縄文遺跡については、本HPの「縄文遺跡のある風景」にもUPしましたが、「遺跡は台地上」という「常識」は印旛沼周辺でも打ち破られつつあることを感じます。

HPで取り上げたのは、文化財のお仕事をした経験のある母親とその子供の水遊びが発見のきっかけの「西根遺跡」、郷土史家の五代先生が遺跡の破壊される中で土偶や完形土器を集めたという「吉高一本松遺跡」ですが、桑納川川底での発見もアマチュアの方です。

1951年、栗谷遺跡に近い保品の水田で、くり舟を発見し、早稲田大学の調査で土器や堅果類発見の成果につなげたのも地元の農家の方でした。(復元されたくり舟は、八千代市郷土資料館の「超めだま!」です)

「常識」外の発見や緊急の遺物救出には、関心のある市民の考古学についての素養が何より効果を発揮しています。

自治体の遺跡マップが、ほとんど台地上の遺物散布地を囲んで作られていますが、今後は河川改修や圃場整備での調査も必須となるかと思います。(といっても、もう遅すぎる?)

今後の桑納川の遺跡群についてには、河川改修整備の行政調査のほか、ぜひとも積極的な学術的な調査も期待したいですね。

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2006年8月 3日 (木)

T-3 本佐倉城外郭・北大堀遺跡の姿

 私が城跡という遺構に興味を持ったのは、12年前のこと。
 たまたま手にした佐倉のマンション建設反対を訴える市民グループのチラシに、奇跡的ともいえる良好な状態で残されている臼井城の砦跡が危機的状況であることに心動かされて、測量調査の始まろうとしている遺構に単身で調査に通いました。
 (その記録は、「史談八千代」第19号1994の拙稿をご覧ください。)

 そのころは、光町の篠本(ささもと)城跡の現地説明会や、千田嘉博先生との見学会など夢中でお城めぐりや探索をしていました。
 将門伝承の残る本佐倉城もそのひとつで、今も折があるたびに訪ねています。

       ⇒  2006フォトアルバム 早春の本佐倉城跡-2005  (続)-2006

 さて昨年梅雨のころ、メールでひとつの情報をいただきました。
内容は、成田街道の酒々井町のスーパートライアル(元ダイエー跡地)反対側での発掘調査で、中世の堀が見つかり、その堀の中から、大量のカワラケが出土していて、文献に載っている家康の五男の武田信吉が住んだ屋敷ではないかとの説もあるとのこと。
 遺跡は本佐倉北大堀遺跡といい、ダイエー建設前の調査でも巨大な堀が見つかっているそうです。

 さっそく翌朝、梅雨の晴れ間に行って見ました。印旛郡市文化財センターが行っている調査現場はその日は無人で、発掘もほぼ終わりかけていて、カワラケなどは全て取上げも終わっていたようでしたが、幅3mぐらいの薬研堀の大きな堀の姿は壮観でした。

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 とりあえず写真だけ撮り、(HP掲載は遠慮して)報告書や遺跡発表会で詳細が明らかになるのを待っていると、センターの広報誌に報告が載り、また7月22日の遺跡発表会で天本昌希さんの詳しい報告「酒々井町本佐倉北大堀遺跡―発掘が語る中世戦国時代の城下町―」をお聞きすることができました。06722kawarake_1

    北総の城跡探索で興味深いのは、やはり「惣構え」の壮大さとその複雑な縄張りにつきます。
 今回の発掘調査で本佐倉城の城下に53m×67mの方形の堀に囲まれた戦国末期の館跡の存在が明らかになったことでしょう。06722touki
 おそらく家臣団の屋敷の屋敷のひとつだったこの館跡は、1590年本佐倉城が滅亡後、徳川家康の五男、武田信吉(のぶよし=万千代)がこの地を治めるにあたり、居館としたといういわくつきの「史跡」であるらしく、『成田山参詣記』の「本佐倉村千葉家故城址の図」の「万千代殿ヤシキ」の位置と推定できるというのも興味深いことです。

Kitaoohoriisekitizus_1 遺跡発表会の帰り、いつもお世話になっている八千代市郷土歴史研究会会長であるM先生を車でお送りしました。
 車内でこの遺跡の話題に触れると、先生は昭和58年の国道敷地部の調査に立ち会われ、その時は堀の中から多量に出土した白骨におどろかれたそうです。

 印旛沼のほとりには、国史跡となった本佐倉城のほか、臼井城やその出城の師戸城などがよく保存されています。
 しかし、本佐倉城で半径1.5mというその巨大な「惣構え」の全貌については、その後の開墾や開発で明らかになっているわけではありません。
 今後も道路や店舗の工事に伴って、小規模ながらも数次にわたって行われる調査の貴重な成果に期待するところです。
 作年夏、こっそり訪ねた調査現場でしたが、ほんとにすごい薬研堀を見ることができて感動でした。情報をお寄せくださった方に感謝します。

(北大堀遺跡は 「千葉市の遺跡を歩く会」HPの力作「空撮 本佐倉城周辺」のページでは、左下のスケールの400の縦線の辺りになります。 残念!はみ出しちゃったね)

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2005年6月24日 (金)

T-2 印旛沼・手賀沼周辺の古墳について-大塚初重先生の講演から

 6月18日(土)白井市教育委員会主催の「印旛沼・手賀沼周辺の古墳文化」という大塚初重先生の講演会に行ってきました。
 十年ほど前に、大塚先生が講師を勤められた吉野ヶ里・壱岐の史跡めぐりに参加したことなど懐かしく思いながら、ますますお元気でとうとうと講演されるお姿に元気づけられました。

 iigouisaki お話は、手賀沼南岸の沼南町の地域最古の前期の古墳北ノ作古墳に代表的な前方後方墳について紹介があり、この形が東海地方から関東への特徴的な形であり、印旛沼南岸の佐倉西高校構内に保存された飯郷作の古墳群(写真⇒)の、弥生時代からの方形周溝墓、前方後方墳(2号墳)とそれに寄り添うような方墳2基に、その変遷のあとをたどることができるとのことです。

