2007年2月10日 (土)

S-12 弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑、そして発見地点のなぞにせまる

弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑

 2月3日、八千代栗谷遺跡研究会の皆さんと、本郷から東大構内、そして弥生土器の発見ゆかりの遺跡を訪ねました。

 文京ふるさと歴史館と「発掘ゆかりの地」碑を訪ねるとともに、武蔵野台地の東縁で沖積低地との接点にある坂の町を足で歩き、弥生文化の背景となった文京区本郷の地形を体験しようという企画です。 (→やちくりけんブログ)

明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたことは、日本先史時代研究史上、あまりにも有名なことです。

070203_111s  司馬遼太郎氏は「街道を行く」で、根津駅から弥生坂をのぼった向が岡近辺について次のように記述されています。

『 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。明治二年(1869)政府に収用され、それでも名無しだった。
 明治五年、町家ができはじめて、町名が必要になった。
 たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に、「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、弥生をとった。向ヶ岡弥生町になった。
 弥生は、いうまでもなく三月の異称である。奈良朝時代には、すでにあった。
 弥は、「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。
 弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。』

 この碑の詞書の続きは
「やよひ十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ
 名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」。

 この歌碑がなかったら・・、この「向岡記」碑が弥生(3月)に建てられなかったら・・、碑文が誉めているのは桜の美しい向ヶ岡の地であって、「弥生」はただ記されたそのときでしかないのに、この碑文の建立月にこだわって町の名をつけなかったなら・・、稲作と金属器の「弥生時代」という時代区分は、いったいなんとよばれたのでしょう。
 「縄文」に対する無紋土器、略して「無文」(時代)なんていったらイメージが悪いので、単純に「向ヶ岡」、明治らしく漢文調では「向陵」(時代)だったのでしょうか。

 この見学会の企画に先立って年末に下見に行ったときは、日の暮れるのも早く、東大工学部浅野キャンパスをうろうろ歩き回っても、この碑は探せませんでしたので、2月3日、文京ふるさと歴史館の加藤学芸員にご案内していただき、この碑を校舎の狭い間に伐採した不用の刈り枝に覆われた状態で見つけたときは、感慨深いものがありました。Yayoi_1

   町の名となるほどですから、幕末から明治のころは、きっと拓本を採ったりする文人たちにもてはやされたことでしょう。
 自然石の風雅な石碑ですが、今は酸性雨で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めません。でも、かろうじて「弥よひ」の文字(→画像)はわかります。

 加藤氏は、「文化財として覆い屋根をつけるなど、東大さんにも、もっと大事にしてほしいですね」と嘆息されていましたが、私も同感。近世・近代の文化を伝える文化財として、赤門並に扱ってしかるべきだと思いました。

弥生の壷の発見地点のなぞにせまる

 さて、有坂・坪井氏らによる弥生の壷の発見地点は、どこなのでしょう。
 坪井氏の報告や有坂氏の懐旧談にはあいまいな記載しかない上、その後の都市化が進む中で遺跡の位置は判然としなくなりました。

昭和 61年(1986)向ヶ丘弥生町会有志が、「弥生式土器発掘ゆかりの地」という記念碑を建てましたが、「ゆかり」と刻まざるをえなかったのは、発掘地点が謎とされていたからです。

 070203_113s_1推定地としては挙げられてきたのは、
(1)東京大学農学部の東外側、
(2)東京大学農学部と工学部の境(「ゆかりの碑」付近)、
(3)根津小学校の校庭裏の崖上、そして
(4)東大工学部浅野キャンパス内の弥生 2丁目遺跡です。

 『古代学研究』15号-2001年6月で、上野武氏は『「最初の弥生土器」発見の真相-発見者有坂鉊蔵の嘘-』と題して、これまでの発掘成果や、有坂氏の回顧録の記述を詳しく分析し、最初に有坂少年が発見したのは(4)付近で、壷を見せた翌日に同行した東大理学部生坪井・白井両氏が(3)地点と間違えたことに話をあわせ、「正確な場所はわからない」と嘘を通したと結論づけています。

 また、2007年1月12日の読売新聞では、推定地は農学部内の生命科学総合研究棟付近とする原祐一氏の説を紹介しています。 工学部内は当時、射的場で警視庁用地なので気軽に発掘できない。現在の農学部内は、東京府の精神科病院用地で立ち入りは可というのが主な理由です。

 私は、上野氏の「有坂の嘘」説(本当は工学部内)と、原氏の新説(農学部内)の理由を読んで、次のように考えました。

 有坂氏が『「独占の宝庫」として秘密にしたかった(第一の嘘)。』『第一の嘘がばれることをおそれ「遺跡の正確な場所はわかりません」と嘘をついた(第二の嘘)』というのが上野氏の説ですが、私は、考古少年だった有坂氏は、本当は入場を禁じられた射的場の奥に入り、東側の崖際の(4)地点で壷を発掘し、坪井・白井氏に見せたところ、年長の両氏は、不法侵入の疑いをかけられるのをおそれ、「旧向が岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」(坪井・談)と射的場からの方向をごまかして話し、有坂氏は沈黙、晩年になって坪井氏と同様な見解を述べたというのが真相で、自然な流れだと思いました。
 ようするに、射的場不法侵入の証拠を隠すため、弥生二丁目遺跡付近である本当の発見地をあいまいにしたというのが私の仮説です。

