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2012年8月19日 (日)

W-2 北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜-

平成24年8月19日 日本石仏協会主催 第34回石仏公開講座(於:大正大学) 
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           北総の子安像塔-近世石塔に現れた母子像の系譜-                                                                                                               蕨 由美

(1)「子安像塔」とは
「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠を言う。そのよび名は「子安さま」「子安観音」「子安大明神」「子育て観音」とさまざまであるが、ここでは、母性を明らかにした主尊が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を月待塔も含め、全て「子安像塔」と呼ぶことにする。

(2)北総の子安塔をたずねて
北総は、庚申塔と並んで、女人講による月待塔や子安塔の数がたいへん多い地域である。特に八千代市とその周辺では、寺院や神社の境内、かつて仏堂だった地区集会所などに子安像塔が建ち並でいるが、その多くは近世末から近代にかけての石塔で、祠の中に大切に祀られているもの、雨風にさらされ崩壊寸前の姿のもの、今も続く子安講が建てた真新しい塔などさまざまである。
北総の子安塔について先行する調査研究では、榎本正三氏の印西市を中心にした女人信仰研究の著書論文があるが、当時は『千葉県石造物文化財調査報告書』(昭和55年)のほか北総全体の石造物データが不十分で、子安像の初出とその系譜を把握するに至っていない。この度改めて子を抱く像の淵源を求め、北総全体をフィールドに調査を行ってみたところ、約934基の子安像塔、特に子安像像容の成立にかかわる江戸中期(1717~1803年)までの子安塔については109基の像容を把握することができた。子安像塔が濃密に分布する北総においてこれらの像容を図像学的に分析することにより、その成立と発展の系譜、すなわち庶民が儀軌にとらわれない新しい神仏の姿を創造していくプロセスが明らかしていきたい。(なお市町村は1991年4月時点の名称・区域による)

1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
北総の悉皆調査データがそろっている10市町村の月待塔と子安像塔、そして子安神名などを刻んだ石祠を年代別に集計し、表1~3と図2~3に、筆者調査の北総の全子安像塔数を図4に示した。
月待塔のほとんどが如意輪観音像の十九夜塔であり、その数は、江戸時代17世紀後半から18世紀代にかけて500基(石田年子氏の千葉県全体での把握数は1200基以上)建てられているのに対して、子安像塔の数は1割にも満たず18世紀末(寛政12年)までで29基にとどまる。
子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に数が増えるが、その多くは、八千代市や印旛村とその周辺に限られることから、この要因はこの地域の各子安講が数年おきに連続して建立する「イシダテ」の風習に由来するものと思われる。
一般に十九夜塔が多い利根川べりなどの地域から子安像塔が生み出されてくるといわれるが、むしろ月待塔が少ない酒々井町で18世紀末までに8基の建立があり、この傾向は、隣接する印旛村・本埜村・成田市がそれに続くことから、北総の子安像塔発祥の地域として酒々井町域が注目される。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
千葉県で最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の石祠で、元禄4年(1691)「子安大明神」「百見木村」「戸国村」の銘をもつ。
(⇒右図)
北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像が初出であるが、特異な像容で、後続の子安像塔とのつながりが見いだせない。
次いで、元文5年(1740)銘の酒々井町の子安像石祠と、同年銘の利根川沿いの栄町の光背型「子安観音」坐像、そして翌元文6年(1741)銘の「八日講」(出羽三山信仰の講)の子安像塔が小見川町で現れる。
元文5年酒々井町の子安像石祠は、①二児を配した子安像が、②石祠内にあることで、この2つの珍しい特徴は、袖ケ浦市百目木の元禄4年の「子安大明神」石祠の特徴であり、また北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっている。
            
① 二児を配した子安像
主尊の肩と懐に二児を配する像容は中期で14基ある。地域的には、酒々井町から、佐倉市・本埜村を経て光背型となり、下総町・成田市に伝播し、栄町では中期~後期の子安像の特徴点となる。

② 石祠内の子安像
子安像を彫った石祠は、ムラの産土神社境内の子安神社に子安大明神として祀られていていることが多い。中期では酒々井町・成田市・佐倉市・千葉市で計8基、後期では印西市・船橋市・白井市などでもその姿が見られる。八千代市や八日市場市では「子安大明神」銘の文字のみの子安石祠が多く、子安像は見られない。        

