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2010年4月22日 (木)

K-18 優品の系譜Ⅲ 子を救済する姿を刻む天保期の子安塔

  前回K-17は、江戸中期の子安塔萌芽期の事例でした。
 今回は、後期、江戸文化爛熟の天保のころ(19世紀半ば、K-14の少し前)の作品を紹介し、その作風と系譜をたどってみたいと思います。

18323_2 昨秋の八千代市郷土歴史研究会の「ふるさと歴史展」のコーナーをお借りして、写真展「北総の子安様 石に刻まれた母と子の像」を試み、15点の子安塔写真を観賞していただきました。
 江戸時代のムラのお堂お宮の片隅や路傍に花咲いた庶民芸術としての子安塔を知っていただく機会になったかと思います。

 特に、文化文政期に続く天保年間は、人目をひくような粋で凝った像容の子安塔が現れる時期でした。

 右上の写真は、天保3年(1832)の銚子市名洗町不動尊の子安塔です。
 腹かけをした幼児が母の乳房を求めてその膝に這い上がろうとし、母は子の両手を優しくとって引き上げて乳を含ませようとしている像です。

 子安像のほとんどの子は、抱かれている乳嬰児ですが、この後ろ姿の子供は、一歳過ぎのようで、それでも母の乳房が恋しいらしく、その動的な表現が印象的です。183910

 「施主 みつ」となっていますから個人の奉納で、安産子育て祈願とともに、亡き子が子安観音の御手にいだかれるよう冥福を祈ったのかもしれませんし、また這い上がろうとする子の姿は、奉納者自身の救いを求める祈りをあらわしているのかもしれません。

 

 この銚子市の子安塔像容は単独ではなく、天保10年(1839)の土浦市真鍋の八坂神社の子安塔にも、同様な像を見ることができます。
 (右のこの画像は、HP「土浦のあれこれ」から、使わせていただきました)。

 比べてみると、天衣の有無と母像の半跏した下肢が左右の異なる以外、意匠はまったく同じで、しかも作風も極めて似ていますから、同一の石工によるものだと推定できます。

 182912千葉県銚子市と茨城県土浦市は、今は県が異なり遠いように感じられますが、古代・中世からの水上交通圏でもある「香取の海」文化圏は、江戸時代の子安塔の信仰文化圏とほぼ重なり、かつては密接な関係のあった地域だったと思われます。

 

 このほか、天保3年銚子市名洗町の子安塔像容に先行する作品として、文化12年(1815)神埼町大貫の興福寺の子安塔があります。
 子安塔としては銚子の塔より大型で彫りも丁寧ですが、母像の表情はまだやや硬く、また子との関わりの表現も、銚子市と土浦市の像容のほうがより「救済」を表現していると感じられます。
 とはいっても、この塔が子安塔像容に与えたインパクトはかなり画期的だったことでしょう。

189730 時代は下って、明治30年(1897)の香取市大戸川の禅昌寺の子安塔です。
 子の姿は、銚子市と土浦市の天保像をまねていますが、幕末から明治期に流行ったさまざまな持物や装飾が付け加えられ、天保期のダイナミックでしかも可憐な作風はかえって失われています。

 やはり、彫像も含め文化芸術の技や作風には、「旬」というべき時があるのだと感じられます。

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コメント

明治30年(1897)の香取市大戸川の禅昌寺の子安塔と、同じデザインの子安塔が、近くの香取市上小川・吉祥院にもありました。
前年の明治29年(1896)の銘です。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2010年4月27日 (火) 19:14

文化文政年間にも同様な像容の子安像塔がありました。

文化9年(1812) 成田市(旧大栄町)伊能公民館 =カビの繁殖がひどく写真写りが良くありませんが、このタイプでは初発のようです。

文政元年(1818) 香取市玉造玉造寺=子の頭部に欠損がありますが、きれいな子安像塔です。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2011年3月 8日 (火) 23:39

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