K-33 笠神の熊野神社の年不明の子安塔の推定年代と類型を探る
笠神熊野神社の女人講石塔群
印西市(旧本埜村)笠神の向辺田にある小さな神社、熊野神社境内には、「粟島大明神」の祠と、延宝5年(1677)から文政9年(1826)までの7基の十九夜塔、さらに嘉永元年(1848)以降の3基の子安像塔が祀られてあり、江戸時代から近代までの女人信仰の姿を見ることができます。(写真1)
3月13日の房総石造文化財研究会主催 見学会「旧本埜村の石仏を探る」でも、ぜひこの女人講石塔群をご案内したく、見学用資料を作りながら、3基の子安塔のうち「明治」以下の年銘を欠く1基(写真2)の年代が気になり、調べてみることにしました。
年銘欠の子安像塔の類型を探す
年銘欠の子安像塔は白衣観音風の被布、足を見せ着物を着て乳をつかむ子、2本の蓮華、切れ長の目など、かなり特徴的な像容で、八千代市近辺ではあまり見られない姿です。
右側面に建立年月日が刻んであったでしょうが、「明治」以下の文字が磨滅していて、残念ながら失われて、年不明の子安塔データ集に入れてしまっていましたが、私が撮った子安塔写真データの中から類型を探してみることにしました。
そこで旧本埜村を中心に近代の子安塔の写真データを丹念に調べてみると、よく似た像容の子安塔が次の3基(写真3)見つかりました。
・明治20年(1887)造谷真珠院(旧印旛村)
・明治22年(1889)竜角寺(栄町)
・明治23年(1890)下曽根市杵島神社(旧本埜村)
(写真3 クリックして拡大)
地理的にも、笠神熊野神社はこの子安塔のある範囲の中に位置します。
4基とも同一の石工の作と思われ、笠神の年銘欠の子安塔が明治20~23年の間か、その前後であることは確かと思われます。
造谷真珠院の塔が上部だけなので、判断が難しい所ですが、子安像の面立ちと蓮華の丁寧な彫りは、笠神の塔に類似していますので、私としては、明治20年前後まで絞ってよいのではないかと推定しますが、いかがでしょうか。
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