2007年1月 3日 (水)

I-10 あこがれの阿玉台貝塚&良文貝塚

 お正月三が日を、皆様はどうお過ごしでしょうか。
 昨今は東博も江戸博も2日からオープンのようですが、ほとんどの博物館や資料、図書館は4日までお休み。
というわけで、初詣客に開放している寺社仏閣の付属博物館、寶物館を見学し、ついでに、古墳や貝塚、中世遺跡などを探しに田舎道をドライブというのが、わが家の恒例行事です。

 今年は、大晦日の真夜中に地元の大和田新田の2つの神社の元旦祭の取材と初詣をし、朝はゆっくり起きてから、芝山の観音教寺へ。
 このお寺のはにわ博物館は、旧館のころから何回も足を運んでいますが、何度見ても飽きない博物館ですね。

 観音さまにもお参りをしてから、今年は、あこがれの阿玉台貝塚良文貝塚を目指して、小見川へとドライブ。
ハンディで、古墳以外の情報もいっぱいのガイドブック「房総の古墳を歩く」と、持ち運ぶのも困難なA4版1200頁の分厚い「千葉県の歴史 資料編 考古Ⅰ」を車に乗せて、北総台地を走りました。(フォトアルバム⇒史跡歳時記「小見川の縄文遺跡探訪・阿玉台貝塚&良文貝塚」

 Atamadaidokis_1 Sumihuruzawasなぜ、急に阿玉台・良文貝塚に行きたいと思ったかというと、2004年の終わりごろ、馬場小室山遺跡と出会って、初めて縄文土器の型式を教えていただいたとき、「雲母きらきら・阿玉台」式だけは、何とか覚えられたから。
 房総の発掘資料展などで、ずらっと並んでいる土器の中でも、一番わかりやすい形をしています。 

⇒画像は馬場小室山第2遺跡出土の阿玉台式土器片〈右)と酒々井町墨古沢遺跡出土の土器 2005年度千葉県文化財センター展示会にて撮影〈左)

 「おたまだい」という発音で教えてくださる方も多く、阿玉台遺跡はきっと、アとヲとオの発音の区別ができない地域にあるんじゃないかとも思っていました。 

 良文貝塚は、平良文伝承に由来する村名だった地域、そのゆかりの地の景観にも興味がありました。
  ここから出土した加曽利B式期の香炉形顔面付土器も面白いですね。(千葉県のたいていの歴史の本のグラビアに載っている縄文人のリアルな顔のついた土器です)

 070101_034s_1芝山から多古、栗源と走り、小見川の町から山に入り、現地に着いたのは午後3時過ぎ。
  良文の遺言どおり、ユウガオの実から良文の化身の観世音が現われたという「夕顔観世音」碑と、水仙の花が夕陽に輝いていました。(⇒画像は「夕顔観世音」碑)

 阿玉台貝塚は縄文中期が、良文貝塚は後期が主流とのことですが、縄文のころは海がここまで浸入していたのでしょう、現地に立つと、斜面には貝殻が点々と白く見えます。
 またもう一度訪ねる機会があったら、資料館にも立ち寄って遺物などを見てみたいと思いました。

 ところで国指定史跡といっても、民有地がほとんどの遺跡ですが、地元の方々による保存への努力で、明治の発掘当時から、史跡をとりまく景観は大きく変わっていないそうです。
 阿玉台では「梅の里史跡公園保存会」が、良文貝塚では昭和4年の大山史前学研究所の調査当時から活動してきた「貝塚史蹟保存会」が散策路の植栽や看板、地層観察室の設置などを続け、現代は「地域住民が主体的に地域資源を活用して歴史教育、都市との交流、自然観察、体験活動などを展開していく田園空間博物館」という形で農水省「田園空間整備事業」に参加しているとか。
 地域のアイディアにより、この由緒ある史跡がどのように整備されていくのか、興味深く見守っていきたいと思います。

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2006年11月10日 (金)

I-9 生きつづける古墳-虎塚古墳VS高松塚古墳の現状

061104_216s 11月4日~5日にひたちなか市で行われた「古代常陸国シンポジウム―風土記・国府・郡家―」に参加する機会に、一日早く発って那珂川周辺の遺跡を回ってみました。
シンポジウムでは、大塚初重先生の「虎塚古墳とその世界」という講演も予定されていましたので、ちょうど石室の一般公開中の虎塚古墳も11年ぶりに、訪ねてみることにしました。 (→フォトアルバム「史跡歳時記」

 以前訪ねたのは、1995年の11月4日、歴博友の会の「茨城・福島の装飾古墳の旅」見学旅行で、白石太一郎先生のご案内でした。
 この旅の日程が選ばれたのは、年に2回の一般公開の日程にあわせたからです。(気温と準備の整った春秋の公開日以外は、いくら偉い先生の引率でもダメ、というのは実に明快なルールです。)

