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2010年4月29日 (木)

K-19 子安像を刻んだ墓標石仏

  印旛沼周辺地域の石造物を追っていると、江戸期の庚申塔群、十九夜塔群、そして近代の出羽三山碑群と子安塔群は特に気にすることもないような見なれた風景なのですが、同じ関東地域でも、旧武蔵国(東京・埼玉)では、その様相はだいぶ異なるようです。

 特に子安塔は、旧下総国でも江戸川べりの地域(市川市・浦安市・流山市・野田市・旧関宿町、そして松戸市西部)では、調査報告書を片っ端からめくっても見つかりません。
 たとえば、『流山市の石仏』『流山市金石文記録集』上巻、同『追録』には、女人講関連で、十九夜塔61基と子安地蔵が3体、「待道大権現」12基、「手古奈大明神」4基の石祠があるだけで、子安像の刻像塔はありませんでした。
 同じく『野田市金石資料集』では「粟島神」石祠のみ、『関宿町の石物』(関宿町文化財調査報告第一集/1983年)も記載がありません。S090504_224

 ちなみに、各市町村の石造物調査では、数限りなくある江戸期の個人の墓標石仏は、ふつう調査対象外なのだそうです。

 数年前、埼玉県にも子安像があるのだろうかと、馬場小室山の縄文遺跡の関係でさいたま市の報告書『石の文化財-浦和の石造物-』を調べているうち、偶然、丸彫りした子安像を載せた墓標の記載を見つけました。
 そして、とうとう昨年(2009)5月4日、馬場小室山遺跡研究会の活動の合間に、東浦和駅南側の大間木字附島のY家の墓地を訪ね、この子安観音像のついた墓塔にめぐりあうことができました。090504_261
  正面台座に、「院号+大姉」と「信女」の女性2人の戒名、命日と思われる明和四年(1767)五年(1768)の銘が、側面に「ありがたき 法の誓いも つきしまに 子安大悲の あらむ限りは」いう和歌が彫られています。

 もっとも、埼玉県には全国的に有名な秩父四番札所の金昌寺の子育て観音像(慈母観音)があります。
 寛政四年(1792)の寄進で、浮世絵師の喜多川歌麿から範をとったとされ、江戸の吉野家半左衛門が先祖近親供養にという主旨で造らせたとも言われています。

 17144 さて、最近になって、このブログをご覧いただいている野田の苔華さまから、貴重な画像データをいただきました。
 野田市中里の○○寺□□家の墓地にある石仏と、船形下今泉不動堂横にある上部が欠けてしまった石仏です。
 さっそく昨日(4月27日)現地へ赴き、私も写真を撮ってきました。

 前者は、舟型光背の浮彫子安像の美しい墓標石仏で、「正徳四午年」(1714)、「秋倉妙香信女」と「秋露童女」の銘が刻まれています。
感染症か、または産後の肥立ちが悪く、母子ともに他界したのでしょうか。

 1782 後者は、思惟相の母像が蓮華を持った子を抱いた如意輪観音変形型の子安像で、残っている銘文は右側が「・・・六子五月十七日」、左側が「・・・天明二/寅二月六日」(1782)です。苔華さまの推理では「・・六子年」は宝暦6年(1756)。
 故人は2人で左右ともに命日だと、26年と一世代分の間があり、また右が故人の命日で左が創建日とすると、26年後の法要になります。
 いずれにせよ、上部の銘文が欠けているので、これ以上は不明です。

 他にも故人の供養目的の子安像の石仏がないのかしらと、データを調べていくと、読誦塔に分類されている中に、上部の欠けた子安像をのせた印旛村鎌苅東祥寺供養塔がありました。
 1768角柱型の台座には「明和五戊子年」(1768) 「奉読誦千部普門品供養」とあり、鎌苅村の男性6名の俗名と寺の和尚の名のほか、中央左に「由労空蔵信女」の銘が刻まれています。

  ちなみに鎌苅東祥寺には十九夜塔が延宝4年(1676)から文政10年(1827)まで7基、うち文化2年(1805)の1基は子安観音像で、ほかは如意輪観音です。
 子安塔(信仰目的の分類で「子安講中」などの銘がある塔)は、嘉永5年(1852)から、平成7年(1995)まで10基で、文久2年(1862)が如意輪観音像のほかはすべて子安観音像が浮彫されています。
 ムラの講の建てる石塔の形式と像容は、前例踏襲が慣習のようで、一時的に子安像を採用しても、幕末まではやはり如意輪観音像に固執し、そして行きつ戻りつしながら、明治以降はすべて子安観音像へと替わっていきます。

 また故人の供養のために、元禄時代から江戸中期にかけて、それまでの板碑型や位牌型の墓塔から、具象的な仏像を刻んだ個人の供養塔を墓塔として数多く建てます。
 その像は、女性の場合ほとんどが如意輪観音像、童子の場合は地蔵像です。

 さいたま市と野田市中里の子安観音像の墓標はきっと、母子が相次いで亡くなったのでしょうか。あえて子安観音像を刻んだ墓標に、遺族の深い祈りが伝わってきます。

 個人による亡き人への供養が目的で、子安観音像(子安講の習慣がない場合、「子育て観音」または「慈母観音」といわれるらしい)が建てられる場合、「講」というムラ社会の了解を経ず自由に建てられるわけですから、数は少ないものの、その時期は早く、またデザインも最先端の斬新で個性的な像が選ばれてもおかしくないでしょう。

 鎌苅東祥寺の読誦塔に刻まれた信女名は、読誦に参加した女性の生前戒名なのかもしれませんが、子安観音像を奉っていることから、読誦の目的は、この亡くなった女性の供養のためだったのでは、と感じられます。

 そして18世紀初頭、印旛沼周辺のムラの女人講の塔に子安像が受容され始めるころ、すでに野田では個人が発注した墓標石仏に子安像が採用されていたのでした。

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