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2010年10月 3日 (日)

S-11 秩父霊場金昌寺「慈母観音」とその世界-1

 2010年9月12日、久方に秩父の巡礼道を歩いた。
 今夏は例年にない猛暑、9月も中旬を過ぎてまだ真夏の暑さであったが、コスモスなど秋の花々が古道の縁に咲き乱れ、季節の移ろいを感じさせてくれる。

 秩父観音霊場の金昌寺で、あの美しい子安観音(「慈母観音」)像に初めて出会ったのは、1997年5月のこと。
 「秩父観音霊場と秩父事件の史跡を訪ねて」という12年前の紀行文に、私は金昌寺境内に足を踏み入れた時のことを、次のように書いていた。 (『史談八千代』第22号)

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 「 第3章 石の協奏曲・四番金昌寺
  
 大きなわらじの掛った山門をくぐると、赤いよだれかけを着けた六地蔵がシャクナゲの花に埋もれて私たちを迎えてくれる。ふと坂道の先に目をやると、そこにはさまざまな仏たちが集う石仏の世界だった。
 寛永元年(1624)に住職が千体安置の発願をして以来、その後も信者の寄進が続き、千四百体の石仏が祈りの谷を作っていた。
 石仏に導かれてたどり着いた山腹の観音堂の回廊には「マリア観音」とも通称されている美しい子安観音が、たくさんの女たちの願いを記した絵馬に囲まれて、赤子に乳を含ませていた。
 寛政4年(1792)江戸の商人吉野屋半左衛門が寄進した像で、歌麿の絵を基に刻ませたという。 」

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 12年前は、札所一番四満部寺からバスで四番金昌寺へ向かったが、今回は、一番から二番納経所、三番常泉寺と巡礼道をたどり、四番から五番語歌堂まで石碑・石仏との出会いを目的に歩く。
 先達は、房総石造文化財研究会の町田茂先生。
 私は、金昌寺の「慈母観音」像を生み出した秩父の石造彫刻の美術工芸的な系譜と像容の精神性をつかみたく、列の後ろについてひたすら石仏を見て歩いた。

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 金昌寺の「慈母観音」像は、江戸中期の石造彫刻として、日本美術史上の最高峰だと、私は思う。
 あまりにも他を凌駕する出来栄えに、この彫像にのみ目を奪われて、その背景や系譜の存在も見えないほどである。
 しかも残念ながら、金昌寺の「慈母観音」像を作者の名は知られていない。
 書画や木彫刻の作者に比べ、石造彫刻の場合、石工の名前は、まれに神社の狛犬のその名が刻まれていることもあるが、一般にはほとんど残されていない。
 刻まれているのは寄進者の名前のみというのは、石工の社会的な地位に寄るのか、あるいはすでに受注商品を製造する工人に徹していたためであろうか。

 札所のお堂の回廊というオープンな場所に公開されてきたこの石像は、東大寺南大門の置かれた鎌倉時代の慶派の金剛力士木像のように、常時庶民の目に触れて観賞拝観される身近な作品であり、その高い芸術性は彫刻職人たちの目標であったに違いない。

 今回の秩父札所一番から五番までの短い巡礼道の石仏たちとの出会い、そこに金昌寺「慈母観音」像に通じる芸術性と精神性のバックグラウンドを見つけてみたいと思う。

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