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2014年3月 3日 (月)

W-4 八千代市村上地区の古代集落と須恵器「壺G」

以下は2014.3.2 八千代栗谷遺跡研究会学習会(於:八千代市立郷土博物館)での考講演用レジュメです。(⇒スライド
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                         村上地区の古代集落と須恵器「壺G」 
                                          蕨 由美

 8世紀末から9世紀初めの遺跡から見つかり、形から「壺G」と分類されるスリムな須恵器。その用途は、仏に供える花瓶、調味料を運んだ容器、東北侵攻の兵士が携えた水筒など諸説あります。
八千代市村上込の内遺跡など房総から出土した壺Gとその遺跡の様相の再検討から、壺Gの用途を考察してみました。

1. 須恵器「壺G」とは
 壺Gは、静岡県の花坂島橋窯と助宗窯などで生産された長頸壺のことで、高さ20 ㎝位の細長い形で頸が長く、堅牢で優雅な形をしつつも、ほとんどが平底で、糸切痕やロクロ回転痕を未調整のまま残すなど、やや雑なことが特徴です。
 奈良文化財研究所が、須恵器の壺の形状をアルファベット順に分類した際、「G類」に定められた須恵器であることから、「壺G」とよばれています。
器形は、太型・中太型・細型に分類され、中太型・細型は日本~関東~東海・近畿地方に広く分布しますが、細型の時期は784~794年の長岡京期に限定される特徴があります。 ⇒スライド02
 八千代市内の遺跡では、村上込の内遺跡のほか、萱田遺跡群の北海道遺跡と井戸向遺跡から出土しています。

2. 壺Gの用途は?
 壺G用途は、「堅魚煮汁容器説・水筒説・徳利説・花瓶説など諸説あって定まらない」とされてきましたが・・・

a. 「堅魚煎汁運搬容器」説
 「荷札木簡の記述により、この壺の産地の駿河と伊豆から、長岡京へ調味料の堅魚煎汁を運んだ容器」という巽淳一郎氏の説*。 
*巽淳一郎1991「都の焼物の特質とその変容」『新版 古代の日本 近畿Ⅱ』角川書店 ⇒スライド04 

 その後、関東から東北、海のない山梨県からも出土していること、またこの容器説に対し、瀬川裕市郎氏は「堅魚煎汁はゼリー状で、木製容器に入れたはずで、運搬に用いる必然性はない」*と批判。  
 *瀬川裕市郎1997「堅魚木簡にみられる堅魚などの実態について」『沼津市博物館紀要』21 沼津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館 ⇒スライド05

b. 「東北遠征兵士の携帯用水筒」説
 「東北の城柵から少量の発見例があり、桓武朝における東北遠征にともなう兵士や都から下る官人の携行品である」という山中章氏の説*。
 *山中章 1997「桓武朝の新流通構造 : 壺Gの生産と流通」『古代文化』第49巻11号 ⇒スライド06
 2007年の国立歴史民俗博物館で企画展示「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」では、壺Gが長岡京とそのころの東北支配の拠点地と東日本で多く出土していることを強調、「特異な形式をもつ壺Gの移動に代表される物流の進展」という趣旨で、各地の壺Gが展示されました。 ⇒スライド07 

c. 「仏事使用の花瓶(けびょう)」説
 「仏像が手にする金属製花瓶と同形で、これを模した。仏教の東国伝播に伴って、小さなお堂で使った仏具の花瓶」という佐野五十三氏の説*。
 *佐野五十三1999「壺Gの成立と伝播」『静岡県考古学研究』№31
 *佐野五十三1998「須恵器花瓶の成立-仏の手から塔婆の世界へ-」『静岡県考古学研究』№30 ⇒スライド09

