« B-2 「海獣葡萄鏡」の「海獣」っていったいなあに? | トップページ | F-5  謎が深まる市氷川女体神社の「牡丹文瓶子」 »

2013年4月19日 (金)

K-31 東庄町の2基の子安像塔は、吉野「子守明神像」の絵姿がルーツ?

 昨年(2012年)の12月、東庄町の石造物調査を続けられている房総石造文化財研究会のI様から、「東庄町の新調査分の子安塔、纏まりましたのでお知らせします。」というメールをいただき、さっそく、暮れも押し詰まった29日、東庄町に向いました。
 今回は、この日に見た東庄町窪野谷字平台の妙見神社と隣村の大友の天満神社神道系の子安像塔と、その像容のルーツについての考察をご紹介したいと思います。

 121229_098s

 最初に訪ねた東庄町窪野谷字平台の妙見神社には、子安塔2基がありました。
 妙見神社は、石祠だけの屋敷神より小さな神社ですが、安永9年(1780)銘の庚申塔の向かいに、天明7年(1787)銘と、無銘の子安像塔2基がありました。
 天明の子安塔は、主尊が正面前向きで子が小さな蓮華をもつ香取地域に特徴的な像容です。
 その隣の右隣の子安像塔は、平安朝の女房装束の斜め向きの立ち姿で、抱いた子をいつくしむように顔を傾けて見つめています。
 美しい彫りですが、残念ながら建立年を含め、銘文はありません。

 続けて回った隣村の大友の天満神社にも、角柱に同じ絵姿の女神像を線彫りした安政2年(1855)の子安像塔がありました。
 嘉永2年(1849)の駒型の「子安大明神」文字塔と並んであることから、妙見神社の無銘の女神像も、神道系の「子安大明神」像塔と思われます。
 妙見神社の無銘の子安像塔と、大友天満神社の安政2年銘の子安像塔は、母子ともに正面向きの仏像系の像容が多い東総の子安像塔の中では、神道系の「明神」像として、たいへんユニークな像容です。
 幕末以降、神仏判然令により神社に「仏像」を置くことがはばかられるようになり、神像、神塔が主流になる傾向が、この地域の女人講の石造物にも表れているのでしょう。  (↓右画像は 「大神社展」図録から)

21
 この東庄町の子安像塔の像容の由来はどこにあるのでしょう。Dscf0047
 2013年4月9日から、東京国立博物館で「国宝大神社展」が始まり、私もその初日にさっそく見学に行きました。
 その展示の中でも、特に気に入って眺めていたのが、「子守明神像」でした。
 南北朝時代の絹本着色画像で、国宝「木造玉依姫命坐像」で有名な吉野水分(みくまり)神社の「御子守」信仰にかかわる画像です。               (水分神社社殿⇒)
 小袿と思われる女房装束の立ち姿で、左向きでうつむくように抱いた赤子を見つめている大和絵風の画像です。Dscf0158
 月のような円形の中には胎蔵界大日如来をあらわす種字「アーク」が、下に小さく描かれているのは、侍女か、寄進者でしょうか。
 吉野水分神社は、水資源とその配分を意味する「みくまり」が「みこもり」となまり、「子守明神」と呼ばれ、子授けの神として信仰を集めたとのこと。 
 本居宣長も、両親が子守明神へ祈願して授けられたといわれています。

              (勝手神社、子守明神の夫神を祀る⇒) 
 子を抱く姿の中世にさかのぼる女神像は珍しく、また子安像塔にも共通する姿でもあるので、帰ってから、さっそく図録からスキャンしました。
 そして、東庄町に2基の子安像は、この「子守明神像」の絵をモデルにしたのではないか感じ、画像を並べて見ると、やはりたいへんよく似ています。

 東庄町は古代から東国支配の拠点であり、また中世は千葉氏の一族東氏の根拠地で、その鎮守の東大社は、吉野水分神社と同じ玉依姫尊を祀りました。
Dscf0046 江戸時代は小藩や旗本の領地が入りまじり、博徒が横行もありましたが、学問も盛んで、江戸後期には平田篤胤が逗留しています。

 江戸後期、東総に国学とともに子守明神の絵姿などももたらされたと仮定すると、幕末期廃仏毀釈の走りとして、子安観音像に替り、子守明神像が子安像塔として出現するのも不思議ではないと思えます。
 

 「大神社展」で「子守明神像」を見て、12年前の2001年春に吉野水分神社へ行ったことを思い出し、古い画像データを探してみました。
 デジタルカメラの性能も画素数も不十分な頃の画像ですが、神社の社殿や子授けや乳の出を祈願する奉納物なども写っていました。

 幕末~近代の東庄の石造物のルーツに、吉野の子守信仰が多少でもかかわっているのではないか、子安像塔を追いかけてきて、またまた小さな発見をしました。

|

« B-2 「海獣葡萄鏡」の「海獣」っていったいなあに? | トップページ | F-5  謎が深まる市氷川女体神社の「牡丹文瓶子」 »

コメント

大神社展に展示してある「子守明神像」に先行する画像は、奈良国立博物館所蔵の「普賢十羅刹女像」の訶梨帝母であると、図録に書かれていたので、調べてみました。鎌倉時代(13世紀)の作で、「和装の普賢十羅刹女像は意外に遺例が乏しい」と書いてあります。
http://www.narahaku.go.jp/collection/v-824-0-5.html
いずれにせよ、東庄町と山田町に3基あることになり、デザインについて、掛け軸や絵
馬、お札の存在の確認がほしいですね。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2013年4月28日 (日) 22:50

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/107552/57203712

この記事へのトラックバック一覧です: K-31 東庄町の2基の子安像塔は、吉野「子守明神像」の絵姿がルーツ?:

« B-2 「海獣葡萄鏡」の「海獣」っていったいなあに? | トップページ | F-5  謎が深まる市氷川女体神社の「牡丹文瓶子」 »