2006年3月18日 (土)

Y-10 一軒のおうちにみる土器事情(その2 香取の海)

 前回に続き、道地遺跡の一軒のおうちから、南関東風の土器と一緒に出土した小ぶりの細長い甕についてのお話です。

06  縄文が施された輪積みの痕跡の残る口縁部、頸部は無紋で、肩のラインを楊枝の先で突いたような点が一周し、その下は撚り糸文(?)の地肌が、窓辺の淡い光りににぶく黒光りしています。ひっくり返してみると、底には木の葉痕が残っていました。
 この土器に特徴的なのは小さな耳のような長円状の突起が、2つずつ、口縁部と無紋の頸部の境にくっついていることです。
 これこそ茨城南部に分布し、鈴木正博さんが「下大津式」(一般には「上稲吉式」?)とよぶ土器の仲間ではないかしらと思い、何はともあれ、下大津遺跡に近いかすみがうら市郷土資料館を訪ねてみました。(⇒史跡歳時記「早春の霞ヶ浦歩崎」)

 かすみがうら市郷土資料館は、霞ヶ浦に西から東へつきだした出島半島の先のほうにあります。06
 土浦からのバスは、朝と夕方の2往復だけです。2006年2月、ちょうど開かれていた17年度茨城県調査遺跡紹介展を見て、小野正敏先生の中世考古学の講演会も聞いて、結局丸一日を過ごすことになりました。
 企画展で圧倒されたのは、茨城町大戸下郷遺跡から昨年まとまって出土した土器群の展示です。
 スマートな広口壷、縦・横・波状の繊細な櫛描き文と格子のように見える附加条2種の縄文がとてもきれいな土器群は、印旛沼の南岸ではあまりお目にかかる機会のない十王台式土器。いつか見たいと思っていた茨城県北東部を代表する弥生土器でした。

 さて、お目当ての下大津式の甕ですが、こちらは資料館2階の小さな展示ケースの中にひっそりとおかれていました。06

 出島半島の付け根に近い下大津の小学校校庭で出土した土器ですが、発掘調査に伴う発見ではないので、残念ながら詳しい遺構や出土状況はわかっていません。
 この甕の形が細長いという点だけは十王台式の甕とスタイルは似ていますが、複合口縁で下部にコーン型の小さな突起があり、無文帯をはさんで縄文が施され、櫛描き文がない点など、縄文大好きな下総の土器の面影がしのばれます。
 突起の形は違いますが、2個セットの点など道地遺跡の甕と共通していて、うれしくなりました。

 この資料館では、1998年に「霞ヶ浦沿岸の弥生文化」という特別展が開かれ、その図録が入手できました。この図録には「上稲吉式」と「十王台式」の土器が特集されていて、その違いや分布範囲が詳細に解説されています。
 また『古代』第106号(早稲田大学考古学会1999)の「古鬼怒湾岸における弥生後期『下大津式」の成立と展開」という副題の鈴木正博論文をT花さんからいただいたので、読んでみました。
 そしてこの膨大な資料(文章は難解なので主に図版や写真)から感じたことは、この型式の土器は、霞ヶ浦西岸と利根川下流域北岸にその分布が見られ、またこの分布圏の北西部では鬼怒川上流に分布する二軒屋式土器からの影響が反映していることなど、分布圏の中でも、地域の土器作りの流儀によって、突起の形、口縁部や無紋帯の組成などに微妙なヴァリエーションがあることです。
 この下大津式の特徴をもつ土器は、数は少ないものの利根川を渡った印旛沼周辺でも見られ、さらに興味深いことに、そのいくつかの遺跡では、道地遺跡のこの第45号住居址のごとく、南関東の土器を共伴していました。

 図版をぱらぱらとめくると、牛久町天王峯遺跡の第11号住居址、竜ヶ崎市長峰遺跡第120号住居址、土浦市原田北遺跡第3号住居址など、同じ道地遺跡でも別の第73号住居址や86号住居址などで、それぞれ南関東系の装飾壷や甕を伴っています。
 さらに東京湾岸の市川市国府台遺跡、東京湾を渡った藤沢市慶応大キャンパスからも出土しているらしいのですが、この突起のある細長い壷を追いかけているうちに、北総を中心にした壮大な地図が目に浮かんできました。