③ 思惟相型の如意輪変形像
酒々井町域は、さまざまな像容の子安像が試作されたところで、同町尾上住吉神社では宝暦元年、如意輪観音像の右手が思惟相のままに、左手に子を抱かせた「子安大明神」像が創られた。17世紀年後葉から如意輪観音像が主尊の十九塔が多造されていたので、如意輪観音像の変型の子安像が早くに現れても不思議ではないと思われるが、意外にもこの像が最初である。その後、印旛村・富里市・船橋市にも造られ、江戸中期の事例が計14基みられる。これらの思惟相型の如意輪変形子安像は、同時に二児がいる像や石祠内の子安像のものも多く、酒々井町からの伝播の過程が類推できる。

④ 横向きに傾斜した像容
如意輪観音の変形像の首を立膝側に傾けた姿勢は、頬に当てた右手を腹部に回して両手で子を抱き抱え、視線を子の方に向けることで、慈愛の表現がより強くなる。
安永7年(1778)千葉市大宮安楽寺の石祠内の子安像は思惟相の上体の傾斜が残る如意輪像の変型で、右立ち膝の斜めのラインと上体の斜めのラインが平行する。丸みを帯びた宝髻と被布のようにも見える長い垂髪が優雅である。子を懐に入れ、右へ傾斜したこの姿勢は、天明6年(1786)千葉市旦谷町などの光背型となり、千葉市市域の像容の特徴として、江戸後期に継承される。
逆に立膝の反対の左側に上体が傾斜した姿勢は安永5年(1776)の印旛村の例に始まり、千葉市など各地で数点見られる。

⑤ 正面を向いた子安像
酒々井町で子安像塔が生まれたころ、利根川南岸の栄町と小見川のムラの小さな仏堂境内などでは、月待塔に正面を向いた子安像が生み出された。
その後、下総町や栄町では、この正面向きの母像に二児が戯れる子安像が現れ、また小見川町や隣接した佐原町、神埼町の母子像は、膝に抱かれた子が正面向きで蓮華を持ち、あるいは合掌するなど子の姿が多様化し、やがて後期の文化文政期の複雑な像容へと変化していく。

⑥ 蓮華を持つ子安像
月待塔では、如意輪観音像を主尊とする十九夜塔が圧倒的に多いが、銚子市・佐原市・成田市など東総では、江戸時代前期から中期の初めにかけて、十五夜待・十七夜待などの銘文と共に、聖観音像や地蔵菩薩、勢至菩薩、大日如来像を主尊とする月待塔がみられ、銚子市では、蓮華を持った聖観音菩薩に子を抱かせた像が早くから登場する。また六臂像の持つ蓮華をそのまま左手に持った二臂の如意輪観音像が、正徳期ごろから北総各地に現れ始め、子安像塔も蓮華を持つ像容が多くなり、江戸後期は北総の子安像塔の主流となる。                
以上の北総における子安像塔の成立プロセスを、図5に示した。

3. 江戸時代後期から近現代までの特徴ある子安像塔
北総には、江戸期の紀年銘のある子安像塔が、江戸中期末1803年まで109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基、計404基現存している。後期前半の文化文政・天保期に、千葉市・佐倉市・印旛村・佐原市などで増加、中期ではほとんど見られなかった印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市・沼南町においてもその数が急増する。青面金剛像を刻む庚申塔が、江戸後期後半になると像容のない文字塔になっていくのと対照的である。
また中期に皆無だった柏市・習志野市・鎌ヶ谷市などでも後期に若干みられようになるが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されず、東葛地域内でも分布に明瞭な境界が存在する。さらに明治から近・現代にかけて525基の造立が続くが、その傾向も、白井市・八千代市・印西市・印旛村・千葉市など印旛沼西側周辺から花見川にかけての地域に偏った分布がみられる。
子安像塔の像容や形式は、江戸中期から江戸後期・近代・現代で、大きく変化するが、そのうち江戸後期から近代までの特徴ある像容を紹介する。

