S-10 行徳の阿弥陀石像「おかね塚」とその伝承
Rits Chiba様から、S-9に <行徳街道沿いに建つ「おかね塚」について教えていただけませんか。>というコメントをいただきました。
返答をコメント欄に書きましたが、画像がアップできませんので、内容も補充し、改めて新規投稿記事にしました。
市川市行徳押切の「おかね塚」を訪ねたのは10年前、もうだいぶ前ですので記憶があいまいですが、デジタルカメラで写した画像が残っていましたので、載せてみました。
市川市公式HPの「行徳探検隊」にその伝説が載っています。
恋した船頭を、ここで待ち続けて亡くなった吉原の遊女おかねの供養碑という伝承ですね。
<「寛文5年(1665)建立の阿弥陀石像がある。押切には古くから「おかね塚」の話が語り継がれてきた。
話の概要は、押切の地が行徳の塩で栄えていた頃、押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれてきた。
これら輸送船の船頭や人夫の中には停泊中に江戸吉原まで遊びに行く者もあり、その中のひとりが「かね」という遊女と親しくなって夫婦約束をするまでに至り、船頭との約束を堅く信じた「かね」は年季が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んで来る船頭に会えるのを楽しみに待った。
しかし、船頭はいつになっても現れず、やがて「かね」は蓄えのお金を使い果たし、悲しみのため憔悴して、この地で亡くなった。
これを聞いた吉原の遊女たち百余人は、「かね」の純情にうたれ、僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちもこの薄幸な「かね」のため、花や線香を供えて供養したという。
行徳の街が日増しに変わりゆく今日、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝えて供養してきた先祖の人たちの心を後世に残そうと、地元有志によって「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建立されている。>
実はこの石仏は、阿弥陀如来像を刻む寛文五年(1665)銘の庚申塔で、この石仏があるのは押切村と伊勢宿村の村境だそうです。「如等所業 右志者道俗願満足・・・」という願文が彫られています。
江戸初期万治のころ(1658)から元禄の初め(1690年ごろ)までの庚申塔は「二世安楽」を祈願し、青面金剛像よりも、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像、観音菩薩像などを刻んだ石 仏が多いのが特徴です。
行徳と江戸川を挟んだ江戸川区東葛西の旧桑川村・長島村には、行徳と関連の深い江戸初期の庚申塔が数多く見られます。
これは、旧桑川村称専寺の石仏で、右は、阿弥陀如来像庚申塔、左は地蔵菩薩像庚申塔。
共に万治三年(1660)の銘があり、「庚申之供養立之」のほか「二世安楽」などの願文と、寄進者の名前が丁寧に彫られています。
長島村の自性院には、寛文八年(1668)銘の観音菩薩像庚申塔と、元禄11年(1698)造立と見られる合掌型の青面金剛像の庚申塔があります。↓
この辺りでは、元禄半ば以降の庚申塔は、おおむね青面金剛像と三猿などを刻み、江戸時代後期にかけては「青面金剛」や「庚申塔」を彫った文字碑が多くなり、幕末からはこれが主流となります。
押切のこの阿弥陀如来の石仏に、船頭と遊女の悲恋物語が付会されたのは、たぶん、この庚申塔の造立意図が、もう江戸時代の終わりごろには、わからなくなっていたからと思います。
地元有志によって建てられた「行徳おかね塚の由来」を書いた石碑の碑文を、いわゆる「作文」と言ってしまってはもったいないでしょう。
「製塩に使う燃料を運ぶ船頭」の存在や「年季が明けるとここへ来た遊女」、「僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた」など、当時の行徳や江戸の庶民の様子が生き生きと伝わってくるのが「伝説」の世界です。
どちらも地域の歴史を知るための貴重な石造文化財だと思います。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (1)
最近のコメント