S-21 須藤梅理を追って - 句碑に見る印旛~利根の俳諧ネットワーク
吉高の宗像神社の芭蕉句碑
旧本埜村笠神の南陽院に建つ「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(俳号は梅理)を追って、鳥見神社の芭蕉句碑に続き、旧印旛村吉高の芭蕉句碑を調べに行きました。
吉高は、須藤元誓が生まれ育ち活動し、そして生涯を終えたムラです。
春になると、須藤文左衛門(屋号)家の大桜が咲き、最近は、「吉高の大桜」として、印西市の観光名所にもなっています。
その旧吉高村の鎮守である宗像神社の境内に入り、社殿に向って右側に、自然石の芭蕉の句碑があります。
表面に「このあたり 目に見ゆるもの みな涼し / はせを」と流麗な仮名文字で芭蕉の句が、裏面には、松月舎光東の「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句が刻まれています。
裏面の句の選者は、春秋庵幹雄と半香舎梅理の2名で、「明治三十五年四月一日」の日付です。
半香舎梅理は須藤元誓。春秋庵幹雄とは、梅理とその父である半香舎梅麿の俳諧の師匠の十一世春秋庵三森幹雄その人です。
そしてその下には、「俳友賛成員」として19名、「幹事」が17名、「後見」2名(俳友賛成員・幹事と重複)、「企」1名(句の作者と重複)の名前(地名・苗字・俳号)が記されていました。
「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句の作者の松月舎光東は、「企」の須藤光東のことでしょう。
その名の横に「通称太左衛門」とあり、須藤元誓(梅理)が継いだ家でした。
(画像をクリックして大画面でご覧ください)
梅理と並ぶ選者の一人の春秋庵幹雄とは、江戸末期から明治初期の俳人三森幹雄(1829~ 1910年)で、福島県出身。本名は寛、通称は菊治、号は初め静波で、藍染商人の手代として働きながら、地方の師匠のもとで俳句を学び、20代半ばで江戸に出て志倉西馬に俳諧を学ぶ。明倫講社を組織し、1880年、雑誌「俳諧明倫雑誌」を創刊し俳壇に一勢力をなしたが、神道の大成教に属して俳諧による教化運動を進め、正岡子規によって旧派句会を代表する俳人攻撃された一人であるとのこと。(Wikipediaより)
なお、『梅理家集』には、三森幹雄が「嘉永の暮、奥州より江都へ上るの途次、総の吉高に僑寄し」たことと、さらに二代に亘って交誼を重ねた縁で、幹雄の継嗣の春秋庵準一が、その「叙」を著したと書かれていました。
徳満寺地蔵堂の奉納句額と下井・吉高の句碑の俳人名
この吉高の句碑に記された38名の俳号には、下井鳥見神社の芭蕉句碑の70名と重なる俳号も多く、さらに、利根町布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額にその名と句が掲載されている俳人が10名います。
徳満寺地蔵堂の奉納句額については、HP「タヌポンの利根ぽんぽ行」
徳満寺地蔵堂の奉納句額に記されているのは、地域と俳号と句のみで名字が不明でしたが、下井と吉高の句碑には名字と俳号が記されているので、共通する10名に関しては、名字もわかりました。
また、下井の句碑には半香舎四世東水の、吉高の句碑には五世こと須藤梅理の門下の俳人の名が列記されていて、南は山田(印西市)、北は北辺田(栄町)におよぶ水郷地帯がその活動エリアであったと思われます。また利根町などでの句会にも参加し、交流していたことでしょう。
ちなみに、徳満寺地蔵堂の奉納句額の須藤梅理の句は「似た形(なり)の 山も揃ふて 夕かすみ」でした。
また下井の句碑に記されている「師戸 渡辺義芳」は、20年前に調査した吉橋八幡神社の句額(『史談八千代』19号P15 No.126)の「師ト 義芳」と思われます。さらに丁寧に調べれば、印旛~利根周辺の俳諧ネットワークが見えてくることでしょう。
須藤梅理の太左衛門家
さて、毎春、楽しみにしている吉高の大桜見物ですが、今年(2016年)は4月8~11日が満開で、私は混雑する週末を外して11日に行きました。
地元の方にお尋ねすると、須藤太左衛門家は大桜に一番近い大日堂横で、花見シーズンにタケノコご飯が名物の「峠の茶屋」を開いているお宅でした。
接客中で忙しくされているご主人は、須藤梅理のお孫さんとか。
また吉高にもう一基あるT家屋敷内の句碑も、梅理が係った芭蕉の句碑で、俳人の句や名前も多数刻んであるので、ぜひお訪ねしたいと仲介をお願いしようと思ったのですが、T家は現在留守宅となっているそうで、アポを取るのは難しそうと感じられました。
機会を見て、なんとかT家の句碑も記録したいと考えていますが・・・
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