2007年11月20日 (火)

J-4 ヲサル山遺跡の注口舟形土器の不思議

S  今年も、八千代市郷土歴史研究会の「ふるさとの歴史展」と『史談八千代』32号刊行が近づいてきました。
 テーマは、昨年度に続き「大和田新田の総合研究・Ⅱ」で、私は、例年担当の民俗分野の研究に加え、今年度は「埋蔵文化財調査からみた原始・古代の大和田新田の姿」を発表します。
 実を言うと、大和田新田地区は、東葉高速鉄道の開通により八千代市でも近年の開発が一番激しいエリアで、大規模は発掘調査にともなって山積みの調査報告書が刊行されてはいるのですが、その調査成果は一般市民にもあまり知られていないようなのです。
 S_2 私にとって、考古学分野のレポートは初めてなのですが、貴重な調査報告に対し、市民自らが学ぶということを実践する良い機会だと思って、千葉県文化財センターの図書室に通い、報告書の山に挑戦してみました。
 出土遺物については実物を見たくても、ほとんどかなわなかったのですが、その中で、ヲサル山遺跡出土の注口舟形土器だけは、八千代市郷土博物館に展示されているので、許可を得て撮影することができました。
この注口舟形土器は縄文中期の阿玉台式ということですが、とても不思議な形をしています。注口土器といっても、土瓶のルーツのような後期晩期の注口土器とは違って、浅く広口で、どっしりしています。
 果実酒の上澄みを取り分けたのかしら、などとその機能を勝手に想像してみたのですが、他に類例が見いだせない珍しい形らしく、その筋の専門家にお聞きしても、文献をあさってみても、どういう土器なのかわからずに、『史談八千代』の原稿提出の締切は過ぎてしまいました。

 Photo その後、10月20日刊行されたばかりの『日本の美術』497号(縄文土器中期 土肥孝)をぺらぺらめくっていたところ、福島県只見町の水差形土器の写真が載っていて、中期の「この形態は『急須形・土瓶形』として(後晩期へと)継続していく」と書いてありました。注口舟形土器はもちろん載っていませんし、また水差形も系譜がたどれるほどの事例がなさそうなのですが、やはり筆者も「中身は麻酔作用をもたらす薬液や酒の類であったと考えている」ようです。

 さて、この水差形土器と注口舟形土器、その側面の形は水鳥に似ているとは思いませんか。
先日(10月14日)、早稲田大学での「縄紋社会をめぐるシンポジウムⅤ-縄紋社会の変動を読み解く」で、高橋龍三郎が「イノシシ形土製品と並んで、獣形(美々貝塚で出土)とか亀形土製品があるが、それは『トリ』の形をデフォルメしたのではないかと、設楽先生などが提案されている。 日本列島には、イノシシ族とトリ族という半族があって、そのシンボルとしてのイノシシとトリの土製品が残された」という、面白いお話をおうかがいしました。
 S 酒を酌み交わすような儀式や祭りで使ったとしたら、そこには「半族」のシンボルがあってもよさそうと思うのですが、いかがでしょう。

 (写真は真脇遺跡の鳥形突起付土器 『日本の美術』497号

 このブログを見てくださっている方で、中期の浅い注口土器の事例などをご存知でしたら、ぜひご教示いただきたく思います。
 そして、11月24-25日、ふるさとの歴史展にも足をお運びいただければ幸いです。

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2005年5月19日 (木)

J-3 メビウスの輪?五領ヶ台式土器の突起の不思議

doki八千代市の上谷遺跡では、その広い発掘面積に比べ、縄文土器は早期~中期の土器片がいくらか出ている程度です。

この土器片も外側を上にして机の上に無造作に寝かされておいてありました。

深鉢?の上の部分の土器片。縄文に沈線で四角く区切ったシンプルな紋様がついていて、五領ヶ台式だそうです。 

doki2 博物館のガラスケースにただ入っていただけなら、きっと振り向きもせず通り過ぎていたことでしょう。

でも手にとって、よく見ると口縁部に繊細な刻み目が帯のようについていてその帯は、途中で湾曲し、裏側へと回り込んでいます。 

私はこの土器片を、鉢として使われていたその頃のように、立ててみたくなりました。 

外側からの口縁のふくらみは、ここで車線変更するように、器の内側へと続き、内側には平行する線と斜めの線できれいなベルトの模様が口の部分に廻っていました。

doki3器の外から内側へと視線を誘う不思議な紋様です。

きっと一周すると、また内から外へと、メビウスの輪のように、あるいはだまし絵のように楽しい錯覚をさせてくれるのでしょう。(このだまし絵のような口縁部の突起を、どうやって実測図で表現するのでしょうか。)

