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2016年2月24日 (水)

S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」

 
印西市笠神の笠神社
蘇羽鷹神社


 151228_1551今は広い田圃の中、中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に突き出した小島のような独立台地、その裾を巡る集落が印西市笠神で、台地上には笠神城跡があります。

 この台地の東側中腹には中世領主の館跡の名残を残す南陽院の境内があり、また台地上西端の蘇羽鷹(そばたか)神社には戦国時代の遺構と思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残っています。

 古城址の東麓には「船戸」の集落、そして西麓には「根古屋」の集落の中に笠神社(かさがみしゃ)があります。 

                             (右写真は笠神社の百庚申)

 

 「百庚申」とは=下総の百庚申

 下総地方の庚申塔は、江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となって数多く建てられるようになりますが、下総と印西市域の庚申塔群で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。

 百庚申は、駒型の定型の文字塔9基毎に、青面金剛像塔を1基ずつ1単位として10組並べて路傍などに配置されることが一般的で、道路拡幅などで神社境内などに移設されていることも多々あります。

 庚申塔100基建立の目的は、祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づきますが、中には、100基連立せず1基のみに「百庚申」と刻んで代用した「一石百庚申」もみられます。

 なお後者の「一石百庚申」には、その銘文から「百体参詣記念」を意味するものもありました。

 下総では「百庚申」(一石百庚申を除く)は24か所、印西市では、笠神の笠神社と蘇羽鷹神社のほか、武西・浦部・小林・松虫台の百庚申があります。

 特に文久3年(1863年)造立の「武西の百庚申」は、「中尊」として大きな庚申供養塔を中央に、その左右に5単位の庚申塔列が規則正しく配列されてあり、当時の形態を良く残していることから、平成113月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。

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              武西の百庚申 2012.11.27撮影

 

笠神の笠神社の百庚申

 笠神の根古屋には、「笠神様」とよばれる「笠神社」があり、その境内に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が、左右二列に立ち並ぶ姿は、壮観です。
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 これらを調べてみると、慶應元年~3年(18657)の三年間に建立された青面金剛像塔18、「庚申塔」銘の文字塔7795が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。


・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)

・慶應2年= 34基(像塔7基:文字塔27基)

・慶應3年= 33基(像塔8基:文字塔25基)

・年不明=  17基(像塔1基:文字塔16基)

 

 20123.11東日本大地震の後に、倒れていたこの百庚申は建てなおされ、現在はコンクリートの基礎上に据えられており、元の並び方の順は不明です。

 損傷した石塔が片隅に寄せ集められてあり、これを復元すればおそらく元は100基あったと思われますが、現在は、百庚申以外の庚申供養塔5基を入れて、ちょうど100基となります。

 青面金剛像塔と文字塔の割合は、1877とほぼ14の比率なので、像塔1基に文字塔4基の5基1単位で連続して並べられていたと思われます。

 石塔脇の寄進者銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。

 

 百庚申以外の5基のうち、145㎝の高さの文字塔で建立日が「慶應三卯年十一月吉日」銘の庚申供養塔は、百庚申の三年目の慶応3年の建立月日と同じであることと、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に、百庚申の「中尊」として建立されたのではないかと考えています。

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 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっています。
 この像容は、同時期に近くの栄町安食に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。

 また足元の邪鬼が正面を向き姿はとてもユーモラスで、石工の個性が出ています。

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 笠神の蘓波鷹神社の百庚申


151228_263_2 笠神城の物見台の跡が残る蘓波鷹神社境内には、享保181734)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申供養塔と、近代になって建立された百庚申が台地上の狭い境内両脇に整然と並んでいます。

 百庚申は高さ4151㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54と、青面金剛像塔660で、右面に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が記されています。

・明治16年(1883)銘
  = 6基 (
像塔1基:文字塔5基)

・明治33年(1900)銘
  =19基(像塔2基:文字塔17基)

・昭和10年(1935)銘=3基 (像塔のみ3基)
・年銘のない文字塔=24基 これらは配列から昭和10年と推定されます。

 
 建立には3次にわたって52年間かかっており、また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また境内の大きさに合わせた数であったのでないかと推測されます。

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 一般に近代に入ってからの庚申塔建立は少なくなり、特に青面金剛像を刻んだ像塔は珍しくなりますので、蘇羽鷹神社の6基の像塔はとても貴重です。

 蘇羽鷹神社の百庚申は、これまで未報告な事例でしたので、まだその考察の域には達していませんが、近代に入っても続く庚申信仰の姿と笠神地区の結束力を示しているように感じられました。

 

(附)下総の「百庚申」

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        鎌ヶ谷市大仏・八幡神社の百庚申 2009.9.10撮影

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           印西市小林・砂田の百庚申  2010.12.1撮影

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         印西市松虫の百庚申(文政12年)路傍から2か所に移動されている。 2012.1.1撮影

           *参考資料:榎本正三「武西の百庚申」1999『房総の石仏』第12号

 

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