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2017年10月22日 (日)

「幕末~近代、ムラの衆が建てた石塔  本埜地区笠神の『百庚申』と『三義侠者碑』」

印西地域史講座 文章レジュメ                 2017年10月22日 
                           於 印西市立中央駅前地域交流館
                              
 「幕末~近代、ムラの衆が建てた石塔 
    本埜地区笠神の『百庚申』と『三義侠者碑』」
                          
                                  
蕨 由美
☆スライドは⇒こちら 

 ☆配布資料
  ⇒図1「北総の多石百庚申 一覧表」 -2「北総の一石百庚申 一覧表 」

  ⇒図3 「三義侠者碑」銘文

                                                 
 江戸時代は、前期の寛文・延宝期から、関東の村々では庶民の石塔建立が盛んになり、特に印西市域には、そのころの優れた像容の石仏が今も残っています。
 今回は、本埜地区笠神での調査例をもとに、ムラの人々が幕末から昭和初期まで建て続けた2例の「百庚申」と庚申塔について、また江戸初期の笠神の三義人を顕彰した明治24年建立の「三義侠者碑」とその時代背景についてお話します。
 庚申塔については、2012年12月の印西地域史講座でお話した内容の続きで、北総に特有な多石型の「百庚申」について紹介します。

Ⅰ 庚申塔と「百庚申」
(1)印西市域の庚申塔
 庚申塔は、最も普遍的で数も多く、近世からの村落共同体建立の石塔を代表する石造物です。
 庚申待は、六十日に一回庚申の夜に、眠った人間の体から三尸が抜け出し天帝にその人の罪過を告げられないよう徹夜するという道教に由来した信仰で、室町時代ごろから庶民にも浸透して庚申講が行われるようになると、その供養の証しとして「庚申塔」(庚申供養塔)を建立する風習が、江戸時代に、各地に定着しました。
 近世庚申塔の関東における初出は、元和9年(1623)の足立区正覚院の弥陀三尊来迎塔と三郷市常楽寺の山王廿一社文字塔、千葉県最古は松戸市幸谷観音境内の寛永2年(1625)の山王廿一社文字塔です。
 下総地域への伝播は、江戸川に接する東葛地域からと推定され、印西市域では、寛文元年(1661)銘の、台座に三猿が刻まれた聖観音立像塔が竹袋観音堂に建てられるなど、1660年前後に像容は三猿や諸仏の彫像、文字のみの供養塔などいろいろな形態の庚申塔が普及していきます。
 青面金剛像を主尊に彫った庚申塔が現れるのは、寛文11年(1671)銘の小林の砂田庚申堂の四臂の青面金剛像塔からで、その後は六臂の凝った青面金剛像の庚申塔が建てられていきますが、江戸中期、青面金剛像塔が数的にも最盛期になる享保から宝暦年間にかけて、印西市域を中心に白井市や船橋市の東部、我孫子市・柏市・栄町では、画一的な特徴*の庚申塔が、期間と地域を限定して数多く建てられました。
 (*主尊の目がアーモンド形で、右手に鈴状または人の頭部らしき袋状のものを持ち、宝輪を持つ手が直角で水平に伸び、迫力がない邪鬼がうずくまる姿)

(2)北総と印西市域の「百庚申」
 江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、下総地方の庚申塔は、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となりますが、印西市域の庚申塔で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。
 百庚申は、一石に「百庚申」銘や「庚申」などの文字を多数刻んだ「一石百庚申」と、百基または多数の庚申塔を一か所に造立する「多石百庚申」があり、その目的は祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づくといわれます。
 多石百庚申は、筆者の調査では、千葉県内に41例(⇒表1)あり、この中で、多石百庚申の先駆けとなるのは、文政12年(1829)の印西市松虫の百庚申№21で、青面金剛像塔100基を一時に建立し、灯篭一対も奉賽しています。(現在は都市開発で、松虫寺近隣の路傍2か所に分けて移動されています)
 続いて柏市域など利根川流域で、天保年間から幕末にかけて、数多く建立されますが、像塔の割合は文字塔に比べて少なくなり、やや大きめの像塔10基と定形の文字塔90基がセットの百庚申が主流となります。印西市武西№23と浦部№24、はこのパターンで、文字9基おきに像塔1基を配置する建立当時の姿を今もよく伝えており、文久3年(1865年)の造立の「武西の百庚申塚」は、平成11年3月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。
 一石百庚申は、群馬県倉渕に一石に百体の青面金剛像を浮彫りした寛政6年銘(1792)「百体青面金剛塔」や、長野県野底に「奉請一百體庚申」の主銘の周りに、「庚申」の文字を百の異なった書体で表した安政七年銘(1860)の「百書体庚申塔」ほか、万延元年(1860)前後に群馬県・長野県・福島県などで「百書体庚申塔」が流行しています。
 北総では一石百庚申の数は11例(⇒表2)と少ないですが、多石型に先立って主に文化文政年間に建立され、№4の印西市松崎火皇子神社の「庚申百社参詣供養塔」銘は、百庚申信仰の由来を推定させる銘で庚申塔百社の参詣成就を意味し、北総の多石百庚申建立の理由がうかがえます。
 主銘のみのものなどがあります。