参考HP :東京大学総合研究資料館 石器・土器・金属器(日本)5 壷形土器(重文指定)
東京大学埋蔵文化財調査室:本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置

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2006年11月25日 (土)

S-11 戊辰戦争-敗者のその後

 八千代市郷土歴史研究会恒例の「郷土史展:-旧村のすがた・大和田新田研究-」は、本年もたくさんの会員の協力と大勢の熱心なご来場者で盛況に終わりました。
 061123_003s 今回中でも注目されたのは、11月18日の朝日新聞千葉版でも紹介していただきました畠山会員の「佐倉藩士小柴宣雄の墓碑が語る」の研究発表でした。
 061123_006s_3テーマ名のこの墓碑群は、大和田新田一本松(成田街道沿いマルヤの向い)の小さな墓地にある佐倉藩中級藩士小柴宣雄とその子孫の墓碑群で、土地の所有者が清掃してくださっているものの、今は墓を詣でる遺族もなく、近々道路拡幅で整理されることも懸念される状態なのです。
 「なぜこの場所に元佐倉藩士の墓が建てられたのか」、碑文の解読、佐倉藩関係文書のほか、大和田新田旧家の文書、石造物、地域の聞き取り調査など会のグループワークで明らかになったその内容は、 「史談八千代」31号の畠山論文をお読みいただくとして、会員の心を引いたのは、宣雄の長男で、戊辰戦争に幕府方として参加し自刃した小次郎の若い死と、藩に反旗を 翻し脱藩したこの子息を持った一族の廃藩後の生活でした。
 畠山氏は「佐倉藩では廃藩後、禄を失った藩士らのために士族授産事業として佐倉同協社や佐倉相済社を興しているが、宣雄がそれらに参加した形跡はない。」「小柴家としては一時期脱藩者としての汚名を免れなかったであろう。小次郎の父宣雄が、廃藩後佐倉から隠れるようにひとり大和田新田の地に居を移した理由もこのあたりにあったのではなかろうか。」と述べておられます。⇒写真右:小柴宣雄の墓(右)と小次郎(左の墓碑)

 Hananonotegamis 私が古文書を通じて戊辰戦争後の敗者側の運命がいかに過酷だったかを知ったのは、2003年5月、上野公園内の彰義隊資料室で見た女性の手紙でした。
 この日は資料室が閉鎖される最後の公開日で、この手紙は、鴨居の上に釈文もなくひっそりと展示されていました。
 地方文書と違って、流麗な女手の草書体でしたので、私にはすぐには読むことができず、その日はデジカメで撮影して、後日八千代市郷土歴史研究会の関和会員にご協力を仰ぎ、解読していただいたところ、この書簡は、上野戦争で彰義隊員戦死者の妻「花野」が、見せしめに放置された隊員の遺体を収納させてほしいと、勝海舟にあてて懇願する手紙でした。 (釈文全文は「郷土史研通信」48号P6に掲載)

Tegami 「 勝 安房の君      花野
       御直披
 當今の形勢は 実に叡慮に出る所か はた天命か
 止なんとして 又止がたき徳川家忠義の浪士 上野山中 戦死のあらさま
 元より戦の意味なきに 大軍四方をとりかこんで 火中に必死を極めたる
 其忠 其戦 詞つきたり
  (中略)
 早く其のなきがらをうずめ せめては なき霊をなだめまふし
 尤も忠臣義士の死ざま 世の人に示さんには 
 中々に かは弥の面目 徳川家のほまれ也  
 一たびは人心をしてよろこばしめ 二たびは人心をしていたましむ 
 是をしも 雨露にさらし 日にかわかし 長く泥土におくものならば 
 其の怨みは天下にあらん
 早くとうおさめんことを 公になさしめ給へ
 官軍も かの楠を例とせば いかでか是をわろしと申さん
 此の事 とくとくと申すなり 
 婦の長舌も 時世にうそと糺さるるとも 
 猶 罪とせられば 座して死をまたんのみ
 何とかすべき  あなかしこ あなかしこ

  上野山動かず さらでほととぎす
    鳴くとて血をはく さみだれのころ 」

 Syougitaihakas HP「台東区」の「上野彰義隊の墓と黒門」の記述に寄れば、「官軍は彰義隊に対しては厳罰でのぞみ、死体の後片付けさえも許さなかった。遺体は、そのまま雨の中を数日放置され悪臭がただよい始めた。 (中略)  『これは放っては置けない』と、官軍の激しい目も気にせず遺体の収容に立ち上がったのが三ノ輪円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎、新門辰五郎らであった。さすがの官軍もこれには口を出さなかった。山岡鉄舟筆になる『戦士之墓』は彰義隊隊士の遺体の火葬場の跡である。」とのこと。
 そういえば、上野公園の墓碑には「彰義隊」の文字はなく、「戦士之墓」とのみ彫られていました。