 ひとつは、霞ヶ浦と利根川下流域、印旛沼がかつて一続きの内海だった「香取の海」、そして、もうひとつの内海の古東京湾の姿と、やがて来たる古墳群の分布図です。
 わが町の隣、佐倉市の上座矢橋遺跡第5号住居址からは、臼井南式土器がその特徴の縄文紋様を捨てたと見られる弥生最終末時点の無紋の甕と一緒に、この下大津式の長細い甕が出土しています。

 古墳時代前夜の弥生時代とは、自分たちのムラ意識を反映する「在地系土器」(「臼井南式」や仮称「栗谷式」など)をしっかりと確立しながら、相反する二つの地域からの貴重な「外来」の土器を大事にしていたわけで、それが交易で入手したものなのか、この地に入植してきた「外来」の隣ムラからのいただきものなのか、よその土地からのお嫁さんが実家のお流儀で造ったものなのかと、様々に想いがめぐります。
 いずれにせよ、二つの内海とそれに続く河川を舞台に人もものも交流し、その二つの渦がその接点である八千代で邂逅したことの足跡が、道地や栗谷の遺跡群の土器でたどれます。
 土器で見る関東の弥生文化と人々の生活が、この二つの内海をベースとして展開していたとするなら、その姿は、多くの神社の鳥居やムラの入口がその内海に面していた近世初期までおそらく変わらなかったのでは、と思われるのですが・・。

 (附) この文章を書きながら、中世前期の一人の僧・忍性の足跡を追っていた時のHP「内海の風景」を、思い出しました。このときも八千代の地が『「8の字」の要の地点に位置するのでは、との予感』が、関東の中世律宗シリーズのスタートラインでしたね。(シリーズが、松戸編で中途していてごめんなさい)

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2006年2月15日 (水)

Y-9 一軒のおうちにみる土器事情(その1 南関東)

06  八千代市内道地遺跡に、二つの完形の美しい器ときれいな装飾壷の破片が見つかった家がありました。
 この「045号」とナンバリングされた弥生の住居から出土したふたつの器は、甕とも壷ともつかない細長い形の土器と、小さな穴のあいた浅鉢で、あまりにも雰囲気の違う土器です。

045-1-2 浅鉢(←)は、口縁部の端に羽状に縄文が施され、縄文の下には輪積みの甕と同じようなV型の刻み文様で区切りの装飾を施してあります。その下は無紋でよく磨かれ、内側も外側も赤く彩色されて華やかな感じです。また穴が2つずつ向こうとこちらにあけられています。045-2

  また破片のほうも、羽状の縄文や結び目を転がしてつ けたS字模様、山形の区画、朱彩などで飾られ、かつての華麗な姿を彷彿させます。
 06「土器事典」の久が原式の土器の挿図になんとなく似 ている気がして、大田区郷土博物館に行き、じっくりと眺めてみました。
 そしていくつかの壷の中から、045号出土の破片については、たぶんこんな壷だったのでは、と思える田園調布南遺跡から出土した久が原式の装飾壷(→)を見つけました。

  浅鉢のほうは、中根君郎氏寄贈の上が開いた久が原遺跡の浅鉢(↓)と、羽状の縄文の付け方などがよく似ています。
 装飾の羽状の縄文帯は、久が原遺跡の鉢のほうが4段プラス直線の沈線、道地遺跡のほうは3段でもV型の刻みで区切りを入れているせい06かちょっと派手な感じがしますが、どちらも現代のリビングルームの卓上にお菓子入れとして置かれてあってもおかしくないような親しみやすくセンスのよい器です。

 道地遺跡の浅鉢と破片が、輪積みの甕と同様、東京湾を巡る南関東の土器の特徴を現しているということが再認識でき、改めて、印旛沼に面していながら東京湾沿岸とも近しい八千代の遺跡群の地理的な位置を考えさせられました。

 さて、このふたつと別な感じのする右側の長細い甕(?)、これは、大田区郷土博物館の展示品には類例のないものでした。
 長細い土器は、北のほうの影響とか。そのルーツを知りたくて、茨城の土器たちにも会ってみたくなり、春まだ浅い霞ヶ浦へと出かけましたが、その土器の報告はまたこの次に。

