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2017年3月15日 (水)

S-23 ムラのおかみさんたちは強かった!同日建立のムラの講供養塔

 八千代市の萱田・吉橋・麦丸地区の石造物を調べていて、台座などに刻まれた人名の銘文から、ムラの男性と女性の二つの講により同時に建てられた供養石塔が、寛文八年から元文五年にかけて、四対あることに気付きました。

 吉橋の尾崎大師堂境内の寛文八(1668)年十月十日銘の二十三夜塔は、『房総の石仏百選』に載っている優美な勢至菩薩像塔ですが、同境内には同年同日銘の地蔵菩薩立像を刻んだ日記念仏塔があります。

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 二十三夜塔の願文「右勢至菩薩者廿三夜待開眼成就所 吉橋村施主敬白」に対し、日記念仏塔は「右地蔵菩薩者日記念仏供養成就処 吉橋村施主敬白」と類似していますが、蓮台には、前者が全て男性十八人、後者が「なつ」など女性十六人の名が刻まれていました。

 同じ吉橋の寺台公会堂(勢至堂跡)でも、元禄五年(1692)二月二十三日の二十三夜塔と、同日銘の念仏塔があり、願文と経文はほぼ同じ形式で、前者には勢至菩薩像と男性二十二人の名、後者には聖観音像と女性三十人の名があります。

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 このように男女別に対となる供養塔には、同日ではありませんが、ほぼ同じ時期に建てられた事例では、萱田長福寺の正徳三年(1713)の大日如来像の念仏塔と如意輪観音像の十九夜塔が、麦丸地区では元文五年の庚申塔と十九夜塔があります。

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 吉橋や麦丸の石塔は、像容の作風や願文の形式、文字もよく似ていることから、同一の石工に二基一対として発注されたと考えられます。

 これらの造塔は、そのムラの初めての講としての建立であり、費用もかかる大きな事業だったと思われますが、江戸後期や近代の石塔に女性名がまれであることに比べ、女性の名前がしっかりと記されてあり、江戸前期のムラの女人講に集うおかみさんたちの地位がダンナ衆と同格であったことも注目されます。

 また萱田には、三面にそれぞれ猿を浮彫りし、右面に「およし おきく」など女性三十三名、左面に男性十五名の名が刻まれた延宝元年(1673)銘の笠付角柱型庚申塔があり、さらに萱田の長福寺には、同一の塔に面を違えて男・女別に名を刻んだ寛文九年(1669)銘の三層塔があります。

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 『続房総の石仏百選』にも載っているこの三層塔には、第二層正面に勢至菩薩を浮彫りし、右面に「廿三夜講」、左面に「日記念仏供養」、その下の第一層の龕室左面には「本願花嶋七□兵衛一結施主」「定宥…長十郎」など三十三人の男性名が、右面には「一結施主 女中衆」として「おつる」など二十四人の女性名、裏面には建立発起人とみられる「宥秀」ほか三人の名があり、現状では二十三夜講が女性の講、日記念仏講が男性の講ということになります。

 私は、第一層の龕室の扉枠のある現正面側が裏側で、修理時に表裏逆に据えられたのではないかと思います。この頃の萱田も吉橋と同じように、やはり男性の講が二十三夜講、女性の講が日記念仏講であったと考えますが、いかがでしょうか。

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