 小柴家の長男小次郎の名誉が回復されたのは、もうひとりの佐倉藩脱藩者木村隆吉とともに「両士記念之碑」が、佐倉郷友会の手によって、麻賀多神社境内に建てられた大正2年のことでした。
 敗者の、しかも藩という狭い社会での少数の反逆者、そしてその遺族の生活はいかがなものであったか、畠山氏の史料に裏付けられた報告は、大和田新田の地に懸命に生きた家族とその時代の趨勢を考えさせる珠玉のレポートでした。

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2006年9月25日 (月)

S-10 お墓に刻まれた遺言の道しるべ

 今から十年ほど前の1998年ごろ、八千代市郷土歴史研究会の仲間と八千代市内の道標の調査と古道の探索とその復元の研究を始めました。
 高本入口の「むかうへゆけばさくらミち」庚申塔道標のように石造物の造形として優れているもの、あるいは新木戸三叉路の「血流地蔵尊道標」のように江戸期の交通史資料として貴重なものなど、たくさんの道しるべを調査発見し、それは2001年105基の道標データとともに『八千代の道しるべ』という報告書刊行となって実を結びました。
 その時の調査では、江戸時代の道標は庚申塔や月待塔などに刻まれた供養塔が多かったのですが、ひとつだけ分類を「墓塔」とした例外的な道しるべが大和田新田の坪井町入り口の墓地にありました。06920_034s

 成田街道の復元した「血流地蔵尊道標」の立つ新木戸三叉路を吉橋方面へ300mほど行くと、「ミヤコシ」というバス停のところにY家の墓地があります。
 その中に、この道しるべを兼ねた文化14年(1817)の建立の墓塔があり、わかりやすい大きな字で次のような銘文が刻まれています。 (⇒画像)

正面 「 文化十四丑天
    教正院法山妙清信女霊位
     三月初九日」
左面 「右 よしはしヨリき於ろし
    左 たかもと又つほい  道

右面 「本家高本三右エ門 
      大和田新田施主峯吉」

 左面の道しるべは、右へ行くと吉橋から木下へ、また左のわき道に入ると高本へ、そしてまた分岐して坪井へ至る道を案内しています。
 建立された位置は、墓地が整理されてしまっていたのでその時はわかりませんでした。

 道しるべが刻まれた個人のお墓というのは、市外も含め他に類例がなく、そのころからとても不思議に思っていましたが、今年度の八千代市郷土歴史研究会のテーマが「大和田新田研究」で、私は屋号調査を担当しましたので、旧家の聞き取り調査のついでに、ぜひそのなぞを解いてみたい気がしていました。
 そして通称地名「三軒家」と呼ばれたこの墓地周辺の昔の屋号を探索しているうち、やっとこのお墓に記された方の子孫のY家を訪ねることができ、道しるべのあるお墓の由来をお聞きすることができました。

 このお墓に葬られた方は、ご主人に先立たれたY家のおばあさんで、「高本のインキョ家からお嫁にきた方」とのことでした。
 このおばあさんは、亡くなる前に自分のお墓をぜひ道しるべにしてほしいと言い残され、その遺言に従って、女性一人としてはやや背の高いりっぱな道標兼用のお墓が建てられたとのことです。
  実家の「高本のインキョ」家とは、『八千代市の歴史 資料編 近世Ⅳ』の文久4年「生長祝儀并節句覚帳」に「高本隠居三右衛門」とあるので、道標に記された銘文の「高本本家 三右エ門」のことでしょう。06920_039

  実はこの墓石は、木下街道の拡幅前は、今のバス停の目印のところにあり、坪井町入り口の三叉路が拡幅され、高本へ行く道が墓地の右側に移動されるまでは、墓地の左手の細い路地が高本方面への道であったとのこと。ちょうど分かれ道のその角にこのお墓があったわけで、本当はとてもわかりやすい場所にあったわけです。 (⇒画像)

 りっぱなお墓の主のこのおばあさんは、晩年ご自分の実家、高本への道がとても懐かしかったのでしょうか。 あるいは生前、新木戸三叉路の自宅の門前で不安そうな旅人に道案内することが多く、没後も人のためにつくしたい一心で遺言されたのでしょうか。
 想像はつきませんが、今回の旧家の聞き取り調査で、長年の私のなぞもやっと解けた気がしました。

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2006年1月14日 (土)

S-9 男女神を対で祀る民俗と遺跡の関係

 今年の馬場小室山遺跡研究会の事始は、遺跡のある旧三室村の鎮守である「武蔵一宮氷川女体神社」の初詣、それも神主さんの司式による正式参拝でスタートをきりました。
 女体神社は、男神である大宮の氷川神社に呼応する女の神であり、両社一体であったが故にともに「武蔵一宮」でもあったのですが、isigami男女神を対で祀るというのは、先史時代にさかのぼる祭祀の姿でもあったのでしょう。

  昨年、シリーズ「縄文遺跡のある風景」でとりあげた石神台貝塚ですが、ここにはその小字(遺跡)名の由来となった石神さまが祀られています。
 その名のとおり、長細い巨大な石が御神体(⇒)で、この石は地面から生え出るよう社殿の床をつきぬけて直立し、祠の扉を開けるとその頭部を拝むことができます。 そしてその前には摺り石が添えられているのです。

 isigami2 祠の周りには、この付近の畑から出土したと思われる石棒やたたき石がぎっしりと敷き詰められ、性の神を祀る縄文時代からの祭祀の姿を彷彿させていました。

