2010年9月14日 (火)

S-10 行徳の阿弥陀石像「おかね塚」とその伝承

  Rits Chiba様から、S-9に <行徳街道沿いに建つ「おかね塚」について教えていただけませんか。>というコメントをいただきました。
 返答をコメント欄に書きましたが、画像がアップできませんので、内容も補充し、改めて新規投稿記事にしました。

 市川市行徳押切の「おかね塚」を訪ねたのは10年前、もうだいぶ前ですので記憶があいまいですが、デジタルカメラで写した画像が残っていましたので、載せてみました。

Dscf0031

 市川市公式HPの「行徳探検隊」にその伝説が載っています。

 恋した船頭を、ここで待ち続けて亡くなった吉原の遊女おかねの供養碑という伝承ですね。

<「寛文5年(1665)建立の阿弥陀石像がある。押切には古くから「おかね塚」の話が語り継がれてきた。
 話の概要は、押切の地が行徳の塩で栄えていた頃、押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれてきた。
 これら輸送船の船頭や人夫の中には停泊中に江戸吉原まで遊びに行く者もあり、その中のひとりが「かね」という遊女と親しくなって夫婦約束をするまでに至り、船頭との約束を堅く信じた「かね」は年季が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んで来る船頭に会えるのを楽しみに待った。
 しかし、船頭はいつになっても現れず、やがて「かね」は蓄えのお金を使い果たし、悲しみのため憔悴して、この地で亡くなった。
 これを聞いた吉原の遊女たち百余人は、「かね」の純情にうたれ、僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちもこの薄幸な「かね」のため、花や線香を供えて供養したという。
 行徳の街が日増しに変わりゆく今日、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝えて供養してきた先祖の人たちの心を後世に残そうと、地元有志によって「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建立されている。>

 実はこの石仏は、阿弥陀如来像を刻む寛文五年(1665)銘の庚申塔で、この石仏があるのは押切村と伊勢宿村の村境だそうです。「如等所業 右志者道俗願満足・・・」という願文が彫られています。

 江戸初期万治のころ(1658)から元禄の初め(1690年ごろ)までの庚申塔は「二世安楽」を祈願し、青面金剛像よりも、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像、観音菩薩像などを刻んだ石 仏が多いのが特徴です。

 行徳と江戸川を挟んだ江戸川区東葛西の旧桑川村・長島村には、行徳と関連の深い江戸初期の庚申塔が数多く見られます。

 これは、旧桑川村称専寺の石仏で、右は、阿弥陀如来像庚申塔、左は地蔵菩薩像庚申塔。
 共に万治三年(1660)の銘があり、「庚申之供養立之」のほか「二世安楽」などの願文と、寄進者の名前が丁寧に彫られています。

16602

 長島村の自性院には、寛文八年(1668)銘の観音菩薩像庚申塔と、元禄11年(1698)造立と見られる合掌型の青面金剛像の庚申塔があります。↓

1668

 この辺りでは、元禄半ば以降の庚申塔は、おおむね青面金剛像と三猿などを刻み、江戸時代後期にかけては「青面金剛」や「庚申塔」を彫った文字碑が多くなり、幕末からはこれが主流となります。

 押切のこの阿弥陀如来の石仏に、船頭と遊女の悲恋物語が付会されたのは、たぶん、この庚申塔の造立意図が、もう江戸時代の終わりごろには、わからなくなっていたからと思います。
地元有志によって建てられた「行徳おかね塚の由来」を書いた石碑の碑文を、いわゆる「作文」と言ってしまってはもったいないでしょう。

 「製塩に使う燃料を運ぶ船頭」の存在や「年季が明けるとここへ来た遊女」、「僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた」など、当時の行徳や江戸の庶民の様子が生き生きと伝わってくるのが「伝説」の世界です。

 どちらも地域の歴史を知るための貴重な石造文化財だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年1月27日 (火)

S-9  キリシタン灯篭について(3)

 目黒でいくつかの「キリシタン灯篭」を見た後の1月20日、市川市行徳の妙覚寺へ境内のキリシタン灯篭を見学に行きました。
 S090120_004 かつて、市川と行徳の史跡探訪で見たことがあり、再度の訪問でしたが、今回も快く拝見させていただきました。
 妙覚寺は、天正15年(1586)創建の日蓮宗中山法華経寺末の寺院で、市川市が建てたらしい門前の説明板には、次のように記されています。

 『境内には東日本では大変めずらしい、キリシタン信仰の遺物であり、房総でただ一基の「キリシタン燈籠(とうろう)」がある。
 塔炉の中央株に舟形の窪み彫りがあり、中にマントを着たバテレン(神父)が靴をはいた姿が彫刻されている。(靴の部分は地中に埋められている)
 戦国時代の大名古田織部の創業であったといわれ、別名を織部燈籠(おりべとうろう)という。』

 S090120_027  お寺の方が「キリシタン灯篭の見学ですか」ととてもやさしく声をかけてくださり、発見された時のお話を書いたプリントをくださりました。

 そこに書かれていたのは、まだこの灯篭が知られていなかった昭和26年春、キリスト教の信者が突然「天主のお告げに導かれてここで足が止まりました」と言ってこの灯篭を拝んだという不思議な話と、その10年ぐらい後に、学生が目を留め「キリシタン灯篭という珍しいものだ」といって、2、3日後再度、写真入りの本を持って来たこと、そしてその数年後、研究者が来て、この灯篭が江戸初期もしくは、前期の希少価値のある石造遺物であることを初めて知ったという話です。

