2014年9月12日 (金)

B(メモ) 佐倉市直弥の宝金剛寺の寺宝と文化財

2014年9月9日の根郷公民館主催の「佐倉市入門講座」で実物を拝観できた宝金剛寺の文化財と京極師のスライドで紹介された文化財をアップします。

1.「三鱗紋蒔絵四重椀」:2010年「岩富城主北条氏勝寄進資料」として佐倉市市指定有形文化財になりました。高台等の特徴から、近世初期頃の作成と推定されるそうです。

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2.「銅製 灌頂宝冠 一対」:日輪・月輪の飾りで対を成す。じつに優美な法具です。

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3.2.の宝冠脇に刻まれている「元和六年十二月吉日 宝金剛寺 覚秀 求之」の銘文

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4.
2010年に市指定文化財になった「七条袈裟・横被 牡丹唐草模様(慶長二年銘)」と「七条袈裟・横被 亀甲梅椿模様(慶長十三年銘)」はスライドでの紹介でした。
これは慶長2年銘の袈裟の墨書銘

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5.
袈裟の構造(「七条」とは、「横被」とは?)と着け方を実演していただきました。

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6.
宝金剛寺で預っている八木の東福院の十一面観音像(スライド)
平安後期の作とのこと。

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2013年4月17日 (水)

B-2 「海獣葡萄鏡」の「海獣」っていったいなあに?

130409_002 東京国立博物館で2013年4月9日から始まった「国宝 大神社展」、私もさっそくその初日に見学。
 神宝や神像などいっぱいの会場で、閉館までたっぷり「国宝」漬けになってきました。

 興味あるものがいろいろある中で、まずは千葉県民として香取神宮のご神宝海獣葡萄鏡」に注目。
 明治まで秘宝だったこの鏡は、今は香取神宮宝物館で公開されているので、いつもでも見られるのですが、今回のように他の古い神鏡と一緒に東博で展示されていると、しっかり見ようという気になります。

 香取神宮宝物館での展示では、「別名海馬葡萄鏡、中国隋時代の作品。鏡面の内区に八頭の親海馬と子海馬の戯れる一状を葡萄唐草の上に配置、外区には葡萄唐草の上に雞雉鹿朱雀の雌雄を配している。・・・(後略)」と書かれていて、「海馬」なるものがいったい何かという疑問を持っていました。(トド、アザラシ、あるいはラッコ?)      

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           香取神宮「海獣葡萄鏡」の内区部分、2010.11.4 香取神社宝物館にて撮影

 さてこの日、東博で目を凝らして見ても、フツウの動物。
 「大神社展」の図録解説には、「内区に獅子、界圏に蝶・蜻蛉・蜂・蟷螂、外区に孔雀・雉・鳳凰・鴛鴦・獅子・鹿・馬とあらわす。外縁の雲文、中央に獣鈕を据える。(中略)禽獣葡萄鏡ともよばれる。」
 では、いったい海馬はどこに?

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                「海獣葡萄鏡」の界圏・外区・外縁部分



 091120_130気になって、帰ってから『ふさの国の文化財総覧』(千葉県文化財センター発行)で見てみると「鏡の中央に(中略)、海獣さん猊*)の鈕を置きます。」とあり、他の紋様については昆虫や小鳥、獅子・麒麟・鶏、以下は東博図録と同じ動物たちです。(さん猊*の「さん」=「けものへん」+「俊」の旁)
 どうも、「海獣」の意味は、真ん中の鈕の動物のことらしい。
 「さん猊」をネットで調べると、「中国の伝説上の生物である。竜が生んだ九匹の子である竜生九子の一匹」また、「海獣とは海の獣という意味ではなくて、唐の国にとって砂漠の向こうという意味であり『海外の獣』という意味」だそうだ。
091120_137 「猊下」の意味も、この「さん猊」の意匠の椅子=猊座の下(もと)に居る者のこととのこと。(By.ウィキペディア、参考文献:福永伸哉「三角縁神獣鏡の研究」)
 
 

