Y-10 一軒のおうちにみる土器事情(その2 香取の海)
前回に続き、道地遺跡の一軒のおうちから、南関東風の土器と一緒に出土した小ぶりの細長い甕についてのお話です。
縄文が施された輪積みの痕跡の残る口縁部、頸部は無紋で、肩のラインを楊枝の先で突いたような点が一周し、その下は撚り糸文(?)の地肌が、窓辺の淡い光りににぶく黒光りしています。ひっくり返してみると、底には木の葉痕が残っていました。
この土器に特徴的なのは小さな耳のような長円状の突起が、2つずつ、口縁部と無紋の頸部の境にくっついていることです。
これこそ茨城南部に分布し、鈴木正博さんが「下大津式」(一般には「上稲吉式」?)とよぶ土器の仲間ではないかしらと思い、何はともあれ、下大津遺跡に近いかすみがうら市郷土資料館を訪ねてみました。(⇒史跡歳時記「早春の霞ヶ浦歩崎」)
かすみがうら市郷土資料館は、霞ヶ浦に西から東へつきだした出島半島の先のほうにあります。
土浦からのバスは、朝と夕方の2往復だけです。2006年2月、ちょうど開かれていた17年度茨城県調査遺跡紹介展を見て、小野正敏先生の中世考古学の講演会も聞いて、結局丸一日を過ごすことになりました。
企画展で圧倒されたのは、茨城町大戸下郷遺跡から昨年まとまって出土した土器群の展示です。
スマートな広口壷、縦・横・波状の繊細な櫛描き文と格子のように見える附加条2種の縄文がとてもきれいな土器群は、印旛沼の南岸ではあまりお目にかかる機会のない十王台式土器。いつか見たいと思っていた茨城県北東部を代表する弥生土器でした。
さて、お目当ての下大津式の甕ですが、こちらは資料館2階の小さな展示ケースの中にひっそりとおかれていました。
出島半島の付け根に近い下大津の小学校校庭で出土した土器ですが、発掘調査に伴う発見ではないので、残念ながら詳しい遺構や出土状況はわかっていません。
この甕の形が細長いという点だけは十王台式の甕とスタイルは似ていますが、複合口縁で下部にコーン型の小さな突起があり、無文帯をはさんで縄文が施され、櫛描き文がない点など、縄文大好きな下総の土器の面影がしのばれます。
突起の形は違いますが、2個セットの点など道地遺跡の甕と共通していて、うれしくなりました。
この資料館では、1998年に「霞ヶ浦沿岸の弥生文化」という特別展が開かれ、その図録が入手できました。この図録には「上稲吉式」と「十王台式」の土器が特集されていて、その違いや分布範囲が詳細に解説されています。
また『古代』第106号(早稲田大学考古学会1999)の「古鬼怒湾岸における弥生後期『下大津式」の成立と展開」という副題の鈴木正博論文をT花さんからいただいたので、読んでみました。
そしてこの膨大な資料(文章は難解なので主に図版や写真)から感じたことは、この型式の土器は、霞ヶ浦西岸と利根川下流域北岸にその分布が見られ、またこの分布圏の北西部では鬼怒川上流に分布する二軒屋式土器からの影響が反映していることなど、分布圏の中でも、地域の土器作りの流儀によって、突起の形、口縁部や無紋帯の組成などに微妙なヴァリエーションがあることです。
この下大津式の特徴をもつ土器は、数は少ないものの利根川を渡った印旛沼周辺でも見られ、さらに興味深いことに、そのいくつかの遺跡では、道地遺跡のこの第45号住居址のごとく、南関東の土器を共伴していました。
図版をぱらぱらとめくると、牛久町天王峯遺跡の第11号住居址、竜ヶ崎市長峰遺跡第120号住居址、土浦市原田北遺跡第3号住居址など、同じ道地遺跡でも別の第73号住居址や86号住居址などで、それぞれ南関東系の装飾壷や甕を伴っています。
さらに東京湾岸の市川市国府台遺跡、東京湾を渡った藤沢市慶応大キャンパスからも出土しているらしいのですが、この突起のある細長い壷を追いかけているうちに、北総を中心にした壮大な地図が目に浮かんできました。
ひとつは、霞ヶ浦と利根川下流域、印旛沼がかつて一続きの内海だった「香取の海」、そして、もうひとつの内海の古東京湾の姿と、やがて来たる古墳群の分布図です。
わが町の隣、佐倉市の上座矢橋遺跡第5号住居址からは、臼井南式土器がその特徴の縄文紋様を捨てたと見られる弥生最終末時点の無紋の甕と一緒に、この下大津式の長細い甕が出土しています。
古墳時代前夜の弥生時代とは、自分たちのムラ意識を反映する「在地系土器」(「臼井南式」や仮称「栗谷式」など)をしっかりと確立しながら、相反する二つの地域からの貴重な「外来」の土器を大事にしていたわけで、それが交易で入手したものなのか、この地に入植してきた「外来」の隣ムラからのいただきものなのか、よその土地からのお嫁さんが実家のお流儀で造ったものなのかと、様々に想いがめぐります。
いずれにせよ、二つの内海とそれに続く河川を舞台に人もものも交流し、その二つの渦がその接点である八千代で邂逅したことの足跡が、道地や栗谷の遺跡群の土器でたどれます。
土器で見る関東の弥生文化と人々の生活が、この二つの内海をベースとして展開していたとするなら、その姿は、多くの神社の鳥居やムラの入口がその内海に面していた近世初期までおそらく変わらなかったのでは、と思われるのですが・・。
(附) この文章を書きながら、中世前期の一人の僧・忍性の足跡を追っていた時のHP「内海の風景」を、思い出しました。このときも八千代の地が『「8の字」の要の地点に位置するのでは、との予感』が、関東の中世律宗シリーズのスタートラインでしたね。(シリーズが、松戸編で中途していてごめんなさい)
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