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2011年7月18日 (月)

W-1「いつな大権現の世界」-飯縄信仰のルーツ探訪-

            「いつな大権現の世界」-飯縄信仰のルーツ探訪-
                                          蕨 由美(2011.6.23初稿、2011.7.15青字部分追加)

Ⅰ 萱田の飯綱神社へのお誘い
1.「いつな大権現」道標に導かれて
成田街道の「いつな大権現」道標に導かれ、萱田の飯綱神社を訪ねてみましょう。急な石段を上ると、左手に神仏混淆だった特徴を残す鐘楼、正面には玉垣に二十四孝彫刻を施した壮麗な社殿があります。

2. 萱田 飯綱神社 三十三年祭
飯綱神社では、平成8年(1996)11月3日「三十三年祭」が行われました。三十三年目毎に行われるお祭りで、十一面観音菩薩が三十三に化身し三十三年目にもとの十一面観音菩薩に戻ることに起源しているのと考えられています。

3. 萱田の飯綱神社の信仰を伝える資料
飯綱神社の創建は、ここに陣を張った太田道潅が戦勝祈願して埋めた十一面観音像を、元和八年(1622年) 白狐の神託により発見したという故事に由来します。
明治の初め、神仏分離により、お稲荷さまと同じ、宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)が祭神として奉られました。近代になっても、近隣はもとより遠方からの参詣者が絶えず、「萱田市(いち)」や句会、また「飯綱権現講」も盛んでした。
・「大和田町案内圖 飯綱神社縁起」=昭和2年(1927) 飯綱神社社務所が発行。神仏分離後の整理された近代の縁起 です。
・「飯綱神社ノ由来」
「元和8年9月24日」に記された縁起の本書は、明治元年佐倉城主堀田氏に提出、明治2年飯綱大神となって、本地十一面観音と不動明王像が別当長福寺に引き取られるにあたり、飯山憲治氏が書き写されたとのことで、江戸時代の神仏習合の信仰と伝承を伝えています
・『成田名所図会』(別名『成田参詣記』中路定得・定俊著 安政5年刊)
「萱田駅」に「神明社」の紹介記事に続けて以下のような文があります。
「又萱田村の飯綱権現と称する神あり。毎月廿四日の神事あり。(本地不動明王、長鼻狐にのる)○稲荷神社考に、世に飯綱権現と云は信濃飯縄山の茶吉尼(ダキニ)なり云々。密家にて稲荷神を茶吉尼(天女形像なり)に混合せたる上より、云出たるなりと覚ゆと云々。」 

Ⅱ 飯縄信仰のルーツを信州に訪ねて

1. 飯綱山頂をめざして
神仏分離以前に萱田に祀られていた「飯綱権現」は、長野県飯綱山を発祥とする修験道の神です。剣と索を持つ烏天狗が白狐に乗った形で表され、戦勝の神として足利義満、上杉謙信、武田信玄などの中世の武将たちに信仰されました。飯縄信仰とはなにか、その謎を解く旅にお誘いします。

2. 飯綱山頂の奥宮と飯縄神像
標高1,917mの飯綱山頂から50m下ったところに飯綱神社奥宮の祠があります。昭和36年(1961)に地元有志の奉仕によりコンクリートで再建、登山者の避難小屋を兼ねています。祠内には「飯縄山大明神」の石像や、明治18(1885)年銘の木像が祀られています。
山頂付近には、中世に飯縄山を開山した千日太夫が籠って修行したという西窟などの祭祀遺跡も残されていました。

3. 長野県荒安の飯綱神社里宮
善光寺の裏山、七曲を登りきった荒安に飯綱神社里宮があり、神仏分離後は皇足穂命(すめたりほのみこと)神社として保食神(うけもちのかみ)を祭神としています。代々飯綱修験道を受け継いだ「千日太夫」の冬季居所として武田信玄が創建。近世は朱印地百石の神領を有し、千日太夫の後継の仁科氏の屋敷がありました。仁科氏が去った明治以降は、荒安集落の氏子で神社を守っています。
里宮から右へ行った「飯縄山大明神 延命地蔵大菩薩」の石標から奥へ入ると、坂東三十三観音や六地蔵の石仏群が残されています。

