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2011年8月24日 (水)

K-28 八千代市萱田の石造物にみる女人講成立の萌芽

 八千代市内での女人信仰に関連する石造物を調べているうち、下総に多い子安像塔についてトータルな先行研究がないことに気づき、最近は、千葉県北部をひろく回って、子安さまばかり追いかけていました。
 おかげで、近世~近代のさまざまな石造物についても浅く広くその姿が見えてきましたが、また一方で、旧村単位の一地域にスポットを当てたミクロな視点での調査も、石造物と民俗の関連を知るうえで、やはり欠かせないものです。

 一昨年から始めた八千代市萱田の女人信仰に関連する石造物の調査は、平成18年に刊行された『八千代市の歴史 近代・現代Ⅲ 石造文化財』の市内石造物一覧表の悉皆データに負うところが多いのですが、今回は、この表で省略された連名や長文の文字銘なども拓本を採ったりして、詳しくみることから始めました。
 その中で、特に興味を持ったのは、多くの村人が名を連ねている石塔のうち、男性名だけではなく、多くの女性たちが面を別にしてその名を連ねている萱田の長福寺の三層塔飯綱神社下の庚申塔でした。

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長福寺女人講石仏群 左手前:嘉永5年(1852)子安像塔、左奥:宝暦13年(1763)宝篋印塔(十九夜塔)、
                   中央:寛文9年(1669)三層塔、右手前:元禄2年(1689)十九夜塔


八千代市内の女人講が建てた石造物は、村上の正覚院にある丸彫りの如意輪観音像の十九夜塔が寛文11年(1671)銘で最古で、その背面の衣に「像立十九夜女人 念仏講衆」と刻まれていることから、寛文年間には念仏主体の十九夜講が成立していたと推定されています。
 次いで高津の観音寺の延宝2年(1674)造立の六臂の荘厳な姿の光背型如意輪観音像の十九夜塔ですが、この石塔の衣の裾と台座には「おつる おみや おまめ」など結願した女性の俗名が多数刻まれていました。 (⇒K-1 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から)
 またその他の八千代市内の女性名連記の女人講の石塔は、前にも書きました。 (⇒K-24 女性名の石造物あれこれ(香取市吉原の子安塔ほか))

 
 1701_14_2萱田の長福寺には、米本の善福寺裏墓地の天和4年(1684)十九夜塔に次いで八千代市内で4番目に古い元禄2年(1689)の光背型の如意輪観音坐像(⇒上の画像の右)があります。
 そのほか長福寺に建てられた萱田村の十九夜塔と子安像塔には、K-24に載せたデータに加え、下記の石塔にも、女性名の連記がありました。

 ・元禄14年(1701)如意輪観音 光背型 十九夜塔 「おさわ おせん おせん おみの おたけ おたつ おたま・・・」女性計42名 (⇒右画像、右下は銘文の拓本)

 ・正徳3年(1713)如意輪観音 光背型 十九夜塔「おくめ おい□ おくめ お□せ おひ□ お古や おせん おくた おまん お志□ お□ヤ ・・・」女性計35名

 ・嘉永5年(1852)子安像 光背型 子安塔 「願主 さだ ひで かつ うめ あと せん たみ さわ もん・・・」女性計86人、および「世ハ人 金五右ヱ門 市良兵ヱ 甚右ヱ門 次良兵ヱ」

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 以上のように、八千代市内の中世から続く古い村の村上や高津では、延宝以前の1670年ごろから、十九夜講が組織されていたと推測されますが、萱田では、十九夜講成立は、元禄の1690年ごろからということになるのでしょうか。

 さてここで、それ以前の萱田の女人信仰の姿として、長福寺にある寛文9年(1669)三層塔や、延宝元年(1673)の飯綱神社下の庚申塔に刻まれた男女別の連名に注目したいと思います。

 寛文9年銘三層塔は、勢至菩薩を第2層に浮彫りした2mを超す石塔で、第1層は龕室となっています。
 Photo右面(⇒右画像)には「廿三夜講」「一結施主 女中衆」として「おつる おこう おくま」など24名の女性が、左面には「日記念仏供養」のため「定宥 □左衛門 □兵衛 長十郎」など33名の男性、裏面には建立発起人とみられる「宥秀」ほか「加左衛門」など3名の村人が名を連ねています。 


 110503_096また、延宝元年銘庚申塔(⇒右画像)は、笠付角柱型で三面にそれぞれ猿を浮彫りし、右面(⇒右下画像)には「およし おきく」など女性33名、左面には男性15名、表面には「定宥」と3名の男性の名があります。 

 関東の近世庚申塔は、先日発表された「東京東部庚申塔データ集成」(『文化財の保護』第43号 ⇒入手法)によれば、元和9年(1623)東京都足立区の弥陀三尊来迎図像の板碑型を初出として旧荒川流域に広がります。
 そして17世紀後半に入ると、男性の連名に交じって女性名がみられるようになり、東京都江戸川区では、寛文13年(1673)女性のみ25名で板碑型庚申塔を建立していますが、これを女人講の萌芽とみなしてもよいかと思っています。
 ま110708_08た、女性複数名プラス僧1名(建立を指導した住職か)の連記でも女人講誕生の証拠とするなら、さらにさかのぼる寛文7年(1667)銘の板碑型庚申塔が、練馬区中村の良弁塚にあります。

 
 さて萱田の寛文9年銘三層塔と延宝元年銘庚申塔ですが、ここには面を違えて男女別に銘を刻んでいることから、私は、村にはすでに女人講が形成されていて、村の有力者3名と住職が建立発起人となり、男女別のそれぞれの講が共同でこれらの石塔を建てたと判断します。

 すなわち、今回調査した萱田の事例から、下総国でも武蔵国と同じ1670年ごろ、中世からの村落寺院を中心に、「二世安楽」などを祈願する念仏を主体とするさまざまな女人講が営まれ始めたと、推測できるのではないでしょうか。

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