縄文遺跡から男性を象徴するたたき石や石棒と、女性を表す摺り皿などを対に祀った状態で出土する事例もあったとのこと。(「石棒祭儀に伴う象徴的生殖行為とその意味」谷口康浩2005.11.12「縄紋社会をめぐるシンポジウムⅢ」)

  柳田國男の「石神問答」を紐解くまでもなく、男性神、また男女神(陰陽の神)を祀る民俗事例は今でも比較的多く目にしますが、心が19yanyoirinけて見てみると、男性神に呼応する女性の神も辻や路傍のあちこちに残っていることに気づきました。

 石神台貝塚のある舌状台地には、さらに台地の付け根の道がY字に分かれる分岐点に地蔵さまの祠や石仏が密集している場所があります。(⇒空撮写真に「伊付集会所」とポイントした場所

 大きな榎の根元に下から突き上げられて斜めに立っているは、宝暦12年の十九夜塔(⇒)、明治・大正期の子安観音塔などの女人信仰に関わる石塔群です。

 庚申塔や道祖神、馬頭観音などのほか、ムラを悪霊から守る賽のdaikonn神として、道の分岐に子安神を祀るということはよく見られることで、その姿は、八千代市上高野の三叉路に「子安大明神」とその名の通りの神社がある場合のほか、安産祈願のための「犬卒塔婆」が立てられる吉高の大桜の畑の角、二股や三股の大根が供えられている米本三叉路の道祖神(⇒)などでは、今も村の女性たちの信仰が続いていました。 09

  おそらく印旛村伊付分岐点の石仏群も、Y字型の古道の形や巨木(⇒)の洞の形が女体を連想させる故に子安神を祀っていたに相違なく、1町ほどの先の男性神を祀る石神神社と相呼応する女神の寄り代であったのではと感じます。

 そういえば、世の中に「石神」「姥神」「姥山」などという小字名に由来する縄文遺跡が多々あることも気になりはじめました。それらの遺跡名に「石神問答」のシャグジの神をつい連想してしまうのですが、地下の遺構とともに地表に残された神社や祠、立石にも縄文人からのメッセージが託されているのだと思います。
 寺の境内以外の路傍や山中、畑に残された子安信仰の寄坐(よりまし)も、またそのひとつの姿であったのでしょう。

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2005年12月31日 (土)

S-8 子安鬼子母神像のルーツ

kariteibo  2005年暮れ、新しい年のカレンダーに替えようとして、2005年の古美術カレンダーの中のある写真が捨てがたく、しばし手にとって、スキャナーで画像保存しました。
その画像とは、訶梨帝母座像、鎌倉時代の滋賀県園城寺蔵の重要文化財彫刻の写真(⇒)です。

この神像は、、他人の子供を奪って食べてしまう鬼神だった訶梨帝母(ハーリティ)に対し、釈迦が彼女の末子を隠して子を失う母の悲しみを悟らせたことから、彼女は仏教に帰依して子供の守り神となったという鬼子母神説話(「雑宝蔵経」)に由来し、この説話は密教とともに日本に伝えられ、平安後期には安産祈願の修法が盛んに行われたといいます。
この訶梨帝母が天女の姿で右手に柘榴(吉祥果)をもち、子を抱いた像は、ルネッサンス時の聖母子像にも似た慈愛に満ちた母性を感じさせる刻像です。

IMG_0597 この夏、八千代市の女人信仰と子安観音像容成立の過程を追って、萱田町長妙寺の子安鬼子母神像を調べに行きました。
日蓮宗系では、鬼子母神説話に基づく子を抱いた訶梨帝母像を、子安観音像に似た子安神として祀るとのこと、その事例を萱田町長妙寺の子安鬼子母神像にも見ることができます。
「ぢの呪い」と八百屋お七の墓があることで有名な長妙寺境内に入ると、水子の霊を供養する現代の慈母観音像の横に子安像が3基ありました。
嘉永2年(1849)建立の像(⇒)は、懐に子を抱き左手にざくろの実(枝)を持つ子安型の鬼子母神座像で、台石に「女人講中」のほか講の女性の名も記されています。
鬼子母神像には合掌した鬼型もありますが、日蓮宗地域の女人講では子安型の訶梨帝母石像を祀ることもあるようで、船橋市内では前貝塚町行伝寺の文久二年(1862)造立の光背型の子を抱く立像があるそうです。

もっとも、近代の建立では、長妙寺の明治16年(1883)像、昭和39年(1964)の像のように「子安鬼子母神」と刻されていなければ、右手に蓮を持った如意輪系の子安観音とその像容の区別がつかないものになっていきます。

日蓮宗系に多いこの子安神像は、近世末期から近代にかけて、安産子育ての現世的祈願とともに子安講が子安像を祀る慣習が村々で一般化していくととともに、神保領だった船橋市や八千代市の一地域でも、宗旨にふさわしい像として造立されていったのでしょう。

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2005年12月21日 (水)

