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2014年12月13日 (土)

W-6 武石公民館講座「千葉市武石町の旅」 

2014.11.23 上田市武石公民館講座 「千葉と武石をめぐる歴史の旅」第二回 
千葉市武石町の旅 レジュメ   蕨由美

1.  武石町に武石氏ゆかりの史跡を訪ねて

千葉市花見川区の武石町は、頼朝挙兵の後ろ盾になった千葉常胤の三男胤盛が承安3年(1171)に武石郷に居城し、郷名をもって武石氏を称した由緒ある旧村です。東京湾の埋め立てで海浜ニュータウンが造成され海辺は遠くなりましたが、昭和47年漁業権を放棄するまでは、花見川河口の漁村でもありました。

写真は⇒2014.10.21千葉の武石氏にかかわる史跡探訪Ⅰ

(1)真蔵院
大同元年(806)興教大師による開山と伝えられ、建久八年(1197年)武石三郎胤盛が、母(秩父氏)の菩提を弔いて柳地蔵菩薩を祀って、中興開山したと考えられます。
境内には秩父緑泥岩の「武石の板碑」、波切不動堂、その裏山には羽衣神社があり、墓地(両墓制のマイリバカ)を抜けると、武石城や大小塚があったと伝承される畑の台地に出ます。

1. 阿弥陀一尊板碑「武石の板碑」(千葉市指定文化財)
緑泥片岩の高さ2.37mの武蔵式板碑。伝承によれば、武石胤盛の母親の菩提を追善供養に建立した7基の板碑のひとつ。当初は、須賀原の愛宕山古墳に建立され、江戸時代に真蔵院の波切不動堂の山下に移したと伝えられ、今は本堂前に設置されています。
板碑銘文「(右為)先妣聖霊出離生死証大菩薩也/永仁第二暦/季秋卅之天」、梵字=種子(しゅじ)はキリークで、阿弥陀如来を表しています。
この永仁4年(1296)の年銘は、久安2年(1146)~建保3年(1215)の生涯だった胤盛の建立とするには、約百年のかい離があり、永仁元年(1293)に武石氏を相続した武石三郎胤晴と考えられています(和田1984)。
また、同じ永仁4年造立の元箱根の宝篋印塔に「武石四郎左衛門尉宗胤」の銘を残した武石宗胤(1251~1314)が建立したという見方もできます。裏面に「施主常胤」とあるのは、これは後世の追刻とのことです。

板碑とは=中世に仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に、種子や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものです。
武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を長い板状に加工して造られ、上頂部を三角に加工し,その下に2条の溝があります。
種子は、サンスクリットの文字(=梵字)で仏尊を表し、その下には蓮の模様が彫られています。

2. 波切不動堂
正元元年(1259)12月10日、武石胤盛の曾孫、武石長胤が建立。胤盛が守り本尊とした一寸八分の金仏の不動尊が祀られているといわれ、かつてここが海辺だったころ、漁民の信仰を集め、毎年8月には不動祭で賑わいました。

3. 羽衣神社
波切不動堂の裏に「羽衣神社」の石碑があります。千葉氏に広く伝わる羽衣伝承の地のひとつで、この裏山に天女が舞い降りたとも、この下の池に舞い降りたとも言われ、羽衣を奪われた天女から生まれたのが千葉氏(武石氏)の祖といわれています。
天女は常胤の妻、胤盛の母。真蔵院と愛宕山にはこの母についての悲しい物語が残されています。

4. 織田玄林の妻子の墓
安永年中、村人に甘藷栽培法の良法を伝授し、増産に貢献した織田玄林の妻子の墓があります。享保のころ甘藷栽培を導入し、民を飢饉から救った青木昆陽の遺徳をたたえる昆陽神社が近くにありますが、昆陽がこの地で甘藷とかかわったのは、わずかの期間でした。各地で甘藷の普及につくしたのは名も無い農業技術者で、馬加村周辺でも実際に貢献したのは薩州浪人の織田玄林と伝わっています。