  今回も、前方後円墳の整った古墳の堂々たるたたずまいにまず感動し、そして、数人ずつ観察室に招じられてペアガラス越しに観た石室の壁画。
 061103_102s湿度がじわっと肌に感じられる地下の世界で、薄暗いライトに照らし出された呪術的な幾何学模様と、ネックレースのような身の回りの具象的な絵画に、冥界へと引かれていくような不思議な気持ちがしたことを思い出しました。 (→画像は、ひたちなか市埋蔵文化財調査センター展示の石室レプリカ)

 この古墳の調査と保存にかかわってこられた大塚先生のシンポジウムでのお話しは、1973年の壁画発見の感動を伝え、そして市民への公開と保存に配慮した遺跡の活用を説く熱のこもった内容でしたが、最後に、虎塚古墳と比較して惨憺たる末期症状の高松塚古墳の現状とそれに至った過程への疑問を強く訴えるものでした。

 帰ってから、買ってきた「史跡虎塚古墳‐発掘調査の概要‐」(平成17年ひたちなか市教委)と、ネットからダウンロードした「高松塚古墳壁画の現状について」(文化庁美術学芸課)を、そして一昨日発刊された『東アジアの古代文化』129号大塚初重「高松塚の現状と将来-古墳保存への一考古学者の提言-」を読みました。061104_256s
 『東アジアの古代文化』129号で大塚先生は、高松塚古墳について、1972年発見された網干善教氏、調査の中心におられた末永博士が、「高松塚古墳を国の機関への保存と管理にゆだねることが最上の選択」と、断腸の思いで発掘調査にピリオドを打ったいきさつ、また、いっさい関係者以外目にすることなく、一億円以上の保存施設が完成して高度な保存作業を進んでいるとばかり思い込まされてきた三十年余の歳月について、考古学者の痛切な気持ちを綴られておられます。
 そして「墳丘と横穴式石槨が築造場所にそのまま保存されること」を主張し、「現代の自然科学が到達した最高水準の保存法が、石槨解体しかないとすれば、古代人の墳墓に対して二十一世紀に生きる科学者として傲慢すぎるのではないだろうか。」「墓まで毀して墓主の心を安堵させていた壁画を外に取り出すことはないと思う。」と述べておられます。(→画像は11月4日のシンポジウムでの大塚先生)

 また虎塚の発見直後の保存への努力と一般公開への地元の方々との協力のドキュメントも心打たれました。
 1973年の公開時の一万数千人の見学者の姿、また調査終了に際して、石室閉鎖して墳丘を復元後、、覆土の安定と湿度の保持のため、勝田市の消防署が放水で協力したとか、大塚先生の提唱される「市民の考古学」真髄のエピソードが語られています。

 11月9日付朝日新聞文化欄「茨城県の古墳 傷まぬそのわけは」に記された明治大学矢島国雄氏の言葉「墳丘が壁画を守る力はすごい。高松塚も、その点を学んでくれていたら・・」
 古墳は、そしてその石室も、墳丘と周囲の環境とともに「生きてきた」そして「生きつづける」遺跡なのだと思いました。

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2006年10月 2日 (月)

I-8 遺構の景観=古代人の見たローム土の世界

 十年前の夏、発掘調査された中世城郭遺跡の現地説明会があるというので、はるばる光町まで出かけたことを思い出します。その名も光町篠本字城山。(現在ではスポーツ公園と化して、跡形もないそうです。)
 ひとつの台地全体を掘りあげてあって、薬研堀や曲輪など城郭全体の遺構も一目瞭然でよくわかりましたが、中世城郭というと、草深い古城址になれていたせいか、関東ローム層むき出しのその姿はショックでした。
 しかし、戦国時代の下総の城郭は、切岸や土塁などロームむき出しの姿があたり前だったのですから、歴史的光景としては、藤村の詩のような古城の風情より、この姿のほうがリアルだったのかもしれません。

 Dscf0155先日、千葉県文化財センターの『研究連絡誌』のバックナンバーを読んでいて、雨宮龍太郎氏の「古墳の発掘法と作図法」(平成2年)という論文が目に止まりました。
 この論文では、丁寧な発掘により墳丘の築土過程が復元できることと、その築土の方法が凹面構築法という物理的に優れた工法であることなどが述べられていますが、最後に、「古墳が造られた当初の姿は、段畑状の赤茶けた殺伐とした墳丘であった」とし、風土記の丘などの史跡公園の保存展示の姿とは異なる景観を指摘しています                    (⇒写真は公津が原古墳群の船塚古墳)

