« K-25 合掌する子を抱く子安像塔の造立年は? | トップページ | K-27 川べりの石塔に残る「流れ灌頂」の記憶 »

2011年2月20日 (日)

K-26 母子の命を支える医療スタッフの力と子安塔

助産婦さん奉納のモダンな子安像塔

 Photo    
 091210_108 2009年12月、香取市竜谷の円珠院を訪ねると、江戸後期の2基と並んで、美しくモダンな子安像塔が建っていました。
 乳を吸う子供の姿勢などやや稚拙な不自然さがありますが、青く彩色された長い髪が印象的です。
 現在でも奉納されることがあるのだと思いながら、側面の銘文を見ると、「小見川町竜谷 伊藤か祢 助産婦」と刻んであります。
 年号は彫られていませんが、地元の助産婦「伊藤か祢」さんによる近年の奉納と推測されます。

 日本の2005年周産期死亡率は出生1000あたり3.3人と世界的にも周産期医療はトップレベルで、母子ともにお産で命を失う危険は過去のものになりつつありますが、地元の助産婦さんは皆、命がけのお産を何度も介助されてきたことでしょう。
 その喜びと悲しみの歴史をかみしめながら、母体の安全と子の健やかな発育を願う深い祈りを込めて奉納されたに違いありません。


「お産婆さんのお墓」の子安塔


Photo_2 助産師がかつては助産婦さん、さらに古くはお産婆さんとよばれ、その経験と高い技術が、神仏の加護以上にムラの女性たちから頼られていた歴史資料を、ある寺院の墓地で見つけました。
 2010年1月、飯岡漁港に近い旭市下永井の花蔵院というお寺で、子安塔を探していると、お寺の方が「お産婆さんのお墓」というのを教えて下さいました。

 やわらかい石質の上、強い海風に風化していますが、今も襷が奉納されていて、ムラの女性たちに信仰されている子安観音です。
 右側面を見ると大正7年旧9月28日に日付と観音菩薩種子「サ」の梵字、「眞徳産王大姉?」という戒名らしき銘がありました。
 これは産婆さんの遺徳を顕彰、供養する墓塔であるとともに、お産が無事済み、子育ても順調であるように祈る子安塔でもあると思われます。

 村や町の寺子屋の師匠の遺徳を偲んで建てられる筆子塚はよく見ますが、お産婆さんに感謝する子安塔との出会いはこの時初めてでした。

 「子安婆々 分別過た名なりけり」
 江戸中期の『俳諧武玉川』五篇の句だそうです。
 神仏以上に頼られたお産婆さん、思わず「子安婆々」とお呼びしたくなる存在ですが、ちょっとそれはオーバーかな?というためらいを、ツイッター風に詠んでみたのでしょう。
 でも、「眞徳産王大姉」さんのように、慕われるお産婆さんは「子安婆々」とお呼びしてよいのかも・・・。


お産の名医を顕彰する子安観音碑


 1850_3_3 東庄町夏目の禅定院に、珍しい石碑があります。
 『東総の石仏』(服部重蔵、昭和61年)に写真が載っている子安観音碑で、上部には、蓮の花を持ち雲に乗って来迎する聖観音像が、下半分には、子供を抱いた婦人像が浮彫りされています。

 2010年12月、現地へ行ってみると、残念ながらカビやコケが増殖して、本の写真のように鮮明ではありませんが、細密な図柄が丁寧に彫られ、右側面には「嘉永三戌十月吉日」(1850)、「世話人」として「藤蔵」ほか3名の名前が銘記されていました。
     
 『東総の石仏』のキャプションによれば、「東庄町夏目には現在も和田医院があるが、この家は代々医家で、五代位前の医者は産科の名人であった。そのため数多くの女達が救われたという。その徳を称えて助けられた人達が子安観音として祀ったのがこの碑だといわれている。」とのことです。

 江戸時代の産科医療は、欧米以上に高度で、中期には賀川玄悦が活躍、後期には水原三折により嘉永2年(1849)に『醇生庵産育全書』全12巻を刊行されていますから、千葉県を含め各地にお産の名医が存在していてもおかしくないわけで、お産婆さんの手に負えない難産は、医師に頼ることもあったのでしょう。
 その名医の徳をたたえる碑が子安観音碑の姿をとることに、地域の生活実感と民俗信仰の深さが感じられます。

 *****  *****  *****  *****  *****  ******  *****  *****

1924_13 <蛇足>

 冒頭に紹介した香取市竜谷の円珠院の助産婦奉納の子安像が、たぶんモデルにしたと思われる大正期の子安観音像を見つけました。

 場所は小見川377の善光寺境内。
 最近の墓地整理によって、せまい覆い屋の中に「収容」された石仏十数体があります。
 その中に、大正13年(1924)8月銘のひときわ美しい子安観音像が・・。

 宝冠や子供のリアルな動きなど、円珠院像がこの像を模していることは明らかでしょう。
 前後左右、まったく隙間がないので、像全体を写すことができなくてとても残念です。

|

« K-25 合掌する子を抱く子安像塔の造立年は? | トップページ | K-27 川べりの石塔に残る「流れ灌頂」の記憶 »

コメント

2012年3月22日、左足甲の中骨を折って、外出もままならず、鬱々としていたところ、房総石造文化財研究会の石田年子様より、心躍るメールをいただきました。

「最近、東庄町の調査に出かけています。(中略)
 稲荷入・観音墓地と云うところに、以前、蕨様が書かれた小見川竜谷の産婆さんが造立した子安観音と同じものがありました。
【稲荷入高木幸三郎の長女か祢 昭和七年三月十日 助産婦 /小見川町竜谷 伊藤三代治と結婚する】と脇に刻まれていました。」

添付してくださった画像を拝見すると、記事にある竜谷の円珠院の塔に類似し、また小見川善光寺の大正13年銘の子安像とそっくりでした。

銘文から、東庄町東和田「稲荷入」の助産婦であった高木か祢さんは、10kmぐらいの北西の香取市竜谷の伊藤家にお嫁に行ったことがわかります。

小見川善光寺が大正13年、東庄町稲荷入が昭和7年で、竜谷の伊藤か祢さん奉納の子安塔は伊藤家に嫁いた昭和7年以降の建立だと判明しました。

か祢さんが、助産婦の誇りと決意を胸に嫁ぎ、そして母子保健のため活躍した「女の一生」、その祈りを語る2基の子安塔に胸打たれます。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2012年3月28日 (水) 10:10

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: K-26 母子の命を支える医療スタッフの力と子安塔:

« K-25 合掌する子を抱く子安像塔の造立年は? | トップページ | K-27 川べりの石塔に残る「流れ灌頂」の記憶 »