 佐野氏は仏像・絵画などの資料に残る花瓶を検討整理する中で、観音像の持つ古代花瓶の形状と須恵器壺の変遷の関連を分析し、その形態と時期が一致することを指摘、仏の手を離れて自立式となり花活けの花瓶となった須恵器こそ壺Gであると述べています。
 さらに「壺Gの成立と伝播」では、出土した遺跡と型別の分布の関連を整理し、「壺Gは、古代の公的な施設・機関に関係する遺跡が圧倒的に優位であること」、「集落からの出土も一般的」で、東国では竪穴住居から奈良三彩・金銅仏などが出土していることも指摘されています。
 また2007年静岡県遺跡調査報告会で、千葉県袖ケ浦市遠寺原遺跡・山梨県韮崎市宮ノ前第Ⅱ遺跡、群馬県佐波郡十三宝遺跡の壺G出土の遺構と遺跡全体の様相を例示し、壺Gが村の寺や仏堂などの遺構に付随する遺物であると話されています。

3. 壺Gと仏教関連遺物が伴出した千葉県内の遺跡
「壺G 出土遺跡一覧表」(山中章 1997)や『 古代仏敎系遺物集成・関東: 考古学の新たなる開拓をめざして 』(考古学資料から古代を考える会 2000)のデータリスト、さらに最近の発掘調査報告などに基づき、壺Gの出土した遺跡について伴出した仏教関連遺物や掘立建物などの遺構について調べてみました。

 1.  海神台西遺跡(船橋市)=墨書土器「岑寺」
 2.  北海道遺跡(八千代市)=墨書土器「勝光寺/大田」・「尼」・「経」
 3.  井戸向遺跡(八千代市)=仏鉢、三彩托、三彩小壺2、銅造宝冠如来像、山吹双鳥鏡、墨書土器「寺坏/寺」・「寺」・「佛」、火打金
 4. 村上込の内遺跡(八千代市)=仏鉢、瓦塔、灯明皿、火打金、墨書土器(詳細は6.の項で)等
 5.  庄作遺跡(芝山町)=仏鉢、瓦塔、墨書土器「井/佛西」
 6.  真行寺廃寺(山武市)=仏鉢、浄瓶、香炉蓋、瓦塔、墨書土器「武射寺」・「大寺」「仏工舎/小」、文字瓦「寺/寺□」
 7. 柳台遺跡(匝瑳市)=仏鉢、浄瓶、墨書土器「千俣□(仏カ)
 8.  台畑遺跡(千葉市)=墨書土器「寺吉」・「寺」他
 9. 南河原坂窯跡群(千葉市)=仏鉢、水瓶、香炉蓋、高坏形香炉、墨書土器「堺寺/上」
 10.  川島遺跡(富津市)=水瓶、香炉蓋、高坏形香炉
 11.  草刈遺跡(市原市)=灰釉浄瓶、薬壷、佐波理製箸、墨書土器「草苅於寺坏」
 12. 永吉台遺跡(市原市)=四面庇建物、瓦塔、仏鉢、銅鏡、香炉蓋、墨書土器「土寺」・「田寺」・「山寺」・「寺」
 13. 高岡大山遺跡(佐倉市)=四面庇建物、銅鋺、瓦鉢、香炉、墨書土器「寺」・「佛」・「神」
 14. 臼井屋敷跡遺跡(佐倉市)=三彩托、総柱建物 遺跡復元想像図 ⇒スライド12
 15. 坊作遺跡(市原市)=墨書土器「法花寺」・「佛騰」・「造寺」
 16. 谷津貝塚(習志野市)=瓦塔片、灯明皿、墨書土器「中村寺」 ⇒スライド11

 これらの遺跡の中でも11.の草刈遺跡の壺Gは、K370住居から、浄瓶や薬師如来の持つ薬壷など多くの遺物と共伴して出土しています。⇒スライド10
 またこのほか、墨木戸遺跡(酒々井町)・駒形遺跡(千葉市)・根崎遺跡(千葉市)からも、壺G が出土しています。