4. 戸隠神社と飯縄信仰
戦国時代が終わり、平和な江戸時代になると、戦勝祈願の修験飯縄山から、農耕の水を司る「九頭竜」を祀る戸隠山へと、庶民の信仰は移っていきます。戸隠山は朱印高千石、東叡山寛永寺の末寺の戸隠山顕光寺を中心に門前町ができ、各地から戸隠講の登拝が続きました。飯縄神は、戸隠神社境内の一隅にひっそりと祀られています。

Ⅲ 関東縁辺の飯縄信仰の寺社探訪
関東縁辺の山々や岬には、飯縄信仰の寺社がいくつか残っています。その多くは火防・家内安全・海難除け・五穀豊穣の御利益で信仰され、天狗の形で庶民に親しまれてきました。

1. 高尾山薬王院に登る
薬師信仰の霊場だった関東西端の高尾山は、中世に飯縄権現を勧請、戦国武将の信仰を集め、関東一円の山岳信仰の中心となりました。今も江戸時代建立の本堂・飯縄権現堂・奥の院を拝観し、標高599m山頂の展望を楽しむ人々でにぎわいます。

2. 津久井城跡の飯縄神社
八王子城・高尾山と並ぶ北条氏の相模の防衛拠点、津久井城跡の東山頂「天狗山」には、建久八年(1197)領主・築井太郎次郎義胤が城塞の守護神として祀った飯縄神社の祠があります。
北条氏が去った後は、麓の根小屋太井村の鎮守となり、現在に引き継がれています。

3. 東端の霊場 いすみ市の飯縄寺を訪ねて
太平洋を望む太東岬に近いいすみ市泉に、「天狗のお寺・おいづなさん」と親しまれる飯縄寺があります。縁起書では「元は満蔵寺と称したが、室町時代、太東岬海中から現れた飯縄尊像を奉り、飯縄寺と改称した」とのことです。
戦国時代、万喜城の城主であった土岐氏は飯縄権現を軍神として信仰、庇護しました。江戸時代に岬から里に移転、海難除けとして各地の漁師に、また江戸市中からも信仰を集めました。寛政9年(1797)完成の本堂は初代伊八(1751~1824)作「天狗と牛若丸」、「波と飛龍」のすばらしい欄間彫刻などが施されています。
内陣には、寺院にはめずらしい社殿型の宮殿があり、中には秘仏の飯縄権現像が納められているそうです。右陣には、前立本尊の飯縄権現像があり、格子越しに拝観できます。また、現在も古い版木で手刷りした飯縄権現の御影のお札を頒布しています。

4. 三光寺妙見堂の飯綱権現像
万喜城跡内も三光寺には、室町時代後期の飯縄権現像が残されています。
三光寺は「万木城鎮守妙見社の別当となす」と社伝にあり、本堂から切り通し道をはさんだ向かい側にある妙見堂には、妙見大菩薩を中心に、右に飯綱大権現、左に愛宕大権現が祀られています。妙見大菩薩は万喜城の守護神、愛宕大権現は城主の守り本尊として常に戦場に持参したといわれています。

5. 矢指戸の入り江に見つけた飯縄神社
太東岬より南方、いすみ市大原矢指戸の小さな入り江奥の崖際に、飯縄神社がありました。戦国末期、万喜城落城の際に城に奉ってあった本尊を背負って落ちのび奉ったものと言われています。
伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神としています。

6. 茨城県「あたご天狗の森」の飯綱神社
岩間山と呼ばれた愛宕山山頂の愛宕神社の奥社として飯綱神社が祀られています。その奥には十三天狗の石祠に囲まれて、飯綱神社の本宮という銅製六角堂「御奉殿」があります。
11月には、愛宕山麓の五霊地区の人たちによって「日本三大奇祭の一つ」という「悪態祭り」が行われます。

Ⅳ 下総に飯縄信仰の残照を探る
1. 松戸市旭町金蔵院の本尊飯縄不動尊
金蔵院は、真言宗豊山派の密教寺院。寛永6年(1629年)に法印良慶和尚が「飯綱不動尊」を本尊として開創された背景に、北条方の武将であった旧高城氏の家臣団による江戸川流域の六新田成立があります。川の氾濫を鎮め、家内安全などの祈願寺として尊崇を集めました。「飯綱不動尊ご帰院のこと」という伝説と絵馬があります。

