« K-28 八千代市萱田の石造物にみる女人講成立の萌芽 | トップページ | S-14 つくば市宝篋山頂の宝篋印塔の姿とその信仰背景 »

2011年10月28日 (金)

S-13  瞽女さん奉納の手水石と、その銘を語る2基の石碑

 印西市別所地蔵寺の手水石と石碑

 111025_0022昨年(2010年)の早春、子安塔群を調べに、印西市別所の金龍山地蔵寺へ行く機会がありました。
 「別所の獅子舞」で有名な地蔵寺は、JR成田線木下駅と北総鉄道の印西牧の原駅の間の中ほど、古いムラのたたずまいの中にあり、仁王門奥に県指定文化財の木造地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂、その右のやや奥に熊野神社の社殿が並び建っています。
 子安像塔は安政4年から大正5年まで5基、如意輪観音像の十九夜塔は寛文9年(1668)と元禄7年(1694)の2基あり、女人講が盛んであったことがしのばれます。

111025_0032_6
111025_0052

 さてこれらの石仏を見てから、仁王門を出てところで、手水舎の傍らの2基の新しい石碑が目を引きました。

 「御寶前」と大きく記された手水石、その右側の石碑には「瞽女さん手水石の奉納ありがとう」というメッセージと旅姿の瞽女さんの絵が刻まれています。
 2000年7月7日に個人(女性名)が建立されたものです。

 左側の石碑は「瞽女奉納手水石・御寶前」と題して、手水石とこれを奉納した瞽女についての解説と、手水石刻まれた銘文が、わかりやすい文章と文字で記されて、裏にはこの石碑を奉納した住職と檀家総代の4名の名前と2000年5月の建立日があります。
 

 111025_0142そして、覆い屋の中の手水石は、今も使用できるようきちんと整備されていました。

手水石の銘文
(正面) 御寶前 

(右面) 草深村 香取平左エ門
     発作村 越川 五平治
     木下宿 吉岡七良左エ門
    
100209_0682_2 常州鹿島 瞽女 ヒテ
     布鎌押付 瞽女 キヰ

 

(左面) 布鎌惣村々 世話人 與兵衛
         同   弥兵衛
         同   六兵衛
     龍腹寺村
     宝田村

(裏面) 願以此功徳 普及於一切 
     我等與衆生 皆共成佛道
     享和三癸亥歳
    
111025_0182 仲秋吉日 
     当村願主 瞽女キヨ 
          若者中 

「瞽女奉納手水石・御寶前」石碑の銘文
(解説文章部分)
 この手水石は、享和三年(一八〇三)、別所村の瞽女キヨと若者中が願主となり、惣深村、発作村、木下宿、布鎌惣村中、龍腹寺村、宝田村など近隣村々、有力者等の賛同を得て奉納されたものである。
 瞽女とは、室町時代以降に現れた三味線を弾き、歌をうたって渡世する盲女のことで、三人くらいが一組になり、祝儀歌、門付歌などをうたって歩き、夜は宿に入り「よせ」を行って人々を楽しませた。
 111025_0122_2右側面に刻まれている三人は、いずれも村名主や河岸問屋で、瞽女の遊芸に援助の手を差し伸べ、自分の家を瞽女宿として提供したものと思われる。
  
瞽女を迎えると「福が来る」として歓迎したりする地方もあったといわれ、瞽女宿では、娯楽の少なかった農山村の村人が集まって歌曲を聞いて楽しんだ。
当時の農民娯楽の風習があったことを示唆する貴重な史料である。
 

 この新しい石碑が示すように、この手水石は、享和3年(1803)別所村の瞽女キヨと若者中が願主になり、近隣の村々の有力者や2人の瞽女の賛同を得て造立した銘が入っていて、このことは、榎本正三氏が『女たちと利根川水運』(1992刊)で詳しく述べられています。
 この本によれば、キヨは寛政7年(1795)の別所村の高反別明細帳にある「瞽女壱人」であり、賛同者の2人の瞽女の常州鹿島のヒテと布鎌押付のキヰも実在したことは間違いなく、別所のキヨを頂点として瞽女仲間を形成していたと、榎本氏は推測しています。
 また、世話人筆頭の布鎌村與兵衛は栄町長門屋O家の先祖で、その証言から当家は瞽女宿で、当村出身のキヰとの関連もあったと考えられるそうです。 

 