(2)武石神社と城館跡伝承地
真蔵院の裏山から京葉道路武石インターへ続く台地上には、武石城(中世前期では館跡というべきか)があったといわれています。
 千葉県千葉郡誌に「幕張町大字武石に在りて武石城址の内にあり。圃中小塚あり上に椎樟等の雑樹を生ず。小石祠あり傍に古墓の壊石あり。土地の人は「おたけ様」と称す。即ち武石様の略にして武石胤親(三郎又は蔵人丞と称す)の墓なりとなす。其の西方40間餘の処又小塚あり、竹篠叢生す。それ其の妻の墓なりとなす。蓋し胤親は足利義明に仕へ其の昔国府臺の戦に討死せしと云ふ。」と書かれています。
特に城郭らしき遺構は残っていませんが、畑の隅の「おたけ様」伝承の塚には、鳥居と、昭和15年に造営され、平成19年に改築された「武石神社」の社殿があり、その境内にある昭和15年造営時の「武石神社」銘の石碑には「当神社ハ千葉介常胤朝臣ノ三男武石三郎平胤盛朝臣以下武石氏累世ノ神霊ヲ祭祀スルノ社ニシテ往古ヨリ此ノ地ニ鎮座シ地人尊崇シテお武石様ト称ス」との謂れ文が刻まれています。
また平成19年には「おたけし様の御由緒」の看板も設置されました。

(3)愛宕神社古墳
真蔵院の板碑が元あったというのが、須賀原の愛宕神社の古墳です。
『千葉郡誌』によれば、武石三郎胤盛の母(秩父重弘の娘)は故あって海中に身を投げ、漁人の網にかかったその遺骸を葬ったのが、須賀原愛宕山で、7基の石碑を建立したとのこと。 江戸時代の宝暦3年に開墾された際に、残されていた板碑1基が真蔵院へ遷されました。
また石室があり、直刀、鏃、耳環などの遺物が出土したとのことで、古墳時代の古墳を中世に塚墓として利用したようです。
現在は、平成21年に改築された社殿の中に「愛宕大権現」の石碑が祀られ、その脇には「貞永元年壬辰三月廿四日」と「下総国千葉郡武石郷」の銘が刻まれています。
石碑の石質や形状から、近世以降の作と思われますが、由緒板に寄れば、貞永元年(1232)の3月24日は、千葉常胤の33回忌の命日にあたるそうです。

(4)三代王神社
武石三郎胤盛が武石に居城して31年後の建仁2年(1202)、郷中安全の守護神として明神神社を創建、天種子命(アマノタネノミコト)を祀る神社で、文亀元年(1501)に社号を三代王神社にあらためましたが、武石明神といわれました。
船橋市・千葉市・八千代市・習志野市の9神社の神輿が二宮神社境内に参拝する下総三山の七年祭り(千葉県無形文化財)では、三代王神社は産婆役を務めます。
この祭りの起源は、室町時代の頃に馬加城主の千葉康胤が嫡子出産に際し、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の神主に馬加村(幕張)の浜辺で安産祈願をさせたことに由来するといわれ、その康胤の奥方の夢枕にたち、安産を守護したのは、この武石明神であったと言われています。

2.  武石長胤ゆかりの長作町の寺社

武石町の北隣の長作町は、武石長胤が領して拓かれた村で、長胤は千葉常胤の三男、胤盛の曾孫として鎌倉幕府に仕えています。

写真は⇒2014.10.24 千葉の武石氏にかかわる史跡探訪Ⅱ

(1)諏訪神社
境内には寛永5年(1628)建立,天保7年(1836)再建と伝えられる社殿と林が残っています。
長作の諏訪神社の創建の時代はわかりません。伝承では「延暦年中、坂上田村麻呂東夷出征の際、信濃惣社上下諏訪に陳し、連に東平あらんことを祈願し、稍鎮定の帰途に至り、上下惣社当所に遷置す。之を本村の鎮座とす。」とのこと。
諏訪神社は全国に1万余社あるといわれ、その多くは鎌倉時代に勧請されています。諏訪神は、山の神・風の神として生活の源を司る神であり、また古くから山の狩猟神として信仰されました。そしてその狩猟に使う弓や矢からの連想で、軍神として信仰されるようになり、坂上田村麻呂の東征の守護などの伝承が付与されて、頼朝や北条氏など多くの武将からも篤く崇敬されたといいます。特に鎌倉時代、諏訪大社の御射山(霧ヶ峰高原八島湿原)を舞台にした祭礼には、鎌倉幕府の下知によって信濃国内に領地をもつ御家人すべてが回り番で費用を負担し、全国から御家人が参集しました。
幕府は建暦2年(1212)以来、殺生禁断のため全国の守護・地頭に鷹狩りを禁止しましたが、諏訪大明神の御贄狩(みにえがり)だけは例外としました。このため諸国の御家人らは諏訪社を勧請して、その御贄狩と称して鷹狩りを続けたともいわれます。(井原今朝男『県史 長野県の歴史』)
特に、武石氏は諏訪大社に近い長野県旧武石村にも領地があり、このような背景から、その創建はおそらく長胤の活躍する鎌倉時代ではないかというのが私の想像です。