 ローム層がむき出しの景観は、縄文の環状盛土遺構の井野長割遺跡の調査報告でも言われていたことです。
 「削ぐように掘削された中央窪地」、「ローム質黄褐色層が単層でレンズ状に盛り上がるように覆っていた状況が確認され、意図的な盛土行為が推定される」マウンド(体育館側のM5)など、黄褐色ローム土が盛土の上を覆った「黄色い世界」が当時のムラの景観だったいう報告が、2004年のシンポジウムで印象的でした。

 確かに、赤茶けた黄色いロームの世界は、今の私たちには造成地の工事現場を連想させ、重機によって破壊された環境を意味する殺伐とした景観にほかならないのですが、一方、弥生の方形周溝墓・環濠も含め、縄文~中世の人々にはどういう印象だったのでしょう。
 石器や木鍬で土を掘り返すということは、近世に至るまでかなりな重労働な行為だったと思います。緑の森や原野を人の手で加工して現れる鮮やかなロームの世界は、それ自体希少価値があり、人に畏敬の念や警戒心を与え、またこれ見よがしに誇示するにもふさわしかったことでしょう。
 もっとも石のたくさんある地域では、ストーンサークルや石葺きの墳墓、石垣の城郭構造のほうがより畏怖の象徴であったと思いますが、石のない下総台地では、むき出しのローム層、またローム粒による黄色化化粧がそれに代わるインパクトとして機能したのではないでしょうか。

 0692_193 雨宮氏は上記論文で「古墳を保存・展示しようとするならば、墳丘表土と周溝を発掘して、築造本来の形態を露呈すべき」と論じています。
 なるほどと感じさせる主張ですが、史跡公園への一般の来場者が、緑に覆われた遺跡の心地よさを求めている現状と、(古代もそうだったはずですが)メンテナンスにとても手間のかかることを考えると、現実では無理じゃないかなとも思えます。       (⇒写真は、房総風土記の丘の復元された101号墳)

 さて、古代人が神聖視した「土」へこだわりを、現在の生活の中に探してみました。やはり、相撲の土俵かなあ・・(ほかにもあったら教えてください)

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2006年7月13日 (木)

I-7 シンポジウム「印旛沼周辺の弥生土器」と市民参加

Kuriyadoki  “地元でこんなにすごい弥生土器がでている!”って初めて知ったのは、昨年(2005)の5月。
 保品地区の開発事業に伴う発掘調査が終わり閉鎖直前の現地調査会事務所で一目見た栗谷遺跡の弥生土器のすばらしさと面白さに、すっかりとりこになりました。(写真→栗谷遺跡の土器)
 何の考古学の知識もなく、ただの好奇心でこのことを私のこのブログや「郷土史研通信」8月号に書いているうち、いつの間にか土器や遺跡について語るサロンのような場ができてきました。(私の無知な暴走をコントロールしなくちゃと、プロの方々が思ってくださったのかも・・) 

 「じゃあ、栗谷の土器について市民中心の講演会を、遺跡のある東京成徳大学でやろう」との提案が上がったのは、8月20日「さわらび通信」主催の柏と白井の古墳めぐりの後の懇親会だったと思います。猛暑のあとのビールの勢いで、このとき今回の実行委員会の幹事会のメンバーは決まってしまったようなものでした。
 Kuriyaiseki 馬場小室山フォーラムの後、10月20日に夫婦で大学の房総地域文化研究プロジェクトのT先生とM先生に趣旨を話に行き、そして実際活動が始まったのは、郷土史研の展示会が終わった暮れの12月。                       (写真→栗谷遺跡のある東京成徳大学キャンパス)   

 一方、そのころ研究者中心の同じテーマのシンポジウムの計画を依頼されたT松さんが、そのための勉強会(仮称「印旛地域研究会」の「弥生部会」)の立ち上げを企画していて、どうせなら、市民向けの講演会も研究者のシンポジウムも一緒にやろうということになったのです。
 こうして12月10日、ちょうど始まった八千代市博物館の栗谷の土器の展示会に合わせて、印旛沼周辺自治体の若い埋文担当者が集合、「やちくりけん」(=八千代栗谷遺跡研究会)が発足しました。
 年が明けて、T松さんからの年賀メールは「もう会場を市民のさわらびYさんの名前でとってきちゃいました」とのこと。ここで7月1~2日の日程は決まり、あとは、邁進するのみ!(なんと言う無謀!)
ここから後の活動実績は、 「やちくりけんブログ」「活動報告」をごらんください。

