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2010年12月11日 (土)

K-25 合掌する子を抱く子安像塔の造立年は?

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 東関東自動車道を「佐原香取」で降りてすぐ、吉原の集落があります。
 吉原は古来より信仰を集めてきた香取神宮の玄関口の村で、中世は香取社領でした。
 この吉原村の善福寺は、香取社奉仕の寺院の新福寺末で、慶長3年創建と伝えられる曹洞宗寺院だったようですが、現在そのたたずまいは墓地の中にお堂が残されたさみしい風景でした。
 その門前に舟形光背に子を抱く子安像、右上に「奉待 子安観音菩薩」と彫られた子安塔があります。
  光背の左上に15名の女性の名前が彫られていることはK-24の通りで、房総石造文化財研究会『会誌』107号で報告している米谷博氏が残念がっているよう年号が刻まれていません。
 像容でその年代がわかれば、歴史資料として価値も増すことでしょうから、私の調べた子安塔データで考えていきたいと思います。

 さてこの像の特徴は、しっかりと両手で子を支えた母像が、凛とした毅然な姿勢で正面を向いていることと、後方の天衣が大きく広がっていること、そして何より、子が合掌して祈る敬虔な姿であることです。

 17822一般に子安塔で表現される子の像容は、ほとんどが乳飲み子ですが、利根川南岸では、天明2年(1782)香取市本矢作・知足院の子安塔のように、幼児が母にいだかれて正面を向き祈る姿をとる像が現れてきます。 (⇒画像)
  このような母子ともに尊厳ある姿というのは、キリスト教の聖母子像では子が神であるイエスなのですから、きわめて当たり前の表現(*)なのですが、子安塔ではむしろ珍しいといえるでしょう
 (*母子ともに正面を向く表現は、神の母として「上智の座」に着くものという古典的な聖母子の図像に近い)

 子が合掌する子安像は、旧香取郡域(神埼町・旧佐原市・旧小見川町)では、天明2年知足院の像に続き、神埼町大貫の興福寺の天明8年(1788)像が現れます。        (右下の画像↓)
 

 17888_2天明2年知足院像の正面を向く子の下肢は、母像の右手に収まるよう軽く膝で折れて横へ傾けています。
 天明8年大貫興福寺の像は、全身を斜めに傾かせ、下肢は無理に曲げずに母像が両手で抱き、造立年月は、光背正面ではなく、蓮華座の下の台石に天明8年2月と刻まれています。
 年不明の香取市吉原の善福寺の像は、大貫の興福寺天明8年像とうりふたつの像容で、蓮華座下の台石はあたらしい石に替わってますので、造立年月はたぶん元の古い台石に記されていたことと思われます。

 この二つの子安塔の違いをしいて探すと、子供の衣の裾からのぞく足先の表現でしょうか。
 吉原善福寺の子の像は、本矢作知足院の天明2年像に似て、衣の裾断面を楕円形に見せて中の足先がかろうじて見える表現ですが、大貫の天明8年像はしっかりと足を外向きに出しています。
 幼児の着物の裾と足を彫り出した子安像の事例が少なくてどちらの表現が先か、決めるのは難しいのですが、吉原善福寺の子安塔は、本矢作知足院の天明2年像の後、大貫の興福寺天明8年像の前とするのが妥当かと思います。
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 またほとんど同じ像容の子安塔が2基ある事例は、明和元年の2月と11月印旛沼平賀の隣り合った集落で、また安永3年栄町では9月に木塚、11月にで相次いで見られますが、これらはそれぞれ、おそらく同一の工房で、ほぼ同時期に造られたのでしょう。 (⇒K-8K-17の記事参照)
 吉原の善福寺の子安塔も、大貫の興福寺の子安塔と同じ天明8年か、その前年の天明7年(1787)と推定できると思います

 この時期の子安像塔の面白さは子供のさまざまな個性的な表現にあります。
 図像として技術的な処理が試行錯誤な点も見受けられますが、品格ある幼児像を志向していることは、他の時代にはない特徴点でしょう。

 ⇒香取市大戸川禅昌寺の子安塔 寛政9年(1797

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