S-14 つくば市宝篋山頂の宝篋印塔の姿とその信仰背景
念願の宝篋山に登る
2012年2月11日、早春の日差しとはいえ、まだ冬枯れの筑波路を夫と旅し、筑波連峰の東南に位置する宝篋山( 461m)に登りました。
三村山また小田山とも言われたこの宝篋山(宝鏡山)の名前は、山頂に中世の雄大な宝篋印塔が建っていることに由来し、この宝篋印塔をこの目で見ることは、私の十年来の念願でした。
十年前の2002年ごろ私は、八千代市正覚院の清凉寺式釈迦像の関連で、鎌倉時代の律宗の僧忍性の足跡を追い、つくば市小田を探訪し、「1.筑波路の風景 まぼろしの大寺・「三村山極楽寺」跡を探して」をアップしました。
(⇒シリーズ目次ページ-「おしどり寺」村上正覚院の来た道-)
そのとき、小田城跡から見た宝篋山の美しい姿に感動して、忍性の発意でこの山頂に建立されたであろう宝篋印塔を見てみたいと思いましたが、土地の人にお聞きすると、登山道が完備されていないので登頂は困難といわれ、また、冬の狩猟シーズンはハンターも多く危険なので、断念した思い出があります。
建長4年(1252)関東に下向した忍性が、10年にわたって滞在し布教の足掛かりにした宝篋山山麓。 (↓小田休憩所の野外展示)
ここに広がっていた三村山清冷院極楽寺の跡は荒れ野となり、伽藍がそびえたっていたという往時の光景を、荒涼とした山麓の風景の中に思い浮かべるのは困難でしたが、小字「尼寺入」の路傍に立つ正応2年(1289)銘の石造地蔵菩薩立像(⇒)と、総高3.2mの五輪塔(↓)が、七百年前の優しく力強い信仰を物語っていました。
それから十年、2012年1月25日、近世十九夜塔のルーツを調べに、筑波山麓の平沢八幡神社に行き、帰路、平沢官衙遺跡に寄ったところ、その案内所に「宝篋山ハイキングマップ」が置いてありました。
なんと、登山道が立派に整備され、駐車場完備の「宝篋山小田休憩所」もできているのです。
さっそく半月後の2月11日、ハイキングマップと現地の案内板や道しるべに導かれ、往復約4時間のハイキングを楽しみながら、 念願の山頂の宝篋印塔を拝観することができました。
山頂の宝篋印塔の姿
宝篋山山頂の茨城県指定文化財「宝篋印塔」は花崗岩製で、一部欠けている相輪を補って復元すると2.5m以上の高さになります。
建立年を記す銘はありませんが、忍性の故郷の奈良県額安寺の宝篋印塔(文応元年 1260年)と、奈良観音院宝篋印塔(弘長三年 1263年)と、プロポーションや要素にそれぞれ相通じるもの*があり、私はこの間(1261~1262年)に、額安寺宝篋印塔に銘のある大蔵派の石工の手により作られた塔と考えます。
(*塔身に二重円相光形を彫りくぼめ四仏を浮彫りする点、塔身下に反花座を置く点は観音院塔に類似し、基礎を2区に分かつ点と笠下を3段に造りだす点は、額安寺塔と共通します。)
ちょうど忍性がこの地を去り、鎌倉に向かおうとしていた時期ごろでしょう。
2011年3月11日の地震による一部損壊した相輪も九輪に復元され、笠は7段、隅飾の突起がわずかに外を開いて直立しています。
この隅飾りと基礎には、装飾がなく、意外にシンプルです。
そして、塔身の四方仏(東面:薬師、南面:釈迦、西面:阿弥陀、北面:弥勒)が、優しい姿で穏やかに微笑み、笠の底面四隅に径2㎝程の穴が確認されます。
この穴は風鐸をつるした跡といわれ、建立当時は、山を渡る風に吹かれ、光り輝きながらはるかかなたまでその鐸の音が鳴り響いていたことでしょう。
基壇に比べ笠が大きく、頭でっかちでバランスを欠くといわれていますが、基礎の下に大きめの基壇を置いていること、またこの塔は正面からではなく下から見上げて拝する位置にあることから、むしろどっしりした安定感があるように私には感じられました。
1979年の解体修理では、基壇の下から常滑系の壺と蓋とした皿が出土。すでに盗掘されていて、他の遺物は青銅製の箱飾り金具のわずかな断片と、後代に報賽された銭貨だけであったそうです。
壺の中には、おそらく宝篋印陀羅尼経が納められていたのでしょう。
宝篋山の頂からの眺めは、関東平野を一望し、東に霞ヶ浦、北西に日光男体山と筑波山、そして南西に向く鳥居の向こうには富士山が遥拝できます。
この塔の背後には、関東一円をカバーする各機関の電波塔がそびえ立っていますが、中世においても北関東をまさにすべて見渡す位置にあったと思われます。