 今回の市民講演会&シンポジウムは、市民と若い埋文担当者を核に、実に多くの様々な分野のグループのネットワークの力を集めて実現したイベントでした。
 まずは、私たちの夫婦が初めて馬場小室山遺跡研究会に、考古学の真髄と遺跡保存をめぐる市民と研究者の協力のあり方を学んだことと、そのメンバーのバックアップは最大の力でした。
 この馬場小室山遺跡研究会の市民層の中核ともなった明治大学博物館友の会メンバーは大塚初重実行委員長の実現の功労者ともなり、また、明大生涯教育の大塚教室受講生を一口1000円の協力会員に次々に誘ってくださったので、急遽、このメンバー向けに協賛企画「大塚先生と八千代の古墳めぐり」のイベントを行いました。
 地域では、東京成徳大学が協賛企画で「房総プロジェクト特別講義&栗谷遺跡現地説明会」を開き、応援してくれました。
  そのほか「八千代市郷土歴史研究会」や「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」「八千代縄文土器作り会」のメンバー、そして多くの埋蔵文化財担当者、大学の考古と文献の研究者が、会費の負担を含め、実行委員・協力会員として活躍してくださいました。
 06701_011学術的には、鈴木正博さん率いる“超”専門的な研究会「弥生道場」が、土器見会をとても内容のある緊張した学習の場にすることにより、シンポジウム後半の下地を作ってくれました。
 八千代市の遺跡調査の仕事を手伝っている補助員さんや学生さんが手弁当、無報酬で手伝ってくださったことも感激でした。 

    (写真→市民講演会の会場設営もみんなの手で)

 考古学の学術的な探求と市民主体の地域活動をともに実現するコラボレーションを、初めて試みた実に大胆な半年間の活動でしたが、あっという間に過ぎてしまった感がします。
 その共通した原点は、遺跡破壊の代償としての貴重な発掘調査成果を市民に(=人類に)還元することが、今の自治体や社会の傾向の中では、市民にとっても文化財担当者にとっても急務だという認識だったと思います。
 一部の遺跡や考古資料が特別展等で脚光と浴びる一方、行き場のない多量の遺物や、少数の研究者しか見ない報告書、現地に看板ひとつなく地形すらイメージできない遺跡が、泣き声さえも上げられないで忘れられていくのではないか、埋蔵文化財が再び暗闇に「埋蔵」されてしまうのではないか、という問いかけが、今も私の心から離れません。
  060702_1遺跡を掘った人と、興味を持った市民が、その遺跡の価値を見出すべくともに学び教えあうことが大事であり、「市民の考古学」とは、市民を文化行政の啓蒙対象やカルチャースクールの聴衆として見ることではなく、遺跡や文化財に命を与えるために、市民自らその知的好奇心をばねに活動をともにすることだと思います。

(←シンポジウム二日目のパネルディスカッション「臼井南式設定の研究の歩み」)

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2005年12月 6日 (火)

I-6 鎌倉の永福寺遺跡に学ぶ視点

廃墟となったそのままの姿が美しいと感じられる遺跡のひとつに、鎌倉の永福寺跡があります。
鎌倉宮から水仙で有名な瑞泉寺へいく途中の、鎌倉青年會による大正九年建立の永福寺跡の記念碑、その奥にある草原が、今も「二階堂」の地名にその由来を残す永福寺の跡でした。

昨夏、発掘を担当された方のご案内で遺跡を見る機会があり、夏草が茂るままの戦場ヶ原のような遺跡と、経塚が発見された東の山などまわりの環境も含めて、鎌倉の世をしのぶにふさわしい景観に感動しました。 →史跡歳時記2005.9.4
この遺跡は1983~1996年に発掘調査がされ、西の山を背にして、中央には二階堂が、左(南)に阿弥陀堂、右(北)に薬師堂を脇堂として並び建ち、前面(東側)には大池が配され、橋が架けられていたとのことなどがわかったそうです。

05 今年も12月3日に、永福寺をめぐるシンポジウムが鎌倉で開催され、その午前中、再び永福寺の見学会も行われて、現在設置工事が進んでいる遊歩道を歩き、大伽藍のあったであろう場所の背後の西の山に登る機会がありました。 →史跡歳時記2005.12.3
調査後、埋め戻された庭園跡は、その十数次の調査の過程を物語るように、草紅葉が曼荼羅のような不思議な彩りを見せています。その色彩の変化が埋め戻しの土質の微妙な差によるものなのかわかりませんが、人々の歴史や思いの上を覆うように、生命の営みがまた新しい自然と調和の世界を作り出しつつあるようです。

