S-20 「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(梅理)と明治俳諧の世界
印旛沼の旧本埜村干拓地を南北に貫く県道12号線。江戸時代からの堤防道で、うねうねと曲がるカーブの左右の下には、洪水の度に堤が切れた「押堀(おっぽり)」といわれる池が点々と連なり、水害との闘いであったこの地の歴史を語っている道です。
その12号線沿いの押堀のひとつ、甚平池の北側に小さな祠を祀る下井鳥見神社があり、その前には自然石の芭蕉の優雅な句碑があります。
この鳥見神社の下には、郷土の先覚者の吉植庄一郎とその子息で歌人の庄亮の墓地や、印西大師の札所、また寛政12年銘の聖観音像十九夜塔や昭和9年銘の子安塔があり、私もしばしば訪ねるところでした。
神社の前の句碑には「原中や ものにもつかす 鳴雲雀 はせを(芭蕉)」と流麗な字で、台石には「俳諧稲穂連」と刻まれています。
印旛沼周辺には、瀬戸の徳性院などいくつかの芭蕉句碑がありますが、この碑は特に優れた碑でしょう。というのは、句碑の形や銘の書体の良さもさることながら、最近の印西市教育委員会の石造物調査で明らかになった裏面と台座に刻まれた銘文とその内容です。
碑の裏面には「四世半香舎東水」の句と、明治29年銘で「江南亭梅理」による東水への賛と経歴、また台石には地域の俳人たちの名が刻まれています。
鳥見神社の芭蕉句碑を建立した「江南亭梅理」さんとは
「江南亭梅理」とは、半香舎五世の「須藤元誓」さん。
そう! 笠神の南陽院にある「三義侠者碑」の碑文の撰文と書を書かれた方でした。
『印旛村史
近代編史料集Ⅱ』の「文化」の部に、昭和4年の「梅理家集」の抄録が掲載されてあり、その解説によれば、須藤元誓は弘化2年(1845)に、代々医家であった吉高村の前田元珉の三男として生まれ、名は理三郎。早くから和漢の書を修め、医術を究めたとのこと。
分家して須藤家を継ぐが、詩歌や俳諧は半香舎一世で梅丸の俳号を持つ父の元珉や、前田家を継いだ義兄の宗達こと二世梅麿の業績を受け継ぎ、俳諧結社である半香舎の五世となったとのことです。
「梅理家集」には、梅理の俳諧の師匠の三森幹雄の子の春秋庵準一が「叙」を、梅理の甥二人が「閲歴」を書いていますが、閲歴の中のエピソードに、16歳の時、父の死に心痛めて、それまで一生懸命に書写した漢籍や医術書を捨ててしまったほどだったとか。
また、文久2年夏に麻疹が大流行した際は、兄の助手として昼夜奔走し、数百人の患者を救ったそうです。
千葉大学の前身の千葉病院医学教場で医学を修め、内外科医術免許を得て、医師として活躍する傍ら、寸暇を惜しんで、文学・詩歌を儒家などに、俳諧は父について学び、父没後は三森幹雄を師として三十年以上、地域で活動し、その門人は八十余人。そして昭和4年(1929)、81歳で生涯を終えられました。
梅理の句
『憑蔭集』(船橋大穴の齋藤その女傘寿の記念の句集)から十三才の時の句
馳走とは聞くもききよし一夜鮨
みつうみや風は寒くも春心
春の山見馴れし影を見出しけり
長みしか隙な枝なき柳かな
黄鳥の臆気をかしき余寒かな
草や木にさはらて吹きぬ春の風
『梅理家集』から
今朝はかり人に待たれて初鴉
人の世や日傘も絹の二重張り
些と風のあれと思ふや月の雲
松の風竹の凪聞く炬燵かな
「三義侠者碑」の「撰文幷書」の人物、格調高く難解な文と異体字だらけの篆書体に近寄りがたい印象を持っていましたが、その俳句を拝見し、親しみを持ってその足跡を追ってみたくなりました。まさに印旛沼畔に文化の華を咲かせた方だったのですね。
下井の鳥見神社句碑の銘文データを次に掲載します。
(画像をクリックして大画面でご覧ください)
なお、下井の鳥見神社句碑に加えて、梅里が建てた吉高宗像神社の芭蕉句碑についてと、両碑の人名銘に見る印旛沼周辺の俳諧ネットワークについては
、次回にアップします。
また、『八千代の文人たち―歌碑・句碑を訪ねて』の著者村上昭彦氏には、『憑蔭集』『明治俳人名鑑』の情報など、近代の俳諧について詳しくご教授いただきました。あつく御礼申し上げます。
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