Z-3 利根町大平神社の謎の「念仏供養塔」と「時念仏」
千葉県で2番目・3番目に古い十九夜塔の画像を再掲
我が家のある印旛沼周辺は、江戸時代前半の塔が、浮彫の如意輪観音像を刻む十九夜塔が数多く残されている地域ですが、千葉県で十九夜塔成立のルーツを追っていくと、利根川べりの承応元年(1652)石納結佐大明神の石塔(宝篋印塔か)、そして九十九里に沿った山武郡の2基、明暦元年(1655)の普賢院の六地蔵立像石幢と、万治2年(1659)大正寺の宝篋印塔に至ることを、「Z-1 千葉県最古の十九夜塔を訪ねて」に書きました。
おかげさまで、骨折した足も癒えた2012年4月25日、芝山町の普賢院 (⇒画像)と、山武市の大正寺(↓画像)に行くことができましたので、その時撮影した千葉県で2番目・3番目に古い十九夜塔の画像を改めて掲載します
さらに山武市内には、他に戸田の金剛勝寺に万治元年(1660)銘、松ヶ谷の勝覚寺に寛文3年(1663)銘の如意輪観音像を刻んだ光背型の十九夜塔が2基あり、その後の寛文年間後半に北総全体に広がる如意輪観音像浮彫の十九夜塔全盛期を予告しているようですが、沖本博氏がご指摘(*4)の通り、山武郡における寛文年間までの初期十九夜塔は、この4基のみで終わっています。
一方、利根川下流域の旧佐原市と旧印西市、その北岸の利根町に淵源を求めてみると、「Z-2 利根町の如意輪観音像を刻む最古の十九夜塔」で報告したように、利根町布川の万治元年(1658)と万治2年(1659)銘の2基の如意輪観音像線彫りの板碑型十九夜塔にいきあたりました。
さて問題はこの先です。
如意輪観音が主尊として確立する以前の十九夜塔は、いかなる信仰形態をし、どのような姿をしているのか、先輩方の文献にでてくる石造物を同じ利根町で追ってみたいと思うのですが・・・
利根町大平神社の石塔群を訪ねて
実は、布川の徳満寺を含め、利根町の十九夜塔や子安塔を訪ねたくても、利根町の石造物については、調査報告書が刊行されていません。
『利根町史』(*1.)に、たとえば寺社の項目には「大平神社 大平/祭神 大国主命/(中略)/石塔 念仏供養塔 寛永十五年(1638)外10基 /宝篋印塔 寛永四年(1627)建立 村念仏衆次の通り。北方村43人(以下、9つの村名と人数 略)」、布川の徳満寺の記述も「十九夜念仏 寛文六年(1666)。外石塔類20余基」と記されているだけなのです。
そのような状況で、大変役に立ったのは、「タヌポンの利根ぽんぽ行」というサイトです。
利根町の寺社・史跡・民俗行事などが探訪地図付で丁寧に紹介され、石造物についても、画像と銘文、寸法をつけて見たままに掲載されています。
このWebサイトに助けられ、十九夜念仏塔らしい「石塔 念仏供養塔 寛永十五年」を探して利根町大平神社を訪ねたのは、前日の雪が残る2012年2月初めでした。
榎本正三氏の「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(*2.)によれば、初期の十九夜塔は、念仏信仰、特に「時念仏」と不可分な関係にあるらしいとのことです。
中上敬一氏の「時念仏信仰」(*3.)によると、時念仏とは、二世安楽を祈念して食事を一日一食にして己が身を苦しめ、精進潔斎をして一日念仏勤行を行った逆修供養の一つです。
供養の期間は三年あるいは三年三か月で、毎月の功徳日に村の寺堂に講員一同が集まり昼食を共にし、念仏と和讃を唱え、満願成就のあかつきには石造の供養塔を建てました。
中世では西日本に、「時衆」や「斎講」などの銘がある時念仏供養の板碑や宝篋印塔が二十数基あるそうです。
関東では寛永2年からの江戸初期の時念仏塔が、つくば市など茨城県南部に集中して多く、それらは塔の形態は大日如来や湯殿山を本尊とし、出羽三山信仰を背景としていること、また自然石に石仏を平面的に刻む素朴な姿が特徴です。
さて、利根町大平神社の石塔群ですが、『利根町史』にある宝篋印塔は、2011年3月の大地震で相輪部分が倒れて脇に横たえてありました。
中上氏の「時念仏信仰」(*3.)によれば、塔身に金剛界五仏と露盤に弥陀三尊を表す種子、基礎右側面に「寛永四年三月十四日時念仏結集敬白」、正面に「奉造石塔1基時念仏三年三月」のほか文間郷10ヵ村284人の村ごとの人数が記されていて、郷土史の資料としても貴重な時念仏塔とのことです。
