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2016年2月21日 (日)

S-18 印西市笠神の三義人顕彰碑と向かい合って

   笠神の三義人顕彰碑を読む

 現在調査中の印西市旧本埜村の石造物の中に、笠神の三義人顕彰碑があります。
 石造物調査表をデジタルデータ化する作業をお手伝いさせていただいているのですが、美辞麗句と異体字や篆書の銘が多い明治期の漢文石碑は、実は最も苦手の石造物なのです。 (「○エ門」や「○兵エ」崩し字銘の続く江戸期の石塔の方がまだ楽かも・・)

 義人碑ということでその内容に興味があり、また碑面の状態も良さそうなので、自分の力で文字起ししてみようと、とりあえず天候と日差しの按配を考慮しつつ、写真撮影を試み、三回目にしてやっと解読できる画像を得ることができました。

Photo_2


 まずは、最初の碑額(篆額)部分は「三義侠者碑」と読めたものの、本文の「人衆者勝天」の次の「共」のような単純な文字がわからない。『異体字解読字典』や『五體字類』やネット検索を駆使、これも「天」の異体字で、きっと「人衆者勝天天定亦勝人」(人のむれは天に勝つが、天定まればまた人に勝つ)と読むのでしょう。
 房総石造文化財研究会の早川正司氏にもご指導いただき、とりあえず全文入力が終わり、その後、この碑文が掲載されている『千葉県印旛郡誌』(大正2年)と、そこからの引用である『印西地方よもやま話』(五十嵐行男著)を入手し照合すると、これらには碑文と十数カ所の相違があることがわかりました。

 旧字体は、手書きIMEで文字を探し、字典で確かめながら入力していきましたが、最近は、環境依存文字とはいえ、旧字体や異体字もいろいろとそろっていることに驚きました。一字一字、碑文と格闘しながら入力したのが、次の翻刻文です。
 (文字化けしないよう画像で貼り付けました。画像をクリックし、拡大してご覧ください。)

Photo_3


  笠神の三義人顕彰碑が語る時代
10101_5
 碑文の大意は次の通りです。

 隣村小林村との入会地だった利根川印旛沼畔の葦原「埜原」の帰属をめぐり、明暦2年(1656)、笠神村の鈴木庄吉・岩井五兵衛・岩井源右衛門の3名が小林村に正しに行ったところ、竹槍のようなものを持った小林村民に囲まれ、格闘となり数名の死傷者を出してしまった。
 3人は自首し、同年12月2日に磔刑となったが、三人の主張通り、埜原は笠神村のものとなり、後に築堤と開発で豊かな田圃となった。
 笠神村民は小さな墓を建て、毎年十夜の法要を236年間行い、おかげで村は豊かに栄えてきた。

 この入力作業中、房総石造文化財研究会の勉強会で、三明弘会員の「房総の義民(義人)と石造物」の発表をお聴きする機会がありました。
 千葉県では、佐倉惣五郎墓所(宗吾霊堂)のほか、安房の万石騒動の三義民の墓石、館山市の大神宮義民七人様供養碑の3事件の石造物が有名ですが、三明氏の調査では、房総の義民関係の石造物は推定を入れて23件あり、そのうち「義民」(=村の代表として領主や幕府に直訴して犠牲になった人)関係が10件、「義人」(=多くの人のために正義に殉じた人)関係は13件とのことです。
 刑死直後の供養塔などは施政者から許されず、五十年近くたってから建てられることもあり、明治中期以降の建碑も7件に及びます。
 また、御上への直訴の犠牲者のほか、入会の草刈り場や漁場を巡る隣村との出入りで咎を受けた義人碑も、意外に多いことが、わかりました。

 保坂智氏の近世初期の義民『国士舘大学人文学会紀要』 第35号 2002年によれば、義民を生み出す闘争は、一揆、共同体間闘争、村方騒動、その他の四類型に分けられ、共同体間闘争は、17世紀に集中するとのことです。
 さらに、その要因として第一に中世村落の権利であった自検断権・自力救済を近世権力が否定したにもかかわらず、複雑な在地の権利関係を生まれたばかりの公権力が完全に掌握しきれていなかったこと、第二に中世末から近世初頭に展開した開発が、入会地の草木の用益権や水をめぐる対立を激しくしていったことがあげられ、そして、その開発による新たな村の確立に重要な権利獲得の実力闘争が、近世の公権力による処罰により犠牲者を生まざるを得なかったことがこの時代の義民物語であり、まさに、笠神村の三義人はこの典型でした。