 それまでは、火袋もなく、竿部もほとんどが埋まっていて、丸いふくらみと浮彫の像の頭部が少し出ていただけだったそうで、特に気に留めることもなく、ただ睡蓮の池の背景として風流な眺めだったとか。

 ところで説明板に「房総でただ一基」とありますが、実は安房の西岬地区加賀名でもう一基見つかっています。
 昭和60年(1985)に館山市の石造物調査で発見された加賀名の「安産の神様」。
 竿の部分のみを曹洞宗墓地の一角の阿弥陀堂に祀ってあるそうです。。

  H.チースリック師は、著書『キリシタン史考』の「キリシタン遺物のニセモノ」という項で、キリシタン灯篭について「昭和の初め頃、故西村貞先生が、普通、織部灯篭として知られてきた石灯篭を、切支丹燈籠と名付けて以来、鹿児島から北海道にいたるまで数百基が『発見』され、論議を呼び起こしたが、しかしそれは、直接にキリシタンとは関係がない」と言い切られておられます。
 そして、「織部灯篭の発案者、古田織部は千利休の七哲の一人で、キリシタン茶人とたいへん親交があったが、彼自身は信者ではなかった。古田織部がこの灯篭を発案したとき、キリシタンからヒントを得たことは確かであるが、それがキリシタンに信仰の表示であるとは言えない。」、さらに「各地の観光案内に見られる『切支丹灯篭』は一種のデッチアゲであって、そこに隠れキリシタンが居た、という証拠にはならない」とのこと。

 確かにキリシタンの仮託礼拝物として、歴史学の立場からの証拠足りうるものがないのが一般的で、徳川家関係の庭園や寺院にも多いのも事実でしょう。
 どちらかというと、キリシタンを弾圧した側の人物にゆかりのある寺院や屋敷跡も少なくないのが現状ですが、一方では系図をたどるとその縁者に名にあるキリシタンがいることもまた多い時代でした。
 竿部のみの残欠が山里の小祠にかすかな伝承を伴って祀られている例などは、かつて仮託礼拝物だったということもありえるでしょうが、その確たる事例が乏しいのも現実です。

 茶庭とその点景物の灯篭は大名・武士・公家など上流階層のものであり、また1614年の徳川家康の禁教令以後、農民に先駆けて追放や殉教、棄教により上流階層のキリシタンは、一掃されています。
 キリシタン灯篭は、子安観音像を聖母像として礼拝した北九州の潜伏キリシタンの社会的階層とも異なる階層のものでした。

 また、江戸初期のキリシタン灯篭に多い「岩松無心風来吟」と「錦上鋪花又一重」の銘文も、インターネット検索で調べてみると、前者は茶室の掛け軸の書、後者は虚堂和尚語録に出てくる禅語らしく、私としては、松田重雄氏の論のような解釈には至りませんでした。

 古田織部が、(現代日本の若者がロザリオをアクセサリーにするように)十字架などキリシタンの礼拝物のデザインを、単にかっこいいからということだけで灯篭の形にとりいれたとしたら、親しかった高山右近や蒲生氏郷などのキリシタンの茶人の理解が得られたでしょうか。
 
 キリシタン灯篭のなぞは、なかなか解けません。
 この灯篭を、16世紀末、キリスト教の要素や哲学を茶禅の心にとりこみながら新たに創造された造形と考えるならば、禁教前においてはキリシタン茶人の瞑想と祈りの拠り所となり、また、その後の厳しい禁教下でも、その抽象的な普遍性ゆえに、大名屋敷や禅寺の茶庭に伝世され、あるいは信徒の縁者の墓地に遺されたと思えますが、いかがでしょうか。

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年1月20日 (火)

S-8 キリシタン灯篭について(2)

 今回も、キリシタン灯篭について、各部の要素と形、変遷とその実例を松田重雄氏の著書を参考にしながら、考えていきたいと思います。

 キリシタン灯篭の特徴とは何か、松田毅一氏が『キリシタン研究』の中で挙げているのは次の通りです。
1. 台石がなく竿石を直ちに地中に埋めている
2. 竿の上部が十字型になっている
3. 竿の上部の中央に記号があるが、何を意味するのか不明である
4. 竿の下部正面に異様な人物が刻まれているが、何を表しているか判断に苦しむ
5. この灯篭には不思議な禁忌や、伝説が伝わっているが、明らかに知るよしもない。
6. 灯篭のなかには庚申信仰をともなったものもある。
7. この灯篭の造立の目的は、次のことが考えられる。
  イ 切支丹信仰の礼拝物として
  ロ 切支丹宗門の茶人が茶庭に立てた。
   ハ 墓碑代わりに信徒を供養した
   ニ 道祖神として庚申石として礼拝した

  松田重雄氏の『切支丹燈籠の信仰』では、さらに、初期のキリシタン灯篭の竿の両横に七言二句の漢詩が陰刻されていることを特徴点にプラスし、これまでの学説で不明とされた点についても、百二十余基のキリシタン灯篭の分析を通じ、謎の解明をされています。
 すなわち、竿の上部中央の記号は、PTI、すなわちPATRI=父を、竿の下部正面の人物はイエス像、そして漢詩は聖霊を詠んだ句と解釈し、竿は三位一体を表していると解釈しています。
 S090107daisyouin2その著者の推論には、客観的な考証が不足していて、特に竿の上部ふくらみの陰刻と漢詩の解釈など、納得できない点も多々ありますが、百二十余基のキリシタン灯篭を丁寧に比較して、その形態変化の変遷と分類を試みている点については、興味がひかれます。
  松田重雄氏は、キリシタン灯篭を形態を4つの分け、時代型別に編年しています。

