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2015年2月10日 (火)

W-7 臼井周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

佐倉歴史同好会講演レジュメ    2015.1.21 於:臼井公民館2F創作室
                                                             蕨由美

       臼井周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

                                 ⇒スライド  ⇒配布用画像資料

1. 臼井周辺の旧村の風景 —史跡・古道・石塔群を歩く

(1)史跡と名所
・臼井城址(主郭と宿内砦跡など惣構遺構)と外城(先崎城・小竹城・井野城・謙信一夜城跡・阿辰の墓)、
・印旛沼と手繰川・小竹川、佐倉道(街道・宿・道標)、八幡台八幡社・臼井台星神社・稲荷神社、
・実蔵院(明倫中学跡)・長源寺・宗徳寺・光勝寺・円応寺、生谷専栄寺・ぽっくり弁天
井野の千手院・先崎の鷲神社・地蔵尊、青菅の正福寺・青菅旧分校跡、小竹の西福寺、上座の宝樹院、
(2)古道と道しるべ
・佐倉道(成田街道):団十郎ゆかりの成田山道道標・光勝寺下の三叉路道標・臼井台丁字路道標
・「もう一つのさくら道」:水神橋の馬頭観音道標・先崎鷲神社北の二十三夜塔道標
・「かやだ道」:小竹三叉路の聖観音像秩父巡拝塔道標・井野の聖観音像秩父巡拝塔道標

(3)路傍や寺社境内の石仏群
・庚申塚=臼井田、生谷、小竹の後谷津・三叉路、中台三叉路、上座荒具、井野、青菅旧分校
・梵天塚(出羽三山塚)=生谷梵天塚・小竹梵天塚・上座皇産霊神社・井野梵天塚、青菅三山塚、
・馬頭塚=生谷県道脇、臼井田八丁坂、小竹の三叉路・水神橋、上座の手繰不動堂・廃道脇
・女人講石塔群=臼井台実蔵院・臼井田常楽寺・生谷専栄寺・井野千手院・小竹西福寺・上座宝樹院

2. 路傍の民間信仰の石造物
(1)庚申塔 
庚申待は、60日に1回庚申(かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が眠った人間の体から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げ、天帝はその罪過に応じてその人の寿命を縮めるということから、眠らずに語りあかし長寿を祈るという中国の道教に由来した信仰で、それに仏教や神道の信仰なども加わり、室町時代ごろから各地で「庚申講」が行われるようになった。庚申塔(庚申供養塔)は庚申講の人びとによって建てられ、中世は「板碑」として、江戸時代初期からは、願文を刻んだ板碑型石塔や、三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)とともに如来や菩薩像を浮彫した石仏が作られるようになり、寛文期からは、青面金剛を本尊とする庚申塔も現れ始めた。江戸中期には、青面金剛像に、日月や三猿、邪鬼や鶏を伴う手の込んだ彫りの石塔が流行し、またその憤怒の形相に悪魔退治の願いを込め、村の入り口などに建てられるようになる。(佐倉市内庚申塔数は126基)

・寛文3年(1663)新町嶺南寺、寛文10年(1670)と延宝3年(1675)海隣寺町愛宕神社、
・延宝3年(1675)上座335 S家、延宝4年(1676)下志津原路傍、延宝5年(1677)臼井田の田の中、
・元禄4年(1691)先崎みどり台霊園、宝永4年(1707)海隣寺町熊野神社、
・正徳2年(1712)先崎地蔵尊、正徳5年(1715)臼井台手繰坂、享保元年(1716)臼井光勝寺、
・元文5年(1740)井野庚申塚・小竹三叉路、延享2年(1745)小竹後谷津庚申塚、
・寛延3年(1750)青菅旧分校跡・小竹中台三叉路、安永9年(1780)臼井田、など

(2) 出羽三山碑
奥州出羽三山信仰は、千葉県では山岳信仰の中でも最も盛んで、ムラの壮年期の男性は講を組んで登拝し、また集落の奥高い所には梵天塚を築き、大日如来像を安置して梵天立てを行い、登拝の後は記念碑の石建てを行っている。この三山塚(梵天塚)には、湯殿山本地仏の大日如来像、湯殿山を中心に月山・羽黒山の山名を配した江戸期の文字碑、月山を中心にした近代から現代の三山碑が立ち並んでいる。
(佐倉市内出羽三山碑341基うち江戸期71、近代110、戦後145)
安永9年(1760)青菅三山塚、明和4年(1767)臼井古峯神社、文化元年(1803)生谷梵天塚、
文政3年(1820)井野梵天塚、天保6年(1835)小竹梵天塚、文久2年(1862)上座皇産霊神社、

(3)馬頭観音塔
六観音のうち唯一憤怒顔で、煩悩諸悪を排除する菩薩。頭上に馬頭をいただくことから、馬の守護と供養を目的に、馬の墓地のソウマントウ、村境や川べりの路傍に造立されるようになった。
 (佐倉市内の馬頭観音塔は67基)

