« W-2 北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜- | トップページ | D-1 鎌倉の「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と、大江公など3基の墓穴のなぞ »

2012年12月16日 (日)

W-3 印西市内の民間信仰の石造物&北総の子安さま

以下は平成24年12月16日 印西地域史講座(於 印西市立中央駅前地域交流館)の講演用レジュメです。(⇒スライド
引用される場合は、著者までメールでご連絡ください(⇒アドレス)。無断使用はご遠慮ください。

                              
           印西市内の民間信仰の石造物&北総の子安さま
                        蕨 由美 (房総石造文化財研究会会員)
                                                       
 印西市域、特に旧印西町は、北総の中でも石造物の宝庫で、昭和53年から15年間かけて印西町が調査した数は、3056基の多きに達しています。
 その中でも特に、庚申塔が366基、十九夜塔などの月待塔が310基、子安塔が129基など、地域の民間信仰の講に関連する石仏・石塔は、総数の約3分の1を占めます。
 これらの石塔石仏の概要、特に各出現期の様相を、旧印旛村・本埜村の事例も交えてお話してから、私が特に研究している子安像塔について、詳しくご紹介したいと思います。

(1)「庚申塔」
 庚申待は、60日に1回庚申(かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が眠った人間の体から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げ、天帝はその罪過に応じてその人の寿命を縮めるということから、眠らずに語りあかし長寿を祈るという中国の道教に由来した信仰でした。それに仏教や神道の信仰なども加わり、室町時代ごろから各地で「庚申講」が行われるようになります。
 こうした庚申講の人びとによって建てられたのが、庚申塔(庚申供養塔)で、中世は「板碑」として、江戸時代初期からは、願文を刻んだ板碑型石塔(*)や、三猿とともに如来や菩薩像を浮彫した石仏が作られるようになり、寛文期からは、青面金剛を本尊とする庚申塔も現れ始めます。
 そして江戸中期には、青面金剛像に、日月や三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)、邪鬼や鶏を伴う手の込んだ彫りの石塔が流行し、またその憤怒の形相に悪魔退治の願いを込め、村の入り口などに建てられるようになりました。

 
*関東では、都内最古の近世庚申塔は足立区正覚院の弥陀三尊来迎塔1623年、埼玉県最古は三郷市常楽寺の山王廿一社文字塔1623年、千葉県最古は松戸市幸谷観音境内の1625年山王廿一社文字塔と報告されている。3基とも板碑型である。

・旧印西市内の庚申塔
江戸初期:観音像や地蔵像、阿弥陀如来像などの諸仏や銘文のみに三猿を彫ったものが多い。
 竹袋観音堂の寛文元年(1661)銘 = 聖観音立像、台座に三猿が浮彫り。
 武西百庚申の隣の寛文10年(1670)銘=「奉待庚申供養」と天蓋付三猿。
 砂田庚申堂内 寛文11年(1671)銘=四臂の青面金剛像 
 大森長楽寺の天和3年(1683)銘 =「奉起立庚申待成就之由」の文字と三猿
                           
江戸中期:「二世安楽」を祈願し、青面金剛像を浮彫りするのが庚申塔の最盛期の主流。
 上町観音堂の元禄13年銘(1700)銘=青面金剛像の笠付塔で道標を兼ねる
 大森長楽寺の正徳5年(1715)銘=青面金剛像に2童子2仁王2鬼、三猿。            
 結縁寺青年館の享保17年(1732)銘=青面金剛像に笠付の典型的な庚申塔

江戸後期:簡略化され文字塔に。
 末期には「百庚申」が浦部・武西・小林に建てられる。      
 
 また、赤く塗る地域がある。(悪疫退散・疱瘡除け祈願の趣旨か?)

・旧本埜村の古い庚申塔
 押付4水神社 延宝3年(1675)=駒型 三猿 
 物木317 庚申塚 貞享3年(1686)=四臂合掌の青面金剛 
 中田切38白山神社貞享4年(1687)=六臂合掌の青面金剛