S-7 女人名の刻まれた船橋市不動院の六面石幢

rokukannon2005年7月17日「女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から」の記事について、船橋のmoriさまから11月14日、次のようなコメントをいただきました。

「船橋に不動院という、文政7年(1824)の船橋浦での猫実村との漁場争いで入牢し、なくなった漁師惣代2名の追善供養のための大仏で有名な寺がありますが、実はその境内にやはり女性名ばかり書かれている観音をレリーフにした六角柱の石塔があります。猟師町云々と書かれていますので、やはり漁師のおかみさんたちが漁の無事を祈ってたてたのではと思います。これも、細かい字で判読しにくいものが多いですが。」

3年前船橋の史跡を撮りにいき、不動院の2基の庚申塔の間にあった六面石幢に魅せられて、何枚か撮影してあったのですが、残念ながら寄進者名銘文の鮮明にわかる画像がなかったので、先日(12/17)もう一度見にいきました。不動院は、船橋市中央図書館からすぐのところです。

六面石幢には「奉新造六観世音 女念仏講為二世安楽 元禄十四巳年今月今日」の銘、六観音の浮彫りの下には、「猟師町横丁 不動院月栄代」それ以下に、「妙真 妙案 妙栄 妙凉・・・」など出家した尼と思われる法名が19名、「おふう おい女 およし・・・」などの女性の俗名20名が刻まれています。meibun2 meibun5meibun1

ところどころむずかしい変体仮名で読めないところや、連名の最後に刻まれている「万女」が固有名詞なのか、じっくり調べなければいけない課題はありますが、時は元禄14年(1701)、赤穂浪士の討ち入りのあったころ、念仏講に結縁した女人ひとりひとりがはっきりと個人の名前を出して、この六面石幢を建てたことがわかりました。

デザインも洗練されていて、それなりにお金がかかったことでしょうが、町や村の働く女性たちはそれぞれ負担する力も立場も持っていたといえます。

rokukannon2帰りに中央図書館によって、『調査報告書船橋市の石造文化財』を閲覧し、悉皆調査記録を見てみました。この報告書のデータを見ると、念仏講による供養塔の初出は、本町1丁目の「西向観音」として有名な万治元年(1658)の延命地蔵で、「念仏講中間 拾弐人 同女人十六人 さんや村」と刻まれているとのこと。

その後の念仏塔は寛文期には、女性のみの講となり、また男女で行われていた十九夜講も女性だけで行われるようになると、各町村でさかんに女人講=十九夜講による如意輪観音の十九夜塔が建てられ、さらに十九夜講が発展した子安講により天明5年(1785)から子安観音像を建立され、文化文政期には一部の地域で急速に普及していきますが、その傾向は、船橋市内も八千代市内も同じように感じます。

不動院には、この六面石幢のほかにも、「飯つぶ地蔵」として肩から口にかけて白米の飯を盛り上げてつける供養式で有名な釈迦如来座像や、江戸時代の2基の立派な庚申塔など、優れた江戸時代の石造物が残されています。

船橋のmoriさまの寄せてくださったコメントがきっかけで、再度たずねた不動院。今回その石造物を熟覧してきましたが、信仰心のほか強い経済力もあった猟師町の人々、とくに女人たちの姿に思いをはせた2005年師走でした。

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2005年12月12日 (月)

S-6 八千代市内最古の十九夜塔は寛文の丸彫り如意輪像でした

2005年7月17日 (日)「女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から」の文章の中で「延宝2年(1674)造立の如意輪観音像は、市内十九夜講の石仏として最古であり、高津の十九夜塔でも最大、しかも六臂の姿は荘厳です。」と、また同様な主旨を『史談八千代』30号に書きましたところ、訂正のご意見を賜りました。murakami19yatou1
実は、高津の延宝二年(1674)の十九夜塔は市内最古ではなく、現在編纂中の市史『八千代市の歴史』草稿中で「初出」とした最古のものは正覚院釈迦堂の右裏手の寛文11年(1671) 10月19日の丸彫り像であると、八千代市史編纂委員のK様から、八千代市郷土歴史研究会会長へご指摘があったそうです。

さっそくこのご指摘にこたえて、正覚院へその石像を見つけに、また調査でもらした参考報告文献がないかを探しに八千代市郷土博物館資料室へ行きました。

確かに正覚院釈迦堂の裏の川嶋家墓地に奥の崖下、夏は灌木に覆われるような斜面に変わりはてた姿の如意輪観音像があります。
ただし、首から上は失われて地蔵像らしき頭部が接合され、右腕もありません。
横には地蔵像の残欠も転がっています。

murakami19yatou2 これが十九夜塔と判断できるのは、像の背面の衣に「像立十九夜女人 念仏講衆」と刻まれているからでしょう。さらに銘文は「村上村(?) 池証山(鴨鴛寺)」と続くらしいのですが、場所が急斜面の裾部ですので、石像を動かさない限り判読は難しそうでした。(→はデジカメを石像と崖面の間に入れて撮った画像)