4. 萱田遺跡群にみる古代仏教の跡
 「村神郷」内の複数の集落を構成する萱田遺跡群の白幡前遺跡には、溝で囲まれた四面庇の建物があり、瓦塔・瓦鉢・浄瓶・「寺」や「佛」墨書土器などの遺物が集中することから、ここには集落全体の「村寺」といえる仏教施設があったとされます。スライド14

 寺谷津の北側の井戸向遺跡からは、仏鉢・三彩小壺・銅造宝冠如来像・墨書土器「寺」・「佛」などが出土し、ここには一族の持仏堂があったと推察されています。 ⇒スライド15
 さらに北の北海道遺跡では「勝光寺」の墨書土器が出土しています。 ⇒スライド16

 『八千代の歴史 通史編』(2008)では、萱田遺跡群では白幡前遺跡の「村寺」を拠点として単位集団ごとに仏教信仰が浸透していき、北へ離れた北海道遺跡から権現後遺跡にかけては次第にその跡も希薄になると考察されていますが、北海道遺跡と井戸向遺跡から出土した壺Gを付け加えることにより、ムラの中のやや離れた小集落にまで広く仏教信仰が浸透していたとも考えられます。

5. 村上込の内遺跡の古代集落の様相
 古代の村上込の内遺跡は、8世紀前半~9世紀後半の約150年間の集落遺跡です。8世紀前半という時期は、養老7年(723)「三世一身法」の施行により、郡司層による開墾が進み始めたころでした。
 この時期の住居跡155軒と掘立式建物跡24棟は、集落中央の住居のない広場の周りに、A~Eまで5つのブロックに分かれて展開します。
墨書土器は270点にのぼり、同じ文字の土器がブロック単位でまとまって出ていることから、一族のような単位集団が何世代かにわたりおなじブロックに住み続けたと推定され、8世紀後半から9世紀前半にかけて最盛期となり、10世紀頃には生活の痕跡が消えてしまいます。
 村上込の内遺跡の調査報告書の遺物と遺構を再検討して、あらためて仏教関連と思われる遺物を探し、遺跡のブロックごとに分析してみました。 ⇒スライド18

6. 村上込の内遺跡で仏教に関連するモノは?
・A群=瓦塔片・墨書土器「前廾*」「奉」・長頸瓶・仏鉢(瓦鉢)・掘立建物3棟
・B群=灯明皿
・C群=長頸瓶(太型の胴部)・掘立建物4棟
・D群=長頸瓶壺Gのほか、長頸瓶破片が数点、灯明皿、墨書土器「聖*」、掘立建物13棟
・E群=掘立建物4棟・火打金
  *「前廾」は、「菩薩の前に」の意味。
  *「聖」は、「釈迦、または仏法の徳を秘めた聖人」の意味。

 さらに壺G出土のD群の遺跡の様相を図にすると、出土ピットに隣接した093住居跡に墨書土器「聖」など仏教関連遺物が多いことがわかります。⇒スライド19

 以上の結果、村上込の内遺跡の仏教施設は、A~Eのどの群にも属さない北はずれの瓦塔が集落全体の礼拝対象であっただけでなく、集落全体を率いるD群の有力者一族の単位集団内にも、持仏堂のような施設があったのではないかと考えられます。

まとめ
 壺Gが仏像の持つ花瓶にその形状が一致するという佐野氏の説に着目し、村上込の内遺跡など千葉県壺G出土遺跡の調査データを検討してみた結果、この地域のおいては「壺Gは仏具としての花瓶」説が、最も妥当であると思われました。8世紀後半から9世紀の壺G 伝播は、民衆レベルの仏教の急激な拡大と東国の開発の促進が背景にあります。(『静岡の風土と風と私」佐野 2005)
 今後の遺跡分析の視点に仏具である壺Gを加えることによって、8~9世紀の集落内の信仰形態について、村上込の内遺跡などの出土遺跡の性格がより明らかになると考えます。

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