A-2 久方ぶりの尾瀬探訪
2012年7月17日、三十年ぶりに尾瀬に行きました。
スキーで左ひざを大けがしたのは12年前、それまでは、夏~秋は登山、冬~春はスキーにうつつを抜かしていたので、上越国境の平標山は毎年、尾瀬も何回か通いました。(平標は、実は山の家の管理人Yさんに会うのが目的?)
けがをする前に登った山は、鳥海山が最後。
それ以後は、史跡や古道ばかり歩くようになり、山登りは夫婦ともに足と体力に自信がなくなっていました。
最近になって、急に山歩きを再開してみたくなったのは、2月につくば市の宝篋山に登れたこと。
まずは年(?)相応に超初心者向けのトレッキング程度からということで、懐かしい「はるかな尾瀬」に行ってみることにしました。
前日は、奥湯西川の秘湯に一泊、西会津街道から桧枝岐経由で御池へ。
シャトルバスに乗り換えて終点の沼山峠バス停から旧沼田街道をのんびり歩き、尾瀬沼を往復する一番楽なコースです。
忙しかった若いころは、車での登山口までのアプローチが長い福島県側は敬遠し、都心から短時間で入りやすい群馬側の鳩待峠か大清水のコースばかりでしたので、沼山峠コースは初めてでした。
沼山峠コースはまた、交易や戊辰戦争などの行き来に使われた会津から沼田へ至る古街道での一部でした。
この沼田峠バス停から、石と板の階段を登ること25分、沼田峠に立つと、眼下に尾瀬沼が見えます。
さらにオオシラビソの樹林帯を20分ほどで下ると、突然、光り輝くような大江湿原が視界に開けました。
湿原は、夏の到来が遅かったのか、ニッコウキスゲが咲き始めで、一面のワタスゲが風に揺れて幻想的でした。
思えば、1971年に尾瀬の山小屋元祖3代目の平野長靖さんが群馬県大清水から三平峠を経由して沼山峠に通ずる産業(観光)道路建設に反対し、工事中止を実現。その12月に雪の三平峠で「殉死」したニュースに、全国の自然保護運動が燎原の火のように広がっていったころ。
そして訪れた空前の尾瀬ハイキングブーム、私たちもとくに1970年後半は、その渦の中にいたように思います。
尾瀬から帰り、改めて『尾瀬に死す』平野長靖、『尾瀬―山小屋三代の記』後藤允、『はるかな尾瀬』朝日新聞前橋支局の3冊を読み返してみました。
平野長蔵・長英父子の奮闘がなければ、尾瀬は東電のダムの底で、私たちは尾瀬のその存在すら知らず、また平野長靖さんの奔走がなければ、「尾瀬スカイライン」の通る遊園地化した観光地(オゼランド?)に、この年になってまで訪ねたいと思わなかったでしょう。
1982年の夏、職場の同僚と尾瀬が原を歩いて以来、尾瀬は「はるかな」存在になっていましたが、その間、1996年に入山者が過去最高の65万人となり、また2002~6年に「聖地・尾瀬」のシンボルだった長蔵小屋の廃材不法投棄を始め、各地区の山小屋周辺に埋められていた過去のゴミが問題になっていたようです。
オバーユースの問題が叫ばれたその尾瀬も、水芭蕉や紅葉期の特定日を除いて昨今は入山者数が減り始め、昨年は、3.11東日本大震災と原発事故の風評で、初めて30万人を割り、富士山の登山者を下回りました。
山岳信仰の聖地でありながら、ゴミだらけで世界自然遺産を逃している富士山に比して、紆余曲折な試練を経て、自然と環境保護をめざしてきた尾瀬は、これからが、静かで美しくやさしい本来の「聖地」の姿に帰っていく、その転機を迎えているように思えます。
それはまた、ヤナギランの丘に眠る平野長靖さんの思いだったかもしれません。
来春、二度目の退職を迎えたら、毎日が日曜日。シニアにやさしい尾瀬の峠道と湖畔の逍遥も十分に楽しみたいと思っています。
「まもる
峠の緑の道を
鳥たちのすみかを
みんなの尾瀬を
人間にとって
ほんとうに大切なものを」 平野長靖 墓誌から
この続きの画像は⇒久方ぶりの尾瀬探訪 2012.7.17をご覧ください
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