その足で近くの郷土博物館で『よなもと今昔』のバックナンバーを閲覧し、村上地区の石造物悉皆調査データからこの十九夜塔の調査データを見ることができました。
同報告による銘文は「像立十九夜女人 念仏講衆 □□菩提也 村上村道□ 池証山鴨鴛寺 寛文十一辛亥年十月十九日敬白」だそうです。
高津の十九夜塔より3年先立つ造立。小ぶりとはいえ、丸彫り像です。欠損していなければ、さぞ立派な観音像であったことでしょう。
文化財の価値としては惜しい姿ですが、背面の銘文は女人講の成立を示す歴史資料としてたいへん貴重です。

この石像の銘文を記録された『よなもと今昔』の研究会の皆様に敬意を示すとともに、『江戸期の石造物』リストに依存して調査不足であった『史談八千代』30号の拙文の間違いをお詫びし、八千代市郷土歴史研究会会長のご助言で、高津の延宝二年十九夜塔についての「この石塔は八千代市内最古」という文言は、「この石塔は最も像容が整ったものとして八千代市内最古」と、訂正したいと思います。
以上謹んで訂正いたします。

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2005年10月27日 (木)

S-5 小岩の「岩附志おんじ道」道標が示す慈恩寺とは

 京成江戸川駅を降りて毎朝、私は小岩の一里塚の職場まで通勤していますが、その道は「さくら道」といわれた下総と江戸を結ぶ重要な古街道でした。
 今でも、その界隈は小岩・市川関所に関連した「御番所町」の風情と常燈明などの史跡が残っています。
 そのひとつに、角屋旅館のあるT字路正面の民家の東向きの塀にくい込んで建っている「道しるべ」があります。jionjimitidouhyou1

銘文
右面(実際は、ブロック塀で読めない)
   「左リ いち川ミち
   小岩御番所町世話人忠兵衛」
正面「右 せんじゅ岩附志おんじ道
   左リ江戸本所ミち」
左面「右 いち川みち
   安永四乙未年八月吉日
   北八丁堀 石工 かつさや加右衛門」

 三十年間通いなれた道に立つ変体仮名の道しるべでしたが、なんと書いてあるのか、銘文を読んでみようと思ったのは、15年前、八千代市郷土歴史研究会で古道調査のノウハウを学んでからのことでした。
 今は江戸川区教育委員会の説明板もできていて、書体が良いので拓本を採っているという書家の方や、古街道調査の方、また、歴博の山本光正先生にお会いしたこともあります。
 
 元は、もっと銘文が鮮明でしたが、近年の多雨の気候のためか、カビのような苔が繁殖して読みづらくなっています。(最近そういう石碑や石仏が多いようですね。)
 市川の渡しから、小岩の関所を抜けてまっすぐ来るとこの道標が正面にあったわけで、右の道は千住から「岩附志おんじ」へ行くらしい。この「志おんじ」とは、岩槻の慈恩寺のことらしいが、ずいぶん遠いお寺を指していると、当時はとても不思議に思いました。
 実は、この「慈恩寺」は坂東観音霊場の12番札所で、関東の村々や町の主に女性たちの巡礼が遠くから参詣にきて、とてもにぎわったお寺でした。

 nyoirinkanon その慈恩寺ですが、10月22日に、馬場小室山遺跡研究会で岩槻に行くことになり、急遽ご案内くださる方にお願いして、コースの最後に入れていただき、念願の「志おんじ」にお参りすることができました。

 この慈恩寺参拝のルポは、ドンパンチョさんの橿原日記「平成17年10月22日玄奘三蔵の霊骨を奉安している慈恩寺を訪れる」に詳しく書かれていますので省略しますが、留学僧円仁が遊学した長安の大慈恩寺にちなんで寺名を慈恩寺としたとされています。
 長安の大慈恩寺は玄奘三蔵のゆかりの寺で、巡礼の唱える般若心経は、その玄奘の翻訳のひとつでもありました。

 岩槻の慈恩寺は、盛時には、三万五千坪の境内を有し、六十六の宿坊があったそうですが、今は天保14年(1843)再興の本堂と、そこから800mはなれた丘に玄奘三蔵の霊骨を安置した十三重塔(昭和25年建立)が建っています。
 御詠歌は「のりの花 匂ふ林の寺の池 しづめる身さへうかぶ七島」。

     (石仏の写真は、慈恩寺境内の寛政八年女人講の建立の如意輪観音像)

 この古刹を訪ねる直前、近くの春日部市の花積貝塚を巡見しました。
 「花積下層式土器」の標識遺跡で、「新編武蔵国風土記稿」にも「貝殻多くいづれば貝殻坂とよべるなり」と書かれたエリアの縄文遺跡らしいのですが、「花積」の地名として「古へ慈恩寺の観音へ、此地より多く花を積みて供えし故起れり」とあるのもゆかしく感じました。

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2005年8月21日 (日)

S-4 子安観音像の像容成立の謎

高津の十九夜塔群の変遷の背景を探るため、市内の江戸時代の十九夜塔も調べ始めました。
特にその像容が如意輪観音から離れ、子供を抱いた「子安観音」像となる時期とそのプロセスが、以前からの私の個人的な課題でした。