日光男体山を望む
「高山峰上」の塔の意義
近世以後の宝篋印塔は、寺院境内の本堂前に築かれた裾広がりの供養塔と、身分の高い故人のための背の高い墓塔によく見られますが、多くはその建塔の意義は忘れられ、寺院や墓地を荘厳する石塔になっています。
しかし、鎌倉時代の初期宝篋印塔の意味、特に東国において、箱根山の塔や信濃の仏岩など、運び上げるのに困難な山上になぜ宝篋印塔を建立したのか、そしてこれらの高い峰にそびえ立つ塔をどのように理解したらよいのか、私にとってとても深い謎でした。
その理由を、「最も厳しい峠道で、峠を越える人々を慰め励まし、旅に倒れた者の魂を救うため、極めて困難な場所であっても峠道から仰ぎ見られる場所に立てられたのだと思う。」と書いたこともありました。
( 「9.箱根路の地蔵霊場・峠の石仏石塔群」 、 「12.信濃大門街道・仏岩石塔の謎」 )
今回、宝篋山を実際に見てみると、険しい峠道というより、戦国時代に山城が築かれたように、北関東一帯を見渡す交通の要衝、そして神々しい山々や香取の内海と鹿島灘を遥拝するに位置しています。
登山の後、小田休憩所に立ち寄ると、管理人の東郷氏がお客と雑談している話の中で、「山上に塔を建てた意味は、見渡す限りにあるすべての生きものに救済の功徳が及ぶということ」と述べておられました。(⇒)
なるほどと思い、帰ってから宝篋印陀羅尼経について調べてみました。
宝篋印陀羅尼経すなわち「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」は、壊れた塔を世尊(仏)が供養したところ、その塔は「大全身舎利の積集した如来の宝塔」で、仏身そのものであったと弟子に説いた経です。
この経文の中には、「若人往在高山峰上至心誦咒・・・」という文言があり、「もし高山の峰上に登り、心をつくして咒(宝篋印陀羅尼)を唱えるなら、眼下に見える遠近世界、山谷林野江湖河海の一切の生きとし生けるものすべて、諸々の罪障が消滅し、災難から免れ成仏できる」というようなことが書かれています。
寺院の中ではなく、高山峰上に建立するということの意義は、殺生禁断と貧しい民衆の救済を教え説いたまさに、忍性の信仰そのものであり、箱根山中の塔も、信濃仏岩の塔も同じ意味を持ったのだと改めて思いました。
そして、この三つの山上の塔を地図上にプロットしてみると、信濃仏岩と宝篋山は約190㎞離れた同緯度にあり、両地点から南方向へ等距離のほぼ正三角形の頂点の位置に箱根山が位置しているのです。
これは偶然ではなく、まさに忍性教団の東国布教の志を表しているのではないかと深く感動しました。
最後に、念願の宝篋山登山が無事できたことについて、宝篋山や小田城跡の環境整備と文化財保護に尽力されているNPO小田地域振興協議会の東郷重夫事務局長ほかボランティアの皆様の活動に、拍手と感謝の念を送りたいと思います。
山麓の「ザル池」
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コメント
私の地区(千葉県・市原市)で酉年の3月最初の酉の日に19堂参り(19夜講)が明治期より子安講・婦人会による合同のお参りがありましたが、現在は両団体は解散し、12年に1度の19堂参りの年をいかがするか地区の年配者(婦人)に掛け合い来月の初午の会で参加者の人員を決める事になりました。この度の先生の記事を見て県下の信仰が良く解りありがたいことです。小生は男子ですが、このまま自然消滅で長い歴史を閉ざす事は忍びない事です。我が青柳地区は山形県出羽三山信仰では県下最初の地(1630)であり私は羽黒山伏で地区の火の親の講長を勤めております。今後とも宜しくお願い致します。(小倉)
投稿: 法螺 | 2017年1月21日 (土) 17:49
コメントありがとうございます。
北総の子安塔や十九夜塔など女人講の石塔の成立や分布を調べています。
市原は、出羽三山講が今でも盛んなようですね。
石塔を祀った講が、どの地域でも解散しつつあるのは、生活や信仰の変遷で仕方がないことですが、その姿と足跡は記録として残していきたいと思っています。
投稿: さわらびY | 2017年1月21日 (土) 20:46