 江戸川区内名主屋敷を訪れた瞽女

 私は近年、江戸川区の一之江名主屋敷を会場に行われる秋の夜の瞽女唄ライブに魅了され、毎年その公演を楽しみにしています。
 081005_0822_2今も文化財として残された東葛西領一之江新田の名主屋敷には、膨大な古文書が伝えられ、その中には、この屋敷が瞽女の宿となったことやその経費などが記されています。

 この屋敷を舞台に瞽女唄を演じるのは若く美しい月岡祐紀子さんで、最後に残った越州高田の瞽女さんたちとの交流を縁に、瞽女唄の伝承・発掘に取り組んでいる邦楽家です。(↑2008年10月5日名主屋敷での瞽女唄ライブの月岡さん)
 3年前初めてその唄声と三味の音に接し、特に祭文松阪という長い物語の演目には、中世的な世界に引き込まれていく力強い魅力を感じました。
 瞽女についての月岡さんのわかりやすい語りも好評で、かつての旅する瞽女の姿や門付けの様子、そしてまさに村人を前にした「夜の座」の臨場感を味あわせてくださいます。

 江戸川区を訪れた瞽女についての調査報告は、内田定夫氏の『瞽女の記録』(1983年)があり、その後2007年にジェラルド・グローマー氏による全国の瞽女唄の史料を集大成した『瞽女と瞽女唄の研究』が発刊され、もちろん江戸川区や下総の史料も掲載されています。
 ただしどの史料も、来訪した瞽女の人数とその経費を記すだけの断片的なもので、江戸川区の名主屋敷を定期的に宿にした瞽女の名や出身地は不明です。

 私は、かつてみた映像や絵のせいでしょうか、瞽女さんたちは遠く雪国の町で、親方と疑似の親子となって集団で生活し、峠を越えて列になって来訪する姿をイメージしていました。
 しかし、印西市別所の手水石の銘は、関東の村や町には、単独または少人数の瞽女がいて、自村はもとより、近隣の瞽女でネットワークを組み、徒歩よりも内海や河川の舟運を利用しての巡業が多かったのではないかと、語っています。


船橋市藤原新田を訪れた「葛西新川」の瞽女

 
そのような、近隣のフィールドで活動していたのではという視点で、もう一度グローマー氏の史料集にあたってみると、『船橋市史』史料編所収の藤原新田の「御用留」の弘化4年(1847)に「十月廿四日 一、瞽女弐人泊り 葛西新川組」と、 また嘉永7年(1854)にも「四月九日夜 一、こぜ三人 泊り 葛西組之由」とありました。

 101124_098「葛西新川組」の「新川」とは、江戸時代の初め、船堀川の流路を直線化した運河で「行徳船」が就航、農産物のほか、成田参詣の客なども運ばれるようになって、その川岸には酒を売る店や料理屋が並び賑わったといいます。
 ここにも瞽女がいたということですから、そう遠くない一之江新田の名主屋敷で座を開いたということもあったのではないかと思います。 (↑江戸川区新川の景観)

 上州と武州では遠く雪国から山越えで来訪する瞽女の姿が多かったといいますが、一方江戸湾岸や利根川沿いの村々では、船で行きかう近隣の瞽女や地元の瞽女の活動も多かったのではないでしょうか。
 印西市別所の手水石や、船橋市藤原新田の史料から、村や津、河岸のにぎわいの中に住み、地域の中でその芸を披露する瞽女の姿もイメージできるかと思います。

 「瞽女奉納手水石・御寶前」石碑には、歴史資料としてこの石造物を大事する別所村の方々の温かい心、そして「瞽女さん手水石の奉納ありがとう」と記された石碑には、瞽女さんに注がれる優しいまなざしを感じます。
 そしてこの2基の石塔に瞽女さんの姿を留め伝えてくださった別所村のみなさんにも、心から「ありがとう」と言いたいと思います。

|

« K-28 八千代市萱田の石造物にみる女人講成立の萌芽 | トップページ | S-14 つくば市宝篋山頂の宝篋印塔の姿とその信仰背景 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/107552/53099248

この記事へのトラックバック一覧です: S-13  瞽女さん奉納の手水石と、その銘を語る2基の石碑:

« K-28 八千代市萱田の石造物にみる女人講成立の萌芽 | トップページ | S-14 つくば市宝篋山頂の宝篋印塔の姿とその信仰背景 »