K-21 子安信仰と「慈母観音」像
私は、母性を明らかにした主尊が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」と一言で呼んでいますが、関東での伝統的なよび名は「子安さま」「子安観音」「子安大明神」「子育て観音」とさまざまです。
(右は千葉市下田町の寛政三年1791銘の子安像塔
下は佐倉市角来の子安像塔で、白衣観音の面影を残す)
女性は皆、お産や月経で穢れた身なので、死後は血の池地獄に落ちるとされ、そこからの救済には女人講に集って、如意輪観音菩薩にすがり、念仏を唱えることが必要と、仏教各宗の僧たちが説いて回りましたから、江戸時代の前半には、おびただしい如意輪観音の十九夜塔が、講の証しとして、ムラの女人たちによって建てられました。 そして、この如意輪観音を祀る女人信仰の十九夜講が、江戸後期に子安信仰へ変化する中で、子安観音が生み出されたと、一般的にいわれています。(榎本正三『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』崙書房)。
しかし私のフィールドワークの結果では、「子安大明神」を祀る神道的な子安信仰と、「道祖神」や「子安石」(丸石や女陰石)を祀る習俗が混ざり合った子安祭祀から、子安像が創造されたと考えています。
縄文時代からの安産のお守りのタカラガイを「子安貝」と呼ぶように、「子安」という言葉は、男女の交わり⇒子宝⇒安産⇒子の健やかな発育という原始からの現世的利益を祈願する信仰を表す言葉だと思います。
この素朴な子安信仰が、石祠内にお札の代わりに、「子安明神」としてその浮彫りや丸彫り像を祀る子安像塔を生み出し、この子安像は同時に、聖観音・如意輪観音などの観音菩薩像や、本来が子安祈願であった出羽三山の湯殿山信仰の本地仏大日如来像と融合して、舟型光背に子を抱く「子安観音」の石仏が創造されたと私は考えます。
ですから、「子安観音」の像容は仏像風ですが、江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏教の変化観音(三十三観音)の儀軌にもないオリジナルな石仏と言ってよいでしょう。
一方、「慈母観音」や「悲母観音」は、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも輸入された観音像です。
その姿は、頭からすっぽりと白い布を被る女性像で、子を抱く像も多いようです。
中国の「送子観音」は、「送子娘娘(ニャンニャン)」を祀る民俗信仰から生まれた像で、子宝に恵まれることを祈願目的として、現在も正月の縁起物のポスターにも用いられ、また陶磁・金属製像は置物としても飾られています。
「白衣観音」(びゃくえかんのん)は、三十三観音の一観音菩薩で、古くからインドで崇拝され、仏教に取り入れられてからは阿弥陀如来の后、観音菩薩の母ともされたとのこと。白衣は、僧が着る袈裟ではなく在家の着る白い衣だそうです。
16~17世紀初め、明で生まれた「慈母観音」像は、当時の中国での地域文化への適応を推し進めたイエズス会宣教師マテオ・リッチが作らせた「東アジア型聖母像」であり、白衣は、聖母の純潔を象徴し、幼子はもちろんイエスを表します。
特に福建省で大量生産された白磁の慈母観音像は、海商鄭父子によって福建省から長崎に運ばれ、当時の潜伏キリシタンの霊的需要を満たしたと、若桑みどりはその著『聖母像の到来』で述べています。
(⇒画像は東京国立博物館で撮影した「マリア観音」像)
この白磁の慈母観音像は、東京国立博物館に37点収蔵されています。いずれも、幕末と明治初期の長崎浦上のキリシタン大弾圧の際に、信徒から押収したキリシタン遺物で、聖母マリアと幼子イエスとして礼拝していた証拠がはっきりしていますので、その来歴を示す「マリア観音」の名称が与えられる像です。
(「マリア観音」のいう名は、キリスト教の聖母子像としての仮託礼拝物のみに与えられ、その信仰や来歴が不明の場合は、「慈母観音像」または、「子安像」、「子安観音像」と言うべきです。)
この「東洋の聖母」像が17世紀半ば、「仏像」として大量に輸入されたことは、潜伏キリシタンのひそかな礼拝物となったと同時に、それまでの手作りの木造仏よりずっと安価でもあり、また安産子育てを願う村々の女性達に、その像容が如意輪観音像よりも、母性愛と心の癒しを与える像であったことから、「子安観音」として、急速に各地方に普及、浸透していったと考えられます。
「東アジア型聖母像」の白磁の「慈母観音」像が、17世紀 各地域でどのようにひそかに、あるいは公然と礼拝されたかは、まだよく調査していませんが、茨城県小美玉市の文化財には「子安観音像」があり、明朝(中国)より伝来した白磁製のマリア観音像で秘仏とされていて、宝永年間(1704~1710年)ひとりの信者が長崎において霊夢を蒙り、授けられた観音像と伝えられ、もと、竹原中郷天台宗永福寺末長福寺境内にあったものであると、小美玉市のホームページでは紹介されています。
また千葉県袖ケ浦市の百目木(どうめき)の子安観音堂には、千葉県で初出とみられる子を抱いた像が浮彫された元禄四年銘の「子安大明神」の石祠が祀られてあり、その傍らには、この白磁の慈母観音像が置かれていました。 (⇒右上と右の画像)
以上、江戸時代、17世紀後半から18世紀前半の元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、
①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、
②十九夜塔など石仏を彫る技術の普及、そして、
③輸入された慈母観音の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感
という3つの要因があったと、私は考えています。
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コメント
解りやすい解説ありがとうございました。
投稿: | 2010年6月26日 (土) 20:51