☆注:このご本尊について『史談八千代』35号(2010.11.27発刊)P63に下記のように書きました。【なお、流山市内の東福寺にも江戸時代の飯綱権現立像があり、『流山の仏像』に載っているその写真を見ると、金蔵院本尊と極めて類似した像容であった。守龍山東福寺には、「鰭ヶ崎」の地名の由来となった竜と霊仏の出現伝説がある。東福寺の飯綱権現像も、小金城主高城氏の飯縄信仰に関連する彫像なのであろうか。】
このなぞにつき、『流山の仏像』の発刊元の流山市立博物館に問い合わせ、調査を依頼しましたところ、2011年7月上旬に「この報告書刊行の昭和58年11月1日以後に、流山市東福寺から松戸市金蔵院へ移されたものと東福寺から回答があり、同一の仏像である」との回答をいただきました。


2. 物井四街道市の不動堂の飯綱権現像
物井地区の千代田公民館に接する、「御山の不動堂」は、旧金剛寺の境内堂で、不動明王三尊が祀られ、その左後に「木造飯綱権現立像」が安置されています。本体82cmの飯綱権現像は火焔光背を背に岩座の上の白狐の上に立つ大きな像で、「物井村 金剛寺住 清鑁 元禄五年(1692)甲ノ九月 敬白)の胎内墨書銘があり、不動堂と二童子像と共に、四街道市の文化財になっています。
金剛寺は室町時代に開山され、江戸時代も広い境内と「御山」と称する寺域をもつ密界道場でした。かつては、臼井城主原氏の戦勝を祈願するため金剛寺境内に飯綱権現堂が造立され、祀られていたと推定されます。

3. 吉見(佐倉市)の飯綱神社
物井と臼井の中間近くの吉見野田にも、小さな飯綱神社があります。この一帯は、文明11年(1479)の太田道灌の臼井攻めの最前線になった地域でした。
『飯綱神社縁起 この地に鎮座する飯綱神社は御本地長野県飯綱山より勧請したもので御祭神は蒼稲魂(ウカノミタマノミコト)大神別称豊受大神といい農民に幸福を与える五穀の神である。当杜の御神体は僧形神像にして体内に本地仏薬師如来を蔵している。伝えによると本地仏薬師如来は当所甚左衛門家の先祖が、吉見古海道沿いの井戸にて、朝水と共に汲み揚げたものでその後、占者の筮によりこの地に飯綱権現として祀ったものである。以来飯綱権現の守護により野田の村人は火難疫病の禍から除かれたという。』

4. 白井市谷田の飯綱権現社
北総鉄道沿いの深い森の中に、小さいながらも鳥居・灯篭・狛犬などが整った飯綱権現社があります。
ニュータウン事業により昭和56年この地に遷宮され、このことを記す記念碑には「当社は八千代市萱田飯綱神社の兄社に当ると言伝えられ 当地の代々名主を勤める湯浅家の守護神として古くから祀られて来た」と記されています。
飯綱権現社が元あった場所は、現在社殿のある台地から谷津を挟んだ東側の舌状台地先端で、現在は北総鉄道の軌道内となっています。

5. 千葉市と旧沼南町の神社境内に残る飯綱信仰の石造物
・千葉市旧長峰村元飯綱神社の石造物
千葉市若葉区大宮町の大宮神社の境内、本殿の左の石祠群に「飯綱神社」の石標と、「保食神」の石祠があり、明治44年(1969)旧長峰村字上和田にあった小さな飯綱神社をここへ合祀する際に運んできた石標と石祠と推察されます。もとの飯綱神社の場所は、都川とその支川の分岐点に突き出した大宮町台地の西先端部で、「城の腰城」跡がその南側に隣接していました。城の腰城近辺は1555~1571年、上杉軍に呼応して原氏の拠点臼井城を攻撃した里見・正木軍との戦いの前線の要所でした。
・旧沼南町布施の香取鳥見神社の「飯綱権現」石祠
文政9年銘の石祠で、香取鳥見神社は、戦国時代の手賀系原氏に関連する神社でした。戦国時代の飯綱信仰の痕跡がほそぼそ続いていたのかもしれません。