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2006年2月 7日 (火)

Y-8 未完の美を留め置く輪積みのうつわ

 Y-3「仮称・栗谷式」の土器など八千代の土器の中で特に印象深いのは、上部分に粘土紐が何段か輪積みされた跡のある普段使いの甕です。
これらの輪積みの装飾のある甕は、同じ住まいから出土する精巧なつくりの壷、あるいは細かい縄文や櫛描きのある細長い甕などに比べて、いかにもフリーハンドで作られたような素朴な味わいがあります。
 土器を作る際、粘土紐をぐるりと回しながら積み上げるというのは土器作りの基本的なプロセスですが、外側にだけ輪積みの技法をそのまま残しながら、内側はしっかり刷毛などできれいに仕上げるというのは、輪積みの粘土の上を手で捺すことも、なで直して修正することもできないのですから、とても難しいテクニックに思えます。

 土器生成の途中の姿をデザインとして生かすというのは、どういう発想なのでしょう。
ふと連想するのが、関東で10~11世紀に作られた鉈彫りの仏像彫刻です。
 横浜市弘明寺の十一面観音が有名ですが、房総では市原市蓮蔵院の聖観世音菩薩、長生郡睦沢町妙楽寺の毘沙門天など隠れた優品があります。
 精巧で端正な定朝様式の仏像が流行する中で、丸鑿の跡を表面に残したそれらの彫像は、東国ならではの作品ですが、人の巧みの力が素材に加えられたその瞬間を未完の美として留め置いたという意味では、この輪積み痕の弥生土器にも相共通する美意識を感じます。
 鉈彫り彫刻は、樹木に宿る精霊を意識したとも解釈されていますが、土器の世界でも、粘土の持つ霊力を意識していたのでしょうか。

kugahara  この輪積み痕の系譜は、関東弥生土器の編年や型式の研究でも重要なポイントだそうで、特に南関東の弥生後期の土器型式で考古学研究史上有名な「久が原式」の特徴にもなっています。
大田区久が原の遺跡は、1925~1930年ごろ、中根君郎・徳富武雄らによって調査研究され、その出土土器は「久が原式」と名づけられた歴史ある遺跡で、私も以前にその土器群を大田区の郷土博物館で見たらしいのですが、もう一度ちゃんと見てみようと、2006年2月5日再度この博物館を訪ねてみました。
 この写真は、中根君郎氏が発掘したという由緒ある甕。なんと11段もの粘土紐の輪がきれいに積まれた名品でした。

 ところで、「久が原式」の輪積み痕の土器の本場は南房総で、ここから三浦半島経由で東京湾岸に広がっていったのだそうです。
douti3  考古学の黎明期、先進的な研究者のフィールドとなったのが、たまたま大田区久が原であったわけで、それがもし、市原や富津だったら、「宮ノ台式」と並んで千葉県の遺跡名が標式に採用されていたかもしれませんね。

 この久が原式の輪積み痕の技法の応用は、東京湾岸の息吹が通う八千代の土器にもしっかり受け継がれて開花していました。
 その中でも、この道地遺跡007号跡から出土した土器は、輪積み技法の素朴なフォークロア精神が遺憾なく発揮された(仮称)栗谷式の逸品といえましょう。

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2006年2月 2日 (木)

Y-7 縄文土器にも「壷」と台付の鉢があった

このブログって皆さん見ていてくださっているのですね。
考古学にちょっとだけ首を突っ込み始めたたわいのない思いつきに、その筋の玄人さん、院生さんが助言やコメントをくださって、いわば「初心者のための考古学教室Q&A」になりつつあるのも、皆様のおかげです。

2005年12月26日 (月)の〈弥生の壺は魂のうつわ?〉と、2006年1月22日 (日)の〈台付甕形土器は弥生の「文化鍋」〉この記事に、土器のプロ・鈴木M氏からメールでコメントが届きました。

まずは、「台付甕とは弥生式研究の言い方ですが、縄紋式後晩期では台付(深)鉢が当たり前のように存在します。 九州と東北北部です。」とのこと。
さらについでに壷も上野原で早期から。亀ヶ岡でも大いに発達します。
また、弥生式の台付甕も地域によっては採用しません。 
ということで、土器は人類史としての観方が先ずベースとして必要に思います。