(3)笠神の百庚申
1. 印西市笠神の笠神社と蘇羽鷹神社の立地
 印西市の本埜支所の前の広い田圃の中に突き出した独立台地の裾を巡る集落が笠神で、台地上には笠神城跡がありました。中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に面するこの笠神の集落は、中世村落の最前線でした。逢善寺文書の記述に、14世紀末「有徳ノ在家ノ仁」とよばれる「印西ノ笠上又太良禅門等ノ類」が出てきますが、笠神の地で「香取の海」の重要な航路を支配していた有力者のことと思われます。
 笠神城跡の台地上西端の蘇羽鷹神社には戦国時代の遺構かと思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残り、東側には領主の館跡に建てられた「南陽院」があり、その下には「船戸」の集落、西麓には「根古屋」の集落と「笠神社」があります。

2. 笠神の笠神社(かさがみしゃ)の百庚申
 字笠神前には、かつて城主の守り神で城山後方の山頂にあり、元禄15年(1702)にこの台地の下に遷座したと伝えられる「笠神社」があります。
 下照姫命を祀り、「笠神様」とよばれる神社境内には、左右二列に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が立ち並び、その姿は壮観です。
 これらを調べてみると、慶應元年~3年(1865~7)の三年間に建立された青面金剛像塔17基、「庚申塔」銘の文字塔78基、計95基が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。
 ・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)
 ・慶應2年=36基(像塔7基:文字塔29基)
 ・慶應3年=30基(像塔7基:文字塔23基)
 ・年不明=18基(像塔1基:文字塔17基)
 2014年2月の時点ではまだ新しいコンクリートの基礎上に据えられてあったことから、2011年3月の東日本大地震後に建て直されたとみられ、95基の元の並び方の順は不明ですが、慶應元年塔は左側の列の手前に、慶應二年塔は同列の奥に、慶應三年塔は右側に配置されていたと推定されます。
 石塔脇の寄進者と思われる銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。
 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっていて、この像容は、同時期に近くの栄町上町に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。
 また足元の邪鬼は、石工の個性がよく出ていて、その正面を向く姿はとてもユーモラスです。
 また損傷した石塔数基分が右側の列の後ろに寄せ集められてあり、数えると像塔1基と文字塔4基の計5基分あり、これを復元すれば元は像塔18基、文字塔82基の計100基となります。
 現在の像塔と文字塔の割合は、ほぼ1対4の比率なので、像塔1基に文字塔4基のサイクルで連続して並べられていたと思われます。
 百庚申以外には、5基の庚申塔が百庚申の列に並んでいて、最古は享保7年(1722)銘の二童子と三猿がつく高さ98㎝の青面金剛像塔で、天保9年(1838)銘、万延元年(1860)銘、慶應3年銘(1867)、年不明がつづきます。
 このうち高さ145㎝の文字塔の建立日「慶應三卯年十一月吉日」銘は、百庚申造立の3年目の慶応3年の建立月日と同じで、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に建立されたと推定されます。