 海獣はトドでもアザラシでもなかったのですね。
 二十年前の千葉県中央博の「香取の海」展で初めて見た「海獣葡萄鏡」ですが、今頃になってその謎がやっと解けました。
(⇒写真は、香取神宮の楼門と社殿、宝物館の展示)

 以上をfacebookに載せると、さっそくKさんが「世界大百科事典」で調べてコメントしてくださいました。
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「海獣葡萄鏡」の項から
 「…内区には葡萄唐草文の間に大きく獅子,豹,天馬,孔雀,鳳凰などが表され,外区では,同じく葡萄唐草文の間にこれらの禽獣に加えてネズミや猫などの小動物,小鳥,昆虫が見え隠れしている。
 宋代や清代の図録類に〈海馬葡萄鑑〉とか〈海獣葡萄鑑〉の名があり,呼びならわされてきているが,とくに海獣または海馬と特定しうる獣形は認めがたく,名称の由来は判然としない。
 日本には,正倉院あるいは社寺に伝世された優品も少なくなく,また,法隆寺五重塔心礎埋納物や高松塚古墳副葬品に含まれていて,とくに有名になった…」

 今回の東博の企画展図録もそうですが、どの本の図版もトーンが暗すぎたりして紋様までよく見えません。
 (文字の銘文があったりすると、細部にまで詳細な図版があるのでしょうが、)
 私も図柄をよく見ないまま、意味不明の「海獣」を何となく「海にすむ哺乳類」と思って「納得」していました。

 数日して、森豊著『海獣葡萄鏡―シルクロードと高松塚 』(1973年)を読みましたが、そこには、「海獣葡萄鏡は、その名の起源も明らかでない謎をふくんだ鏡である。」と書いてあります。
 つまりは、海獣がトドなどの海の動物でないということだけはよくわかりました。

 この鏡については、中国の図録類からの名称ではなく、「おめでたい動物と葡萄の文様の鏡」とか、「瑞獣葡萄鏡」に変えた方が、誤解が少ないと、「素人」の私は思います。
 いずれにしても、デジタル画像は便利ですね。でも真ん中の「さん猊」の顔を正面から撮りたかったと、今にして思います。

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2013年4月15日 (月)

B-1 日本史の節目を告げる 細川ガラシャ追悼の鐘 &ボアソナードゆかりの鐘

 文京区にある西洋式の教会鐘2点を紹介します。

130405_110_5 2013年4月5日午後、春らしい天気にめぐまれ、関口の椿山荘~東京カテドラル~野間記念館~永青文庫を散策しましたが、その際に見た西洋式の教会鐘2点が印象に残りました。
  一つは、目白台1-1、細川家の家宝を伝える永青文庫にあった17世紀初頭の「九曜紋付南蛮鐘」、 二つ目は関口3-16東京カテドラルの関口会館ホールに置いてあるフランス製の教会鐘で、1877年の銘があります。
 キリスト教の禁教(1612年)直前と、解禁(1873年)間もなくの歴史的に貴重なこの二つの西洋式教会鐘は、奇しくも250mぐらいしか離れていない近い場所にありました。

 永青文庫の「九曜紋付南蛮鐘」は、細川ガラシャ(1600年歿)の追悼のため、細川忠興が日本の鋳物師に作らせ、小倉城下の南蛮寺に施入したと伝えられる鐘です。
 表裏に細川忠興以来の細川家の家紋である九曜紋が大きく鋳出されています。
 上部の鈕が鐶の直交している本格的なヨーロッパ式の教会鐘で、3段に分けて鋳造された跡が見えます。

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 明智光秀の三女で細川忠興の正室のたま(珠、または玉子)は数奇な運命を生き、ガラシャの洗礼名のキリシタンになりましたが、関ヶ原の戦い直前の慶長5年(1600年)西軍の石田三成が人質に取ろうとした際に、それを拒絶、家老に槍で胸を貫かせて果てます。
 その死を悼んだ細川忠興は、翌年ガラシャのための教会葬を行い、また慶長7年(1602)から小倉城の城下町整備では、セスペデス神父のもと、教会や集会所もつくられました。
 この鐘が教会に寄付されたのは、細川忠興がキリシタンに比較的寛容であった慶長7年からの数年の間であったでしょう。
 まもなく伴天連追放令が慶長18年12月(1614年1月)に発布、細川家のキリシタン弾圧も激しくなり、小倉城下では、元和元年(1619)10月、加賀山隼人正興長などの武将も殉教しました。

