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2013年8月25日 (日)

K-32 旧本埜村荒野の子安塔は「享和元年」 & その系統は?

印西市荒野の安楽院跡の子安塔の年銘は?

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 猛暑続きのこの夏、8月22日は珍しく午前中、薄曇りでの天気だったので、印西市荒野の安楽院跡にある子安塔の年銘を知るため、拓本を使って調査しました。
 二十年前の千葉県の調査カードに「文久元酉年」と記されていた子安塔です。
 下部は草に埋もれ、左傍らには「嘉永三年」(1850)銘の如意輪観音の像も崩れた十九夜塔が倒れかけて並んでいます。
 「文久」では、数の多い幕末のものだし、また損傷も大きいので、私も深く追求せず、一覧表の「文久元年」欄の1基として処理していました。

 130822_016ところで現在、旧本埜村(現印西市)の石造物調査のデータ整理をお手伝いしていますが、その調査カードの記載は「嘉永二酉年」。
 この読みの違いを何とかしなくてはと、画像データの銘文部分をみると、「○○酉元年」と読めるので、「嘉永二酉年」ではなく、寛政元年(1789)、享和元年(1801)、文久元年(1861)のどれかと推定できます。

 改めて子安塔の画像データをすべて並べて見ると、江戸中期の終わりごろの像容に近く、銘文の型式も江戸中期ごろの入れ方。
 では、寛政か、享和か。というわけで、曇りの日を待って、この日の調査となったわけです。
 そして、結論は、「○和酉元年」で、「享和酉元年」(1801)。拓本の「」の文字がはっきり浮かび上がりました。

「享和元年」子安像塔の成立過程を考える
2_3 旧本埜村の荒野安楽院跡の子安像塔(上の一枚目の右端)を、享和元年(1801)に推定したことにより、この子安塔が現れるまでの旧本埜村地域の子安像塔の変遷を追ってみました。

 旧本埜村に子安像塔が現れるのは、印旛沼周辺地域でも早い方で、初出は思惟相の如意輪観音像に子を抱かせた行徳稲荷神社の宝暦5年(1755)の子安像塔です。(右上図の中央)
 ふっくらとした肉付きのこの像は、酒々井の尾上住吉神社の像(1751)の系譜を引き、印旛村平賀の像(1764)に引き継がれます。2_5

 そのあと、安永5年(1776)に本埜村瀧水寺に登場する華麗な子安像塔(右図の右側)は、主尊が正面を向き、懐と肩に二人の子がいる像容で、栄町に特徴的なスタイルに属します。

 さて、荒野安楽院跡の子安像塔の像容ですが、宝暦5年の行徳稲荷神社の像と安永5年の本埜村瀧水寺像とは異系統と思われ、別途にその出自を探る必要があります。

 下図の左端は、本埜村竹袋の寛政5年(1793)の如意輪観音像です。
 宝暦の像に比べ繊細な造りで、天衣が翻る装飾は、江戸中期後半から後期にかけての如意輪観音像などにも見られます。

3 中央の寛政8年(1796)の瀧水寺の像は、寛政5年竹袋の如意輪観音像に似ていますが、懐に子供がいます。同所の安永5年の子安像の記憶が石工をして、鳩尾の丸みをそのまま子の表現にさせたのかもしれません。
 右端が、享和元年の荒野安楽院の像です。
 天衣の表現や細い腕など寛永5年竹袋の像の彫りに似ています。
 たぶん、江戸中期の子安像塔は、まだ盛んに建てられていた如意輪観音像を刻む十九夜塔に押されて、大きくは派生せず、散発的に作られる状況だったのだと思います。
享和元年荒野の像も、宝暦5年行徳像や、安永5年瀧水寺像から直接影響を受けるのではなく、独自の系譜で生み出された像容と考えられるのではないでしょうか。

 下図は、享和元年の荒野の子安塔と同年、およびそれ以降の近隣の子安塔です。
 石質が房州石系のもろい石なので、風化しやすくカビも生えて状態がよくありませんが、腕が不自然に細く、包みを抱えるような子の表現などが共通しています。

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