というメールでした。

1999 そういえば、1999年姶良町の「鹿児島県埋蔵文化財センター」で見た福山城ケ尾遺跡の縄文早期の壺は、びっくりでした。
当の本人はほとんど忘れてかけていたのですが、「さわらび通信」第1号記事「縄文への旅-鹿児島と種子島の先史時代文化を訪ねて」は、このルポでしたね。

約7,400年前に作られた壷形土器。縄文時代に壺はないとされていたところが、九州南部では、縄文時代の早期、約8,000年前に突如として出現し、7,400年前頃に忽然と消えてしまったとか。
深鉢1個と壺3個がほぼ完全な形で出土したのは、丁寧に埋めてあったためで、すぐ近くに円形の浅い大型土坑が2基。土坑からは耳栓状の土製品3点と異形石器・石鏃等が出土したそうです。
土器の外側には煤が付着しているものの、内側に焦げなどの痕跡は認められず、食物の煮炊きに使ったのではなさそう。何か大事なものを入れたのでしょうか。
この塞ノ神式・平栫式の土器文化は、その後どうなったでしょう。一説に、鬼界カルデラの噴火が原因で、南九州の早期縄文文化が衰退したというお話もありましたけれど・・・

2004 縄文の壺が再度現れるのは、縄文時代の終わりごろ?
そういえば、一昨年(2004年)秋に青森の遺跡探訪旅行で訪ねた市浦村資料館で見た「縄文の壺」。不思議に思ってなにげなくカメラに納めていたことを思い出しました。
実にきれいですよね。(詳しいことをご存知の方、どうかコメントをつけてください)。

2004 この旅では、亀ヶ岡の遮光式土偶の本場・木造町へも行きました。
そこで撮った土器は、土偶でなく「台付鉢」。(何でこんなもの撮っていたのだろう?)
鈴木M先生のおっしゃるとおり、「縄文時代も台付鉢があった!」

いっぱい見聞きしていても具体的な問題意識がないと、本当は「見逃している」ということに、気づきました。

日本列島も、先史時代も、広くてながーい。
オセアニアで有袋類が旧大陸の哺乳類と同様に、「独自に進化」していったように、人の文化史は、お互いに影響しながら、あるいはそれぞれの地域で全く独自に「進化」していったのでしょうか。
謎はつきませんね。

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2006年1月22日 (日)

Y-6 台付甕形土器は弥生の「文化鍋」

 2005~2006年の冬は、例年になく寒く、1月21日はとうとう八千代も大雪になってしまいました。
 寒い夜の帰宅時に思いつく夕食は、やはり鍋料理です。(馬場小室山遺跡研の懇親会もなぜか夏もちゃんこ鍋!)

 先史時代の住居跡は炉跡で決まるそうですが、その鍋が縄文の深鉢から弥生の甕へ、また中世の内耳鍋から近世の鉄鍋に、そしてわが家の鍋が土鍋から今の電気鍋へと変わっても、囲炉裏やコンロの上でふつふつと煮えるひとつ鍋を囲む家族の風景は、不変のように感じます。

 kuriya04 ところで、弥生後期の住居から出る土器に、脚台の付いたへんな形の甕があります。これ(→)は、栗谷遺跡に隣接する八千代市内境堀遺跡から出た「台付甕形土器」です。
 初めてこの「台付甕」という大きな土器を見せていただいたとき、高杯を連想して祭りのお供え用にでも使うのかとも思いましたが、黒く煤けていて、もっぱら煮炊きに使ったとか。
 報告書などを丹念にみると、この脚台の部分だけが検出される場合も多く、けっこう普及していたようです。