三角に湾曲した部分にも沈線でちゃんと斜め格子の模様が入っていました。

家族の団欒の真ん中に据えられて、斜め上から飽かず眺められていた鉢だったのことでしょう。

五領ヶ台式土器は、中期初頭、関東~中部地方の土器で、はなやかな勝坂式土器に先行する土器形式とのこと。

中期といえば、日本海側はあの火炎土器が燃え上がっていたころでしょうか。その火炎土器のかけらが、茨城県大洗町でも拾えるそうです。(⇒一考古学徒の思うところ)

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2005年5月16日 (月)

J-2 穿孔のある上谷遺跡の逆三角形土偶(by.Y)

5/14、八千代市遺跡調査会で、見せていただいた中で、特に珍しかったのが、逆三角形土偶です。doguu

右の小さいほうが3.15×H2.45cm、左の大きいほうが4.0×H2.7cm、厚さは1cm未満の扁平な小さな三角形の、知らなければ「どうしてこれが土偶なの」という、 どちらも上谷遺跡出土の撚糸文期(縄文早期)の土偶です。

面白いのは左の方、ひびが入って割れていたみたいで、開けてみると真ん中に、串でさしたような細い穴がかなり奥まで入っています。doguu

4/24に土浦市の上高津貝塚での講演会で、原田昌幸氏の特別講演「土偶の移り変わりと造形」がありました。そのレジュメの中に、木の根(あの成田空港反対の団結小屋があったとこ?)出土のこれに良く似た早期の土偶があり、やはり上下に穿孔があります。その意味については、人体を貫通する穴(ミルクのみ人形の中のパイプのようなのかな?)ではないかとの説明でした。

また以前読んだ篠原正氏の論文「金堀遺跡出土の土偶に関する一考察」(S61『印旛郡市文化財センター 研究紀要1』)のなかでも、金堀遺跡(富里市)の逆三角土偶の真ん中に穿孔があったのを思い出しました。この篠原氏の論文に復元模式図があって、○+▽+△を縦に串刺しにした仮説の図は、思わずおでんの串刺しを連想させます。

上谷遺跡の二つの三角土偶がセットかどうかはわかりませんが、左の穴のある三角形の下胴体部分に、逆三角形の上の胴体部分を爪楊枝ぐらいの棒で連結されたものだと思います。箱の中には、得たいの知れない小さなボタン状のものなどもありましたから、頭部に相当するものもあったかもしれません。

類似した草創期早期の逆三角の土偶は、富里の金堀、成田の木の根、芝山の朝倉、八街の小間子Aの各遺跡に見られるそうで、印旛沼の南東側に特徴的な土偶のようです。今回私が見せていただいた上谷遺跡の逆三角土偶はそのエリアの西端になるのでしょうか。

それにしても、こんな小さな遺物を注意深く採集された調査員の皆様に、敬意を表します。

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2005年5月15日 (日)

J-1 上谷遺跡出土のかわいい猪(by.Y)

「メル友もすといふBlogといふ物を、おみなもして心みむとてするなり」ということで、「さわらびNOTEBOOK」を始めちゃいました。

つれづれなるままに「さわらび通信」BBSにも、あることないこと書いてきたのですが、画像がつけられないのがさみしく、また気軽に書き込めるノート(歳相応の備忘録?)として、とりあえずチャレンジしてみました。皆様からもコメントやトラックバックで対話できればと思っています。

5/14は、八千代市遺跡調査会・東部事務所におじゃまして、八千代カルチャータウン(上谷遺跡・栗谷遺跡など)の昭和63年から平成10年度まで調査の出土品を見てきました。
午後一番には、市民は常連の私だけ、後からは郡市センターや近隣の自治体の職員の3名。臼井南に良く似た弥生の土器類は圧巻、実にもったいない展示会です。

縄文はちょっとしかなかったのですが、私は、小さくてかわいい猪と、真ん中に心棒の穴の跡が残っている三角土偶を特に出してもらって接写してきました。inosisi

今日はブログの設定に時間がかかってしまったので、とりあえず私たち夫婦の干支である猪の画像ををUPしてみます。

上谷遺跡出土、長さ36.5mmの五領ヶ台式期(縄文中期)の動物形土製品(猪)です。

キーホルダーにしたら、八千代市の博物館で売れないかしら?

つづきはまたあした。

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