寛永十五年の謎の石塔
この宝篋印塔の右上に、謎の石塔(石祠・石龕)があります。
「タヌポンの利根ぽんぽ行」の記事に、〈その背後の壁面をよく見ると、「寛永十五年」「念佛之」「九月十九日」という文字が断片的に見えます。(中略)町史にある「念仏供養塔」と推定しました。〉とあります。
私も中をのぞいて、文献を参考にデジカメの記録から銘を読むと、「(種子)寛永十五年(1638)戊刁/奉造立文間五ヶ村念仏之誦衆/九月十九日本願三海」とありました。
種子はアーンク(=大日如来)、刁(チョウ)は「寅」字の異体字です。
榎本氏が「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(*2.)に写真入りで紹介され、沖本博氏が「九月十九日造立ということから十九夜念仏とみられる」(*4.)と述べておられる石塔です。
今は、中に五輪塔の空輪がありますが、建立当時は仏像や舎利など納められていたものと思われます。
よく似た形態の石塔をWebで探すと、福島県に鎌倉時代の「須釜東福寺舎利石塔」がありました。
中上氏は、近くの小文間にある「寛永八年」銘の同様な石祠があり、その関連から本願「三海」が時念仏の布教者で、湯殿山の修験者であったと推定され、この石塔は十九夜塔ではなく、時念仏塔であるとされています。(*5.)
私は、十九夜塔について「十九夜」の銘がない場合でも、女人講が建てたか、建立日が十九日か、如意輪観音像かのうち、2つの条件が満たされれば十九夜塔とみなしてよいと思っています。
この大平神社の石塔に関しては、大日如来を主尊とし、五か村をあげての時念仏の講が建てた石塔で、「念仏供養塔」の域をでないと思われますが、寛永年間で三十数基をかぞえる時念仏塔、そのほとんどが、「○月吉日」と記す時念仏塔(まれに1、6、9、12、14日銘などもあり)の中で、「九月十九日造立」という銘は、19の数にはそれなりの意味(功徳)を持たせていたと思います。
その「19日」のもつ意味がなんであったかは、謎です。
利根川下流域で、如意輪観音像を刻む十九夜塔が普及するのは、この石塔から、二十数年後の寛文年間になってからですが、一方、湯殿山信仰と不可分な関係があった時念仏も、大日如来を梵天塚に祀って八日に講を営む出羽三山講へと変わっていくのでしょう。
大平神社境内のさまざまな女人講関連の石造物
さて、大平神社の境内には、このほか、次のような女人講に関わるさまざまな石造物が並んでいます。
・元禄10年(1697)の如意輪観音像浮彫の十九夜念仏塔*6(⇒画像)
・宝永5年(1708)の地蔵菩薩像浮彫の十六夜念仏供養塔
・宝暦8年(1758)の如意輪観音像浮彫の十七夜講の供養塔
・文化11年(1814)の如意輪観音像浮彫角柱型の十九夜供養塔
・文政9年(1826)「女人講中」銘の子安像塔(⇒画像)
・天保2年(1831)の「女講中」・「道祖神」文字銘の石祠
ここでは、女人講の信仰形態が画一的ではなく、また時代とともに多様に変化する姿を、一目瞭然に見ることができます。
次回はさらに、時念仏とも未分化であった十九夜塔の原初的な姿を追って、筑波山麓へと旅します。
参照文献
*1.『利根町史(5)-社寺編』利根川町教育委員会1993
*2.榎本正三「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(『房総の石仏』第5号1987)
*3. 中上敬一「時念仏信仰」(『日本の石仏』第49号1989)
*4. 沖本博「千葉県の十九夜塔-その性格と歴史的背景について」(『日本の石仏』第49号1989))
*5.中上敬一「十九夜念仏源流考」(『日本の石仏』第54号1990)
*6.「タヌポンの利根ぽんぽ行」のオーナーさんからいただいた詳細な写真を検討したところ、「元禄十六年」ではなく「元禄十丁丑年」と推定できましたので、「元禄十年」としました。
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