 この台付甕の特徴は、煮炊きする時の熱効率がよいこと。縄文の深鉢や弥生の平底甕に比べ、高さがありますから、火が土器の底に当たって中で対流がおこり、全体に熱が伝わる構造になっています。
 もしかしたら、多少水分が少なくても下が生煮えで中はおこげということもなく、上手にご飯(ちょっと固めのおかゆ?)が炊けたかもしれません。
 この土器のおかげで、スープたっぷりの中に具をいれて食べるしかなかったそれまでの食生活が変わるきっかけになり、さらに五穀飯のおにぎりでも作れれば、お弁当持参で遠くに行けるそんな生活までもう一歩の調理法になったかもしれません。
 この台付甕のルーツは東海西部から関東南部に至る地域で、弥生中期後半から古墳時代前期にかけて汎用された便利なグッズでした。
 母は、炊飯器が普及するまで、「文化鍋」というご飯が吹きこぼれずにうまく炊ける昭和の新型鍋を重宝していましたが、台付甕は「弥生の文化鍋」であったと思います。

 074-5_2 ところで先日、やはり八千代市内の道地遺跡(島田台から白井へ抜ける新道の遺跡)の住居跡から出土したちょっと変わった特徴の台付甕(→)を見る機会がありました。
 脚台が欠けていますが、全体に縄文が細かく施され、頚と胴の一部は水平に摺り消しています。特に下のほうは、スリムに長く、また附加条縄文をつけていて、縄文大好きの北総・茨城の土器の特徴が、実用本位の新型土器にも遺憾なく発揮されています。
 このお家からは、輪積み痕が特徴の甕や、羽状縄文帯が廻る装飾壺など、南関東の土器が一緒に出土していました。
 弥生の八千代の人々のおうちには、東海から、南関東から、北関東からのそれぞれ特徴あるデザインの土器があふれ、伝統と新感覚の間で、それらのウェアを楽しんでいたことでしょう。
 
 ところで、時代とともに台付甕から甑になり、おこわが食べられるようになっても、やはり東日本主流の冬の夕食の定番は、今も昔も鍋料理。
 千年万年たっても、私たちの祖先から染み付いた食生活の好みは不変のようですね。

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2005年12月26日 (月)

Y-5 弥生の壺は魂のうつわ?

 弥生の土器で甕というのは、縄文の深鉢にあたる器ということですが、弥生の壺に当たる縄文の土器というのはあるのでしょうか。
 05おそらく、内容量に比して、あの頚が細い器は弥生時代独特の土器のように思えます。 頻繁に出し入れすることはあまりないだろうと思われる首の細さ。決して煮炊きには使われることなく、据えられる器。いったいその中には何を入れたのでしょう。
 8月10日の記事で紹介した弥生1号土器を連想させる丸い飾壺には、きっと種籾を保存したのだろうというのが、一般的な説のようで、あの頚の細さは、私には、稲の精霊を封じ込めるためなのかとも思えます。

 ⇒は、栗谷遺跡の方形周溝墓(C006)から出土した弥生中期の細頚壺です。
 佐倉市の環濠集落大崎台遺跡からも類似した壷が出土しており、ともに出土した土器から「宮ノ台式」の壺とされました。
 棺のまわりに溝が四角形にめぐる方形周溝墓は、西日本から伝わった埋葬方法だそうです。
 栗谷遺跡から方形周溝墓は、中期住居5軒とはやや離れた場所に11基見つかっており、どちらからも同時期の土器が出土し、墓域が集落の展開と密接な関係の中で形成され、またこの方形周溝墓がこの集落の住民の家族墓ではないかと思われています。

IMGP0369   この細頚の壺から連想されるのが、佐倉市岩名天神前遺跡の人骨片とともに出土した十数個の華麗な文様の壺型土器類群です。
 1963年明治大学の杉原荘介により調査され、弥生中期中葉の再葬用壺棺とされ、現在、明治大学博物館に展示されていました。⇒

 遺体が白骨化してから、骨だけを集めてあらためて壺に入れ埋納することは、縄文時代から見られる東北地方南部から下総地域に特徴的な葬法だそうですが、現代でも沖縄では「洗骨祭」が行われており、沖縄県石垣島出身の職場の同僚から、その儀式の次第を詳しく聞いていましたので、祖先の霊をこのような形で祀ることを違和感なく身近に感じます。

 PICT8227 この細頚壺のほか、栗谷遺跡では、再葬用の径の大きな壺もお墓から出土しています。⇒ (05.5.11八千代市遺跡調査会にて、頚のリボンは担当者のご愛嬌?)
 最近では、成田市南羽鳥の遺跡群からも出土していますが、北関東系の壺に南関東系の甕型土器を蓋のように組み合わせてあったとのこと。
 方形周溝墓というあたらしいお墓に、伝統的な再葬の壺。やはり下総は、「何でもあり」の南北の文化のミックスするところだったのでしょう。