Ⅴ 飯縄信仰とは
1. 現代の高尾山薬王院の説く「飯縄大権現」(公式HPから)
「御本尊飯縄大権現は、不動明王の仮の姿として衆生を救済する徳を備えた仏神ですが、本地の不動明王のほか、迦楼羅天、荼吉尼天、歓喜天、宇賀神と弁財天の五相合体をしたお姿とされています。つまり、諸悪を根絶するため、忿怒の相を表した不動明王、くちばしと両翼を持ち、自在に飛行して衆生救済を施す迦楼羅天、衆生に富貴を授け疾病を除き、夫婦和合の徳を施す心を持った歓喜天、白狐に乗り、先を見通す力を授ける荼吉尼天、さらに、五穀豊穣、商売繁盛、福寿円満、などを授ける宇賀神と弁財天のそれぞれの相を合わせ持った御本尊様なのでございます。」
松戸市旭町金蔵院など密教寺院では、現在、この解釈を由緒書に採用しています。

2. 飯縄神の像容の特徴
中世の彫像では、長野市松代町永福寺蔵の応永十三(1406)年の銘銅造飯縄大明神像が記年銘のある最古の飯縄神像といわれます。そのほか三光寺の飯縄権現像も室町時代後期、また米沢市上杉神社と長岡市常安寺には上杉謙信の兜前立てとして像容の異なるふたつの飯綱神像が残されています。
近世の図像としては、各地の寺社に護符やその版木がいくつか残されていますが、そのうちに「物井村 菩提山金剛寺」の飯綱権現像の図像の特徴を紹介します。(『四街道市の文化財』22号(1997年)四街道市教育委員会)
「火焔光を背に、左右の背上に二枚の翼を付け、頭上に白蛇が巻く螺髪であり、弁髪は左肩にかかり、面門は水波の相、両眼は大きく開く忿怒の相、胸には胸飾をつけ、右手に宝剣を執り、左手に羂索を持し、岩座上に五鈷杵を咥えて疾駆する白狐の背上に敷かれた青蓮華の上に半身の構えで立ち、白狐の尾は後方に高く上げ、その先端に宝珠を載せている。」
しかし、各地の寺社の図像や彫像などの飯縄神の像容は、さまざまなヴァリエーションがあり、統一されていません。また火伏の神として江戸時代その信仰が広まった秋葉権現の像容とはっきりした区別もつかないのが現状です。密教の本尊図像ではあまりおこらないこのような図容に違いが生じた理由について、「飯縄修験にはしっかりした信仰組織が存在せず、図像を管理できなかったから」と推測されています。

3. 飯縄神の正体(本地)とご利益
明治初期の神仏分離で、飯綱神社里宮は(すめたりほのみこと)神社として保食神(うけもちのかみ)を祭神としましたが、江戸時代は「飯縄山大明神 延命地蔵大菩薩」のほか、「略縁起」では大日如来・不動明王・勝軍地蔵を本地としていました。
室町後期の『飯縄廻祭文』〔叡山文庫〕が説く飯綱神は、白狐に乗って天竺から日本に飛来した「十天狗」のうち、「三郎王子の御名を智羅天狗と申し奉る、信濃の飯縄嶽に住み給う」とあり、その利益を次の十三の誓いとして約束したと書かれています。
1.刀杖の難を除く 2.師君の機に叶う 3.妻子眷属和合たり 4.虚名口舌の難を違ゆる 5.戦場に利徳あり 6.沙汰心論に勝つ 7.敵を滅ぼす 8.病患を除て延命なり 9.田畠地を領す 10.失火盗賊の難を遁るる 11.七珍万宝を得る 12.福祐満足たり 13.咒咀悪霊の祟りなし
飯縄大権現を祭る鹿児島市烏帽子嶽神社の口伝の「十三の御誓願」も上記の13ヵ条と同じですが、江戸時代になると、各地の由来記では微妙に変化します。
近世の縁起や由来記では、次のような利益を説きます。
・近世中期 天明5年(1785)のいすみ市飯縄寺の『勧化帳所載縁起』
「飯縄大権現ハ海中出現の尊像なり・・・十三の誓願を持って常に国家を守護す。第一、天下太平国土豊穣。第二、除刀杖の難。・・・・第十三、渡海安穏を得しむ。」
・近世後期の長野県荒安飯縄神社の神主仁科家発行の略縁起
 略縁起の表題を『日本最初 火防開運 飯縄山略縁起』とし、「失火盗賊の難を遁るる」を第一に、「刀杖の難を除く」は9番目となっています。