   (画像⇒A~C大聖院3基の灯篭)

その特徴は次のとおりです。

S090107daisyouin31.創造時代型 文禄~元和…江戸初期(16世紀末~17世紀前半)
 ・竿が十字架型・ギリシャクルス型、竿の面取り多し。
 ・竿の上部丸みに定型の文様(Lhqを組み合わせ右回した文様)あり。
 ・竿下部の尊像は八頭身で西洋風、足は外開き。
 ・初期のものには側面に詩偈「岩松无心 風来吟/錦上鋪花 又一重」あり。
 ・竿の下の荒加工の基壇を地に埋める。

       (画像⇒B・C大聖院3基
   中央の灯篭の側面の詩偈陰刻と
     左側灯篭の定形の文様に注目)

2.迷彩時代型 元和~寛永…江戸前期(17世紀初頭~17世紀後葉)
  ・竿が十字架型・T字型へ。竿の面取り消滅化へ。
  ・竿の上部の丸みが次第に直線化へ、文様が変体型になる。
  ・竿下部の尊像は六~五頭身で仏像化が始まる。詩偈は消滅化へ。
  ・竿の下の基壇が現れ始める。
  ・地蔵・観音・庚申・天神信仰との結び付きが現れる。

3.擬装時代型 寛永~慶安…江戸中期(17世紀中葉~18世紀前半)
  ・十字架型が消滅、墓標化す。竿が直線化、文様なし。
  ・竿下部の尊像は五~四頭身で地蔵型も現れる、また蓮弁ありの例。
  ・基壇が多くなる。
  ・庶民信仰との結び付きや禁忌のあるものがある。

4. 無刻時代型 慶安~明暦…江戸末期(17世紀後半~19世紀?)
  ・墓標化。
  ・竿は直線的、尊像なし。

   次いで、これまで私が見てきた東京都内のキリシタン灯篭を見てみたいと思います。

A 目黒の大聖院3基の左側 白御影石
  ・竿のみ残る
  ・尊像は八等身で足が開く
 S090107_ootorijinja ・丸み部分に定形の文様あり
  ・1.の創造型       

B 目黒の大聖院3基の中央 花崗岩・竿と中台が残存
  ・尊像は7.5等身で足が開く。
  ・右に「錦上鋪花・・」左に「岩松无心・・」の詩偈陰刻(擬装型では例外?)
  ・3.の 擬装型でも創造期に次ぐ古い形式

C 目黒の大聖院3基の右側
  ・尊像は六頭身で洋風の面影を残す
  ・3.の 擬装型でBの後か

  (画像⇒D目黒の大鳥神社の灯篭)

S070107taisouji_2D 目黒の大鳥神社 完全に残る
  ・五頭身の尊像の足がなく仏像形式
  ・3. 擬装型

 (大聖院は目黒不動滝泉寺の末寺で、大鳥神社の別当寺、  A~Dともに、元肥前島原藩主松平主殿守下屋敷林泉中の小祠内にあったという。)

  (画像⇒E新宿の大宗寺の灯篭)

E 新宿の大宗寺 白御影石・竿と中台が残存(笠と火袋は復元)
  ・尊像は四頭身で仏像型・足は開く
  ・内藤家墓地から出土

            S030301honkakuin

F 上野の本覚院 砂岩・竿のみ残存
  ・上部圧縮T字型
  ・尊像は4.5頭身・仏像化・足なし
  ・背面へ貫通する隠し穴があるという
  ・3.の擬装型
  (本覚院は寛永寺の塔頭で、船手奉行向井将監忠勝らが葬られている)

         (画像⇒F上野の本覚院の灯篭)

G 目黒の海福寺 竿部のみS090107kaiunji
  ・海福寺は、明治に深川から移転してきた黄檗宗の寺。
  この寺の山門下の永代橋沈溺横死者供養塔の垣根替わりに、なぜか無刻のキリシタン灯篭竿部が墓標のように立っていた。
  

    (画像⇒G目黒の海福寺の灯篭)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月15日 (木)

S-7 キリシタン灯篭について(1)

S090107daisyouin  本年(2009)正月7日、八千代市郷土歴史研究会の皆さんと目黒七福神の寺社・史跡を巡りました。
 その道すがら、目黒大鳥神社と、この神社の別当である大聖院の境内で、有名なキリシタン灯篭4基を拝観することができました。
 大鳥神社の1基と大聖院の3基(⇒画像)は、ともに目黒駅西側付近にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷に祀られ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
(なお、大鳥神社の1基は、わたしが少女のころに通っていた守屋図書館の中庭に、一時、保管公開されていた灯篭でした)
 都内では、他にも内藤新宿の太宗寺と上野の本覚院で、キリシタン灯篭を観察したことがありましたが、今回はキリシタン灯篭としてそれぞれ特徴的ある要素の実例を見ることができましたので、資料(「切支丹燈籠の信仰」松田重雄著・恒文社)などを取り寄せて、その形式、歴史的・宗教的な意義を整理してみました。