 これらのような再葬用の壺が、群馬県岩櫃山では聖地というべき見晴らしのよい山の岩陰に納められていたり、また神奈川県の中屋敷遺跡では土偶型の壺を、茨城県女方(おざかた)遺跡では人面の付いた壺を使用したりしています。
 これらの再葬用壺の出土事例から、弥生時代の一時期、遺骨を丁寧に祀る信仰儀礼が確立していたことに、祖先の霊として遺骨を崇拝するという現代まで通じる基層信仰のあり方を感じます。

 さて、栗谷の装飾された細頚壺ですが、小ぶりな点から、私は子供の骨を収めたのではないかと思います。
細頚壺は、魂を入れる容器であり、その細い首は再生への精霊のかすかな通り道。そして、カミ(祖霊)の宿るこの器はヒトの体(=胎内)の象徴であったと、素人の私は想像しています。
 「壺は魂のうつわ」とすると、住居に残されたパレス型の飾壺は、やはり稲魂の入れ物だったのでしょうか。

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2005年8月10日 (水)

Y-4 栗谷遺跡の愛らしい壷と「弥生1号土器」連想

kuriyaA080-7 浦安郷土博物館の栗谷遺跡出土土器展示ケースのちょっと奥まったところに、ふっくらとした壷がひとつありました。
 下膨れでやや小ぶり、飾り壷を華麗に装飾する首から上が欠けていて、肩に羽状の刻み目と沈線が施されています。ひびが入っているものの、つややかに磨かれた無紋の肌はほのかに赤みかがっています。弥生後期の南関東系の飾り壷でしょう。

 いかにも、「弥生の土器」と感じられるのは、きっとその姿が「弥生1号土器」、そう文京区本郷の弥生町で発見されてあの「弥生式」の名のルーツとなった土器を連想させるからかもしれません。

 栗谷遺跡のこのお姫様のような壷は、仮称「栗谷式土器」というべき輪積痕と胴上半にS字状結節文が特徴の在地系の甕(前頁の画像の後真ん中)と一緒に、後期の大きめの住居址(A-80住居址)から出土しました。 (画像の図は『栗谷遺跡調査報告書第2分冊』より)
A80set  またこのA-80住居址からは、ほかにも南関東系の壷の口縁部や、蓋状の土器、さらになにであったか不明の鉄器なども出土していて、ちょっとステータスのおたかいおうちだったのかな、なんて思われます。

 南関東系の飾り壷を中心とした土器が、このように、印旛沼周辺の在地系土器や北関東系の土器とともに同じ住居址から出ることは、八千代市内の遺跡では珍しくないことですが、印旛沼を渡った北側の地域に行くとほとんど見られないとのこと。
 印旛沼が文化を運ぶ水路であると同時に、また、境界線でもあったことを思わせる現象です。

yayoitubo   ところで、この壷を見て連想した「弥生1号土器」の壷ですが、先週金曜日(8/5)国立科学博物館の「縄文V.S弥生」展でじっくりと見てきました。 (右画像は、同特別展チラシより)
 この壷は、その発見から120年たった現在、背景の時代区分、さらに土器型式をめぐって、研究者の熱い討論が繰り広げられているそうです。
 この1号土器は底部の台の縁が張り出しているので東海系という見方もあり、またこのころの南関東系の土器は、東海系と房総半島系の要素がともに見られるとのこと。(2004.9.25・26「南関東の弥生土器シンポジウム」、2005.4.26朝日新聞)

 栗谷遺跡では、この「弥生1号土器」に似た首に丸いボタン状の飾りのついた土器が、古墳時代の住居址(A109)からも出ています。

 型式では弥生町式という標式名すら危ういとも言われ、また弥生と古墳の時代区分の定義も揺れ動く中での「弥生1号土器」。なにやら難しそうな議論の渦中の飾壷ですが、私はこの下膨れのプロポーションの壷が好きです。そしてそれによく似た栗谷遺跡の愛らしい壷も。地域を越えて、時代を超えてこの壷の姿と形は愛され続けたのでしょう。きっと。

  (画像はクリックすると大サイズがホップアップします)

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2005年7月23日 (土)

Y-3 仮称「栗谷式」土器のデビュー!