・旧印旛村の古い庚申塔
 吉高 十三仏板碑付近の元禄 13年(1700)=青面金剛像 光背型
 造谷 宝永3年(1706)銘=笠付型青面金剛像 

(2)十九夜塔
  関東北東部では、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていました。
この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」であり、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻されます。
  十九夜塔の発祥としては、茨城県つくば市平沢の八幡神社にある雲母片岩の石塔が、稚拙な仏像らしき座像と「寛永九年(1632)三月十九日」の銘が刻まれていることから、これが最古と推測されています。
 千葉県では承応元年(1652)の香取市結佐大明神境内の「十九夜侍之供養/十二月十九日」銘の宝篋印塔の残欠が古く、次いで、明暦元年(1655)造立の芝山町加茂普賢院の「十九夜待」銘のある六地蔵立像石幢、3番目は、万治2年(1659)山武市本須賀大正寺の「十九夜念佛」銘の宝篋印塔で、このころまでは十九夜の講も念仏講と不可分であり、また主尊も定まっていなかったようです。

 如意輪観音を主尊とした十九夜塔の初出は、茨城県利根町布川の徳満寺に万治元年(1658)に造立された4手の如意輪観音像を線彫りした板碑型石塔ですが、如意輪観音像を舟型光背に浮彫りした典型的な十九夜塔が出現するのは、万治3年(1660)千葉県山武市戸田の金剛勝寺の二臂像の石塔からとなります。
 寛文期に入ると、寛文3年(1663)山武市松ヶ谷の勝覚寺、寛文5年(1665)印西市小倉青年館の石塔をはじめ、寛文10年(1670)まで千葉県内で38基が造立され、さらに寛文11年から延宝8年(1680)までの10年間の数は125基を数えます。そのうち旧印西町は特に多く、近隣の印旛地域の中核となる地域でした。

・旧印西市内の十九夜塔(如意輪観音)江戸初期から中期への変化
   小倉青年館の寛文5年(1665)=市内最古 二臂像  
   別所地蔵寺の寛文8年(1668)=厳めしくたくましい二臂像 
   和泉青年館の寛文8年(1668)=厳めしくたくましい六臂像
   古新田青年館の寛文8年(1668)=天蓋のある如意輪観音                  
   小林光明寺の寛文9年(1669)=一部透かし彫りの六臂像  
   戸神青年館の寛文12年(1672)、 竹袋観音堂の寛文13年(1673)
   和泉会館の延宝5年(1677)=たおやかな腕の六臂像 
   大森古新田青年館の天和2年(1682)=沈思黙考の二臂像
   和泉会館 元禄5年(1692)=天衣をまとう二臂像
   大久保勢至堂 元文元年(1736)=未敷蓮華を持つ二臂像
   小林光明寺 天明2年(1782)、 宗甫観音堂 天明2年(1744)
   中央公民館前 寛政元年(1789)=「江戸道」道標の二臂像

  
・旧本埜村の十九夜塔
 中根福聚院 寛文9年(1669)=一部透かし彫りの六臂像  
 押付大師堂 寛文10年(1670)、將監密蔵院 寛文10年(1670)
 中田切白山神社 寛文13年(1673)、松木8墓地 延宝3年(1675)

・旧印旛村の十九夜塔
 山田 円蔵寺 寛文 6年(1666)、  松虫寺 寛文 8年(1668)
 吉高 公会堂 寛文9年(1669)、  岩戸 広福寺 寛文 9年(1669)
 萩原 1531墓地 寛文9年(1669)、 平賀 観音堂 寛文12年(1672)
 造谷 真珠院 寛文12年(1672)、 平賀 3139墓地 寛文12年(1672)
 鎌苅 東祥寺 文政10年(1827)=化政期の凝った二臂像

(3)「子安像塔」
 「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠をいいます。
 私は、母性を明らかにした主尊(神仏)が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」とよんでいますが、その像容は、江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏典などの儀軌にはないオリジナルな石仏です。

 
北総の子安像塔
1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
   北総(下総地域)、特に八千代市など印旛沼周辺から利根川下流域は、女人講による子安像塔の数が多い地域で、1000基以上の子安像塔があります。そのうち記年銘のある塔は、江戸中期(1717~1803年)までが109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基で、江戸時代計は404基、明治からの近・現代では525基、総計934基が現存しています。
北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(17世紀後半から18世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で、推定1200基以上あるのに対して、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増えます。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
   千葉県最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の元禄4年(1691)の「子安大明神」石祠Fig.20で、①二児を配した子安像が②石祠内にあるという特徴があります。
   北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像Fig.21が初出で、これに次ぐ元文5年(1740)酒々井町の子安像石祠Fig.22は①と②の特徴をもっています。同じく酒々井町尾上住吉神社の宝暦元年の子安像塔Fig23は③思惟相型の如意輪変形像で、①②③の特徴は北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっています。酒々井町では18世紀末までに8基の建立があり、ここから隣接する旧本埜村・旧印旛村・成田市へ広がる様相が確認できました。
   以上から江戸初期に上総で発祥した子安像塔は、約半世紀後の江戸中期に酒々井町に現れて北総各地に広がったと推定されます。