① 蓮華を持つ正面向きの子安像
中期に特有の、1.石祠内に像を刻む、2.胸と肩に二人に子がいる、3.右手を頬に当て傾斜する思惟相、という三つの像容の特徴は、後期後半には、ほとんど見られなくなる。
江戸後期から近代、主流を占めるのは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像である。授乳姿も多いが、乳房を見せる表現は文化4年ごろからで、江戸期は近代ほど積極的ではない。天衣を優雅にまとい、また光輪がつくこともあり、江戸時代後期の化政期から天保期では、個性的で円熟した作風がおおい。
近代では印西市の右側の写真のように、天冠台上の宝髻を高く直線的に表現し、正面を向き、右手で子を抱く特徴的な像容が数多く造られる。左膝の前に波打って下がる衣の裾、子の右手が母像の左乳房をつかみ左手に達磨を持つなど細部まで同一の生真面目な作風の像は、明治期後半から現代まで計59基を数える。
そのうち、天衣が両肩から頭部背後に水平に広がり逆三角形を形作る典型像は43基であり、同一意匠の複製が量産される近現代の特徴点を表している。

                                               
 ② 横向きに傾斜した像容
中期の千葉市域に多くみられる半跏方向に傾斜し懐中の子をみる像は、後期にも連続して増加、分布も広がる。文化6年白井市、文化11年八千代市の子安像塔は、ともにその市域の初出である。
            

③ 児が這い上がる姿を動的に表現する子安像
中期にはなく、後期になって造られ愛好された像容として、乳幼児が母の膝上に這い上がる後ろ姿を動的に表現する子安像があり、北総では江戸後期に17基、明治期に6基がみられる。
この膝に這い上がる子を右手で受けて授乳を促す精巧で華麗な像は、天保十年代に北総西部の船橋市と鎌ヶ谷市を中心に、そして印西市・八千代市・印旛村では明治期に流行した子安像である。
            
 
④ ふくよかな母と子の像
明治時代初頭から大正年間に八千代市西部~白井市~船橋市東部の子安塔群に、ほのぼのとしたふくよかな母子像が見られる。
近代という時代に適応した新しいデザインで、乳を無心に吸う丸々とした子と童女のようなあどけない表情の母の姿が特徴。フリルのあるよだれかけをした子供の頭部が大きく強調され、母像の髪型は、被布のように長く垂らした髪を頭頂で双髷に結いあげ、リング状の宝冠を着す。
ふくよかで栄養がいきわたったような母子像は、大正2年の八千代市村上の辺田前公会堂の子安塔で頂点に達する。富国強兵を背景に『産めよ増やせよ』の時代、そして宗教的な因習を排し、母子保健に力が注がれた時代を象徴するような像容である。                    大正2年(1913)八千代市
 このタイプの子安像塔は類型を入れて33基あり、昭和9年(1934)の八千代市大和田新田の子安塔で終焉する。 
そしてこの後、戦争の時代を迎えるとともに子安塔を建塔するムラも少数となる。                

⑤現代の子安像塔
佐倉市・八千代市・印旛村の旧村では、戦後再び造塔が盛んになり、1945年からの数は、現在114基を超えている。
昭和50年代(1975~)ごろから機械による石材加工の技術も進み、現在も子安講がまだ続いている地区では、伝統的な像容をアレンジした美しい像の造塔が、行われている。

(3)考察:「子安像塔」成立の背景
江戸時代の前半、東日本ではおびただしい数の如意輪観音の十九夜塔が、ムラの十九夜講に集う女人たちによって建てられた。女性は皆、お産や月経で穢れた身なので死後は血の池地獄に落ちるとされ、そこから救済されるためには、如意輪観音菩薩にすがり念仏を唱えることが必須とされたからで、この如意輪観音を祀る女人信仰が、江戸後期に子安信仰へ変化する過程で、「子安観音」が生み出されたといわれる(注1.)が、その時期は、地域によって異なる。
筆者は、子安信仰は仏教的な祭祀とは別に、「道祖神」や「子安石」(丸石や女陰石)を祀る習俗や「子安大明神」を祀る神道的祭祀がムラやイエの基層信仰としてあり、その祭祀の中で子安像塔も創造されたと考える。
縄文時代からの安産のお守りのタカラガイを「子安貝」と呼ぶように、「子安」という言葉は、男女の交わり⇒子宝⇒安産⇒子の健やかな発育という原始からの現世的利益を祈願する信仰を表す。
この素朴な子安信仰が、石祠内にお札の代わりに、「子安明神」の姿としてその浮彫りや丸彫り像を祀る子安像塔を生み出した。
またこの子安像は同時に、聖観音・如意輪観音などの観音菩薩像や、本来が子安祈願であった出羽三山の湯殿山信仰の本地仏大日如来像と習合して、舟型光背に子を抱く「子安観音」の石仏が創出された。
そのため、「子安観音」の像容は仏像風だが、仏教の変化観音(三十三観音)の儀軌にはないオリジナルな石仏であり、江戸時代の地域の民俗信仰に由来すると言ってよいだろう。
           