午後からのシンポジウムでは、考古、文献、建築史などの分野から新しい視点での報告がありました。
特に文献データを詳細に検討された秋山哲雄氏は、頼朝が一連の戦いの敵方供養のため平泉の「二階大堂」を模して建立した永福寺が、その後、花見や歌会の場ともなり、またその後の2度の再建に際しては、勝者としての象徴と源氏の氏寺の性格を付与されていったことが明らかにされました。

また、鎌倉市の世界遺産登録推進担当の玉林氏は、永福寺から始まった「敵方供養」が、「敵味方供養」へと発展し、また鶴岡八幡宮での殺生を悔いる「放生会」の贖罪の思想を融和して、日本人の来世観・平等思想の特徴となったことを述べています。
古都・鎌倉が「世界的に価値ある人類共通の遺産」のひとつとしてこの遺跡にも目を向けていることは、「靖国」に対するアンチテーゼとして、この「敵味方供養」の心を読み取り世界へ平和を発信していくことにあるのかもしれません。

遺跡の保全と活用=遺跡に学ぶということは、単に整備やハコモノに予算をかけることではなく、遺跡をめぐる人の歴史と営みに思いをめぐらすことであり、また、力あるものの栄華が永遠でないことを、遺跡を通して知ることでもあると感じます。
鎌倉幕府、そしてその後も足利政権の鎌倉府の栄華の象徴でもあった永福寺は、十五世紀の火災後再建されることもなく、ひっそりと長い眠りにつき、それは、結果として中世の遺構がそのまま貴重な遺跡として現代に伝えられることにもなりました。
その廃墟としての姿は、芭蕉が平泉(毛越寺?の跡)で泪したように、人が殺しあうことへ悔悟の念と人の歴史の栄枯盛衰の無常を訴えているのだと思います。
今後おこなわれるであろう遺跡整備の過程でも、その視点が失われないようにと祈りたいと思います。

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2005年10月29日 (土)

I-5 「犢橋貝塚」を撮りながら

05  八千代市のわが家から、近くの貝塚は、一番が神野貝塚とすると、2番目は千葉市内の犢橋貝塚でしょうか。

 印旛沼から神野貝塚と佐山貝塚にはさまれた新川を遡ると、成田街道とクロスします。  その橋の手前に大和田排水機場があり、台風のときなど、時折巨大ポンプが稼動して印旛沼の水位調整をしていますが、現在はここが、印旛沼と東京湾の分水界です。
 印旛沼と東京湾を結ぶ水路開削の歴史は古く、江戸時代に印旛沼干拓大プロジェクトとして三度試みられましたが、全て失敗し、完成したのは昭和41年(1966年)。水位の落差をポンプの機動力に依存することにより、成功したといえるでしょう。

 かつての分水界は横戸あたりで、その南西側の犢橋は東京湾側花見川の最奥、北東側の勝田は印旛沼水系であって、勝田川の支流も宇那谷まで深く入っていましたら、その間の距離はほとんどなかったともいえます。

 私は、鎌倉時代の忍性の東国での足取りを追いつつ、この花見川を遡上し、花島観音~村上正覚院を小舟と陸路を使って、東京湾岸から香取の海へ通じる交通ルートが古代から中世の道として重要だったのではないかと、思うようになりました。
 まして縄文海進のころは、水系を異なっても、勝田川上流の内野第一遺跡(み春野団地内)とは犢橋貝塚は、隣むらだったことでしょう。

05  さて、さつきが丘団地内の「国史跡」の犢橋貝塚ですが、秋晴れの先週日曜日(2005.10.23)、中央窪地型集落遺構としての地形がわかる写真を撮ってみたいと思い、この遺跡を訪ねました。
 犢橋貝塚は、東京湾側に立地する遺跡ですから、ここは地元「千葉市の遺跡を歩く会」「園生貝塚研究会」「千葉市の貝塚」のお得意とする遺跡で、そちらのHPに詳しく掲載されていますので、詳しい内容はそちらをぜひご覧ください。

 この貝塚は、箱型地形の窪地をとりまく典型的な馬蹄形貝塚とのこと。谷につながる開口部より、内側のくぼみの低い点では、環状といってもよく、また学史では、明治20年に「東京人類学会雑誌」にその報告されているほど、調査の歴史は古く、かつては明治大学や千葉大学などによって調査が繰り返されたようですが、その詳細は不明とのことです。
 現在は、南北180m×東西160mのマウンドと窪地が、昭和56年(1981)国指定史跡としてそっくり保存され、きれいに芝の張られた公園として市民の憩いの場として活用されていますが、その周りは、未調査のまま破壊されたそうで、地形も団地造成ですっかり変わってしまっています。 05

 (⇒画像は、貝がたくさん見える北西の斜面。子供にとっては遊具よりおもしろい)