キリシタン灯篭織部灯篭の関係について
 まず、キリシタン灯篭と織部灯篭の違いについて整理したいと思います。
 キリシタン灯篭はその名の通り、キリシタン信仰上の石造物で、禁教下には密かに祈りを捧げるための仮託礼拝物であり、一方、織部灯篭は戦国大名で茶人の古田織部に好まれ、茶庭や数寄屋造りの庭園の点景物として普及した文化遺産の一つです。
 安土桃山・江戸初期、古田織部と親交のあった大名や上級武士・町人の茶人たちの幾人かはキリシタンでもあったので、キリシタン灯篭と織部灯篭は形態的にも本質的にも不可分な関係にありますが、織部灯篭はのちに仮託礼拝物とは知らずに庭園の観賞用に設置され、現在でも作庭に欠かせない石工品となっています。
 S090107oribe 織部灯篭は、笠と四角形の火袋とT字の竿からなり、竿の上部の円部にアルファベットを組み合わせた記号を陰刻し、その竿部を直接、地中に埋め込んでいて、キリシタン灯篭の特徴点を網羅していますが、デザイン・寸法も画一で、また石材も別の石材と組み合せてあるということはありません。 (⇒画像は、あるお店のエクステリアの織部灯篭)

 一方、キリシタン灯篭は、松田重雄氏によれば、信徒の心から心へとその形が伝えられたので、時代によりさまざまな形態的変化と特徴を持ち、同一寸法のものはないそうです。また別石材との組み合わせや、火袋を欠き、竿のみ残存している状態も多く、設置場所も人目に付かない墓地や小祠内など、また庭の露地にその一部だけが見えるものなどさまざまのようです。
 
 織部灯篭が茶庭の設備として好まれ普及していたため、仮託礼拝物のキリシタン灯篭もまた完全に姿を消すことなく、禁教下でも江戸末期まで作られ、潜伏キリシタンの遺物として今に伝えられましたのでしょうか。しかし、その区別は難しいように思えます。

 このような関係はマリア観音にもいえると思います。
 子安観音(慈母観音)像を「マリア観音」と指定するのは形態ではなく、キリシタンの家に奉られたかどうかと言うことと、故結城了悟師は言われました。 納戸の「御前様」=カクレの聖母像

 鎖国間際のころ、西欧画の聖母像に替わりに礼拝用として福建省で焼かれた陶製白衣観音像(慈母観音)がキリシタンの家に普及しました。それは、またキリシタンの信仰とは無縁の家や寺にも残されています。

 世界に類を見ない江戸時代の過酷な宗教弾圧の中、キリシタンのイコンが、信仰と切り離される形で、民衆の新しい習俗や日本の文化を生んでいったのでしょうか。キリシタンとは無縁と認識されて受容された子安観音像や織部灯篭。逆にそれゆえに、潜伏キリシタンの礼拝物として存続できえたのか、謎は深まります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月10日 (土)

S-6 弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑、そして発見地点のなぞにせまる

弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑

 2月3日、八千代栗谷遺跡研究会の皆さんと、本郷から東大構内、そして弥生土器の発見ゆかりの遺跡を訪ねました。

 文京ふるさと歴史館と「発掘ゆかりの地」碑を訪ねるとともに、武蔵野台地の東縁で沖積低地との接点にある坂の町を足で歩き、弥生文化の背景となった文京区本郷の地形を体験しようという企画です。 (→やちくりけんブログ)

明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたことは、日本先史時代研究史上、あまりにも有名なことです。

070203_111s  司馬遼太郎氏は「街道を行く」で、根津駅から弥生坂をのぼった向が岡近辺について次のように記述されています。

『 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。明治二年(1869)政府に収用され、それでも名無しだった。
 明治五年、町家ができはじめて、町名が必要になった。
 たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に、「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、弥生をとった。向ヶ岡弥生町になった。
 弥生は、いうまでもなく三月の異称である。奈良朝時代には、すでにあった。
 弥は、「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。
 弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。』

 この碑の詞書の続きは
「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ
 名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」。

 この歌碑がなかったら・・、この「向岡記」碑が弥生(3月)に建てられなかったら・・、碑文が誉めているのは桜の美しい向ヶ岡の地であって、「弥生」はただ記されたそのときでしかないのに、この碑文の建立月にこだわって町の名をつけなかったなら・・、稲作と金属器の「弥生時代」という時代区分は、いったいなんとよばれたのでしょう。
 「縄文」に対する無紋土器、略して「無文」(時代)なんていったらイメージが悪いので、単純に「向ヶ岡」、明治らしく漢文調では「向陵」(時代)だったのでしょうか。

 この見学会の企画に先立って年末に下見に行ったときは、日の暮れるのも早く、東大工学部浅野キャンパスをうろうろ歩き回っても、この碑は探せませんでしたので、2月3日、文京ふるさと歴史館の加藤学芸員にご案内していただき、この碑を校舎の狭い間に伐採した不用の刈り枝に覆われた状態で見つけたときは、感慨深いものがありました。Yayoi_1

   町の名となるほどですから、幕末から明治のころは、きっと拓本を採ったりする文人たちにもてはやされたことでしょう。
 自然石の風雅な石碑ですが、今は酸性雨で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めません。でも、かろうじて「夜余秘」の文字(→画像)はわかります。