調べてみて八千代市内では、江戸後期文化文政期に突如として市内に子安観音像が登場します。米本林照院境内の文化11年(1814)銘の子安観音像が初出で、その数は幕末になるに従い、市内北西部では徐々に増えて行きますが、高津や勝田などでは明治も半ばを過ぎて、また下高野では大正2年(1913)で初めて子安観音像を建立しているなど、その受容時期は地域によって異なっていることがわかりました。
koyasukannon この画像は、先週撮った米本林照院の子安観音像です。垢抜けたすばらしいデザインの子安観音像ですが、残念ながら石の質が悪く、表面が剥離してきており、「文化十一年」の文字の部分も剥落した断片をくっつけて撮影しました。
男性中心の世界観の仏教では、観世音菩薩は明らかに男性であり、江戸時代になるまで日本では赤子を抱く観音像はおそらくなかったでしょう。江戸中~後期における子安観音像の像容成立のプロセスは現在よくわかっていませんが、私が見聞きした範囲で、子安観音像の像容成立の背景を考察してみたいと思います。

二十六聖人記念館の結城了悟館長のご教示によれば、鎖国になる頃、長崎港に福建省から白磁の子供を抱いた白衣観音像がもたらされました。白衣観音は清浄菩提心を表し、諸観音を生み出す母と考えられ、その柔和な姿は、江戸初期西日本に多かった潜伏キリシタンにも聖母像の代用として受け容れられました。
今も長崎と大村藩の寺々にはそのような観音像がまつられて、またキリシタンの子孫の家から発見された「マリア観音」も多々あり、私も国立東京博物館でキリシタン取締りの際の幕府押収品としてみたことがあります。
やがて平戸焼きのより柔和な、慈愛満ちた母子像に近い観音像が造られ、日本中に普及したと思いますが、寛政4年(1792)、秩父四番札所の金昌寺では、「マリア観音」と後世俗称された美しくも大胆なあの有名な子安観音像が奉納され、近隣では佐倉城下の鏑木の子安観音(通称「子育地蔵」)が寛政6年(1794)に建立されています。
関東・南東北近辺の子安観音の石仏としては、小林剛三氏の「郡山地方の子安信仰塔」挿図に、左足を半伽にして首を傾け、あるいは片手に蓮華をもった「如意輪観音に子を抱かせた像」と、「如意輪観音像から変化したとは考えられない像」の絵が載っていますが、後者について、頭から布を被って肌を表さず子を抱くその像容は、おそらく江戸初期のこの子供を抱いた白衣観音像の系譜を引くのではないかと、私は思っています。

鎖国から百五十年程たって、関東・南東北各地に造られるようになった子安観音像。その像容の変化の秘密を探るために、事例を含め、皆様にご教示いただければ幸いです。

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2005年7月17日 (日)

S-3 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から

 八千代市郷土歴史研究会の旧高津村の研究調査も今年で2年目。私は高津の女人信仰について、子安講の民俗事例と十九夜塔・子安塔を中心に調べまとめたいなあ、と思っています。
 幸い、高津では主婦たちの子安講がまだ続いていますし、高津観音寺の境内には十九夜塔・子安塔がずらっと並んでいて、まずはこの石造物の記録が資料となります。
 昨年は、その中で2番目に古い正徳三年(1713)の如意輪観音像のもっぱら容姿に魅せられて、郷土史展のポスターや「史談八千代」の表紙作品用に撮影しましたが、今年は、女人信仰がテーマですから、半跏思惟像の如意輪観音から、子供を抱いた子安観音に像容が変化する信仰の変遷とその造立の主体を知るため、造立年と寄進者名の銘文をまじめに読んで記録してみようと思いたちました。name1
 なかでも延宝2年(1674)造立の如意輪観音像は、市内十九夜講の石仏として最古であり、高津の十九夜塔でも最大、しかも六臂の姿は荘厳です。
 さて、この像の丸みがかった衣の裾と台座の部分に模様のようなものが彫られています。よく見ると、「おつる・おみや・おまめ」などひらがなの女性名がびっしり。結願した方々のお名前ですが、女性の俗名というのは、珍しいですよね。(⇒画像をクリックして読んでみてください)

 2005デジカメ画像と目視で読めるところは何とか読みましたが、両脇は隣の石塔とくっつきすぎていて、判読は難しい。拓本をとってみたらという助言もあり、今日の午後から郷土歴史研究会の会員に応援してもらい、チャレンジしてみました。
 場所は、崖の上のようなところで、後ずさりもできない。結局拓本での判読も難しく、最後は、歯医者さんのようにミラーを当てて、目のよい若い会員に見ていただきました。
 全部で50名のうち41名の判読が成功、ちなみに「おまつ・おなつ・おまめ」は2名ずつ、尼さんらしい「春香」という漢字名も1名ありました。
 郷土歴史研究会の皆様、ありがとうございました。

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2005年6月 3日 (金)

S-2 中世の石塔雑感-駿河の旅から

5月の28-29日、八千代市郷土歴史研究会の見学旅行で、旧東海道の駿河路を訪ねました。DSCF0130
今回の見学のポイントは、主に近世~近代の旧街道の交通史的な観点だったのですが、2002年年末に忍性と中世石塔の関東伝播の跡を追って、箱根沼津藤枝の駿河路を探索した思い出の地でもあり、目はつい寺院墓地の石塔群に向いてしまいました。

これは、「蘿径記」碑のある蔦の細道坂下の鼻取地蔵堂の石塔残欠群。 
境内の傍らに中世の石塔の残欠があるのですが、なんとも情けないコンビネーション。
五輪塔の丸い水輪の代わりに宝篋印塔の笠石が。その宝篋印塔の相輪は、ほぞを上にして横に立ててあります。実にもったいない!