 先日の「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」で明らかにされたように、縄文後晩期の環状遺丘の外側には、きっと中期の住居跡や晩期の水場遺構があったでしょうが、今となっては調べようもありません。(その点では、加曽利貝塚の保存の現状は、貴重ですね。)
 また、ここからの出土遺物も貴重なものがあるそうで、その一部、東京人類学会の資料が、東京大学総合博物館にあるとのことです。kotehasi

(これは、東京国立博物館で展示されていた深鉢です。⇒)

 私は、このきれいに整備された公園が、地域の人々や考古学に関心のある市民に、縄文時代の貴重な遺跡としても、もっと身近な存在であってほしいと思います。
 そしてそのためには、公園に隣接したさつきが丘公民館などに、調査した大学から遺物を借り受けて展示し、また資料コーナーを作るなどの工夫を、ぜひ行政と大学と市民が協力して行っていってほしいし、またそうしなければ、実にもったいないような気がします。

 犢橋貝塚と前日(05.11.22)訪ねた真福寺貝塚。どちらも考古学史上有名な国史跡ですが、その遺跡の価値を知ってもらうためには、遺跡に隣接した公民館や市民センター、あるいは図書館などにぜひ遺跡の紹介コーナーを作っていただけるよう念願します。(高額の箱物施設を設けてほしいのでは、決してありません。)
 05 これは、翻って私のかかわっている馬場小室山遺跡でも、三室公民館において実現したい、あるいは八千代市内の遺跡でも、市民と行政の協力でかなえたいことでもあります。

  ところで、「環状盛土遺構」の撮影にチャレンジするという目標は、未だ道遠しですが、井野長割遺跡では陽の光の傾き、また犢橋貝塚では、風情とスケールがわりに、子供や人の姿をうまく入れることがコツとわかってきました。でもやっぱり、ムズカシイ!

(画像はクリックすると大サイズがホップアップします)

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2005年10月24日 (月)

I-4 「国史跡」真福寺貝塚を歩いてみて

05 昨年(1904)夏の馬場小室山遺跡32次調査で出土した遺物が巡回中の「さいたま市最新出土品展」(⇒写真)が見られるラストチャンスということで、展示中の岩槻郷土資料館を馬場小室山遺跡研究会の市民メンバーで見学に行くことになり、せっかく岩槻まで行くのだから、真福寺貝塚の踏査も、ということになりました。
 
 一応、研究会の第17回ワークショップということで、岩槻市在住のN氏が調査報告書などから立派な資料集を作ってくださり、さらに参加できない鈴木正博氏がワークショップレジメを作成、見学の要点と「広義の『遺丘集落』としての後晩期貝塚集落遺跡として、往時の地形を読み取れるか」という課題を提示されての見学会です。
 
  ところでこの真福寺貝塚は、インターネットの「郷土文化財コレクション」では「見学不向」と厳しい評価。
 たしかに、「国史跡」としての期待をもって、「貝塚」としての史跡を見る観点から、歴史的景観を味わうのは厳しいかもしれません。
 05かつて貝殻が散乱していたという「国史跡」の石碑のあるあたりも埋め戻されているし、レジメでも「宅地としての改変が著しいので、現状からどの程度往時の地形を読み取れるか、が腕の見せどころ」とのこと、でも一応調査報告書の実測図を見ながら、地形の微妙な高低差に注目して現地を歩きました。(⇒写真は、低湿地付近)

 貝塚であっても、なくても(その場合「土塚」?)、馬場小室山 に学んだ成果として縄文集落の形態に注目して遺跡を見るとき、たとえばかつての浅い谷が、現在は葦の生える低湿地と細いコンクリート壁の水路であったり、環堤のたかまりの上に今も屋敷林に囲まれた旧家の屋敷があったりと、「改変されたすがた」に今はなってしまっていても、遺跡を丸ごと把握する面白さを体験できました。

  率直に言って、「国史跡」であっても遺跡の保全と活用は、自治体の財政の面からも、また一目瞭然往古の姿が偲べる観光可能な遺跡でないかぎり、困難を極めている状況であることを痛感します。

 05特に、「貝塚」が貝の散乱している目に見える状態でマウンドや斜面にあっても、一般市民には貴重な遺跡とは捉えられづらく、まして、「国史跡」の石碑はりっぱでも、開発用地の様な粗末なフェンスで囲っただけの「空き地」は、雑草やゴミの不要投棄や痴漢対策などで近隣住民にストレスを与えるだけの、あるいは街の発展を阻害するだけの「お荷物」となっているのが現状です。
 縄文遺跡が、特に「史跡」として生残る方策は、単なる「○○貝塚」ではなく、周溝(それが埋まっていても)を含めた古墳、あるいは惣構えとしての中世城郭跡のように、広義の「遺丘集落」、あるいは「中央窪地環堤集落」としての景観保護が大事だと思いますし、またその理解を助ける標示のあり方も検討していく必要を感じました。