 加藤氏は、「文化財として覆い屋根をつけるなど、東大さんにも、もっと大事にしてほしいですね」と嘆息されていましたが、私も同感。近世・近代の文化を伝える文化財として、赤門並に扱ってしかるべきだと思いました。

弥生の壷の発見地点のなぞにせまる

 さて、有坂・坪井氏らによる弥生の壷の発見地点は、どこなのでしょう。
 坪井氏の報告や有坂氏の懐旧談にはあいまいな記載しかない上、その後の都市化が進む中で遺跡の位置は判然としなくなりました。

昭和 61年(1986)向ヶ丘弥生町会有志が、「弥生式土器発掘ゆかりの地」という記念碑を建てましたが、「ゆかり」と刻まざるをえなかったのは、発掘地点が謎とされていたからです。

 070203_113s_1推定地としては挙げられてきたのは、
(1)東京大学農学部の東外側、
(2)東京大学農学部と工学部の境(「ゆかりの碑」付近)、
(3)根津小学校の校庭裏の崖上、そして
(4)東大工学部浅野キャンパス内の弥生 2丁目遺跡です。

 『古代学研究』15号-2001年6月で、上野武氏は『「最初の弥生土器」発見の真相-発見者有坂鉊蔵の嘘-』と題して、これまでの発掘成果や、有坂氏の回顧録の記述を詳しく分析し、最初に有坂少年が発見したのは(4)付近で、壷を見せた翌日に同行した東大理学部生坪井・白井両氏が(3)地点と間違えたことに話をあわせ、「正確な場所はわからない」と嘘を通したと結論づけています。

 また、2007年1月12日の読売新聞では、推定地は農学部内の生命科学総合研究棟付近とする原祐一氏の説を紹介しています。 工学部内は当時、射的場で警視庁用地なので気軽に発掘できない。現在の農学部内は、東京府の精神科病院用地で立ち入りは可というのが主な理由です。

 私は、上野氏の「有坂の嘘」説(本当は工学部内)と、原氏の新説(農学部内)の理由を読んで、次のように考えました。

 有坂氏が『「独占の宝庫」として秘密にしたかった(第一の嘘)。』『第一の嘘がばれることをおそれ「遺跡の正確な場所はわかりません」と嘘をついた(第二の嘘)』というのが上野氏の説ですが、私は、考古少年だった有坂氏は、本当は入場を禁じられた射的場の奥に入り、東側の崖際の(4)地点で壷を発掘し、坪井・白井氏に見せたところ、年長の両氏は、不法侵入の疑いをかけられるのをおそれ、「旧向が岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」(坪井・談)と射的場からの方向をごまかして話し、有坂氏は沈黙、晩年になって坪井氏と同様な見解を述べたというのが真相で、自然な流れだと思いました。
 ようするに、射的場不法侵入の証拠を隠すため、弥生二丁目遺跡付近である本当の発見地をあいまいにしたというのが私の仮説です。

参考HP :東京大学総合研究資料館 石器・土器・金属器(日本)5 壷形土器(重文指定)
東京大学埋蔵文化財調査室:本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2006年11月25日 (土)

S-5 戊辰戦争-敗者のその後

 八千代市郷土歴史研究会恒例の「郷土史展:-旧村のすがた・大和田新田研究-」は、本年もたくさんの会員の協力と大勢の熱心なご来場者で盛況に終わりました。
 061123_003s 今回中でも注目されたのは、11月18日の朝日新聞千葉版でも紹介していただきました畠山会員の「佐倉藩士小柴宣雄の墓碑が語る」の研究発表でした。
 061123_006s_3テーマ名のこの墓碑群は、大和田新田一本松(成田街道沿いマルヤの向い)の小さな墓地にある佐倉藩中級藩士小柴宣雄とその子孫の墓碑群で、土地の所有者が清掃してくださっているものの、今は墓を詣でる遺族もなく、近々道路拡幅で整理されることも懸念される状態なのです。
 「なぜこの場所に元佐倉藩士の墓が建てられたのか」、碑文の解読、佐倉藩関係文書のほか、大和田新田旧家の文書、石造物、地域の聞き取り調査など会のグループワークで明らかになったその内容は、 「史談八千代」31号の畠山論文をお読みいただくとして、会員の心を引いたのは、宣雄の長男で、戊辰戦争に幕府方として参加し自刃した小次郎の若い死と、藩に反旗を 翻し脱藩したこの子息を持った一族の廃藩後の生活でした。
 畠山氏は「佐倉藩では廃藩後、禄を失った藩士らのために士族授産事業として佐倉同協社や佐倉相済社を興しているが、宣雄がそれらに参加した形跡はない。」「小柴家としては一時期脱藩者としての汚名を免れなかったであろう。小次郎の父宣雄が、廃藩後佐倉から隠れるようにひとり大和田新田の地に居を移した理由もこのあたりにあったのではなかろうか。」と述べておられます。⇒写真右:小柴宣雄の墓(右)と小次郎(左の墓碑)

