K-17 肩にも子がいる2児子育てタイプの子安塔
江戸時代中期(1716~1803)では、数少ない(といわれた)子抱き像のある子安塔について、北総、特に印旛沼東辺を中心に調査を重ねて、これまで75基をカメラに収めてきました。
このほかに、「子安(子易)」の文字銘があって像のない石祠が35基あり、これを加えると、北総では江戸中期だけでも、110基以上の子安塔が確認できます。
このうち子抱き像のある子安塔は、酒々井町から発して、印旛村~成田市~栄町、佐倉市~千葉市東部と北総の東部に広がっていきます。
また「子安」文字銘の石祠は、八千代市から発して、その周辺の四街道市、富里市、習志野市~船橋市、印西市へと四方に分布していくことがわかりました。
北総の地域では、江戸前期に、大日如来像や地蔵像を主尊とする念仏講の供養塔から派生して、中期には、如意輪観音像を主尊とする十九夜その他女人講の供養塔が圧倒的な数で建立されていきます。
子抱き像のある子安塔は、中期になってもその数は少数ですが、幕末から近代で爆発的な数となります。
その萌芽がすでに1740年台、特に安永年間に多く芽生えていることは確かです。
そしてその像容は、すでに述べたように、如意輪観音に子を抱かせた像だけでなく、さまざまなタイプの子安像が試行錯誤で創られ、そのうちいくつかのタイプは、後期(文化文政期)の子安塔の像容に影響を与え、またはその面影を残していきます。
北総にはそのうち、抱き子のほかに肩にも子のいる2児子育てタイプの子安塔が、中期に12基存在します。
1. 酒々井町 柏木 新光寺墓地 元文5年(1740)「子安大明神」銘 石祠
2. 酒々井町 酒々井 朝日神社 宝暦4年(1754)「子安講中」銘 光背型(⇒右上のトレース図)
3. 成田市 高 台十字路 明和元年(1764)「十三夜・十七夜・十九夜」銘 光背型(⇒右の画像)
4. 印旛村 伊篠 白幡神社 明和 7年(1770)「子安大明神」銘 石祠
5. 栄町 木塚大日堂 安永3年(1774)「子安供養塔」銘 光背型
6. 栄町 南集会所 安永3年(1774)「子安供養塔」銘 光背型
7. 酒々井町 酒々井622新堀 安永5年(1776)「子安講中」銘 光背型
8. 栄町 押付善勝庵 安永5年(1779)「十九夜塔」銘 光背型(⇒右の画像)
9. 成田市 北須賀 白旗神社 天明2年(1782)「十九夜」銘 光背型
10.佐倉市 大佐倉 麻賀多神社 天明3年(1783)「子安大明神」銘石祠
11.成田市 飯仲 住吉神社 天明3年(1783)「子安大明神」銘 石祠(⇒右下の画像)
12.栄町 三和青年館跡 寛政2年(1790)「十六夜講中」銘 光背型
このうち1.と4.と10と11.は石祠、また2.と7.と11.は如意輪変型の思惟像、他は正面を向いた像と、その形態はさまざまですが、母親の肩にいる子は、(3.をのぞき)左肩に後ろから前へ両手を伸ばしている点で一致しています。
さらに江戸後期の天保期にも、栄町では、布鎌酒直香取神社(1831)と、木塚天王前(1832)の2基の2児子育てタイプの子安塔が造られ、印旛村の瀬戸では近代にも肩に手をかけた子のいる子安塔があります。
そのことから、肩に子のいるこのような2児子育ての像容は、石工の気まぐれではなく、儀軌とまでいかなくても、なにか図像学的に宗教的な意味があったということが示唆されると思います。
3.の成田市 高の大きな光背型の明和7年像は、栄町の5.と6.と8を経て、9.の成田市北須賀の天明2年像でその整った形が完成します。
そしてこれ以降は、栄町曽根集会所の天明5年像のように肩の子が省略された像が基本となり、さらに胸に抱かれた子が蓮華を持つなど様々に変化していきます。
肩にも子のいるこの像容のルーツは、石祠に像のある子安塔の初出である袖ヶ浦市百目木子安神社の元禄4年「子安大明神」像であることは前にも書きました。
この百目木子安神社の像を見たのか、風聞で知ったのか、あるいは、掛け絵などの他に参考となる図像が存在したのか、今は定かではありません。
またこの百目木子安神社の像自体が、図像学的にどのような経過で「創出」されたのかも不明です。
長くなりましたので、この謎解きは、続編で考察したいと思います。
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