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2012年6月 3日 (日)

Z-5 微笑みの貴婦人=万治・寛文の十九夜塔


白井市延命寺の十九夜塔

 1670_103_3先日、白井市郷土資料館へ寄った際、私の大好きな延命寺の十九夜塔が、白井市の新指定文化財になったとのお知らせが掲示されていました。

 寛文十年(1670年)の銘をもつ白井市では最古の十九夜塔で、舟型光背に如意輪観音が穏やかに微笑みながら瞑想しています。
 不自然さのない六本の腕は、儀軌の通り、右手は頬を当てて思惟相を示し、胸前で如意宝珠、右脇下で数珠を、左手は膝に触れ、胸前で未開敷蓮華を、また高く上げて法輪を持っています。

 硬質の安山岩、高く余裕ある光背には、観音を意味する梵字「サ」、「奉造十九夜塔念佛結願 為二世安樂也結衆敬白」「寛文十庚戌天八月吉日 下総国印判郡印西庄平塚村願女丗四人」と丁寧に銘文が陰刻されています。

 延命寺は寛弘2年(1005)の開山とのことですが、境内の記念碑と平成13年に発見された本堂棟札によれば、現在の伽藍が整うのは、江戸初期の平塚村の大火後、万治3年(1660)6月の本堂再建時からで、時の領主で家督を継いだばかりの井上筑後守政清(先代政重はキリシタン弾圧政策の中核)の命によるところが大きかったようです。
 寛文8年(1670)に観音堂が建てられました。この十九夜塔、前は観音堂の所にあったそうです。

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 さて、このような神々しさと美しさをかねそなえた像を刻む石造物が、広く庶民の心のよりどころとなったのは、北総では万治3年(1660)から寛文10年(1670)までのほぼ十年間といってよいでしょう。

 特に、十九夜塔は、万治2年までの少数多形態の揺籃期から、光背型に如意輪観音像を刻む典型的な石塔へと一変し、貴婦人の微笑みを秘めた如意輪像絶頂期がこの後、江戸時代初期の正徳5年(1715)まで花開きます。


山武市戸田の金剛勝寺の万治三年銘十九夜塔

 16605s_2如意輪観音像を浮彫りした光背型のティピカルな十九夜塔が出現するのは、千葉県では万治3年(1660)山武市戸田の金剛勝寺の石塔からでしょう。 

 丸彫のような立体的な二臂の姿は、伏し目がちで深い瞑想の境地に達しているよう。

 高い光背には、阿弥陀三尊の種子と「奉唱十九夜塔念佛結集百四余人 現当二世安樂祈處」「万治三年庚子三月十九日関東上総国戸田村願主法印」の長い銘文が刻まれています。

 戸田は、千葉東金道路の通る街道筋の集落で、金剛勝寺には、山武市の指定文化財の鎌倉時代と推定される善光寺式の阿弥陀三尊の銅像と江戸以前の木造愛染明王座像あります。



山武市松ヶ谷の勝覚寺の十九夜塔

 1663また東へ数キロ行った九十九里海岸寄りの松ヶ谷の勝覚寺にも、寛文3年(1663)の十九夜塔があるとのこと。

 勝覚寺は、「木造四天王立像」(千葉県指定重要文化財・鎌倉時代)が安置されていて、通称「してんさま」と呼ばれている古刹です。 

 525日に訪ねたところ、翌日の文化財一般公開の準備中、本堂の脇の扉が開いていたので、のぞかせていただくと、2mを超す巨体の四天王の力強い彫像が4躯、本尊のお釈迦さまを守っています。

 

 さて、目当ての十九夜塔がみつからないので、お忙しそうなご住職にお聞きすると、墓地の石仏を集めた万霊塔(無縁塔)を案内され、よく見ると塔婆立ての裏に金剛勝寺の万治の石塔によく似た如意輪観音像塔があります。
 白いカビの繁殖がひどく銘も読みにくくなっていますが、お顔の表情には気品があります。

 坐像の1.5倍ぐらいの大きな光背や銘文の配置、そしてなにより浮き彫りの如意輪観音像の像容は、戸田の十九夜塔とほぼ同じと思われます。

 資料によれば、「奉造立如意輪 十九夜念仏結衆四十六人求之」の銘です。

 

寛文期の印西市からの広がり16652s

千葉県内の初期(黎明期)の十九夜塔は、
・明暦元年(1655)の普賢院の六地蔵立像石幢
・万2年(1659)の大正寺の宝篋印塔
・万治元年(1660)金剛勝寺と如意輪像塔
・寛文3年(1663)勝覚寺の如意輪像塔

と、山武郡に集中して造立されます。

 

 しかし、なぜかその後この地域での造立は続かず、寛文8年(1668)ごろから利根川沿いと印旛沼周辺に場所を移して、二臂または六臂の如意輪観音像を刻む優れた像容の十九夜塔が次々に現れます。

 

 寛文3年以降、寛文12年までの十九夜塔で、私が実見したのは以下の通りです。

・寛文5年(1665)=

 印西市小倉青年館(二臂像) 右上画像

1668s

・寛文8年(1668)=
 旧印旛村松虫寺(六臂像)右画像

 印西市和泉青年館(六臂像)

 印西市大森古新田青年館(天蓋付・六臂像)

・寛文9年(1669)=

 印西市光明寺(六臂像)右下画像

 佐倉市臼井実蔵院(六臂像)


  

・寛文10年(1670)=

 白井市延命寺(六臂像)、

 千葉市宮野木甲大神(二臂像)

 香取市木内区民センター(二臂像)

  

・寛文11年(1671)=

 印西市戸神青年館(六臂像)

 千葉市星久喜町千手院(二臂像)

 八千代市村上正覚院(丸彫・二臂像)

 白井市名内東光院(六臂像)

1669921s


・寛文12年(1672)=

 白井市所沢寮(六臂像)

 印旛村平賀観音堂(六臂像)

 佐倉市臼井田常楽寺(二臂像)

 香取市篠原イ(六臂像)

 

 六臂像が11基、二臂像が5基の計16基で、丸彫1基をのぞいてすべて舟型光背型、硬質の安山岩製です。 

 印西市和泉青年館のように厳めしい表情の顔立ちの像もありますが、寛文期の如意輪観音像塔は、おおむね穏やかで気品あるその表情が、江戸期の像容の中でも特に際立って美しいといってよいでしょう。

 またこの時期、江戸を中心に武蔵・相模・葛飾の多くの町や村では、おびただしい数の墓塔(故人の供養塔)や庚申講・念仏講の供養塔に、美しく優れた地蔵・観音菩薩像や如来像・明王像などが刻まれ始めたころでもありました。



167010s利根町押戸の十九夜塔
 利根川対岸でも、寛文10年(1670)に利根町押戸の毘沙門堂に、印西市小倉青年館像に類似した二臂の如意輪観音像の十九夜塔が建立されています。

 

 この石塔は、利根町の徳満寺と布川神社の板碑型で線彫りの十九夜塔とは、石造物として質的に異なる形態であり、むしろ、利根川沿いの印西市が中核となって広がる一周辺地域での現象と考えるべきでしょう。

 

 かくして、十九夜塔は、瞬く間に四方の村々へ伝播し、現代までの間、千葉県だけで約2000基を数える代表的石造物となります。

 その理由には、江戸初期の万治・寛文の時代、主尊の如意輪観音像の像容に、美しい貴婦人の姿が与えられたから、かもしれません。

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