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2010年2月12日 (金)

K-14 優品の系譜Ⅱ 八千代市米本長福寺の子安像の前とその後

S  先日(2月4日)、八千代八福神めぐりで米本の長福寺へ行った際、その境内入口にあるという子安塔を探したのですが、どうしても見つかりません。
 あらためて9日にご住職にもお聞きしに行ったのですが、ご住職も「庚申塔や地蔵像はいつも見ていますが、子安観音は・・・?」とは首をかしげるばかり。
 S1843214さては、墓石が高く積み重ねられた無縁塔の中に、紛れているのではと、その中を捜したところ、やはりありました! 
 そばには、文字碑の十九夜塔や青面金剛像を浮彫にした庚申塔なども積まれてあります。

 昨今の寺院は、墓地や駐車場の整備で境内も景観が一新し、石仏なども再配置され、中には片づけられてしまっているのも。
 無縁供養塔の中にきちん安置されているのは、まだ良いほうなのかもしれません。

  S1848_5さてこの長福寺の子安塔、見てすぐ思い浮かんだのは、鎌ヶ谷八幡神社の華麗な子安さま(右上)の像容です。
 高く結いあげた宝髻、首をかすかに傾け、右の手のひらを見せて子供の顔を支えようとしています。
  子供が膝から胸に這い上がろうとしているその動きがリアルです。
 高く翻る細い天衣、左足を覆って前に垂れた衣の裾からわずかに見える右足の先。
 実に細やかで独創性に富んだ像容です。
 長福寺の像の左手は如意輪観音のように左ひざの上に置かれていますが、鎌ヶ谷の像はなんと左手にダルマを持っています。S1857

 調査データから、このような特徴の子安像をあげてみると次のようになります。

 1.鎌ヶ谷市鎌ヶ谷八幡神社   天保14年(1843)3月 女人講 (画像:右の一番上)

 2.船橋市八木が谷五 長福寺 弘化5年(1848)2月 女人講中 (画像は、風化が進んで美しくないので省略)

 S18673.八千代市米本 長福寺入口 弘化5年(1848)3月 内宿女人講中  (画像:右の2番目)

 4.船橋市八木が谷五 長福寺 安政5年(1857)4月 女人講中 (画像:右の3番目)

5.八千代市麦丸 東福院   慶応3年(1867)11月 女人講(画像:右の4番目)

 6.八千代市島田台 長唱寺  明治31年(1889)10月(画像:右の一番下)  

 このうち、ダルマを持つのは1.と5.です。

 S1898またこの像容の事例は、数は多くありませんが、近代になっても継承され、島田台長唱寺の明治31年の八千代市で一番優美な子安塔として結晶します。

 江戸時代の中期に盛んに建てられた石仏・石塔も、江戸後期になると、一般的にその華麗な姿を消していきます。
 特にムラの念仏講による阿弥陀像や勢至菩薩像の造立は、八千代市では享保年間(~1735)が最後。そして江戸期だけで300基を超す庚申塔も安永年間(~1780)を過ぎると、ほとんどが駒型文字塔となって、笠付で青面金剛像を力強く浮彫した石像も姿を消してしまい、馬捨て場や交通の要所に盛んに建てられた馬頭観音像もマークのような馬頭のモチーフと文字だけの石塔になっていきます。
 そんな中で、文化文政期に増えだすのが子安塔のリアルな像容で、やがて幕末から明治になると如意輪観音を刻んだ十九夜塔と入れ替わり、子安塔だけになっていきます。
 特に儀軌のない子安像は、石工がその才能を自由に発揮できる素材でもあったのでしょうか。
 寺社境内や路傍など公開された場に置かれたその作品は、講のメンバーだけでなく、一般の参拝者の目にふれたり、その評判が口コミで伝わったりして、優品であればその像容や作風が模倣されていくことが、データの集積でわかりました。(現代なら、商標登録や著作権に抵触するかも?)
 それにしても、「K-13優品の系譜Ⅰ」の子安像も、このページの紹介例も、後続する事例より、初めて現れる作品に最もおおらかで力強い作風を感じますが、いかがでしょうか。

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コメント

データを整理していたら、鎌ヶ谷八幡神社の像に先駆けて、船橋市坪井町の子安神社の天保10年(1839)の残欠も、同様な子安塔であることがわかりました。
昨秋2009年9月11日に行った時、この神社は建て替え中で、境内に置いてあった石像2基のうち、この天保10年子安塔は真っ二つに折れて、母像の上半身は剥落していましたが、残っていた天衣と母の膝に這い上がろうとする子供のかわいいお尻が特徴的で、この型であることは確かと思います。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2010年3月31日 (水) 23:57

やはりデータ整理をしていて、白井市神々廻神宮寺の文久2年(1862)銘の母像の顔が大きく剥落してしまった子安塔もこのタイプであることに気付きました。

この子安塔も「天衣と母の膝に這い上がろうとする子供のかわいいお尻が特徴的」です。

江戸末期~明治にかけて、石質がどんどん悪くなりますので、剥落しやすく、そのため、いまは残っているのが少なくても、実際は以前まだかなり類似の子安塔があったかもしれません。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2010年4月22日 (木) 00:11

やはり一部剥落していますが、八千代市の米本 字逆水の薬師堂にある明治8年(1875)子安塔も、このタイプでした。
このタイプは9基、そのうち4基が八千代市内ということになります。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2010年4月27日 (火) 19:04

本日(2012.5.23)、八千代市村上の七百余所神社の向かい側の路傍(字宮内)の女人講石塔群を八千代市郷土歴史研究会の方々と調査中、草むらに隠れていて、見落としていた子安塔を発見しました。

このタイプの典型例で、銘は「明治七戌年/セハ人/宮崎あさ/山崎志□」「一月吉日」です。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2012年5月23日 (水) 21:24

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