 ところで、栗谷遺跡というのは、八千代市の保品、今は東京成徳大学の広大なキャンパスにあります。
 印旛沼に面した標高20~25m位の台地上に旧石器から、縄文、弥生、奈良平安時代までの遺跡が広がっていることが、大学建設と八千代カルチャータウン開発に伴う1988~1999年の発掘調査で明らかになり、特に弥生後期の住居跡94軒と大規模なこと、そこからまとまって壷や甕が検出されていることが注目されています。

kuriyasiki  その栗谷遺跡出土の土器は、八千代市遺跡調査会事務所で5月に公開された後、7月18日浦安市郷土博物館で開催された千葉県北西部地区文化財発表会で、ロビーのとてもよい場所のガラスケースに収まって、再びご披露されました。

 その展示ケースの中でも一番よいところに飾られたいくつかの口径が広い甕がありました。
 文様がなく、頸部に臼井南式にも特徴的な輪積みの跡を意識的に残し、胴の上半分には、S字の連続する結節文や小さな丸い刺突文のラインを1~2段ぐるりとリング状にまわしています。
 視線を縦に誘う大崎台式の土器に比べると、輪積みの線も、胴に施された細い線条紋も、視線を水平へと展開し、ふくよかに安定したフォルムをいっそう引き立てています。
 下半分に縄文が施される土器もありますが、胴の一番太い線から下なので、上からの視線からたぶん陰の部分になるでしょう。
 7月2日鈴木M氏の主宰する「弥生道場」でT花さんが提案した、仮称「栗谷式」の土器です。

 近隣の弥生後期の遺跡としては、1973年からの区画整理に伴う佐倉市の京成臼井駅南側の臼井南遺跡(現王子台)が有名ですが、その後発掘調査された八千代市内の権現後遺跡(現ゆりのき台)、佐倉市大崎台遺跡・江原台遺跡などからの土器についても、報告書や特にT花氏の研究論文などで、その姿が明らかになってきました。

 印旛沼周辺では、弥生中期後半から、茨城県などに分布の中心がある土器の一部と東京湾沿岸を主体とする土器、さらにその両地域の折衷ともいえる土器が、再葬用の土器棺に見られるようになり、後期からはさらに、住居址に残された生活用の土器に「北関東系とも南関東系ともつかない」多種多様な個性が現れてくるそうです。
 それぞれの地域で個性ゆたかにたくさん作られたこれらの土器を、系統立てて分類、編年する作業は至難の技のようですが、茨城県内の遺跡に詳しい研究者と北総の研究者の議論の中で、明らかにされていく過程と結果を見守っていきたいと思っています。

  仮称「栗谷式」土器も、その議論と共同研究の中から生まれつつあるようで、栗谷遺跡からのある程度まとまった特徴的な出土例を型式設定することで、江原台や臼井南その他近隣の遺跡から散発的に見られる同じような土器をうまく説明できることが期待されています。

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2005年7月16日 (土)

Y-2 「おらがムラ」栗谷の縄文紋様の弥生土器

 ふくよかな曲線と肌の美しさが特徴という私の弥生土器に対する先入観が、所変われば違うのだと気づいたのは、胴の部分一面が縄文紋様でうずめ尽されている土器を、かつて臼井公民館で初めて見たときでした。
 均一ではない日本列島の姿は、若い頃(?)、函館に旅行した時、恵山式土器と続縄文の世界に触れて感じてはいましたが、弥生後期になっても、いまだ土器に縄文が根強く残っている北総地域の文化の特性については、この地に来て間もない私に、まだ考える素養がありませんでした。

kuriya2  この画像は、栗谷遺跡出土の弥生後期の土器です。
 口縁は押捺により小さく波打ち、胴と首の境目には、S(Z?)の字が連続する帯が2条廻り、その下は、縄文がゆるく回転する細い縞の地紋となって、うつわを包み込んでいます。
 細い縞模様は、細い線二本の間に小さな縄目の凹凸がある「附加条縄文」。普通の縄にもう1本細めの縄を巻きつけた縄を転がしてつけた縄文で、臼井南や近隣の遺跡から出土した弥生後期の土器に共通する紋様です。
 S(またはZ)の字が連続された帯を描くS字状結節文は、結んだ縄を転がしてつけています。
 これらの北総の土器に一番ベーシックな縄文紋様を、ただひたすらに施紋しただけの土器ですが、技の確かさと基本へのこだわりが伝わってきます。