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2005年9月26日 (月)

I-3 環状盛土遺構ってなに? 寺野東遺跡の風景

 馬場小室山のフォーラムが近づき、あわただしいこのごろですが、そういえば事務的なPCワークに忙殺されて、8月11日に寺野東遺跡に行ったことすら、アップし忘れていました。
 今回のフォーラムのポイントは、第1日目は「環状盛土遺構ってなに?」、そして2日目の市民フォーラムは「遺跡の重要性を未来にいかすには?」っていうところでしょうか。

  「環状盛土遺構」とは、真ん中がくぼんだドーナッツ型の縄文ムラのかたちのこと、栃木県小山市の寺野東で工業団地造成に伴う調査で発見された遺構の保存をめぐって、「巨大な祭祀スタジアム」遺跡と意味づけされた時期もあったようですが、その後の阿部芳郎先生などの研究で、縄文後晩期に住居を同じ場所に繰り返して築いた結果、幾層もの土層となり、たかまりとなった遺構と説明されるようになりました。
 土の層に貝殻が多ければ、「環状貝塚」というわけで、なんだ、加曽利南貝塚も同じかと、目からウロコ!
 実は、関東各地の貝塚や縄文後晩期の土器の散乱する台地の畑を見直すと、このパターンに該当する遺跡が多いようです。

 さて、この環状盛土遺構を歴史的景観として、ホームページで一目瞭然に表現できるか、というのが、昨年来の私の課題でした。
  報告書によくある概念図を、空撮写真を使ってわかりやすく表現されていたのが、あるけ~さんの「千葉市の遺跡を歩く会」HPの「環状盛土遺構の分布」。 私が馬場小室山に興味を持ったきっかけのページで、馬場小室山の概念図をつくる際のヒントにもなりました。
 でも現地で、実際に目で見ても、まして、写真に撮ってみても、「環状盛土遺構」を一目瞭然にというのは、難しいですね。
 井野長割遺跡でのあるけ~さんの「まわる遺跡見学(360度 version.)」というのも努力の結晶。
 私も「縄文遺跡のある風景 in印旛沼周辺の遺跡群」井野長割遺跡の撮影は、現地通いを続ける結果になりました。

  中世の要害だったり、古墳だったりした北総の台地の沼川に面した見晴らしのよい場所は、縄文のむらの条件でもあるのですが、藪と林に化している現状では、中世城郭遺構>古墳>環状盛土遺構の順に見えづらいのが実情です。環状盛土遺構の窪地の斜度は、スープ皿程度もないのですから。05


 そこで、「寺野東遺跡」! ここは、調査結果による計画変更で保存されることになり、遺構を保護するため50cmぐらい土をかぶせ、芝張りをして、「環状盛土遺構が見える」ように公園化してくれています。(近世の用水工事で半分失われているのが残念ですが)
 ついでに、陶板の模型もあるので、実体験はここが一番でしょう。05
  そこで撮影した一枚、なんだゴルフ場みたい?! う~ん、なかなか、難しいですね。

  9月17日にやぶこぎの実踏となった園生貝塚、ここも環状貝塚=環状盛土遺構でした。
 ほとんど見通しのないジャングルでは、古墳でさえ、斜度を実感するのは難しい。実測図を片手に、いったい何所が中央窪地なのか?
   その時、鈴木正博さんが言った一言が印象的でした。
 「馬場小室山に初めて入ったときも、こんな感じでしたよ。」

IMG_0908
 そして、盛土のてっぺんに立っていただいて、窪地の中央から写した一枚がこの写真です。多少は高さがわかるかしら?

 私たちの気づかない北総台地のどこかには、周知されてない古墳や城砦跡などのほかにも、「環状盛土遺構」がまだ眠っているのかもしれませんね。

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2005年8月 2日 (火)

I-2 成長する遺跡広場「下宅部遺跡はっけんのもり」

 7月31日、馬場小室山遺跡研究会でのお友だちと、さいたま川の博物館の特別展「蘇る縄文~自然と暮らした人々~」を見にいきました。「湿地部に封印された、木器や木の実、漆塗りの容器、編み物などを展示し、自然の中で暮らした縄文人の暮らしぶりに触れていただく」というのが、企画展の主旨。ちょうどその日開かれた阿部芳郎先生の「縄文人の暮らし」の講演会ももちろんお目当てです。
 先日見に行った国立歴史民俗博物館の特別展「水辺と森と縄文人」も同じような企画でしたが、土器だけでない縄文の遺物に触れることにより、縄文文化をよりリアルに把握できたかと思います。
 この両企画展では、東村山市の下宅部遺跡の出土品も数多くあり、特に飾り弓や彩色された土器、精巧な加曽利B式の注口土器などが目を惹きました。