これは、丸子の誓願寺墓地にあった由来も名もない宝篋印塔。
でもあれっ、上が宝篋印塔で、下が五輪塔?DSCF0119
この手の不思議な組み合わせは、山川出版の『静岡県の歴史散歩』を紐解くと、裾野市定輪寺の宗祇の墓や静岡市宝台院西郷の局の墓でも見られるようです。
宝篋印塔と五輪塔の儀軌の区別も、忘れ去られて久しいのですから、近年になってからの残欠同士のミックスは無理もないこと。

でも、塔身が球体の水輪というのは、沼津市霊山寺変形宝筺印塔もそうでした。といってもこちらは、塔身(水輪?)に四方仏を刻むという宝篋印塔本来の儀軌に叶う宝筺印塔で、箱根の宝篋印塔や五輪塔(通称、虎御前の墓)との系譜とも関連してくる形を伝えています。

これとは似て非なる誓願寺墓地の混合宝篋印塔ですが、でももしかしたら、霊山寺の事例から、塔身=水輪という暗黙の了解がこの地方では許されているのでは、なんてふと思ってしまいました。

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2005年5月21日 (土)

S-1 間宮士信撰「山荘之碑」と「朝妻桜」

sansounohi 八千代市郷土歴史研究会では、昨年度から八千代市高津の総合研究を行っていて、その一環として、高津の観音寺の顕彰碑のある間宮士信を追っていました。間宮士信は昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」などの地誌編纂を行ったことで名高く、また、大阪夏の陣で戦死しその首が高津に葬られたという高津の領主・間宮正秀の二百遠忌を営んだ記録が古文書に残っています。間宮氏の調査を担当していらしたkagokaki氏より、間宮士信が撰文した「山荘之碑」という石碑が中野区のあったというお知らせを、八千代郷土史研の掲示板にいただきました。

士信は天保年間住んでいた江戸小日向には、寛永から寛政年間にかけて「山屋敷」とよばれたキリシタン屋敷があったのですが、士信は「小日向志」にこの屋敷内の略図をはじめ、収監され死亡したキリシタンのことなどを記録しているとのことです。

「山荘之碑」は、山屋敷の跡地を与えられた大江讃岐守の下屋敷内に建てられ、屋敷替えにより、関口台の蓮華寺へ移され、明治41年蓮華寺の中野区への移転と共に移されたものでした。

私が、上野の東京博物館の一室でこの碑の拓本に接したのは、2003年2月の寒い日でした。バテレン・シドッチの幽閉された「山屋敷」探して、2001年7月にシリーズ『日本史をみつめた「聖母」たち』『Ⅱ「親指のマリア」=鎖国下の白石との出会い』をUPした1年半後のことです。この拓本の碑も、茗荷谷のどこかあるのだろうと思いつつ探せないでいるうち、またいつか読もうと思っていたことも忘れていたのでしたが、高津の調査の中でkagokaki氏の丹念な調査のおかげで再会できたことは、奇遇でした。

2005年4月、郷土史研の総会時、kagokaki氏の「間宮士信の事績について」の研究発表の中で、氏が解読された釈文と現代語訳をいただきました。

「この碑にはここは寛永の頃、切支丹奉行井上政重の別邸であった。日本名を岡本三右衛門という南蛮バテレンを収容していたこともある。後に幕府の管轄地となって「山屋敷」とか「切支丹邸」といわれた。宝永中にローマのバテレン、ヨアンとその奴婢の長助夫妻もまたここに収容され、ここで歿している。その外あやしい教えを信奉する者や、さまざまな罪を犯した人たちの骨もここに埋められている。朝妻という遊女がこの獄舎にとらわれ、処刑される時に、牢獄のそばの桜の木を指差して、この桜の花を見ずに死ぬのは残念ですといったので、役人はこれを憐れみ、花の咲くのを待って処刑した。それで、その桜の木を「朝妻桜」と呼ぶようになった。今も近くにその遺種があると伝えられている。邪教が絶滅して、獄も廃止され、やがて文化十年十二月に大江政時の別邸になった。政時が、罪を犯したといってもそれらの人々の死はいたましいことであるから、碑を建てて慰めよといわれて、自分にその文を作るように命ぜられた。よって、その顛末を記録するかくの如くである。」

遠藤周作の「沈黙」のモデルになった岡本三右衛門、そしてヨアン・シドッチ。さらに士信は、そのシドッチの世話をした長助夫妻(シドッチとともに殉教)の名を、また、「朝妻桜」の伝承を記しています。殉教史にも名を残さず勇敢に死を遂げた人々。朝妻というのも遊女の別名であって、固有名詞ではないのでしょう。その、花の咲くのを待って処刑された遊女の朝妻の伝承を通して、士信が著わしたかったのは、伝説の中に残された無名の信仰者の姿だったということにあらためて感慨を覚えています。

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