 少し離れて観ると、この附加条縄文の繊細な紋様は、土器の肌にいぶし銀のような光沢となって、輝きを与えていることに気づきました。
 デコレーティブな縄文世界とはちがうのは、紋様が自己主張せず、うつわ自身の機能とそのシンプルなフォルムを優先していることです。

 弥生中期、縦横斜め、波状の櫛描きや羽状縄文など自由奔放な装飾を競い合うような宮ノ台式が、東京湾から印旛沼南岸まで渡って来たあと、後期になってその華やかな名残りを頸部の意匠にとどめる大崎台式がその佐倉を中心に近隣に広まっていった、あるいはそれぞれに造られていったのでしょうか。
 さらにそのあとの後期中葉、印旛沼の周辺ではムラごとの「おらがムラ」の土器をたくさん造っていた中のひとつに、臼井南の土器も、栗谷の土器もあったのでしょう。

 「7月9日 八千代の弥生-栗谷遺跡の土器に出会って」にいただいたT花さんのコメントで指摘されている「地域差」を語るように、それぞれ微妙に個性の違う「おらがムラ」の土器。この「臼井南式」の土器も、その典型にするには、形がちょっと長すぎる「個性」が見られます。
 とはいえ、そこに共通する一面の細かい附加条縄文と、S字状結節文は、南西から海を渡り来る風とやませのように北東から吹く風の交わる北総の地の、まさに基層的な文化を物語っているのかもしれません。

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2005年7月 9日 (土)

Y-1 八千代の弥生ー栗谷遺跡の土器に出会って

 kuriyadoki このブログのはじめての5月15日の記事に「八千代市遺跡調査会・東部事務所におじゃまして、八千代カルチャータウン(上谷遺跡・栗谷遺跡など)の昭和63年から平成10年度まで調査の出土品を見てきました。・・・臼井南に良く似た弥生の土器類は圧巻、実にもったいない展示会です。」と書きました。
 弥生式土器については、教科書に載っていたあの特徴的なプロポーションを思い浮かべ、今に至るまで、単純な理解しかしていなかったように思います。

 そんな中で、壱岐へ行ったとき、お土産に買った「原の辻」という焼酎の容器が赤く艶のある須玖式土器複製品だったことと、(実家のある)佐倉市王子台の開発で、「臼井南式」という輪積み痕があったり、細かい縄文をいっぱい施してあったりする弥生式土器群がたくさん出土し、地元の公民館に展示してあったことなどが、ちょっとだけ印象的で、地方によってこんな個性もありかしらと、ばくぜんと思っていました。

 さて、5月に何の知識のなく偶然出会った八千代市栗谷遺跡の弥生の土器たち。その感動は単純に「アート」としての魅力でした。

A057  そのひとつ(栗谷A057)は、胴部を繊細な附加条縄文で埋め尽くされ、頚部は、縦に区分した中に、さらさらと波状の紋様が櫛描きされていました。弥生後期初頭の大崎台式(佐倉駅南側の環濠集落遺跡に由来)の在地色の強い土器と、あとで知ることになるのですが、印旛沼周辺の弥生土器についての考古学的な分析と編年は、とても難解な研究のようです。

 「さわらびさんは、なんでも興味持つのですね」と、また言われそうですが、出会ったときが旬。
 幸い(というか、ちょっと大変というか、)身近に、T花さんや鈴木M氏、八千代市の教育委員会のいつもお世話になっている先生方が、その最先端の研究のお仕事をされておられるようで、私の机の上は、その「難解な」論文の抜刷りや調査報告書のコピーであっという間にいっぱいになってしまいました。
 今日は、とりあえず、南西関東の弥生土器文化の基礎知識を学びに、昭和女子大の文化史学会に出かけてみようと思います。

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