Z-4 筑波山ろくの十九夜念仏塔発祥の地を探る
庚申塔と並ぶ数の多さで、江戸時代の北関東に村々を席巻した十九夜塔は、どのように発生したのでしょうか。 ↓平沢官衙遺跡
利根町布川の2基の如意輪観音像を刻んだ万治の「十九夜塔」(Z-2)が出現する背景として、利根町大平神社の「寛永十五年(1638)九月十九日」の「時念仏塔」が「十九夜塔」への発展の萌芽を宿す塔として、先輩諸氏から注目されてきたことを前回(Z-3)でご紹介しました。
つくば市平沢八幡神社の「寛永九年三月十九日」銘石塔を訪ねて
さらに、文献でこのルーツを遡ると、石田年子さんの「利根川中流域の女人信仰」(2006)*1では、「十九夜念仏塔の初出は現在のところ、つくば市平沢の八幡神社に造立された寛永九年(1632)のもの」とされています。
この塔は、雲母片岩に稚拙な彫りで日月と蓮華座に座す仏像を刻み、造立日が「三月十九日」であることから、十九夜塔とされているとのことです。
この塔を見たくて、筑波山麓までドライブしたのは、2012年1月25日、Z-1で報告した石納の結佐大明神を訪ねた日の午後のこと。
冬日が西へ傾きはじめたころ、平沢官衙遺跡の後方の丘の中腹に立つ八幡神社に着きました。
(市販やネットの地図では「八坂神社」となっていて、要注意です。)
この神社は、鎌倉時代、鎌倉の鶴岡八幡宮から 分霊を勧請、境内は鶴岡八幡宮に似せて造営したとのことです。
流鏑馬もできそうなまっすぐ伸びた参道と、その先の階段を登った社の、山を背景にしたたたずまいは、たしかにミニ鶴岡八幡宮の趣があります。
境内の社殿の前には、茨城県指定文化財の石造六角地蔵宝幢があります。
文字の消えかかった教育委員会の説明板では、高さ168㎝の花崗岩製で、16世紀末ごろの製作。
このころ筑波山麓では石造六角地蔵宝幢の造立が流行したとのこと。
これらの宝幢の特徴は、石灯籠と同じように笠に蕨手があることで、そのため六地蔵石灯籠といわれていたそうです。
さて目的の「寛永九年の石塔」探しです。
社殿の裏側にも板碑型の石塔や石仏がありますが、お目当ての石塔はここでは見つからず、社殿右側の脇をやや降りたところの児童館の庭に、雲母片岩の同じような板碑型の石塔が数基ぐらい、土留めをかねてずらっと並んでいるのが見えます。
いずれも彫りが浅く、風化していますが、一つ一つ銘文と図像を確かめてみると、石田さんの報告の挿図と同じ石塔がありました。
上に日月、真ん中には蓮の花にうえに、大日如来(あるいは阿弥陀如来?)と思われる仏像が浅く彫られています。
銘文は「十九日」がかろうじて読める程度です。
その左手にも日月に種子(弥陀三尊と大日如来か)を刻んだ同様な板状の石塔があります。
デジカメでは銘文がはっきりしないので、あとで『筑波町石造物資料集 上巻』で調べると、拓本が載っており、「寛永九年壬申」と「三月十九日願主敬白」の読みは確かなようでした。
布川大平神社の石塔と同じく、他は「吉日」と記すところ、「十九日」にこだわるこの石塔の趣旨は何なのでしょうか。
つくば市北条新田の「寛永十年 十九(夜念仏)」塔の姿
さて、中上敬一氏は、「茨城県の十九夜念仏塔」*2.で、『最古の塔はつくば市北条の寛永10年(1633)の上部に弥陀3尊種字、中央に「奉造立石塔者号 十九念仏」と刻む自然石文字塔である』とされています。
平沢八幡神社の石塔は、坐像の像容がはっきり識別できず、大平神社の石塔と同様に、十九日の日付のみでは十九夜塔と認定していないという見解からです。
実は、昨年(2011)9月、筑波山ハイキングの帰りに、この石塔を探して、泉子育て観音として知られる北条の慶龍寺に寄って、ご住職にこの石塔の場所をお聞きしましたが、北条地区内、あるいは通称「北条新田」というだけではわからずじまいでした。
日をあらためて、つくば市教育委員会に電話で問い合わせたところ、とてもわかりにくい場所ということで、地図をFAXしてくださいました。
その地図をたよりに、さっそく2月10日、探索に向いました。
通りがかりの方にお聞きしてもよくわからず、確かに探しにくい場所で、やっと民家と八幡川にはさまれた大きな榎の根元に数基の石塔があるのを見つけました。
(Googleの地図では[36.164749,140.105398]の地点です。)
その中に、ほとんど前かがみに倒れそうになっている先のとがった板状の石塔があります。
レフで光を下から反射させてみると、日月と弥陀三尊の種子だけがかろうじてわかり、これが寛永十年の石塔のようです。
銘文を自分の目で検証するのは難しく、結局、『筑波町石造物資料集 上巻』*3.のデータの銘文「五十□人 敬白 / □□・・ /奉造立石塔者十九□□/ 寛永十年□酉 八月吉日」を信じるしかありません。
この石塔の周りには、寛政十二年(1800)の「庚申供養塔」、種子(キリーク)に「十九夜念仏供養」銘の雲母片岩の塔、花崗岩の「十九夜供養」の文字塔や、銘のない石仏(大日如来か阿弥陀如来?)浮彫の雲母片岩の石塔などが、それぞれ樹の根と一体になって残されていました。
傍らに集会所のような小屋があり、もとは「念仏小屋」があったらしいようです。
筑波山山麓の石造物は、中世前期に律宗系の大きく精巧な五輪塔や宝篋印塔、丸彫りの地蔵像など優れた石造物を残しましたが、江戸時代前半の念仏塔・庚申塔・十九夜塔などは、光背型浮彫像の石塔より、雲母片岩の自然石に種子や文字を刻んだだけの素朴な石造物が多いようです。
これらは、プロの石工の手になるというより、修験の行者などが、彫りつけたもののようにも思えます。
いずれにせよ、筑波山麓の2キロの近距離にある2基の石塔の存在から、十九夜塔の発祥地は、北条や平沢、小田など中世にさかのぼる集落のある筑波山麓の地域と思われ、また大日如来や阿弥陀如来を主尊とした「念仏供養塔」がその母体と推測されます。
その念仏塔が、「十九日」の造立日や「十九夜(供養)」にこだわる「十九夜念仏塔」へ、そして如意輪観音を主尊にする「十九夜塔」へ発展していくルートは、なんとなく理解できたように感じられますが、なぜ「十九」なのか、その後、なぜ如意輪観音を主尊とする女人講の主流が一気に「十九夜講」となるのかは、やはり疑問のまま残りました。
参考文献
*1. 石田年子「利根川中流域の女人信仰-野田市・十九夜塔を中心にして」 『研究報告』第10号 千葉県立関宿城博物館 2006
*2. 中上敬一「茨城県の十九夜念仏塔」 『茨城の民俗』第44号 2005
*3. 『筑波町石造物資料集 上巻』 筑波町史編纂委員会 1983
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