S-12 秩父霊場金昌寺「慈母観音」とその世界-2
秩父四番霊場の金昌寺の子安像が、彫刻美術として類をみない斬新で秀逸な作品であることを感じさせられるのは、正面から見る母子像だけではなく、台座を含めた全体のプロポーションの美しさである。
柵が視線をじゃまするので、真横から見てみよう。
通常は蓮弁と反花(そりばな)から構成される蓮華座は、反花を上の蓮華と対称的に下方へ円錐状に広がる2茎の蓮の葉のモチーフに替え、その裾にリアルな蛙をあしらっている。
若い女人の姿をとる主尊は、左手は床におろして反身になった上半身を支え、自由になった右手で子に乳を含ませいつくしむ。
子の躍動的な動きと、やさしく微笑む母の視線が神々しい。
母子像とそれを支える蓮華座とが一体になって、ほとばしる生命力(いのち)と祈りが表現されている。
江戸時代の彫刻作品は、木食や円空、湛海らの作品を例外とすると、仏像も肖像彫刻も見るべきものはなく、ただの人形か社寺装飾に堕してしまっていると、日本美術史研究家は顧みもしない。
そのような江戸時代の最中、このように優れた石造彫刻が山深い秩父観音霊場のお堂の軒先に置かれてあること事体、とても不思議なことかもしれない。
多くの女人の信仰を集めた秩父観音霊場と子安信仰が、深い関係にあることは、言うまでもない。
三十三の姿に化身して衆生を煩悩から解放し、子授けの願いを成就させる観音の慈悲を求め、各地からの女人講が秩父札所を廻る。
北総、特に印旛沼周辺の女人講では、子安講から秩父講へ、さらに念仏講へと移行していくのが通例で、女性たちにとって、秩父は必ず巡礼する霊場と言ってよい。
1500万年前に入り海があったという秩父は、礫岩と砂岩が互層になった山に囲まれた盆地で、その山が浸食された険しい崖・窪み地形を作っている所が多く、このような地形は修験道の行場となる。(房総石造文化財研究会HP・by.吉村氏)
崖下の窪みは、また胎内になぞらえられ、死と再生、生まれかわりの場であり、子安信仰とも深い関わりを持つ。
三番札所常泉寺は、池の向うの崖下の窪み(↑)に石仏を祀り、また本堂の縁側には、子安観世音木像と、自然石の子持石(→)を安置して巡礼を迎えてくれる。
秩父は、今も原初的な子安信仰が息づく霊場なのだ。
金昌寺の「慈母観音」像は、寛政四年(1792)に江戸通油町の豪商吉野屋半左衛門は寄進したものである。
金昌寺の本尊の霊験で子供を授かったものの、その後子供と妻を相次いで失ったため、生前の母子の姿を浮世絵師に下絵を書かせて建立・供養したものという。
寄進者の志を造形として結晶させた作者の名はわからないが、その作風のうかがえる石仏は、金昌寺やその近くに見出すことはできる。
一番札所四萬部寺をでて二番へ向かうすぐの栃谷の路傍に、如意輪観音の見事な丸彫り像(↓)が、ささやかなお堂の中に安置されている。
寛政八年(1796)建立の月待塔で、主尊の顔立ちや衣紋の彫り、独創的なポーズは金昌寺「慈母観音」像に相通じる。
また金昌寺境内の十一面観音堂で、観音の足元で主尊を仰ぎみる童子(↓)の動きにも、金昌寺「慈母観音」像の乳児の面影と石工の技の巧みさを感じさせられる。
同じく金昌寺観音堂前に地蔵菩薩坐像(↓)があるが、地蔵菩薩像の儀軌にとらわれない人間的で新鮮な作風がうかがえる。
如意輪観音や地蔵菩薩については、儀軌の縛りの中でもこれだけの独創的な表現が可能であるとするなら、儀軌のない子安像は作者の思いと技量が発揮できるテーマであったに違いない。
さて先日、北総の江戸時代中期の子安像塔についてデータをまとめ、『房総の石仏』20号に掲載していただいた。
北総の旧村で子安像の石仏が立ち並ぶ風景は日常的であってめずらしいことではない。
しかし、江戸川以西、旧武蔵国での江戸時代中期の子安像塔はまれである。
秩父三十四霊場でもこの「慈母観音」像以外に、子安石像は目にしなかった。
北総の子安像塔はムラの子安講の結束の証であるが、旧武蔵国のエリアでは、むしろ個人の信心・供養に由来するものなのであろうか。
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