4.  萱田の飯綱神社と長福寺の説くご利益
・「飯綱神社ノ由来」では、「盲人ハ立所眼開キ、蹇(あしなえ)モ万足ナリ。聾人モ耳聞エ、唖モ物ヲ言フ。・・貧家ハ福徳増歩シ、家運長久ノ門ヲ守リ、別テモ火難、水難、釣難、疫病等ノ大難ヲ消滅スル。・・永ク子孫ヲ折盛ナサシム」と書かれています。
・別当寺であった萱田山長福寺では、明治13年コレラ流行期に、飯綱本地十一面観音に家内安全子孫長久などを祈願する日護摩祈祷の結社加入の勧誘文に「虎列刺(コレラ)消除」が加えられていました。
・昭和2年「飯綱神社縁起 大和田町案内圖」では「其所願に霊験著しい」飯綱神社であるが、具体的な利益は神社仏閣の項に「齲歯瘤腫の病を治する霊験高く」とだけ記されています。(十返舎一九の「戸隠善光寺往来」には、戸隠の「九頭龍権現は岩窟内におられ、梨を神供とする。虫歯を患う者は、梨を断ってお祈りすると必ずなおる」とのこと。飯綱修験も統括していた戸隠信仰のご利益とクロスしたのかもしれません。)

Ⅶ おわりに
中世後期に秘密の魔力をもって武運長久をかなえる神として武将たちに信仰された飯綱信仰は、江戸時代以降、その本質がわかりにくくなりながらも、時代とともに変遷する姿とご利益によって社会に適応し、各地の寺社で祀られ続けていたようです。
明治初期の神仏分離により、関東や長野県での飯綱信仰の寺社はおおむね衰退していきますが、高尾山薬王院や飯縄寺などの密教寺院、「相模の飯綱さま」とよばれる座間神社、そして萱田の飯綱神社では、多様化した社会のニーズに対応した宗教活動を維持してきました。
その中でも萱田の飯綱神社は、現在も「飯綱神社」の名称で神社神道の形態とる神社として一番大きな規模を保ってきました。またその特異な祭神にまつわる謂れや建造物などを維持していることからも、八千代市はもちろん関東において、たいへん貴重な文化財といえるでしょう。

参考文献(文中紹介の小冊子を除く)
「飯綱神社」(『千葉縣千葉郡誌』千葉縣千葉郡教育会 1926年)
「飯綱信仰の歴史」小林一郎(『長野』第31号長野郷土史研究会1970年)
「飯綱信仰とは何か」小林一郎・「飯縄山略縁起」小林計一郎(『長野』第109号1983年)
「中世末の飯綱修験と飯綱権現像」高橋平明(『山岳修験』第9号日本山岳修験学会 1992年)
『特別展 飯綱信仰』(いいづな歴史ふれあい館 2006年)
「高尾山史料集からみた薬王院有喜寺の歴史」村上直(『高尾山』大本山高尾山薬王院1978年)
『四街道市の文化財』22号(1997年)四街道市教育委員会
『千葉県指定有形文化財 本堂保存修理工事 落慶記念 飯縄寺』(2000年)
『白井市石造物調査報告書』第4集(1989年)白井市教育委員会
『史談八千代』24号・35号 八千代市郷土歴史研究会

参考Webサイト
「城ノ腰城 (2) 推測:城ノ腰城はいかなる城か」<「千葉市の遺跡を歩く会」
「千葉大宮巡り(59)字上和田の飯綱神社跡に残る石仏」<「房総史譚」

☆追記:このレジュメとスライドは、2011年6月27日の東京成徳大学での特別授業講演用に6月23日に事前アップしたものを、7月15日に青字部分を追加改訂し、講演依頼を受けた八千代市郷土歴史研究会の広報担当理事の了解で7月18日に再アップしたもので、文責は著者(蕨由美)にあります

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