・延宝3年(1675)臼井田八丁坂の馬頭観音塔群、享保17年(1732)生谷印西街道の馬頭庚申塚、
・元文元年(1736)か?手繰不動堂、寛保3年(1743)小竹三叉路、寛保4年(1744)青菅旧分校
・宝暦10年(1760)江原新田麻賀多神社、明和元年(1764)井野千手院、文化14年(1817)上座廃道

3. 女人講の石造物
(1)十九夜塔
関東北東部では、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていた。
この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」で、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻される。
(佐倉市の十九夜塔は104基)

・寛文9年(1669)・宝暦6年(1756)臼井台実蔵院、寛文12年(1672)臼井田常楽寺、
・享保7年(1722)小竹西福寺、享保14年(1729)青菅正福寺、享保19年(1734)上座宝樹院、
・元文元年(1736)井野千手院、宝暦8年(1758)小竹西ノ作地蔵堂、宝暦10年(1760)先崎雲祥寺、
・文化5年(1808)生谷専栄寺    

(2)子安塔
「子安塔」は、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔石祠。
文字のみの石祠・石碑と、母性的な神仏が子を抱く「子安像」が刻まれた「子安像塔」(後述)がある。江戸中期から現れ、幕末から十九夜塔に代わって女性たちの子安講により多数建てられる。  (佐倉市内の子安塔数は98基)

・「子安」石祠=元文4年(1739)小竹四社明神、宝暦8年(1758)上座熊野神社、宝暦9年(1759)井野八社大神

・子安像塔=宝暦6年(1756)内田妙宣寺、天明3年(1783)大佐倉麻賀多神社、
・寛政元年(1789)海隣寺町愛宕神社、寛政3年(1791) 先崎雲祥寺、寛政6年(1794)鏑木町周徳院、
・寛政12年(1800)飯野観音、享和元年(1801)大蛇町神明神社、文化8年(1811)角来八幡神社、
・天保7年(1836)・明治22年(1889)井野千手院、文政2年 (1819)海隣寺、文久4年(1864)畔田正光寺、
・慶應3年(1867)・明治25年(1892)青菅正福寺、明治32年(1899)小竹西ノ作地蔵堂、
昭和15年(1940)先崎雲祥寺

(3)秩父巡拝塔
江戸時代は、秩父34観音供養塔として観音像を浮き彫りにした石塔が路傍などに建てられ、道標を刻むものもある。
近代20世紀になると、女性たちの講による秩父観音霊場巡礼が盛んになり。その記念の石碑として、寺院境内などに多数建立されるようになる。
(佐倉市内の秩父などの観音霊場巡拝塔323基うち江戸期41基・近代123基・戦後145基)

・明和3年(1766)臼井台実蔵院、享和2年(1802)小竹西福寺、文化4年(1807)上座宝樹院、
・文政8年(1825)臼井古峯神社、安政6年(1859)井野旧道入口、文久元年(1861)小竹三叉路

4. 北総の子安様
(1)「子安像塔」とは 
「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠をいう。
母性を明らかにした主尊(神仏)が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」とよぶ。江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏典などの儀軌にはないオリジナルな石仏である。

(2)北総の子安像塔
北総(下総地域)、特に八千代市など印旛沼周辺から利根川下流域は、女人講による子安像塔の数が多い地域で、1000基以上の子安像塔がある。
そのうち記年銘のある塔は、江戸中期(1717~1803年)までが109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基で、江戸時代計は404基、明治からの近・現代では525基、総計934基が現存する。

1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(17世紀後半から18世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で推定1200基以上。
一方、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増える。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
千葉県最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の元禄4年の「子安大明神」石祠で、①二児を配した子安像が②石祠内にある。
北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像が初出。これに次ぐ元文5年酒々井町の子安像石祠は①と②の特徴をもつ。
同じく酒々井町尾上住吉神社の宝暦元年の子安像塔は③思惟相型の如意輪変形像で、①②③の特徴は北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっている。北総の子安像塔発祥の地域は酒々井町と推定され、18世紀末までに8基の建立があり、ここから隣接する旧印旛村・旧本埜村・成田市へ広がる様相が確認できる。
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3. 江戸時代後期から近現代までの子安像塔の特徴
後期前半(文化文政・天保期)に、千葉市・佐倉市・旧印旛村・佐原市などで増加、印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市にも広がるが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されない。
近・現代は、白井市・八千代市・印西市・佐倉市・千葉市などの地域に偏って分布する。
江戸後期からは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像が主流。
優雅に天衣をまとう像や、子が這い上がろうとする動的な表現など、華麗で円熟した作がある一方、軟質石材の安易な彫りも多い。
近代は、豊満さを強調した母子像や、細部まで像容を同じくする意匠の定番化がみられる。 

(3)考察:「子安像塔」成立の背景
元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗、②石仏を彫る技術の普及、③「慈母観音」像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感があった。
慈母観音像は、16~17世紀初頭、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも多量に輸入された白磁製の像で、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、17世紀半ば、「子安観音」として各地方に普及、浸透していったと考えられる。

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