・社殿の彫刻=天保7年に改築された本殿の向拝竜は、銘から嶋村多宮定直の作で、本殿胴回りの彫物は全て、江戸後期から明治にかけて活躍した竹田重三郎(結城小森村)と推定されます。
本殿右側の彫刻「西王母」、背面の彫刻「菊慈童」、左側の彫刻「寿老人」、右脇障子「唐婦人」、左脇障子「大舜」。
拝殿は、嘉永年間(1848-1853)に建立で、嶋村本流江戸彫工の祖、八代源蔵嶋村俊表(文久3年1873没)の四十才頃の作。

(2)天津神社(=妙見神社)
大正時代に天津神社と改名される前は、「妙見神社」で、千葉氏が信奉した神仏であり、武石長胤の守り神であったであろう妙見を祀った神社です。ご本尊の妙見像は秘仏で、「昔盗まれたが、寒川の漁師により海中から拾われ、返してもらった」という伝説があるそうです。
2003年に八千代市郷土歴史研究会で、社殿内部を拝見した際、明治18年に奉納された妙見像の絵馬が確認されました。
(3)長胤寺
正元元年(1259)千葉一族である武石長胤が長作の地を領し、弘長2年(1262)自らの館を寺として創建したと伝えられる日蓮宗の寺院です。

「當山縁起」を記した石碑があり、そこには長胤寺の由来について次のように記されています。
「源頼朝に仕え、千葉中興の祖と言われる千葉介常胤公は七人の男子を儲ける。
各々、千葉介新助胤正、相馬次郎師常、武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、東 六郎胤頼、七男は出家し日胤を名乗り、三井寺にて祈祷僧となる。
三郎胤盛が、現在の武石の地を、承安元年(1171)11月15日伝領す。武石城の始まりである。
四世孫武石小二郎入道長胤公が、正元元年(1259)12月10日長作の地を領す。弘長2年(1262)自らの館を寺とする。
上総七里法華弘通の師、日秦上人(永享4年1432~永正3年1506)の法孫日傳上人により、天文14年(1545)日蓮門下に改宗、のち元禄14年(1701)東金最福寺の流れに、属す。
爾来法華経の信仰道場として連綿相続している。  三十六世 清寿院日祥」

碑文中の「上総七里法華」とは、土気城主酒井定隆が顕本法華宗の日泰上人に帰依し、千葉、市原、山武、長生にまたがる領内7里四方、270余りの寺にわたって法華宗に改宗させた宗教政策のことで、戦国時代の房総の宗教史を特異なものにしています。
鎌倉時代に武石長胤が長作の地に創建したころは真言宗であった長胤寺が、戦国時代に濱野村本行寺開祖の日傳によって顕本法華宗に改宗されたということにより、いわゆる「七里法華」の影響と酒井氏の勢力がはるかこの地にまで及んでいたことがわかります。その後、昭和16年(1939)大陸侵攻の戦時下、宗教統制によって、顕本法華宗(京都妙満寺)と本門宗(北山本門寺)が日蓮宗と合同、長胤寺も「日蓮宗」となり、戦後、顕本法華宗が再独立しても、そのまま現代に至っています。

参考資料:
和田茂右衛門1984 (千葉市教育委員会編)『社寺よりみた千葉の歴史』千葉市教育委員会
ホームページ「歴史に好奇心!さわらび通信」・「千葉市の歴史を歩く会」
武石町~長作町の地図

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