 さてこの下宅部遺跡って、今はどうなっているのでしょう。昭島市から同行してくださったHさんが「帰りに寄りましょう」といってくださったので、お言葉に甘え、寄居から狭山丘陵へとドライブして、この下宅部遺跡に案内していただきました。05
 この遺跡、ちゃんと西武園の大観覧車を望む線路際の中層の都営住宅街の中に、公園として残っていたのです。
 入口には、発掘の経過や遺跡概略図(縄文時代と古墳時代別)、出土遺物などがカラフルな説明板(⇒画像をクリック)がありました。

 [成長する遺跡広場「はっけんのもり」
 下宅部遺跡の重要性から、都営住宅建設計画を変更し、遺跡のうち最重要地点と考えられる約3000m2が、当時のまま地下に「埋没保存」されることになりました。
 遺跡の保存にあたっては、発見を担当した遺跡調査団をはじめ、市民有志による「下宅部遺跡はっけんのもりを育てる会」が中心となって「成長する広場」をキーワードに、発掘成果を活かした「遺跡広場」として整備し、遺跡の保存と活用を考えてきました。
 この「下宅部遺跡はっけんのもり」は、面積としては小さな公園ですが、市内で初めての「遺跡」の広場として、みんなで育てて活用していける広場なのです。]

 う~ん、なるほど さすが東村山市! 05
 公園は、低湿地遺跡を守ってきた湧水をそのまま小さな小川として活かし、暑い夏の夕べ、子供たちが水辺に住む生物たちを追っかけて遊んでいました。(⇒「さわらび通信」TOP画像)
 奥のほうには、古代の水辺の祭祀遺構と考えられる「池状遺構」(⇒画像)が復元されています。

 「下宅部遺跡公園ワークショップ」というのも盛んなようで、作りっぱなしではなく「みんなで育てて活用していける広場」としての発展をコンセプトとしている点に、これからの遺跡保存と活用の未来が感じられました。

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2005年5月23日 (月)

I-1 考古学協会での「徳川大坂城東六甲採石丁場遺跡」の発表を聴いて

昨日、今日と2日間、考古学協会総会の公開講演会と研究発表会の数多い興味深い講演をたっぷりと聴講してきました。お目当ては、もちろん阿部芳郎氏の「『環状盛土遺構』の形成と遺跡群の成り立ち―千葉県印旛沼周辺の遺跡群の研究事例から―」。また香取の海を巡る中世律宗の関連で、楽しみにしていた千葉隆司氏の「古墳につくられた中世墓-霞ヶ浦沿岸の中世仏教と石塔文化-」というも満足でした。

 
でも、全く未知のテーマを予期せぬ出会いでお聴きして、感動を覚えるという意外なこともあるのですね。それは、次の2本。
森岡秀人・坂田典彦 「城郭研究の一視点-徳川大坂城東六甲採石丁場の発掘調査から-」    竹村忠洋・白谷朋世 「徳川大坂城毛利家石切丁場の発掘調査と採石技術について」
危機に瀕している遺跡の保存と市民活動ということで、考古学協会埋文委より、2004年9月21日「馬場小室山遺跡保存に関する要望書」に半年先立つ4月に「芦屋市八十塚古墳群及び徳川大坂城東六甲採石場等の調査・保存に関する要望書」が文化庁その他に出されていることを、昨年考古学協会のHPから知りました。東六甲採石場の保存を求める市民の会があることもネット検索で知り、私が掲示板でHN.遺跡大好きネコさんとも出会うことができたHPもあります。

今日の2本の発表は、その行政側の調査を市民運動の中で実現し、困難な中で発掘調査をされている芦屋市教育委員会の方の貴重な成果の講演でした。(内容は、長くなりますのでごめんなさい)
050522 感動的だったのは、考古学協会の理事もお勤めの鈴木重治先生が、質問に立ち、現状と遺跡保存の見通しをお聞きになり、また市民と行政の調査担当者の努力を評価され、あらためて遺跡の危機的状況を印象付けられたことでした。

企業による開発の前に、芦屋市当局は無力でした。これは馬場小室山遺跡をめぐるさいたま市と同じですが、その状況の中でも、現地説明会や大阪歴史学会でのパネルディスカッション、そして全国の考古学研究者の集まる考古学協会でりっぱな発表をされた担当者に拍手を送りたいと思います。(画像はそのスライドの一枚です)

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