3. 笠神の蘓波鷹(そばたか)神社の百庚申
 笠神城の物見台跡と推定される尾根上に鎮座する蘇羽鷹神社境内には、享保18(1733)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申塔と、近代になって建立された百庚申が、狭い境内両脇に整然と並んでいます。
 百庚申は、高さ41~51㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54基と、青面金剛像塔6基の計60基で、右面には一部に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が刻まれています。(以下、造立された年銘別に分けてみました)
 ・社殿に向って右側、鳥居の右横の塚上に明治16年(1883)銘の文字塔5基と像塔1基の計6基
 ・参道左側の燈籠の手前に、明治33年(1900)銘の文字塔17と像塔2基の計19基
 ・社殿前の広場の右側に、昭和10年(1935)銘の像塔3基と、無年銘で文字塔30基の計33基
 像塔と文字塔の配列は、明治16年の8基は中央に像塔を、明治33年の19基は両端に像塔を置き、昭和10年の30基は両端と中央付近に像塔を置いていて、無年銘の30基は昭和10年建立と推定されます。現在、明治33年の19基は仰向けに倒れたまま、落ち葉や苔に覆われていますが、全体に建立後の補修はないとみられます。
 青面金剛像の像容は、笠神社の幕末期の百庚申の主尊の表情にみられる怒髪天を衝くような勢いはなく、衣文の表現も簡略化され、邪鬼もかろうじて存在しているばかりですが、明治以降の像容のある石仏は、一般的に子安像か地蔵像ぐらいであり、近代の青面金剛像の像容例として極めて貴重です。
 この百庚申の建立には三次にわたって52年間かかっており、近代に入って、笠神地区の三世代の人々により造塔が継続された事例は、他に類を見ないものです。
 また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また狭い境内に合わせた数であったと推測されます。

Ⅱ 笠神の「三義侠者碑」
 笠神の島状の台地の南東に面する中腹に、天台宗の南陽院があり、その本堂の前に、基壇を築きその上に、台石に載せた高さ1.5mの自然石の石碑「三義侠者碑」が建立されています。
 明暦2年(1656)に刑死した笠神の三義人を顕彰するために、南陽院住職と三義人の子孫、250名以上の賛同者によって、明治24年に建てられた石碑です。
 この三義侠者碑は、印旛沼周辺の低地部の開発が盛んになった正保・明暦期、小林村との入会地「埜原」の帰属をめぐる闘争を物語る石碑です。
 中世では当然だった村同士の実力闘争も、江戸前期では幕府による懲罰が不可避でした。そしてその犠牲となった村の「義人」に対して、当時は供養を続けるのみで、建碑はできませんでしたが、明治になって、このような立派な顕彰碑が建てられました。
 その背景として、佐倉 惣五郎事件が膾炙したような近代の自由民権思想の高揚が見て取れます。
 なお、篆額の武藤宗彬は蚕業振興に尽力した千葉郡長、撰文并書の須藤元誓は俳人半香舎五世梅里です。

(1)「三義侠者碑」の銘文
 この碑の銘文は、『千葉県印旛郡誌』(大正2年)と、そこからの引用である『印西地方よもやま話』(五十嵐行男著)にも載っていますが、一昨年に改めて印西市教育委員会の石造物調査で、銘文を読み取りました。(その結果、『印旛郡誌』と『よもやま話』と十数カ所の相違がありました。)
 三義侠者碑の銘文は、表3で示しましたが、本文のみを現代文に意訳してみました。
 (漢文の素養のない筆者の拙い訳文ですので、間違いをご指摘いただければ幸いです。)

本文の意訳
 「人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人に勝つ。古より死する者は一に非ず」というが、身は極刑に死んでも、百世まで人の心を感動させるとはこのことであろう。
 正保明暦(1644~1657)のころ、印旛郡笠神村に三人の「義侠者」がいた。
 笠神の地は、丘をめぐる平坦で豊かな土壌で、その東北一帯には利根川と印旛湖がせまり、塩分が多く、アシとオギが茂る広漠とした地で、俗に埜原と呼ばれていた。
 当時は地祖を納めることもなく、草木を刈り、鳥獣や魚を捕っていたこの地は笠神村に接し、多くの民がその利益に頼っていたために、また小林村との争いの地でもあり、両村ともにその利権は決まらず、幕府の領地となっていた。
 正保2年(1645)4月のこと、幕府の役人が検分に来て地図をあらため、それ以後は両村の所有となるに至ったが、このことは笠神村にとってはその利益を専有できないことであり、村民はたいへん嘆き悲しんだ。
 明暦2年のある月、笠神村はその地域を定めようとのぞんだが、小林村は応じず、その年の9月に再び幕府に訴えたが、見直しはなく地図によって裁かれ、笠神村にとってその境は不利な結果に終わってしまった。
 この時、三人の義侠の者があった。鈴木庄吉、岩井與五兵衛、岩井源右衛門の三人で、皆、優れた人物で、意気盛んで物怖じしない不屈の気性が強かった。
 三人は、弁論をもって小林の民を正そうと村境まで臨んだところ、相手の衆は竹槍を突きつけてきたが、三人が落ち着いて反論した。相手の衆は取り囲んで捕まえようとし、三人は身を挺して奮然と闘って蹴散らせたが、数人を傷つけ若干名を死なせてしまった。
 三人はその事情を聞いて、自首して罪を待った。
 こうして埜原の地は、幕府の決定前の昔からの習慣に戻されて笠神村に属したが、三人はともに磔の極刑をもって殺された。
 その所は字押付で、時は明暦2年12月2日のことであった。村人は三人の亡骸を納めて葬り、後に許されてその地に小さな墓を建て、後世への記標とした。
 それから埜原の地は、堤を築いて田を開墾し、稔り豊かな地域となった。今の埜原村である。
 こうしてこの地は笠神の本郷のものとなり、水陸の田は103町8段あまりとなった。
 それ以来、村人は毎年10月に、十日にわたる法会を行い続け、それゆえに明暦から明治まで236年を経ても、水害や旱魃、蝗害、飢饉になることもない。
 今ここに村人が話し合って財を醵出し、碑を慈眼山の上に建てることを決め、桑畑が滄海に変ずるような大変化に備えることとした。
 ああ、これも貧しい民が極刑で死んだことで、却って一つの村の富の源を作ったのであり、 「身を殺して仁をなす」というべきなことである。
子孫は連綿と末永くその血を受け継ぎ、この地に食してきた。
 今や明治の隆盛の世にあって、玉を磨くように、三人の遺した気風を朽ちることなく伝えていこう。
 これはまさに「人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人に勝つ」ということである。
   (以下、漢詩の銘文は省略)