 五十嵐行男氏は『印西地方よもやま話』で、江戸時代に幕府の裁定の反逆者の「義民」を密かに追悼することはあっても顕彰する事は叶わず、明治22年大日本帝国憲法の発布後、板垣退助らによる自由民権思想の高揚した明治24年という時代に、笠神の義人顕彰碑が建立されたことを指摘しておられます。
 笠神に近い佐倉で、木内惣五郎が直訴し刑死したのは、笠神三義人事件の3年前の承応2年(1653年)といわれています。
 地元に残る伝承を参考にしながら18世紀後半に創作された惣五郎物語は、幕末から全国に広まり、福澤諭吉により「古来唯一の忠臣義士」と称えられ、特に自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられました。
 義民の顕彰が、全国各地で盛んになったのもこの頃であったことを考えると、この笠神の三義人顕彰碑は、江戸時代初期と明治中期の二つの時代の歴史を語る歴史的な文化財であると思いました。

 笠神の三義人顕彰碑 銘文データ
(環境依存文字を使用していますので、文字化けの際はお許しください。画像データを参照)

[正面中央上部(碑額)]
三義侠者碑

[正面中央部(本文)]
人衆者勝天天定亦勝人自古死者非一而身死於極刑曠百世而感動人心者
蓋有故也正保明暦之間印旛郡笠神村有三義侠者笠神之地繞丘平坦沃壌
其東北一帯瀕利根川及印旛湖斥鹵廣漠蘆荻爲叢時俗穪之埜原當時未賦
地祖以故蒭蕘者徃焉佃漁者徃焉而笠神村與之接地過半民多頼其利矣會
與小林村争地利不决兩村共爲幕府采邑正保二年四月幕吏臨撿更製圖爲
後以其地爲兩村所有至是笠神村不得専用其利村民啣之數相鬩明暦二年
某月笠神村欲定其地域小林村不肯再訴諸幕府年之九月幕府復據嚮地圖
而裁之笠神村竟爲曲當此時有三義侠者曰鈴木庄吉曰岩井與五兵衛曰岩
井源右衛門皆豪邁不覊意氣相投確執不屈親莅疆上欲辯論以釐正之小林
之民以竹槍擬之三人抗辯自若彼衆圍而搏之三人奮然挺身格闘傷數人至
死者若干餘衆潰散於是也三人具状以聞自縛而竢罪幕議改前裁制復其舊
慣埜原之地隷属笠神村而處三人以極刑共磔殺於其所貫字押付實明暦二
年丙申十二月二日也村人収而葬之後遇赦建一小墓碣于其地爲記標後世
埜原之地築堤墾田繫殖成數區現今埜原村是也而笠神爲之本郷其水陸之
田一百三町八段餘屬焉爾来村人爲之設祭毎歳十月有十夜法會自明暦至
明治經二百三十六年雖水旱蝗饑未甞不擧行也今茲村人胥議醵財樹碑于
慈眼山頭以備桒滄之變嗚呼匹夫死於極刑却作一村冨源豈殺身以爲仁者
非邪宜哉子孫連綿永血食於其土也今也遇明治之隆治而重磨貞珉以埀不
杇蓋三子者遺風之猶存者而然耶抑亦人衆而勝天天定亦勝人者也歟銘曰
 刀水混混 旛湖邐迆 原流不罄 斥鹵薿薿 斯田斯圃 勗把耒耜
 放利惹怨 奈虞芮藟 任侠戮力 折姦挫宄 各甘極刑 慿義一死
 三柱亭亭 視野爲擬 物換星移 或閭或里 雞鳴狗吠 四隣煙起
 維此義侠 爲民福祉 子孫有榮 英魄所倚
                        従七位 武藤宗彬 篆 額
明治二十四年十二月二日             須藤元誓撰文并書
                              柁谷文刻字

[裏面銘文]
            明暦二丙申天
      一無善汲禅定門
 梵字(ア)本如善心禅定門 靈位
      道真禅定門
      十二月二日

      一 重右衛門分地庄吉
      本 與五兵衛先祖
      道 源右衛門先祖

【注】
人衆者勝天天定亦能勝人=人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人を破る。(『史記・伍子胥列伝』)
自古死者非一=古より死する者は一に非ず(唐宋八家文 祭田横墓文)
斥鹵=セキロ. 塩分を多く含んでいて、農耕のできない荒地
蒭蕘=スウジョウ 草刈りと木こり
佃漁=デンギョ 鳥・獣をとること(佃)と、魚をとること(漁)
采邑=さいゆう 領地 知行所  啣=くわえる  相鬩=あいせめぐ  
據=より 嚮=キョウ むかう さき  莅=リ のぞむ  疆=キョウ さかい
釐正=リセイ きちんとととのえ正すこと  
碣=ケツ いしぶみ  墓碣=墓石   珉=たま  杇=こて ぬる
桒滄之變=桑畑が滄海に変ずるような大変化 
邐=リ つづく  迆=イ ななめ  罄=ケイ むなしい  薿=ギ しげる
勗=キョク つとめる   耒耜=ライシ 鋤の意  芮=ゼイ 小さい草の意   
藟=ルイ かずら  宄=キ 内乱   閭=むら
武藤宗彬=千葉郡長。明治21年、発起人となり、蚕業振興の組織化をはかり、桑苗3万本の年賦貸付をなす。

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