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2011年7月12日 (火)

K-27 川べりの石塔に残る「流れ灌頂」の記憶

 いつも通る八千代市新川の村上橋、その橋の西北に角型の石柱が一つ、ぽつんと立っています。
 花火大会や花見時は、その前に露店も出て、大勢の人が行きかう場所です。

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 新川沿いの平戸橋詰には、2基の日蓮宗系の題目碑、対岸には逆水の方々が建てた「南無阿弥陀仏」の称名塔があり、宗派が異なっていても、いずれも水難横死者の霊の菩提を祈る銘文が記されています。(⇒「平戸の大川施餓鬼風景」)
 平戸と同じく、日蓮宗神保領千部講の「大川施餓鬼」が行われる島田台や佐山、真木野の村々の水辺にも、明治30年代から大正にかけての同様な水難供養塔が数基あり、洪水などによる災難が近代でも深刻であったことが伺えます。1920_3

 
 このような背景とそのたたずまいから、村上橋詰の石塔も水難供養塔の一つではないかと思っていたのですが、萱田の女人信仰の石造物を調べていくうち、実はこの塔はその銘文から八千代市萱田上区の女性たちが建てた産死者の供養塔で、他の水難者供養塔とは性格が異なることがわかりました。
 この塔の碑文は風化が激しくて断片的にしか読みとれませんが、かろうじて次のような銘文が残されています。

  前面(西面)「・・・□□波羅密大慈大悲(埋没)/・・・□□萱田上區産死者万□(埋没)」
  裏面(東面)「大正九年三月吉日/萱田上区/世話人/君塚□た/長岡□た/八木谷かつ/君塚□□/外女人一同

 実は、萱田下の子安講の調査で、飯綱神社下の文字塔が現在の子安講の信仰対象となっていることを、昨年春に地元のご婦人方から知りました。19181985
 萱田下の旧集落は菅地・北海道・原口の3つの庭に分かれて、子安講もそれぞれ別に行われていました。
 今も子安講を行っているのは菅地で、毎月1回夜に飯綱神社で行い、日取りは次回の当番の都合で決めるので不定期、世間話中心で宗教的な行事ではないそうです。

 萱田下の北海道の子安講は、萱田下の公会堂で昭和四十年代までやっていましたが、今は年1回年末に「かわせがけ」をおこなうだけとのことです。
 この行事は飯綱神社下の「子安さま」にお花とお米とお水をあげて拝むのだそうですが、 この「子安さま」とは、飯綱神社の外、庚申塔群がならぶ辺田道沿いの一角の左片隅の2基の角塔婆型の石塔(⇒画像)なのです。

 18621888_5飯綱神社境内には社殿後ろに、私が子安像塔調査でよく取材対象にした文久2年(1862)と明治21年(1888)の2基の子安像塔があります。(←画像)
 

 史跡巡りをする方々にも、かなり目立った存在になっているのですが、子安講の祭祀が続けられているのは、この子安像塔ではなく、飯綱神社下の石塔であるとは、まったく意外でした。
 さらにこの「子安さま」は、もとは須久茂谷津の弁天脇の川べりにあり、そこはお産で死んだ人の供養をするところにあったというのです。

 2基の石塔の銘文です。

 手前新しい石塔(右上の画像左側 1985年銘)
  東・正面「〈キャ カ ラ バ ア〉/〈梵字10字〉/ 檀波羅蜜大慈大悲一切衆生」
  南・左面「〈キャー カー ラー バー アー〉/地蔵菩薩以大慈悲若聞名號不堕黒闇」
  西・裏面「〈ケン カン ラン バン アン〉/昭和六十年三月吉日」
  北・右面「〈キャク カク ラク バク アク〉/ 六大無礙常瑜伽 四種曼陀各不離 /三密加持速疾顯 重々帝網名即身」1918_7_2

 奥の古い石塔(右上の画像右側 1918年銘)
  東・正面「〈キャ カ ラ バ ア〉/〈種字10字〉/檀波羅蜜大慈大悲(埋没)」
  南・左面「〈キャー カー ラー バー アー〉/ 地蔵菩薩以大慈悲若聞(埋没)」
  西・裏面「〈ケン カン ラン バン アン〉/大正七年三月 萱田村下区 子安(埋没)」
  北・右面「〈キャク カク ラク バク アク〉/ 六大無□常瑜伽四種(埋没) /三密加持速疾顯重々(埋没)」
 この碑の根元を掘ってみると裏面下部に「子安」の文字が現れ、やはり子安講が建立した石塔であることが判明しました。

 「かわせがけ」とは「川施餓鬼」のことでしょう。
 また川べりで、産死者の供養をする習俗は、民俗学では「流れ灌頂(かんじょう)」と呼ばれ、「産死者や水死者、無縁の死者を弔うために行なわれる儀礼」でした。
 「習俗として、主に産死者、あるいは女性死者全般のために広く行なわれ、小川に卒塔婆、四本竹を立てて赤い布をつけ、道行く人がそれに水を掛けるなどした。赤い色があせると、血の池地獄に堕ちた死者が救われるという。水を掛ける際に、『産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水せがき』などの唄を歌うこともあった」といいます。 (高達奈緒美氏の論文から)

 川施餓鬼の宗教儀礼が、ムラの宗派や習俗により、いつの時代から、水難横死者供養と区別して、女人講により産死者の供養が行われるようになったかは定かではありません。
 村上橋詰の石塔も、飯綱神社下の萱田村下区の大正七年碑に続いて、萱田上区の女性たちが建てた産死者供養塔であり、いわゆる水難供養碑ではないと判断しました。

Photo_2 子安像塔を追いかけて東総路を行くと、かつて流れ灌頂をしていたというところに、子安像塔が建てられ、木の塔婆が添えてある風景を目にします。(⇒旭市清滝にて)

 萱田や以前調査した高津などのお年寄りの話でよく出てきた「流れ灌頂」の習俗も、産科医療が進み、「血の池地獄」の差別的な迷信から解放された現在ではさすがに全く廃れてしまい、今は各市史や町史の民俗編や民俗辞典の記述により知識として知るだけになりました。
 その「流れ灌頂」の記憶が、萱田や吉橋花輪などに現存する百年前の石塔にも留められていることに、石造物調査の面白さを感じた次第です。

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コメント

S様から、さっそく次のようなメールを頂戴しました。
ありがとうございます。

>川べりの石塔の件、正面をちょっと掘ってみると以下の通り。参考まで。
>前面(西面)「・・・□□波羅密大慈大悲(一切衆生)/・・・□□萱田上區産死者万(霊葬)  

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2011年7月13日 (水) 13:11

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