          
 
3. 江戸時代後期から近現代までの子安像塔の特徴
 後期前半(文化文政・天保期)に、千葉市・佐倉市・印旛村・佐原市などで増加し、印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市にも広がりますが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されません。近・現代は、白井市・八千代市・印西市・印旛村・千葉市などの地域に偏って分布しています。
 江戸後期からは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像が主流となります。優雅に天衣をまとう像や、子が這い上がろうとする動的な表現など、華麗で円熟した作がある一方、軟質石材の安易な彫りも多く、保存状態はよくありません。
 近代は、豊満さを強調した母子像や、細部まで像容を同じくする意匠の定番化がみられるようになります。 

 
4. 「子安像塔」成立の背景
 元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗、石仏を彫る技術の普及、「慈母観音」像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感がありました。
 慈母観音像は、16~17世紀初頭、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも多量に輸入された白磁製の像で、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、17世紀半ば、「子安観音」として各地方に普及、浸透していったと考えられます。
 

印西市内の近世後期以前の子安塔
・子安神の石祠・文字碑(旧町村別)
 印西 宮内 鳥見神社  元文3年(1738)=「子安大明神」石祠  
 印西 松崎 火皇子神社 寛延3年(1750)=「子安大明神」笠付角柱型
 印旛 山田 宗像神社  寛延3年(1750)=「子安大明神」石祠
 印西 白幡 八幡宮    宝暦12年(1762)=「子安大明神」石祠
 印旛 瀬戸 宗像神社 安永3年(1774)=石祠
 印旛 吉田 宗像神社 安永4年(1775)=笠付石祠
 印旛 師戸 宗像神社  安永4年(1775)=唐破風型石祠「子安大明神」 
 本埜 竜腹寺 日枝神社 安永5年(1776)「子安□・・・□」石祠 
 印西 明神前 宗像神社 寛政10年(1798)「子安大明神」石祠

・子安像塔(旧町村別)
 本埜 行徳 稲荷神社 宝暦5年(1755)「十九夜念仏講中」③思惟相型
 印旛 平賀 不動堂  明和元年(1764)「念仏講中善女」③思惟相型 
 印旛 平賀 観音堂  明和元年(1764)「(女)講中」③思惟相型
 印旛 鎌苅 東祥寺  明和 5年(1768)「普門品供養・・」墓標仏 上部欠 
 本埜 滝 瀧水寺    安永5年(1776)「子安観世音」①二児型
 印旛 岩戸 西福寺    安永5年(1776)「講中」 
 本埜 下曽根市杵島神社 安永8年(1779)「十九夜塔」①二児型 
 印旛 岩戸 高岩寺    天明4年(1784)「十五夜」
 印西 松崎 火皇子神社  天明7年(1787)
 印旛 吉高 大日堂     天明 8年(1788)(村名)  
 印西 鹿黒 火の見下    享和2年(1802)「講中」
 印旛 岩戸 高岩寺  享和3年(1803)「講中二十七人」
 印西 宮内 鳥見神社  文化3年(1806)②石祠内に浮彫像
 本埜 角田 薬師堂     文化9年(1812)「子安供養塔 講中」
 印旛 吉高 公会堂     文化15年(1818)
 印旛 岩戸 高岩寺     文政2年(1819)「子安塔」未敷蓮華をもつ
 印旛 岩戸 広済寺    文政6年(1823)「子安大明神 女人講中」
 印西 小林 光明寺墓地 文政8年(1825)「女講中」
 印旛 瀬戸 徳性院    文政10年(1827)
 印旛 山田  集会所 文政11年(1828)
 本埜 角田 薬師堂     文政13年(1830)
 本埜 行徳 稲荷神社   文政13年(1830)

 参考資料:『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』榎本正三 崙書房、 
        『石との語らい』印西町教育委員会 平成4年

|

« W-2 北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜- | トップページ | D-1 鎌倉の「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と、大江公など3基の墓穴のなぞ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/107552/59316550

この記事へのトラックバック一覧です: W-3 印西市内の民間信仰の石造物&北総の子安さま:

« W-2 北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜- | トップページ | D-1 鎌倉の「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と、大江公など3基の墓穴のなぞ »