(2)房総の義民・義人の供養塔・顕彰碑
 房総石造文化財研究会の三明弘氏の調査では、房総の義民関係の石造物は推定を入れて23件あり、そのうち「義民」(=村の代表として領主や幕府に直訴して犠牲になった人)関係が10件、「義人」(=多くの人のために正義に殉じた人)関係は13件とのことです。
 千葉県では、佐倉惣五郎のほか、安房の万石騒動の三義民、館山市の大神宮義民七人様供養碑の3事件が有名ですが、刑死直後の供養塔などは施政者から許されず、五十年近くたってから建てられることもあり、明治中期以降の建碑も7件に及びます。
 23件の中には、重税の減免直訴の義民や、飢饉に際し領主に無断で郷蔵を開けた名主、入会の草刈り場(まぐさ場)や用水をめぐる巡る争論での犠牲者のほか、漁場の境界や入会権、漁業権をめぐって隣村に実力行使して咎を受けた大事件も東京湾岸で3件あります。
 船橋市不動院の石造釈迦如来坐像に白米の飯を盛り上げるようにつける「飯盛大仏追善供養」は、船橋市の指定文化財にもなっていますが、その由来は、文政7年(1824)の漁場の境をめぐる争いで相手方の侍を殴打して入牢した漁師総代の牢内の飢えを償うためといわれています。

 (3)義民を生み出す闘争と顕彰碑建碑の背景
 保坂智氏の「近世初期の義民」(『国士舘大学人文学会紀要』 第35号 2002年)によれば、義民を生み出す闘争は、一揆、共同体間闘争、村方騒動、その他の四類型に分けられ、共同体間闘争は、17世紀に集中するとのことです。
 さらに、その要因として第一に中世村落の権利であった自検断権・自力救済を近世権力が否定したにもかかわらず、複雑な在地の権利関係を生まれたばかりの公権力が完全に掌握しきれていなかったこと、第二に中世末から近世初頭に展開した開発が、入会地の草木の用益権や水をめぐる対立を激しくしていったことがあげられます。
 そして、その開発による新たな村の確立に重要な権利獲得の実力闘争が、近世の公権力による処罰により犠牲者を生まざるを得なかったことがこの時代の義民物語であり、まさに、笠神村の三義人はこの典型でした。

 また五十嵐行男氏は『印西地方よもやま話』で、江戸時代に幕府の裁定の反逆者の「義民」を密かに追悼することはあっても顕彰する事は叶わず、明治22年大日本帝国憲法の発布後、板垣退助らによる自由民権思想の高揚した明治24年という時代に、笠神の義人顕彰碑が建立されたことを指摘しておられます。
 笠神に近い佐倉で、木内惣五郎が直訴し刑死したのは、笠神三義人事件の3年前の承応2年(1653年)といわれています。
 地元に残る伝承を参考にしながら18世紀後半に創作された惣五郎物語は、幕末から全国に広まり、福澤諭吉により「古来唯一の忠臣義士」と称えられ、特に自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられました。
 義民の顕彰が、全国各地で盛んになったのもこの頃であったことを考えると、この三義人顕彰碑は、江戸時代初期と明治中期の二つの時代の歴史を語る文化財であるといえるでしょう。

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