 Hananonotegamis 私が古文書を通じて戊辰戦争後の敗者側の運命がいかに過酷だったかを知ったのは、2003年5月、上野公園内の彰義隊資料室で見た女性の手紙でした。
 この日は資料室が閉鎖される最後の公開日で、この手紙は、鴨居の上に釈文もなくひっそりと展示されていました。
 地方文書と違って、流麗な女手の草書体でしたので、私にはすぐには読むことができず、その日はデジカメで撮影して、後日八千代市郷土歴史研究会の関和会員にご協力を仰ぎ、解読していただいたところ、この書簡は、上野戦争で彰義隊員戦死者の妻「花野」が、見せしめに放置された隊員の遺体を収納させてほしいと、勝海舟にあてて懇願する手紙でした。 (釈文全文は「郷土史研通信」48号P6に掲載)

Tegami 「 勝 安房の君      花野
       御直披
 當今の形勢は 実に叡慮に出る所か はた天命か
 止なんとして 又止がたき徳川家忠義の浪士 上野山中 戦死のあらさま
 元より戦の意味なきに 大軍四方をとりかこんで 火中に必死を極めたる
 其忠 其戦 詞つきたり
  (中略)
 早く其のなきがらをうずめ せめては なき霊をなだめまふし
 尤も忠臣義士の死ざま 世の人に示さんには 
 中々に かは弥の面目 徳川家のほまれ也  
 一たびは人心をしてよろこばしめ 二たびは人心をしていたましむ 
 是をしも 雨露にさらし 日にかわかし 長く泥土におくものならば 
 其の怨みは天下にあらん
 早くとうおさめんことを 公になさしめ給へ
 官軍も かの楠を例とせば いかでか是をわろしと申さん
 此の事 とくとくと申すなり 
 婦の長舌も 時世にうそと糺さるるとも 
 猶 罪とせられば 座して死をまたんのみ
 何とかすべき  あなかしこ あなかしこ

  上野山動かず さらでほととぎす
    鳴くとて血をはく さみだれのころ 」

 Syougitaihakas HP「台東区」の「上野彰義隊の墓と黒門」の記述に寄れば、「官軍は彰義隊に対しては厳罰でのぞみ、死体の後片付けさえも許さなかった。遺体は、そのまま雨の中を数日放置され悪臭がただよい始めた。 (中略)  『これは放っては置けない』と、官軍の激しい目も気にせず遺体の収容に立ち上がったのが三ノ輪円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎、新門辰五郎らであった。さすがの官軍もこれには口を出さなかった。山岡鉄舟筆になる『戦士之墓』は彰義隊隊士の遺体の火葬場の跡である。」とのこと。
 そういえば、上野公園の墓碑には「彰義隊」の文字はなく、「戦士之墓」とのみ彫られていました。

 小柴家の長男小次郎の名誉が回復されたのは、もうひとりの佐倉藩脱藩者木村隆吉とともに「両士記念之碑」が、佐倉郷友会の手によって、麻賀多神社境内に建てられた大正2年のことでした。
 敗者の、しかも藩という狭い社会での少数の反逆者、そしてその遺族の生活はいかがなものであったか、畠山氏の史料に裏付けられた報告は、大和田新田の地に懸命に生きた家族とその時代の趨勢を考えさせる珠玉のレポートでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月25日 (月)

S-4 お墓に刻まれた遺言の道しるべ

 今から十年ほど前の1998年ごろ、八千代市郷土歴史研究会の仲間と八千代市内の道標の調査と古道の探索とその復元の研究を始めました。
 高本入口の「むかうへゆけばさくらミち」庚申塔道標のように石造物の造形として優れているもの、あるいは新木戸三叉路の「血流地蔵尊道標」のように江戸期の交通史資料として貴重なものなど、たくさんの道しるべを調査発見し、それは2001年105基の道標データとともに『八千代の道しるべ』という報告書刊行となって実を結びました。
 その時の調査では、江戸時代の道標は庚申塔や月待塔などに刻まれた供養塔が多かったのですが、ひとつだけ分類を「墓塔」とした例外的な道しるべが大和田新田の坪井町入り口の墓地にありました。06920_034s

 成田街道の復元した「血流地蔵尊道標」の立つ新木戸三叉路を吉橋方面へ300mほど行くと、「ミヤコシ」というバス停のところにY家の墓地があります。
 その中に、この道しるべを兼ねた文化14年(1817)の建立の墓塔があり、わかりやすい大きな字で次のような銘文が刻まれています。 (⇒画像)

正面 「 文化十四丑天
    教正院法山妙清信女霊位
     三月初九日」
左面 「右 よしはしヨリき於ろし
    左 たかもと又左つほい  道

右面 「本家高本三右エ門 
      大和田新田施主峯吉」

 左面の道しるべは、右へ行くと吉橋から木下へ、また左のわき道に入ると高本へ、そしてまた分岐して坪井へ至る道を案内しています。
 建立された位置は、墓地が整理されてしまっていたのでその時はわかりませんでした。

 道しるべが刻まれた個人のお墓というのは、市外も含め他に類例がなく、そのころからとても不思議に思っていましたが、今年度の八千代市郷土歴史研究会のテーマが「大和田新田研究」で、私は屋号調査を担当しましたので、旧家の聞き取り調査のついでに、ぜひそのなぞを解いてみたい気がしていました。
 そして通称地名「三軒家」と呼ばれたこの墓地周辺の昔の屋号を探索しているうち、やっとこのお墓に記された方の子孫のY家を訪ねることができ、道しるべのあるお墓の由来をお聞きすることができました。