 (⇒「縄文遺跡のある風景 in神楽場遺跡にて-4)

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 一方、山崎ひょうたん塚古墳(写真⇒)のような前方後円墳は、のちの大和政権の勢力のこの地への進展を意味するとされ、古い段階のいちじく形の前方後円墳の市原市に築かれた神門5・4・3号墳は、この地が大和の勢力にとって、古東海道の重要な地であったことを示しているとのこと。

 

 ところで昨年度の白井市の調査で、市内平塚字小森に新しく前方後方墳と推定される古墳「小森瓢箪塚古墳」が見つかったとのニュースとその図面が紹介されました。
 この古墳の上には、蔵王権現様が祀られていて、地権者の方の家訓で、機材を持ち込んでの測量ができず、デジタルカメラでの写真測量という新しい方法が試みられ、その調査図から前方後方墳と推定されたとのことです。
 この新発見の古墳、やはり手賀沼にふさわしい前方後方墳だったというわけです。

 

 tennjinnmae この講演会のあと、お誘いした友人と、歴博の縄文低地遺跡のフォーラムに参加していた夫と遠くからいらした友人と合流し、大塚先生の講演の復習をかねて、山崎ひょうたん塚古墳(前方後円墳)~岩名天神前遺跡(縄文・弥生遺跡)(写真⇒)~神楽場遺跡(縄文)、そして最後に飯郷作遺跡を廻ってきました。

 私たちにとっては身近なおなじみのコースですが、梅雨の合間のおだやかな風景が夕陽に映えていて印象的でした。

 

 ところで、小森瓢箪塚古墳での写真測量の方法について同行した友人ともども、とても興味津々でしたので、そのシステムについて資料を送っていただきました。
 KURAVASという写真計測システムだそうです。

 お送りいただいたT花さま、ありがとうございました。

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2005年6月11日 (土)

T-1 坂戸草刈堀込遺跡と八木原貝塚を訪ねて

雨の多い季節、いよいよ梅雨入りの気配。幸い週末はお天気に恵まれ、6/4の土曜日は、印旛沼南岸の鹿島川上流の坂戸草刈堀込遺跡と、四街道千代田団地内の八木原貝塚へ、6/5の日曜日は、「千葉市の遺跡を歩く会」主催の加曽利貝塚周辺の見学会と学習会と、縄文遺跡の景観を歩いてきました。
今日(6/11)のある中世城郭の遺構探索にも、天気予報一発逆転の好天に恵まれ、このところついています。(明日の馬場小室山もどうか晴れますように。)

佐倉市の坂戸草刈堀込遺跡は、川村美術館の近くの国道51号線沿いにあります。
先週4日の土曜日も、とにかく雨の降る前にいってみようと、印旛郡市センターの「研究紀要2」と、あるけ~さんのHPをプリントして持って、坂戸草刈堀込遺跡を訪ねました。

ここはかつてはその民俗行事にちなむ「若衆山」遺跡と呼ばれた縄文土器の出る丘だったよう。
最近?になって、「環状盛土遺構」としての情報から、あるけ~さんのHPにもUPされ、印旛沼水域の遺跡として私も興味を持っていました。050604kusakarihokkome2s

地主の岩井氏が遺物の採集と研究に熱心で、台付浅鉢(安行2式)、貝殻の詰まった台付浅鉢(精巧に作られた安行3a式)、注口土器(安行3a式)を芋穴などから発見し、上記の研究誌の資料となっています。

岩井氏にはお会いできませんでしたが、草刈堀込の東側の畑山林内の遺跡の地形と土器の散布状況、土の色の状態はよく観測できました。ただし51号線の西側は、草むらなのでやぶこぎはあきらめました。
感想としては、概念図の遺跡の範囲の長細い形とは違って、マウンドがいくつか連なっているように(少なくても東側で3つ?)見えます。51号線沿いの南側のマウンドが壊された状態で観察でき、土器片も集中していました。いずれゆっくり再訪してみたいと思っています。

帰りに千代田団地内の八木原貝塚に寄り、公園の管理人さんに数年前の明治大学阿部芳郎先生の発掘調査現場を案内してもらいました。

阿部先生は岩波ジュニア新書『縄文のくらしを掘る』でこの貝塚について「現在団地にくらす人々が憩う緑豊かな公園は、実は造成中に貝塚が発見されたことによって、急遽現状保存された場所なのである。・・・地元の方々の文化財に対する理解と熱意の賜物に他ならない」と述べています。
そして考古少年だったころ、この貝塚近くの調査されずに破壊されていく貝塚の工事現場で「できるだけ採集した場所を細かくノートに記録しながら、たくさんの遺物を拾い集めて調べた。そのうち気がついたら考古学を学ぶ道にはいっていたのだ。」と書いていらっしゃいます。

発掘現場は、台地の縁に近いところで、畳2枚程度がちょっとくぼんでいます。
『縄文のくらしを掘る』や阿部先生の盛土遺構に関する論文や発表スライドに出てくる深いトレンチはここなのかとしばし眺めていました。050604tiyoda

その上の整地された広場から水呑場にかけて摩滅した土器片がたくさん散らばっています。 きっとこの辺が盛土や住居跡があったところでは、と思いました。

近くに「思春期」と題された少女のモニュメント像が本を読みふけっている静かな6月の千代田団地の公園でした。

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