             *   *   *

 一方、関口会館の鐘は、明治10年(1877)献堂された築地教会に、「日本近代法の父」ボアソナードが寄付したもので、名前は「アドレード・ジョセフィーヌ」というのだそうです。
 この鐘には、十字架降下のレリーフが施され、その上に「BOISSONADE」の名がみえます。130405_138_2
 裏面には聖母子像がレリーフされ、この鐘の名と名付け親のデュリ夫妻の名が、鈕には聖人か天使と思われる人物の顔があります。

 130405_139_2この「ジョセフィーヌ」鐘は、元中央区区明石町の居留地にあったカトリック築地教会が明治11年8月15日、聖母昇天の祭日を期して天主堂の献堂式が執り行なわれた際にその鐘塔に設置された鐘で、この鐘塔には、ともにボアソナード夫妻により築地教会に寄贈された大小2つの「姉妹」の鐘があったそうです。

 大の鐘はこの「ジョセフィーヌ」で、小の鐘は、明治9年(1876)にフランスブルターニュ地方のレンヌで製作された銘のある銅鐘で、ルマレシャル神父(築地教会第二代主任司祭)により「NOM MEE JEANNE LOUISE DE YEDO」、江戸のジャンヌ・ルイーズと名付けられました。
 まだ「TOKYO」という呼称が浸透していなかったからでしょう。
 この鐘は、関東大震災と東京大空襲に耐え、中央区の区民有形文化財工芸品に指定されて、現在も築地教会に現存しているそうです。

 「ジョセフィーヌ」鐘は、大正9年(1920)に司教座が築地から関口に移されたときに、関口教会(東京カテドラル)に運ばれました。
 この大の鐘は、太平洋戦争中、金属供出命令で、鐘塔から降ろされましたが、重さ約340㎏もあってトラックに載せることができず、そのまま庭に放置されていたところ、明治憲法記念会から憲法起草の顧問ボアソナードの銘の入った鐘を鋳つぶしてはならないと、強い申し入れがあって、おかげで大砲にならずに済んだとのことです。
130405_129 しかし、昭和20年5月の大空襲で聖堂が焼け落ちた際、鐘に火が入ってひび割れ、鐘小屋を造って鳴らしていたが、ひどい音だったとのこと。
 その後、改鋳が計画され、佐野市の梵鐘屋で改鋳、その際、費用がかかるが原型通りにしてもらったそうです。 

 昭和32年(1957)、ルルドの聖母出現百年記念の年、関口教会のルルドの森の鐘塔に設置され「ルルドの鐘」としてきれいな音を響かせていました。
 その後、昭和39年(1964)東京カテドラル大聖堂が献堂され、ドイツ製の4つの鐘が高い鐘塔に設置されると、ボアソナードゆかりの鐘「ジョセフィーヌ」はその役目を終えました。130405_127_2

 ボアソナードは、明治6年(1873)に来日、幕末に締結された不平等条約の不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に貢献した法学者・教育者でありました。
 特に明治になっても行われていた江戸時代からの拷問による自白強要について、明治8年、彼は自然法に反するとして明治政府に拷問廃止を訴えました。
 正式に拷問が廃止されたのは、明治12年(1879)ですが、お雇い外国人の中で拷問廃止を訴えたのは、ボアソナードだけだったと言われています。
 関口のこの鐘には、カトリックの敬虔な信仰に裏打ちされた人道主義を、近代日本にもたらしたボアソナードとその夫人の名が今も輝いています。

    [1877 DONATEURS
     M.M.GUSTAVE EMILE BOISSONADE DE FONTABIE     ET
     MME HENRIETTE BOISSONADE DE FONTABIE]

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参考資料
『時を越えて‐関口教会八十周年記念誌』1980 カトリック関口教会発行
『つきじ 百周年記念号』1978 築地カトリック教会発行

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