 このお墓に葬られた方は、ご主人に先立たれたY家のおばあさんで、「高本のインキョ家からお嫁にきた方」とのことでした。
 このおばあさんは、亡くなる前に自分のお墓をぜひ道しるべにしてほしいと言い残され、その遺言に従って、女性一人としてはやや背の高いりっぱな道標兼用のお墓が建てられたとのことです。
  実家の「高本のインキョ」家とは、『八千代市の歴史 資料編 近世Ⅳ』の文久4年「生長祝儀并節句覚帳」に「高本隠居三右衛門」とあるので、道標に記された銘文の「高本本家 三右エ門」のことでしょう。06920_039

  実はこの墓石は、木下街道の拡幅前は、今のバス停の目印のところにあり、坪井町入り口の三叉路が拡幅され、高本へ行く道が墓地の右側に移動されるまでは、墓地の左手の細い路地が高本方面への道であったとのこと。ちょうど分かれ道のその角にこのお墓があったわけで、本当はとてもわかりやすい場所にあったわけです。 (⇒画像)

 りっぱなお墓の主のこのおばあさんは、晩年ご自分の実家、高本への道がとても懐かしかったのでしょうか。 あるいは生前、新木戸三叉路の自宅の門前で不安そうな旅人に道案内することが多く、没後も人のためにつくしたい一心で遺言されたのでしょうか。
 想像はつきませんが、今回の旧家の聞き取り調査で、長年の私のなぞもやっと解けた気がしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月27日 (木)

S-3 小岩の「岩附志おんじ道」道標が示す慈恩寺とは

 京成江戸川駅を降りて毎朝、私は小岩の一里塚の職場まで通勤していますが、その道は「さくら道」といわれた下総と江戸を結ぶ重要な古街道でした。
 今でも、その界隈は小岩・市川関所に関連した「御番所町」の風情と常燈明などの史跡が残っています。
 そのひとつに、角屋旅館のあるT字路正面の民家の東向きの塀にくい込んで建っている「道しるべ」があります。jionjimitidouhyou1

銘文
右面(実際は、ブロック塀で読めない)
   「左リ いち川ミち
   小岩御番所町世話人忠兵衛」
正面「右 せんじゅ岩附志おんじ道
   左リ江戸本所ミち」
左面「右 いち川みち
   安永四乙未年八月吉日
   北八丁堀 石工 かつさや加右衛門」

 三十年間通いなれた道に立つ変体仮名の道しるべでしたが、なんと書いてあるのか、銘文を読んでみようと思ったのは、15年前、八千代市郷土歴史研究会で古道調査のノウハウを学んでからのことでした。
 今は江戸川区教育委員会の説明板もできていて、書体が良いので拓本を採っているという書家の方や、古街道調査の方、また、歴博の山本光正先生にお会いしたこともあります。
 
 元は、もっと銘文が鮮明でしたが、近年の多雨の気候のためか、カビのような苔が繁殖して読みづらくなっています。(最近そういう石碑や石仏が多いようですね。)
 市川の渡しから、小岩の関所を抜けてまっすぐ来るとこの道標が正面にあったわけで、右の道は千住から「岩附志おんじ」へ行くらしい。この「志おんじ」とは、岩槻の慈恩寺のことらしいが、ずいぶん遠いお寺を指していると、当時はとても不思議に思いました。
 実は、この「慈恩寺」は坂東観音霊場の12番札所で、関東の村々や町の主に女性たちの巡礼が遠くから参詣にきて、とてもにぎわったお寺でした。

 nyoirinkanon その慈恩寺ですが、10月22日に、馬場小室山遺跡研究会で岩槻に行くことになり、急遽ご案内くださる方にお願いして、コースの最後に入れていただき、念願の「志おんじ」にお参りすることができました。

 この慈恩寺参拝のルポは、ドンパンチョさんの橿原日記「平成17年10月22日玄奘三蔵の霊骨を奉安している慈恩寺を訪れる」に詳しく書かれていますので省略しますが、留学僧円仁が遊学した長安の大慈恩寺にちなんで寺名を慈恩寺としたとされています。
 長安の大慈恩寺は玄奘三蔵のゆかりの寺で、巡礼の唱える般若心経は、その玄奘の翻訳のひとつでもありました。

 岩槻の慈恩寺は、盛時には、三万五千坪の境内を有し、六十六の宿坊があったそうですが、今は天保14年(1843)再興の本堂と、そこから800mはなれた丘に玄奘三蔵の霊骨を安置した十三重塔(昭和25年建立)が建っています。
 御詠歌は「のりの花 匂ふ林の寺の池 しづめる身さへうかぶ七島」。

     (石仏の写真は、慈恩寺境内の寛政八年女人講の建立の如意輪観音像)

 この古刹を訪ねる直前、近くの春日部市の花積貝塚を巡見しました。
 「花積下層式土器」の標識遺跡で、「新編武蔵国風土記稿」にも「貝殻多くいづれば貝殻坂とよべるなり」と書かれたエリアの縄文遺跡らしいのですが、「花積」の地名として「古へ慈恩寺の観音へ、此地より多く花を積みて供えし故起れり」とあるのもゆかしく感じました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年6月 3日 (金)

S-2 中世の石塔雑感-駿河の旅から

5月の28-29日、八千代市郷土歴史研究会の見学旅行で、旧東海道の駿河路を訪ねました。DSCF0130
今回の見学のポイントは、主に近世~近代の旧街道の交通史的な観点だったのですが、2002年年末に忍性と中世石塔の関東伝播の跡を追って、箱根沼津藤枝の駿河路を探索した思い出の地でもあり、目はつい寺院墓地の石塔群に向いてしまいました。

これは、「蘿径記」碑のある蔦の細道坂下の鼻取地蔵堂の石塔残欠群。 
境内の傍らに中世の石塔の残欠があるのですが、なんとも情けないコンビネーション。
五輪塔の丸い水輪の代わりに宝篋印塔の笠石が。その宝篋印塔の相輪は、ほぞを上にして横に立ててあります。実にもったいない!