一方、「慈母観音」や「悲母観音」といわれる像がある。その姿は、頭からすっぽりと白い布を被る女性像で、子を抱く像も多い。これらの像容は、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも輸入された観音像に由来する。中国の「送子観音」は、子宝に恵まれることを祈願目的として「送子娘娘(ニャンニャン)」を祀る民俗信仰から生まれた像で、現在も盛んである。
「白衣(びゃくえ)観音」は、三十三観音の一観音菩薩で、古くからインドで崇拝され、仏教に取り入れられてからは阿弥陀如来の后、観音菩薩の母ともされた。
16~17世紀初め、明で生まれた「慈母観音」像は、当時の中国での地域文化への適応を推し進めたイエズス会宣教師マテオ・リッチが作らせた「東アジア型聖母像」であり、白衣は、聖母の純潔を象徴し、幼子はイエスを表す。特に福建省で大量生産された白磁の慈母観音像は、海商鄭父子によって福建省から長崎に運ばれ、当時の潜伏キリシタンの霊的需要を満たしたと、若桑みどりはその著『聖母像の到来』(注2.)で述べている。
白磁の慈母観音像*は、輸入品を模して平戸でも造られ、その像容が如意輪観音像よりも、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、安産子育てを願う村々の女性達に受け入れられ、17世紀半ば、「子安観音」として、急速に各地方に普及、浸透していったと考えられる。もちろん石造の子安像のもととなった図像として、掛け軸の画像や木彫の像もあったであろうが、17世紀初頭以前にさかのぼる年代の明らかなものはほとんど現存してない。

以上、江戸時代、17世紀後半から18世紀前半の元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、次の3つの要因があったと考えられる。
①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗
②石仏を彫る技術の普及
③慈母観音像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感

追記*白磁の慈母観音像について
慈母観音像は、長野県山ノ内町の福昌寺と旧見王寺、旧真田藩海野家、兵庫県篠山市畑大渕の長徳寺などに現存し、文化財や寺宝となっている。
東京国立博物館に37点収蔵されている白磁の像は、いずれも、幕末と明治初期の長崎浦上のキリシタン大弾圧の際に、信徒から押収したキリシタン遺物である。
関東では茨城県小美玉市の文化財に、明朝より伝来の秘仏という白磁製「子安観音像」がある。宝永年間(1704~1710年)ひとりの信者が長崎において霊夢を蒙り授けられた観音像で、もと、竹原中郷の長福寺(天台宗永福寺末)境内にあったものと伝えられる。
千葉県では、昭和29年(1954)に大多喜町台区の西福寺(明治元年廃寺)の薬師堂内から発見された「白磁製マリア観音像」が、千葉県立中央博物館大多喜城分館に収蔵され、大多喜町指定有形文化財になっている。
また袖ケ浦市の百目木の子安神社にも、この白磁の慈母観音像が安置されている。ここには、子安像塔の千葉県内初出とみられる元禄4年(1691)銘の「子安大明神」の石祠が祀られてあり、子安像成立にかかわる接点が推定できる。

参考文献
注1. 榎本正三『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』崙書房 平成4年
注2. 若桑みどり『聖母像の到来』青土社 平成20年

参考電子データ 「下総地方中部8市町村石造文化財データベース2011年版」白井豊・吉村光敏・吉田文夫・西岡宣夫

筆者の既報告論文 「北総の子安像塔の系譜=江戸時代中期におけるその出現と成立について」2010年9月 『房総の石仏』第20号
「北総の子安像塔=江戸時代後期(文化~天保期)の展開について」   2011年7月 『房総の石仏』第21号
「北総の子安像塔=江戸時代末期から現代までの様相について」     2012年8月 『房総の石仏』第22号
いずれも 房総石造文化財研究会(野田市古布内1682-3石田年子方 ℡04-7196-3375)発行

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