これは、丸子の誓願寺墓地にあった由来も名もない宝篋印塔。
でもあれっ、上が宝篋印塔で、下が五輪塔?DSCF0119
この手の不思議な組み合わせは、山川出版の『静岡県の歴史散歩』を紐解くと、裾野市定輪寺の宗祇の墓や静岡市宝台院西郷の局の墓でも見られるようです。
宝篋印塔と五輪塔の儀軌の区別も、忘れ去られて久しいのですから、近年になってからの残欠同士のミックスは無理もないこと。

でも、塔身が球体の水輪というのは、沼津市霊山寺変形宝筺印塔もそうでした。といってもこちらは、塔身(水輪?)に四方仏を刻むという宝篋印塔本来の儀軌に叶う宝筺印塔で、箱根の宝篋印塔や五輪塔(通称、虎御前の墓)との系譜とも関連してくる形を伝えています。

これとは似て非なる誓願寺墓地の混合宝篋印塔ですが、でももしかしたら、霊山寺の事例から、塔身=水輪という暗黙の了解がこの地方では許されているのでは、なんてふと思ってしまいました。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年5月21日 (土)

S-1 間宮士信撰「山荘之碑」と「朝妻桜」

sansounohi 八千代市郷土歴史研究会では、昨年度から八千代市高津の総合研究を行っていて、その一環として、高津の観音寺の顕彰碑のある間宮士信を追っていました。間宮士信は昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」などの地誌編纂を行ったことで名高く、また、大阪夏の陣で戦死しその首が高津に葬られたという高津の領主・間宮正秀の二百遠忌を営んだ記録が古文書に残っています。間宮氏の調査を担当していらしたkagokaki氏より、間宮士信が撰文した「山荘之碑」という石碑が中野区のあったというお知らせを、八千代郷土史研の掲示板にいただきました。

士信は天保年間住んでいた江戸小日向には、寛永から寛政年間にかけて「山屋敷」とよばれたキリシタン屋敷があったのですが、士信は「小日向志」にこの屋敷内の略図をはじめ、収監され死亡したキリシタンのことなどを記録しているとのことです。

「山荘之碑」は、山屋敷の跡地を与えられた大江讃岐守の下屋敷内に建てられ、屋敷替えにより、関口台の蓮華寺へ移され、明治41年蓮華寺の中野区への移転と共に移されたものでした。

私が、上野の東京博物館の一室でこの碑の拓本に接したのは、2003年2月の寒い日でした。バテレン・シドッチの幽閉された「山屋敷」探して、2001年7月にシリーズ『日本史をみつめた「聖母」たち』『Ⅱ「親指のマリア」=鎖国下の白石との出会い』をUPした1年半後のことです。この拓本の碑も、茗荷谷のどこかあるのだろうと思いつつ探せないでいるうち、またいつか読もうと思っていたことも忘れていたのでしたが、高津の調査の中でkagokaki氏の丹念な調査のおかげで再会できたことは、奇遇でした。

2005年4月、郷土史研の総会時、kagokaki氏の「間宮士信の事績について」の研究発表の中で、氏が解読された釈文と現代語訳をいただきました。

「この碑にはここは寛永の頃、切支丹奉行井上政重の別邸であった。日本名を岡本三右衛門という南蛮バテレンを収容していたこともある。後に幕府の管轄地となって「山屋敷」とか「切支丹邸」といわれた。宝永中にローマのバテレン、ヨアンとその奴婢の長助夫妻もまたここに収容され、ここで歿している。その外あやしい教えを信奉する者や、さまざまな罪を犯した人たちの骨もここに埋められている。朝妻という遊女がこの獄舎にとらわれ、処刑される時に、牢獄のそばの桜の木を指差して、この桜の花を見ずに死ぬのは残念ですといったので、役人はこれを憐れみ、花の咲くのを待って処刑した。それで、その桜の木を「朝妻桜」と呼ぶようになった。今も近くにその遺種があると伝えられている。邪教が絶滅して、獄も廃止され、やがて文化十年十二月に大江政時の別邸になった。政時が、罪を犯したといってもそれらの人々の死はいたましいことであるから、碑を建てて慰めよといわれて、自分にその文を作るように命ぜられた。よって、その顛末を記録するかくの如くである。」

遠藤周作の「沈黙」のモデルになった岡本三右衛門、そしてヨアン・シドッチ。さらに士信は、そのシドッチの世話をした長助夫妻(シドッチとともに殉教)の名を、また、「朝妻桜」の伝承を記しています。殉教史にも名を残さず勇敢に死を遂げた人々。朝妻というのも遊女の別名であって、固有名詞ではないのでしょう。その、花の咲くのを待って処刑された遊女の朝妻の伝承を通して、士信が著わしたかったのは、伝説の中に残された無名の信仰者の姿だったということにあらためて感慨を覚えています。

| | コメント (5) | トラックバック (1)